福島原発の廃炉作業は遅々として進んでいません。休止中だった4号炉の燃料プールからの燃料棒の取り出しも今年の末にやっと始まるというニュースが今朝の読売新聞に出ています。1号炉から3号炉までは炉心融解が起きたので傍に寄れない高放射能です。
遠隔操作のクレーンで周囲をかたずけるのがやっとです。
その上多量の水で冷却を続行しなければなりません。毎日放射能で汚染された廃水が溜まる一方です。
原発の廃炉作業は何十年もかかるのです。
原発を止めると日本の経済が破産すると言って、原発を推進していた人々がいました。
現在は大飯原発の2基だけが稼働していて、あとの48基は休止中です。
それなのに日本の株価がどんどん上がり、日経平均が12000円を越える勢いです。
リーマンショック以後の最低値が7000円でしたので実に5000円も上昇しているのです。
日本の経済は成長を続ける中国と韓国と友好を進め、経済的に良い関係を維持すれば原発なんて必要ないのです。
日本の石炭火力発電は排ガスの浄化技術が進んでいるのでもっともっと増加設置すべきです。
その上、低価格のシェールオイルが北米から輸入される予定なのです。
日本の原発は安全技術が高度に完成した10基程度を保有して、その安全な原発を外国へ輸出するのが良いと思います。
原発が無くても日本の経済が延びるように中国と韓国と友好関係を促進すべし。これが私の持論なのです。原発には頼りませんが原発の安全技術は日本の財産として、世界の原発をより安全にするのも日本の義務ではないでしょうか?皆様のご意見を頂ければ幸いです。
下は2011年3月13日の爆発直後の福島原発3号炉です。東電社員が撮影した写真だそうです。
ベネズエラは南米大陸の北の部分を占める国です。1976年に、2週間ほど滞在しました。都会を囲む山の斜面に貧しい人々が小さな家々にビッシリと住んでいるのには本当に吃驚しました。それは胸の痛む光景でした。
その大統領のチャベス氏が亡くなりました。14年間も大統領をしていたのです。
世界の反米国家といえばベネズエラ、キューバ、北朝鮮、中国、イラン、ロシア、シリア、などです。そのの中でもチェベス大統領は過激な言葉でアメリカ人の感情を逆なでしてきました。
例えば、「コロンブスは人類史上最大の侵略と虐殺の率先者だ」は、2003年に先住民の権利に関連した発言です。
冷戦構造が壊れてもこの地球上には反米国家群と親米国家群に分かれ、争いが絶えません。その上イスラム圏が親米、反米に分かれ複雑な国際情勢を作っています。日本はもちろん親米国家です。反米の中国やロシアと付き合う時はこの親米国家群の一員として賢い戦略を持つ必要があるのです。
これに比べて韓国は親米国家なのでその付き合い方は中国とは違います。竹島問題などの些細な問題は棚上げににしてもっと緊密な関係をつくり上げるべきです。
さてベネズエラをはじめ幾つかの南米や中南米の国家が反米なのは、欧米が原住民を貧困へ追いやっていることが大きな原因になっています。その上、かつてのベネズエラの宗主国のスペインがいまだに種々の経済権を握っているからでもあるのです。
その実例を私の旅日記から描いてみたいと思います。
貧民街には教会が無いので下にある闘牛場でミサを捧げていたのです。巨大な、荒れた闘牛場を埋め尽くし、貧しい人々がカトリックのミサをしていたのです。
ジャングルの奥地で鉄鉱石の鉱山はいまだにスペインの会社のものです。私はその鉄鉱石の採掘現場へ見学に行きました。
鉄鉱石を掘っているスペイン人技師はスペイン料理で歓迎してくれました。彼らは望郷の念からスペイン料理の材料を本国から取り寄せているのです。
熱帯特有の、あくまでも深い色合いの青空と白雲の下、人々は陽気で、明るく生きています。しかし、貧富の差の大きさと、生活の厳しさは想像を絶するのです。ベネズエラの風景は何故か悲しい思い出です。
@山の斜面の貧民住宅地帯
首都、カラカス市の国際会議で知り合った研究者に山の斜面を案内して貰いました。彼も貧民地帯の出身と言ってました。
斜面の下の入り口に、蛇口の壊れた水道が一個あり、水が流れています。
半身裸の男の子が水の入ったヤカンを2個持って坂道を登って行きます。
レンガやシックイで固めた不揃いの小さな家々が重なるように、斜面を埋めて、上へ、上へと続いているのです。
誰も居ない。ガランとした空虚な路地を乾いた風が吹いているだけです。悪臭もせず清潔な感じです。
中腹まで登ったら家の前で老婆が編み物をしていました。我々をとがめるように、険しい目つきで見ているのです。案内してくれた彼が何か現地語で挨拶すると、途端に笑顔を見せ、彼と老婆が何か話し合っています。
後で彼に聞くと、ガランとして誰も居ないのは、日雇いの仕事で、皆な出た後だからだそうです。
そして観光客が現地の案内人なしで来ると殺されるから私へ注意するようにと言ったそうです。案内してくれた彼は現在はどうしているのでしょうか?茫々、37年前の暑い日のことでした。
@荒れた闘牛場でのカトリックのミサ
ホテルのフロントでカトリックのミサに行きたいと教会の場所を聞きました。フロントにいたボーイが、それなら裏にある競技場へ、朝7時に行けと言います。
翌朝行ってみると、荒れて崩れかかった巨大な闘牛場の観客席を人々が埋め尽くしています。
清潔そうではあるが、みんな貧しそうな身なりです。真ん中の円形の土の上に小さな絨毯をしいて神父さんが2、3人と、白い服を着た20人くらいの侍者を務める者の姿が見えます。
普通のカトリックのミサのようです。スペイン語が分からないが、雰囲気や式次第が日本のカトリックと同じ様です。現地に昔からある原始宗教と交じり合ったような部分もあります。ああ、これも良いものだと思いながら一緒にイエス様へお祈りをしました。
回りの人々はスペイン人とインデオの混血で浅黒いひとが多く、日本人のように見える人々も多いのです。そんな中へ溶け込んでしまい、一緒に祈ったり、聖歌も一緒に歌いました。忘れられないカラカスでの思い出になりました。
@ジャングル奥地の鉄鉱石の採掘現場とスペイン料理
早朝のカラカスの街を、四輪駆動車で出発しました。舗装の無いジャングルの道を4時間端って鉄鉱石を露天掘りしている鉱山に着きます。
その鉱山はスペインの会社のもので幹部社員はみなスペイン本国から来ていました。
スペイン人の技師が英語で説明しながら採掘現場をあちこち案内してくれます。見学後、会社のゲストハウスで一緒に昼食を食べました。
案内してくれたスペインの技師がワインを勧めてくれます。良く冷えた辛口の白です。スペインのある地方から取り寄せたと彼が説明し、アペタイザーに、透きとうる細長い小魚のカルパッチョ風の皿がでました。
美味しいので褒めたら、それまで悲しそうな顔をして一度も笑顔を見せなかった技師が始めて笑顔になるのです。
彼が説明します。これはアンギュラスと言ってスペイン独特の魚です。これが無いとスペイン料理になりません。本国から取り寄せました。日本人がスペインから輸入して、養殖してウナギにするので高くなりなかなか食べられません、と。
ジャングルの奥地に住んでいると、料理の材料をスペインから取り寄せる以外、何の楽しみも無いと、寂しそうに話していました。
食後はシエスタ(長い昼寝)をしますと言って別れました。
我々はまた赤茶けた凸凹道を車に揺られながらカラカスへ帰ってきました。
道路沿いには幹がスラリと高い椰子類のような樹木が茂り、木の下には見慣れない草が生えています。鉄鉱石を運ぶ長い無蓋貨物列車がゴットン、ゴットンと熱帯樹の向こうを走って行くだけです。スペインから来た技師の寂しさが身にしみるような風景でした。
1976年のベネズエラの旅日記でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
下は世界で一番高いベネズエラの滝と民族の様子です。出典は、Wikipedea のベネズエラの項です。
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