後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本が再び軍国主義国家にならないためには石破 茂氏の良識が重要です。

2012年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

   最近、石原さんが反米と反中国を旗印に政治活動をしています。日本が右傾化しつつあるのです。石原さんよりもっと扇動的で危険な軍事力強化思想を主張しているのが元航空幕僚長の 田母神俊雄氏です。このような人間が航空幕僚長をしていたのですから厳しいシビリアン・コントロールが必要になるのです。その田母神俊雄氏はブログやツイッターhttps://twitter.com/toshio_tamogamiで日本が核武装して中国へ対抗すべしと大いに宣伝活動を繰り広げています。

現在の日本のように長く経済不況が続き、閉塞感に覆われている時には田母神俊雄氏の明快な軍備拡張論が歓迎されるのです。彼の講演が全国で人気を集め、引っ張りだこのようです。

これは実に危険な傾向です。日本がまた戦争を始めるのです。戦争の惨禍に見舞われるのです。この田母神俊雄氏の思想の危険性を分かりやすく指摘している文章を見つけたので以下にご紹介いたします。

それは現在、自民党の幹事長をしている石破 茂氏が自分のブログで公開している文章です。

===== 田母神・前空幕長の論文から思うこと・・・石破 茂=====

 石破 茂 です。 http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-8451.html

田母神(前)航空幕僚長の論文についてあちこちからコメントを求められますが、正直、「文民統制の無理解によるものであり、解任は当然。しかし、このような論文を書いたことは極めて残念」の一言に尽きます。
 同氏とは随分以前からのお付き合いで、明るい人柄と歯に衣着せぬ発言には好感を持っており、航空幕僚長として大臣の私をよくサポートしてくれていただけに、一層その感を深くします。 日中戦争から先の大戦、そして東京裁判へと続く歴史についての私なりの考えは、数年前から雑誌「論座」などにおいて公にしており、これは田母神氏の説とは真っ向から異なるもので、所謂「民族派」の方々からは強いご批判を頂いております(その典型は今回の論文の審査委員長でもあった渡部昇一上智大学名誉教授が雑誌「WILL」6月号に掲載された「石破防衛大臣の国賊行為を叱る」と題する論文です。それに対する私の反論は対談形式で「正論」9月号に、渡部先生の再反論は「正論」11月号に掲載されています。ご関心のある方はそちらをご覧下さい)。
  田母神氏がそれを読んでいたかどうか、知る由もありませんが、「民族派」の特徴は彼らの立場とは異なるものをほとんど読まず、読んだとしても己の意に沿わないものを「勉強不足」「愛国心の欠如」「自虐史観」と単純に断罪し、彼らだけの自己陶酔の世界に浸るところにあるように思われます。
 在野の思想家が何を言おうとご自由ですが、この「民族派」の主張は歯切れがよくて威勢がいいものだから、閉塞感のある時代においてはブームになる危険性を持ち、それに迎合する政治家が現れるのが恐いところです。
 加えて、主張はそれなりに明快なのですが、それを実現させるための具体的・現実的な論考が全く無いのも特徴です。
 「東京裁判は誤りだ!国際法でもそう認められている!」確かに事後法で裁くことは誤りですが、では今から「やりなおし」ができるのか。賠償も一からやり直すのか。
 「日本は侵略国家ではない!」それは違うでしょう。西欧列強も侵略国家ではありましたが、だからといって日本は違う、との論拠にはなりません。「遅れて来た侵略国家」というべきでしょう。<o:p></o:p>
 

=====以下省略===================

上の文章にある「民族派」というのを右翼と書き直せば一層分かりやすくなります。

そうすると以下の石破さんの文章は問題の核心をついていると思います。実に明快な真理です。

ーー前略ーーーーー、「民族派」の特徴は彼らの立場とは異なるものをほとんど読まず、読んだとしても己の意に沿わないものを「勉強不足」「愛国心の欠如」「自虐史観」と単純に断罪し、彼らだけの自己陶酔の世界に浸るところにあるように思われます。
 在野の思想家が何を言おうとご自由ですが、この「民族派」の主張は歯切れがよくて威勢がいいものだから、閉塞感のある時代においてはブームになる危険性を持ち、それに迎合する政治家が現れるのが恐いところです。
 加えて、主張はそれなりに明快なのですが、それを実現させるための具体的・現実的な論考が全く無いのも特徴です。ーーーーーーー以下略ーーーーーーーー

どうでしょうか?反米や反中国を叫ぶのは簡単なことです。しかし具体的に何を、どのような順序で日本政府が実行すべきか誰も明確な考えを言っていません。そのような主張は日本を危険な立場へ追いやるだけで、何にも建設的な結果にはならないのです。
選挙の際にはこのような視点で慎重に考えるべきではないでしょうか?


雨の暗い日なので明るい伊豆の海の写真をお送りします

2012年11月23日 | 写真

今日の天気予報によると日本海側と東北地方や北海道は雪や一日曇り、雨の暗い日のようです。

関東地方でも午後に雨は止みますが、どんよりした曇り日になるようです。

そこで皆様のご気分が少しでも晴れるようにと伊豆の明るい海の写真をお送りいたします。

11月18、19、20日に伊東から石廊崎へドライブしながら撮った写真です。

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・石廊崎方面へ向かって伊豆半島の東海岸沿いに車を走らせると次から次にとこのような海の光景が見えます。ドライブが楽しいのです。車は伊東駅前で借りたトヨタのレンタカーでした。

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・下の写真は伊東の海です、沖に初島が見えています。

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・下は小室山から見下ろした川奈のゴルフコースです。

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・下は伊東市にあるマリンタウンです。大きな売店がありいろいろな海産物を売っています。

海鮮料理店やラーメン店もあります。広い無料駐車場もあります。

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復讐心は人間の本能(4)解決困難な日露関係

2012年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

ロシアは第二次世界大戦の末期に満州を蹂躙し、日本人へ残虐行為を加えました。その上、56万人以上の日本の将兵をシベリヤへ抑留し、過酷な労働を強制し6万人ほどを餓死させたのです。私は決してロシアを許しません。良い機会があれば必ず復讐したいと思っています。この人間の復讐心と国際関係について以下のような連載記事を書いてきました。

復讐心は人間の本能(1)解決困難な日中関係、日韓関係、日露関係、そして日米関係の概論

復讐心は人間の本能(2)解決困難な日中関係

復讐心は人間の本能(3)解決困難な日韓関係

復讐心は人間の本能(4)解決困難な日露関係(これが今日のこの記事です。)

復讐心は人間の本能(5)解決困難な日米関係

ロシアは絶対に許せません。しかし何故ロシアが満州で非道な残虐行為を行なったのかを少し冷静に考えたいと思います。

結論を先に書いてしまえば、それはロシアが日本へ対して行った過剰復讐戦だったのです。 明治維新以来、大日本帝国軍がロシアの作ったハルピン市を事実上占領し、満州からロシア権益を追い出したのです。日露戦争でロシアのバルチック艦隊を全滅させ、203高地を占領し日本が勝ったのです。ロシア領だった樺太の南半分と千島列島を日本の領土にしたのです。ロシア人が復讐心に燃えるのは人間の本能としてごく自然なことです。

しかしここで冷静に幕末から明治維新、そして日露戦争にかけての日露両国の関係を振り返ってみましょう。

1858年、日露修好通商条約が出来るとロシア領事、ゴシュケヴィチがすぐに函館に着任します。彼は領事館の付属聖堂としてロシア正教の教会堂を作ります。そして1861年には領事館付き司祭としてニコライ神父をよびます。

このニコライが作った函館のロシア正教の教会の写真を示します。

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上下の写真は6月18日に私が撮りました。

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日露関係を考える時、このニコライの行った偉大な功績を無視するわけにはいきません。

彼は函館の人々を深く愛し、キリストの教えを根づかせたのです。下の写真は函館湾を見下ろす丘に現在もあるロシア正教の日本人信徒の墓地です。

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ニコライはその後、東京に出て、神田にニコライ堂を建てました。

明治天皇を尊敬しその健康を毎週の礼拝で祈ったそうです。日露戦争が勃発してもニコライは帰国しません。「私は神のものです。ロシアのものではありません」と言ってロシア人へ対する迫害の激しかった日本に踏みとどまったのです。

ニコライは長寿を全うし谷中の墓地の土に還ったのです。葬列の沿道には10万人の日本人が見送り、明治天皇が花輪を送ったのです。外国人宣教師でこのような盛大なお葬式を日本人にしてもらったのはニコライだけです。

それはそれとして、第二次大戦直後にロシア軍が満州で行った残虐行為は過剰復讐戦だと私は書きました。過剰なのです。度が過ぎているのです。

いろいろな解釈があるでしょう。しかし私はドイツ軍がモスクワ近郊まで侵攻し、1000万人以上のロシアの若者を殺戮したのが影響していると思います。この1000万人は戦後、ドイツも認めている正確な数字なのです。どこかの国の「白髪三千丈」とは違うのです。

大日本帝国はこのドイツと軍事同盟を結んで第二次対戦を戦ったのです。復讐心に狂ったロシア軍がドイツへの意趣返しに満州で過剰復讐戦をしたとしたら、その悪魔のような気持ちを私は分かります。私自身も悪魔のような心を持っているから分かるのです。

戦争になると人間は悪魔になるのです。ですからこそ平和を守らなければなりません。

今日は皆様の心にいつも、いつも平和がみなぎっていますようにお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====ニコライに関する参考資料==========

ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。着いた1861年はまだ江戸時代です。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。1861年から51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。

ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

今日はその中から一つをご紹介します。

1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。

残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。

ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、

「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。

1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(葬列の写真10枚ほどを見ながら書いています)。 今日はこの辺で止めます。(続く)

WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索するとその生涯の紹介があります。

「山林、杜の人のブログ」の下記のようなニコライに関連する記事があります。
(3)投稿日 2009/11/29 今日は夫婦解散、別々の教会へ行きました (金田さんの写真が出ています!)