後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

琵琶湖の湖畔にも春がやって来ました

2013年03月14日 | 写真

ネットの上の友人に「ちひろ」さんという方がいます。琵琶湖の湖畔に住んでいて、自分で車を走らせて琵琶湖の周辺の美しい風景写真をブログに掲載しています。もう長年のお付き合いで何度もその美しい写真をおかりしてこちらのブログに掲載しています。

関東に住んでいますと琵琶湖は何故かロマンチックで憧れの湖です。

もう28年前になりますが琵琶湖の雄琴という湖岸の町を訪れてYAMAHA19という小型のクルーザーを買って、霞ヶ浦へ陸送しました。その時ヨットを売っていた店の主人がとても親切で、陸送した大型トラックに乗って来てくれました。マストを立て、整備を完璧にして、またトラックに乗って帰って行きました。

それがきっかけで琵琶湖には家内と何度も旅をしました。彦根城や近江八幡や長浜城、竹生島、などへ何度も行きました。

また琵琶湖の周辺には古刹が多く、娘の夫が長浜に働いているので車でほうぼう参拝の旅に連れて行ってくれました。それも楽しい記憶であります。

そんな思い出を楽しみながら春が来た大津市の柳が崎公園の写真をお送りいたします。写真の出典は、http://www.eonet.ne.jp/~hanamusasi/です。

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お写真を貸して下さいました「ちひろ」様、有難う御座いました。


悲劇の日韓関係(5)朝鮮統治と朝鮮民族の抵抗

2013年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム

「日本統治時代の朝鮮」・・・朝鮮人の独立運動

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE

義兵闘争などに見られるように、併合以前から日本の朝鮮支配計画に反抗する朝鮮人の運動は存在していたが、第一次世界大戦終結後にはアメリカ系キリスト教会の宣教師によりアメリカ大統領ウィルソンの提唱する民族自決理念が伝わり、更に高宗の死によって朝鮮人の独立要求は高まった。1919年には三・一独立運動が起こって大規模な暴動にまで発展し、朝鮮中を巻き込んだ。この独立運動は約一年間続き、暴動と総督府側による取締りによって多くの死傷者がでた(運動家に殺害された者も多い)。事件直後に行われた調査結果を記した資料によれば、8,437人が逮捕された。逮捕者への刑罰は主犯でも最高で懲役3年以下という軽いものであった。死者数は553人(運動家に殺されたものも含む)、負傷数は1,409人である。当時上海に亡命中の朴殷植は『韓国独立運動之血史』に46,948人が逮捕され、7,509人が死亡し、15,961人が負傷したと記している。女学生・柳寛順(ユ・ガンスン)は三・一独立運動を扇動した罪で投獄・拷問され16才で殺されたとされ、しばしば日本の蛮行についての象徴的物語として扱われることがある。なお柳寛順の物語には誇張が多く史実の裏づけに乏しいとの批判がある。

三・一独立運動時、暴徒と化した民衆によって警察署・村役場・小学校などが襲撃され、放火・投石・破壊・暴行・殺人が多数行われている。こうした暴動を鎮圧し治安を維持する為に武力を使うことはどこの国でも普通に行われることであるとする意見も存在する。

こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名な堤岩里事件は4月15日に小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑で堤岩里の成人男性住民30余名を教会堂に集めたところ、取調べ中に容疑者1名が逃げようとし憲兵に斬殺され、それを見た他の容疑者が暴徒化した為に全員が射殺され、放火などにより15村落317戸が延焼し、39人が死亡した事件である。その違法性については日本側も認識していたらしく「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコトヲ確メタリ。…之が処分ニ就テハ殺生ハ止ムヲ得ザルモノニシテ放火ハ公然之ヲ認ムルハ情勢上適当ナラザルヲ以テ火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(憲兵司令官より大臣宛電報4/21付け)と上部に報告している。

三・一独立運動は大韓民国臨時政府樹立のきっかけとなり、また満州や沿海州を拠点とし、中朝国境では抗日ゲリラ組織の活性化にもつながり1920年の尼港事件のように日本軍を全滅させることもあった。一方総督府も、過酷な統治だけでは植民地体制を持続させることはできないとして、文治政治と呼ばれる一連の懐柔策を打ち出した。朝鮮における憲兵警察制度は廃止され、限定的ながら言論や結社の自由が与えられた。

三・一独立運動後に活発となった満州や沿海州における朝鮮独立を掲げた抗日ゲリラは国境地帯で、良民や官公吏への襲撃・殺害といったゲリラ行為を繰り返すようになり、ついには1920年10月に満州の琿春で、馬賊の襲撃により、領事館警察署長を含む日本人13人が殺害される事件(間島事件)が発生した。これにより総督府は中国側と折衝して吉林省都督から作戦の許可を取り付け、ゲリラ掃討を開始した(青山里戦闘)。彼らが潜んでいるとされた村に対する焼き討ちや村民処刑なども含む態度で臨み、キリスト教の宣教師などからの抗議を受けたこともあるが、徹底的な討伐戦の結果、抗日ゲリラのほとんどはソ連領内へと逃げ込み中朝国境からは一時姿を消した。朝鮮人武装勢力は1921年6月28日にはスヴォボードヌイにいたが、ロシアの赤軍と衝突しほとんどが壊滅した(自由市惨変)。その後、1937年に普天堡が襲撃される事件も起きている。

大韓民国臨時政府の主張では第二次世界大戦において、1941年12月9日に連合国側に立ちドイツと日本に対して宣戦布告を行い、軍事部門である朝鮮解放軍は東南アジアの一部や中国等で中国共産党や国民党の軍隊に加わり、日本軍との戦闘に参加したという。しかし具体的にどのようにして宣戦布告を行ったかも不明であり、宣戦布告も戦争相手国には伝わっておらず、大韓民国臨時政府が組織的に日本軍と戦闘した記録は見つかっていない。そのため戦後に韓国が「戦勝国」として国際的には認められることはなかった 。

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1920年結成の韓国臨時政府

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完全に破壊された尼港の日本領事館の門

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ソウル市にある「三・一独立運動」の記念レリーフ

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「尼港事件」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400-500名、中国人900名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。小樽の手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑、また天草市五和町手野、水戸市堀原、札幌市の護国神社にも殉難碑がある。

朝鮮人パルチザン とは?

シペリアで朝鮮人への朝鮮共産革命を指導した李東輝

1919年1月、ニコラエフスクに住む朝鮮人(日本国籍)は916人で、日本人の3倍ほどだった。当時、朝鮮人の国籍は日本であり、材木商や牧畜業を営む日本商店に雇われた朝鮮人などもいた。しかし、ロシア国籍を持った高麗人もいて、それを加えるともっと多かったと思われる。

赤軍パルチザンに占領された後のニコラエフスクにおいて、朝鮮人過激派(パルチザン)は、中国政府の調べでは1,000名であった。アメリカ人マキエフも1,000名であるとしている。参謀本部編『西伯利出兵史』は400-500名としている。朝鮮人過激派は掠奪した軍服を着用していた。

朝鮮人パルチザンが、中国人のそれと違っていたのは、抗日独立運動の一環としてパルチザン部隊に加わる者が多数いたことである。ウラジオストクにいた朝鮮独立運動指導者李東輝が、ウラジーミル・レーニンから資金援助を受け、赤軍と協力する方針が示されていた。

グートマンによれば、ニコラエフスクの朝鮮人は近郊で農業を営む者が多く、市内では富家の使用人がほとんどで、商人はごく少なかった。「ボルシェヴィキに入ることに無関心」だったが、トリャピーツィンが朝鮮独立への赤軍の援助を確約したことで、市内の韓人会は部隊を組織し、パルチザンの傘下に入ると忠実な手先となり、監獄の監視、死刑執行などを確実に行ったが、軍規は厳格で、挑発、没収、略奪には参加しなかった。原暉之によれば、グートマンが述べている「軍規が厳格な朝鮮人部隊」とは、韓人会書記のワシリー朴を中心として、パルチザン進駐後にニコラエフスク市内で編成された100名ほどの第2中隊である。外部から来た朴イリア率いる第1中隊(サハリン部隊の名で知られる)は、横暴で士気が低かった。

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尼港に上陸し行進する日本帝国海軍陸戦隊

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日韓友好促進を本気で考えるなら正しい歴史認識を避けて通るわけにはいきません。

日本側から見た朝鮮統治の良い点だけを考えても仕方のないことです。

朝鮮側から見て日本による統治は良かったのか悪かったのかも知る必要があります。

両方の見方を知った上で国際的に公平な歴史観から見ればどのようになるかを考えるべきではないでしょうか?

朝鮮側の評価は彼らの独立運動を考えれば良いと思います。

日本人は学校であまり習わない「三・一独立運動」と「尼港事件」を調べてみましょう。

前者は1919年に朝鮮全土で燃え上がった抗日闘争で、一年間続いたのです。

朝鮮側は46000人以上が逮捕され7000人以上が殺され、15000人以上が負傷したと主張しています。

この暴動鎮圧のために日本の官憲はいろいろな残虐な事件を起こしています。

また「尼港事件」では1000人の朝鮮人共産党員がロシア赤軍とともに尼港(ニコラエコフというアムール川の河口の町)を破壊しつくして市民を虐殺した事件です。

日本人領事一家も惨殺され、領事館も破壊されました。

この暴動は日本の朝鮮併合に反対した抗日朝鮮人が1000人加わったことで日本人への襲撃が特に残酷になったと考えられています。

ある民族が武力で他民族を征服し自分の領土にすることは人類の歴史では珍しいことではありません。だから謝る必要が無いと主張する人もいます。しかし長期的な友好関係を築こうとする場合には武力を用いた方が謝罪し領土を返さねばなりません。

それは人間として勇気が要ることです。決断力が要ることです。

しかし日本の長期的な国益を考えれば勇気をもって韓国と真の友好関係を築くべきと私は信じています。

なお「三・一独立運動」と「尼港事件」の詳細は以下に参考資料として添付致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

===参考資料:「三・一独立運動」と「尼港事件」==========