後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

悲劇の日韓関係(2)秀吉の朝鮮侵略は軽視すべきでない

2013年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム

秀吉の朝鮮戦略は最近は「文禄・慶長の役」と言いますが、私が学校で習った時は「朝鮮征伐」と言っていました。

しかしどちらの呼び方でも、日本側が朝鮮全土を侵略しさらに満州の女真族の地、オランカイまで征服したのです。

この文禄・慶長の役は日本にとっては明軍と李朝軍の連合軍を相手にした史上初の大規模な戦争でした。

文禄の役は1992年4月から1593年7月まで続き、日本側は宇喜多秀家を大将軍にしてその下に小西行長将軍の一番隊、加藤清正将軍の二番隊ほか九番隊まで、そして水軍の大編成で朝鮮半島を席巻したのです。

この文禄の役の日本側の投入戦力は15万8700人で、これに対する明軍は5万3000人、朝鮮軍は17万2000人、他に義兵軍2万2400人が加わりました。

日本の戦死者は大部分が餓死と病死で5万人で、明と朝鮮側は文禄・慶長両役の総計が数十万人と言われています。

秀吉は朝鮮侵略は中国全土征服の第一歩と考えていました。

しかし小西行長は現実的に考え明と共謀し、停戦協定をつくります。

秀吉は小西行長の作った妥協的協定に不満で、1597年1月慶長の役が始めます。しかし間もなく秀吉の死によって慶長の役は1598年の12月に終わります。

日本軍の大将軍は再び宇喜多秀家で、西国の武将が参加し、投入戦力の総数は14万1500人でした。

この文禄・慶長の役は1592年から1598年まで日本の武将が朝鮮を占領していた大規模な戦争でした。その間、朝鮮の村々で食料を武力調達し、数多くのお寺を焼き尽くしたのです。韓国では現在も焼かれた寺の全てに秀吉の暴虐ぶりを書いた看板を掲げています。悲劇の日韓関係(1)連載記事の計画と個人的な体験 をご参照ください。

しかし日本はこの秀吉の朝鮮征伐を「加藤清正の虎退治」などのエピソードをまじえて軽視しがちです。

軽視する理由が3つあると思います。

(1)秀吉家は関ヶ原の戦いで徳川家康に負け、その後徳川家の江戸幕府が続いたのです。江戸幕府は敵方の秀吉の業績を過小に見せるために朝鮮征伐の成果を文獻に残さないようにしたに違いありません。

(2)朝鮮征伐で大将軍として漢城を征服した宇喜多秀家が関ヶ原で家康に楯突いたのです。朝鮮征伐で手柄の大きかった小西行長も西軍に加わったのです。徳川家が彼らの業績を無視するのは当然です。

宇喜多秀家は八丈島へ遠島になり小西行長は斬首の刑になりました。

家康側に加わった加藤清正は熊本城を貰って大名になりましたが、その子孫はすぐに改易になり熊本城は細川家のものとなるのです。

(3)明治維新後、新政府は日本の戦国時代の対外政策を無視してあくまでも欧米流の近代国家の建設に努力します。過去の国際関係は無かったものとしたかったに違いありません。ですから学校の歴史教育では秀吉の朝鮮成敗は軽くしか教えませんでした。

しかし近年、日本と韓国の歴史学者が文禄・慶長の役を研究し、その詳細が次第に明らかになってきました。いろいろな本が出版れています。

ネット上でも検索するとかなり詳細が出ています。

検索のキーワードはいろいろですが、「文禄・慶長の役」、「宇喜多秀家」、「小西行長」、「加藤清正」などを検索すると彼らの朝鮮遠征の記述がかなり詳しく出ています。下に関連の写真を掲載します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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上は加藤清正の遠征経路と小西行長の征服経路です。オランカイとは満州の女真族の土地です。

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上は宇喜多秀家の肖像画です。

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上は八丈島にある宇喜多秀家のお墓です。2008年1月に八丈島に行ってとき撮って来ました。この墓の探訪記は、流人を尊敬するローカル文化ー八丈島 です。