一昨日の3月11日は東日本大震災の2周年目でした。天皇陛下、皇后陛下ご出席で犠牲者の追悼式典がありました。犠牲者のご冥福をお祈りしながら、私が見た被災地の様子を思い出していました。身寄りを失い、ご不自由な生活を送っていらしゃる方々に思いを寄せていました。
昨年の10月に被災地の取材に行ったときのことを思い出していたのです。
この大災害を忘れずに今後も苦しい生活を強いられている東日本の方々を支援したいと思います。そこで忘れないようにと以下の記事をもう一度お送りいたします。
2012年10月16日に、私は独りで朝早く、仙石線の電車に乗り、高城町駅まで行きました。そこは松島駅の次の駅で、そこから先、石巻までは線路がすっかり流されて何も無くなっているのです。
復旧には全く手がついていないそうです。まったく別のルートで山の中を石巻までつなぐそうです。復旧には5年以上かかりそうです。
高城町駅で降りると一台のタクシーしかいません。中年の親切そうな運転手さんがニコニコしています。そこで津波の被災地の写真を撮りに来ましたというと、快くご案内しましょうと答えます。
車に乗り込んで、しばらく走る間にいろいろ聞きました。東松島市の東名(とうな)町に行きますと言います。自分の家のあった町だそうです。
運転手さん自身の家も流されて何も無くなったと言います。幸運にも家族だけは生き延びたと言います。
そこで、私はその運転手さんの家のあった所へ案内して下さいと言いました。車は快調に数キロ走ります。津波の来なかった舗装道路です。
しかし東名駅に着くと、それは下のように幅の狭いホームが残っているだけです。
鉄の重い線路がすっかり津波で海中へ持って行かれたと言います。そして数年先には向こうの山の中に新しい線路を作るそうです。
この東名(とうな)駅は昔、野蒜海岸へよく海水浴に行ったので何度も通過した駅です。名前が「とうな」と遠方の海を連想させるのでよく憶えていました。
踏切らしいところを横切って、海側に出ると、そこは一面の荒れ地になっています。600人位の住民がすんでいて、260人が犠牲になったそうです。
一面の荒れ地の所々に上の写真のように津波の猛威をしめす家々がかろうじて立っています。
下の写真が運転手さんの家のあった場所です。門のあった所に彼が茫然と立っています。
下は彼の家の門の所から庭の方向を見た写真です。庭さきは海です。
運転手さんは庭に入って来て、ここが玄関で、居間はここ、台所はここと説明しています。そして庭の奥には娘夫婦一家の家がありました。大きな庭木も沢山ありましたが、ご覧のように根こそぎ津波に持って行かれました。残った木々も海水で写真のように枯れているのです。
私は実名で真面目にブログ記事を書いています。出来たらお写真を出させて下さいと頼みました。よいですよと快く応じてくれたのが下の写真です。運転手さんの悲しそうな表情をご覧下さい。
いろいろな話を聞きましたが、最後に彼の家族の助かった理由を書きます。
大地震が起き、津波の来るまで1時間40分あったそうです。彼の家族全員は800mほど離れた石切り場のあった山の祠に逃げたそうです。下の写真の山の上に逃げたのです。
津波が来た時、運転手さんは被害の無かった高城町駅近辺でタクシーの運転をしていました。東名地区は全滅だという噂がすぐに伝わりましたが道路が破壊されていて身動きがつきません。勿論、電話は不通です。家族も駄目かと諦めつつ、2日目に歩いてやっと自分の家のあった場所に着きました。
もう駄目だと思っていたところに通りかかった近所の人が、あの石切り場へ逃げて、全員無事だったと教えてくれたそうです。
この運転手さんは幸運でした。間もなく山沿いに新しく家を作ったそうです。もとの土地は怖くて二度と住めないそうです。その土地は政府が一坪9600円で買ってくれるという話だけはあるそうです。
東京のマスコミは復興された元気な商店や意気盛んな漁師のことが何度も報道されています。ですから大津波の被災地はちゃくちゃくと復興が進んでいると思っています。
しかし現地に行ってみると全く手がついていない土地が茫々と広がっているのです。
三陸海岸から福島まで広大な荒れ地が手つかずのまま、ひろがっているのです。ガレキの山もあちこちに異臭を放ちつつそのまま残っているのです。
そしてまだまだ多くの人々が仮設住宅に住んでいて、将来の計画も無い暗然たる毎日を過ごしているのです。
被災地の復興はいまだ進まず。何も進んでいない所のほうが圧倒的に広いのです。この事実を忘れないようにとこの記事を謹んで、皆様へお送りいたします。
以上の記事は昨年10月16日掲載の、大津波被害地の復興進まず!・・・現地取材へ行ってきました。という記事です。
上の取材の帰りがけに、道端のお墓のようなものを見つけました。
JR仙石線の東名駅の踏切を越えて、海側に出ると伊達正宗の作った貞山掘(東名運河)があります。その橋の傍に下の花を見つけたのです。運転手さんに急停車をしてもらい撮った写真です。
運転手さんの話では、佐藤やえ さんというおばあさんがここで亡くなったそうです。津波が来るので近所の老人たちの避難を助けているうちに流されたのです。あれからもう1年7ケ月も経ちますが、毎日のように花が供えられているのです。佐藤やえ さんに助けられた人々が供えているようです。運転手さんが悲しそうに説明してくれます。
やえさんは心優しい人だったそうです。自分を犠牲にしても近所の人々の避難を助けたのです。その恩を忘れずに花を供え続ける人々の心も優しいのです。
そして大津波の動画集は、大津波の動画集・・・ああ、神様はあまりにもむごすぎる!!!
にあります。歴史的な記録としてご覧頂ければ幸いです。
今日は東日本大震災の被害者が、自分の将来をあきらめずに、希望の灯を心に燃やし、すこしずつでも復興の歩みを進めることが出来ますようにお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)