今回の記事は以下の2つの記事の続きです。
復讐心は人間の本能(1)解決困難な日中関係、日韓関係、日露関係、そして日米関係の概論
韓国は日清戦争に勝った日本の支援によって大韓帝国として近代的な独立国になりました。
しかし1910年に日本は朝鮮半島を併合して、日本の固有の領土にしたのです。その併合は1945年まで35年間続いたのです。
朝鮮半島併合の前年の1909年には、伊藤博文がハルピン駅頭で安重根の発射した3発の銃弾によって暗殺されたのです。安重根は現在大韓民国の英雄として記念碑がソウルにあります。
併合後の朝鮮半島では日本語が教えられ、個人の名前も日本風に改名させられたのです。
そして多数の人々が労働者として半強制的に日本内地へ駆り出されました。彼らは炭鉱やダム建設現場で過酷な労働に従事したのです。
小河内ダムの犠牲者の名前を刻んだ石碑を見ると韓国風の名前がズラリと並んでいます。
そして戦前、戦争中は各地に「朝鮮人飯場」があってニンニクの臭いが漂っていたものです。私個人はよく朝鮮人飯場に行き、彼等と一緒に遊びました。
現在の在日韓国人はそういう人々の子孫なのです。
これだけ書けば韓国人や北朝鮮人が日本人を恨みに思い、いつか機会があったら復讐したいと思うのは当然ではないでしょうか?
なお朝鮮併合に関する歴史は参考資料としてこの記事の末尾につけてあります。
それよりも私自身が見た観光地の看板について書いてみたいと思います。
1985年ごろ日本の援助で出来た巨大な浦項製鉄所の技術研究所の金鉄祐所長に招待されたのです。
あちこちで講演をする旅でした。その旅には、いつも浦項製鉄所の韓さんという心優しい技師が同行してくれました。そして慶州の数多くの古い寺にも案内したのです。
ところが何処の寺に行っても入口に40cmX50cmくらいの立派な真鍮製の看板が掲げてあり、ハングル文字で何やら書いてあります。
同行した韓さんに聞くと、16世紀に秀吉軍がこの寺を焼き尽くしたと書いてあるそうです。そしてその後の何時、誰によって再建されたかと書いてあるそうです。
驚いたことに数多くのどの寺に行っても秀吉軍が焼き尽くしたと書いてあるのです。
焼き尽くされた韓国人恨みののい深さが身に迫ります。
それにしても文化財の数多くの寺を焼くとは秀吉軍が悪いと、私が韓さんへ言いました。
すると韓さんは、お寺は韓国兵の宿泊所に利用されていたので仕方がなかったのですと私を慰めてくれたのです。
そうです。日本でも戦乱が起きるとお寺が焼かれるのはこの理由なのです。
秀吉軍は寺を焼いただけでなく多数の人々も拉致してきたのです。九州の窯業はその人々によって出来上がったのです。
当然、韓国人は秀吉の蛮行を現在でも恨んでいます。機会があったら復讐もしたいと思うのは自然ではないでしょうか?
蛇足を書いておきます。
私を韓国へ招待してくれた浦項製鉄所、技術研究所の金鉄祐所長はその前には東京大学の鉄鋼製錬を専門にしていた雀部教授の下にいました。
朴政権の前の政権に反対して東京で政治運動をしていたのです。日本の警察が逮捕して拘留します。
雀部教授には私も大変お世話になったので、金鉄祐さんの釈放運動に少しだけ協力したことがありました。
韓国の政権が代わり、朴政権になったお蔭で、金さんは釈放され、やがて浦項製鉄所、技術研究所の所長として韓国へ招び戻されたのです。
釈放運動に協力したことを恩義に思って、私を韓国へ鄭重に招待してくれたのだと思います。
韓国人個人はこのように恩義に篤い人なのだと信じています。
下に昔の漢城(ソウルの昔の呼び方)、そして現在のソウルの写真を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。
後藤和弘(藤山杜人)
上と下の写真は日本による統治前の1888年ごろの漢城の南大門と街の風景です。
その後、漢城は京城、そしてソウルと名前が変ったのです。
下の写真は1910以後の日本による統治以後の京城(ソウル)の風景です。
上下の写真の出典:http://ccce.web.fc2.com/si/img/b01.jpg
韓国併合(かんこくへいごう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88
1910年(明治43年)、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記されている。1910年に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国は第二次世界大戦における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮半島領有は終了した。1945年9月9日に朝鮮総督府が、連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりに在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が統治を開始した。その後朝鮮半島は、北緯38度を境に南部はアメリカ軍、北部はソビエト連邦軍の2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国され、同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。
朝鮮総督府による政策
身分解放
統監府は、1909年(明治42年)に戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代から人間とは見なされず姓を持つことを許可しなかった肉屋のような民にも姓を自称させた。李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載していたが、統監府はこれを削除した。このため身分が平等になり、肉屋の子供たちも学校に通うことができるようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを行ったが、政府によって強制的に鎮圧された。
土地政策
朝鮮総督府は1910(明治43年)から1919年(大正8年)の間に土地調査事業法に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地は、境界問題が発生しないかぎり地主の申告通りに所有権が認められた。
申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(所有権が判明しない山林は国有化され入会権を認める方法が採られた(火田民も参照)。そのほか隠田などの所有者不明の土地、旧朝鮮王朝の土地など)は最終的に朝鮮総督府に接収され、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、一部は東洋拓殖や日本人農業者にも払い下げられた。
ソウル大学教授李栄薫によると朝鮮総督府に接収された土地は全体の10%ほどとしている。山本有造によれば総督府が最終的に接収した農地は全耕作地の3.26%であるとする。この大規模な土地調査事業は戦後おこなわれた精密測量による地籍調査のようなものではなく、あくまで権利関係を確定させるためのものであったが多くの境界問題や入会権問題を生み、現代に続く「日帝による土地収奪」論を招いている。
教育文化政策
日本統治下においては、日本内地に準じた学校教育制度が整備された。初代統監に就任した伊藤博文は、学校建設を改革の最優先課題とした。小学校も統合直前には100校程度だったのが、1943年(昭和18年)には4271校にまで増加した1911年(明治44年)、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、韓国語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮人の識字率は1910年(明治43年)の10%から1936年(昭和11年)には65%に上昇した。学校教育における教授言語が日本語であったことをもって、「言葉を奪った」という評価がなされることがある。これに対しては、朝鮮語が科目として導入されたこと、朝鮮語による文化活動が許容されていたことをもって、言葉が奪われたとはいえないという反論もある。また、ハングルは併合以前は漢字と比べて劣等文字として軽蔑されており、あまり普及していなかったというのも事実である。<o:p></o:p>
国民が知らない反日の実態:http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/143.html
多くの日本人は、「日本は朝鮮を植民地にして悪いことをした」
「日韓併合を行い、朝鮮人を苦しめた」
「朝鮮の歴史を日本が奪った」
「ハングルも朝鮮の名前も奪った」
「日本は謝罪しなければならない」
「日本は侵略を反省しなければならない」