後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

昔の農家の暗さ寒さと花々の明るさ暖かさの対比

2013年03月31日 | 写真

きょうは朝から曇っていて暗く、寒くて、憂鬱です。復活祭のミサの後で、小平ふるさと村の昔の農家に行き、暗く、寒くて、憂鬱な感じを写真に写し撮ろうとしてみました。それにしても昔の日本の家は暗くて寒かったですね。

そしてその暗さ、寒さを強調しようと暖かい色で咲いている菜の花とポピーの写真撮ってきました。その組み合わせを下に示します。私の意図は成功したでしょうか?失敗でしょうか?

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イチゴ狩りの夢と現実

2013年03月31日 | うんちく・小ネタ

孫の男の子が春休みにイチゴ狩りに行きたいと言ってました。ネットで山梨のイチゴ狩りを検索し、数カ所見つけました。

イチゴ狩りに夢をもっている子供たちが多いのか、何カ所へか電話しましたが満員で予約がなかなかとれません。やっと予約が取れた所があったので皆で行きました。

料金は30分の時間制限で食べ放題で大人も子供も1500円前後です。

食べ終わった孫たちが言ったことは、「面白かったが、摘んだイチゴは美味いのと不味いのとが入り混じっていた」です。

少々ガッカリした様子でした。結局、スーパーで買うイチゴのほうが安くて美味しいという結論になりました。

子供心に夢と現実の落差を味わい、いささか落胆した様子が可哀そうでした。

イチゴを苦労して栽培している農家の事情も思いやられて複雑な気持ちで帰ってきました。下に巨大なビニールハウスでイチゴを栽培している様子を示します。

行かれる方は、電話で予約なさることをお薦め致します。

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人間は高齢になると驚異的に考えが変わります(5)全ての宗教を尊敬するように変わりました

2013年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム

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宗教には原始宗教や高等宗教があると言います。

意味も無い大石や滝や大樹を神様と思い、拝む信心もあります。

あるいは利己心だけのご利益信仰もあります。

なにも考えないで習俗として神様へ祈る習慣もあります

大変恥ずかしい話ですが、私は若い間、仏教とカトリックだけを高等宗教と信じて、原始宗教をなんとなく見下していました。習俗として神様へ祈る習慣を軽く考えていました。

ところが70歳になって仕事を止めてからそんな狭量な考えがまったく間違っていることに気がつきました。愕然としました

その後は全ての宗教は平等に重要であり、どんな宗教や宗派にも優劣が無いと信じています。

この私の個人的な大転換にはいろいろな原因があります。しかし一番大きなキッカケはローマ法王、ヨハネ・パウロ2世の教えと活動を知ったことです。

そして神田のニコライ堂を建てたロシア正教のニコライ・カサートキンという人のことを詳しく調べたことも原因になりました。

そこで以下にこの2人の簡略な紹介をいたします。

それにしても、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

=====傑出していたローマ法王、ヨハネ・パウロ2世のこと======

上の2枚の写真の左は1920年にポーランドで生まれ、12歳の時の写真で右はローマ法王当時の写真です。(2005年4月2日、84歳で旅立ちました)

このパウロ2世が2011年に福者に列せられる事がローマ法王、ベネディクト16世から正式に発表されました。福者とはカトリックの聖者の次の名誉称号であり、いずれ聖者になる可能性が大きいのです。

パウロ2世が死後6年足らずで福者に列せられるのは異例のことで、如何に傑出した法王だったかの証です。

彼の偉大な功績は、何と言っても世界中を隅々まで、法王なのに巡礼のような旅をして各地の言葉でミサをたて、洗礼式や叙階式をした事です。これほどローマ法王が身近に感じ、親しく感じた事はありません。ポーランドの連帯代表のワルサさんに会いに行きポーランドの自由化を支援した事も忘れられません。

もう一つの偉大な功績は、いろいろな宗教間の和解運動を進めたことです。カトリック教会の過去の間違いにも謝罪しました。ガリレオの裁判も間違いだったと謝罪したのです。本当に温かい血の通ったローマ法王でした。

パウロ2世のお葬式へは世界中の国家元主が出席しましたが、日本政府からは首相クラスの人は出席しなかったのです。ヨハネ・パウロ2世は偉大でした。傑出していました。熱い血の通った人でした。これでヨハネ・パウロ2世の話は終わりにします。

次は、ロシア正教のニコライ・カサートキンという人のことをご紹介します。

====神田のニコライ堂を建てたあるロシア人の物語=====

ロシア正教は他の東方教会とともにマルチン・ルターの宗教改革の洗礼を受けなかった、古いタイプの宗派です。古いから間違っていると理解したら大きな間違いです。そんな事を考えながら以下の紹介文をお読み頂ければ嬉しく思います。

ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。

 着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。

ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

今日はその中から一つをご紹介します。

1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。

残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。

ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、

「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。

1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(葬列の写真10枚ほどを見ながら書いています)。 今日はこの辺で止めます。(続く)

WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。ここに転載しご紹介いたします。

==ニコライの訪日と日本での死=========

ニコライは1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、新島襄らから日本語を教わる。以後精力的に正教の布教に努めた。

懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った。1869年、1879年に二度帰国。それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。

1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると不朽体が現れた。同年ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖した。日本教会が聖自治教会となったのはこのときである。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。

関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記の日本語全訳は2007年に刊行(『宣教師ニコライの全日記』教文館全9巻)。

列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ、聖ニコライ大主教と呼ばれる。記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)。