後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

下田、函館、横浜の外人墓地の風景写真・・・遺族は来ないが日本人が供養しています

2013年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム

遠く異郷のはてで亡くなった外人たちの墓地は日本人によって大切にされ、供養されています。その風景を私はいろいろな感慨を持って眺めています。

遺族は来ませんが日本人が供養しているのです。そして、不運にも異郷の地で果てた人々の冥福を私も祈っています。

下に、田(アメリカ水兵5人、ロシア水兵3人)、函館(ロシア人)、横浜(イギリス人多数、他)の外人墓地の風景写真を示します。

下田の外人墓地は日本で初めての欧米人の外人墓地になります。

外人墓地といえば普通欧米人の聖職者でない人々の墓地のことです。聖職者の墓地は別にあります。

ちなみに中国人や百済、新羅、高句麗の人々の墓地は外人墓地とは言いません。埼玉県の高麗郡にある高麗王の墓地は古いほうです。高麗王は戦いに敗れ、日本へ亡命し、大和朝廷から埼玉県に領地を貰ったのです。

そして唐の僧、鑑真のお墓は何処にあるのでしょう。

外人墓地を見るたびにいろいろと考えさせられます。何故かとても切ない気持になるのです。

下に示した下田の写真は2008年に私が撮った写真です。

162_21

・下田の玉泉寺にあるアメリカ水兵5名(上)とロシア水兵3名(下)の墓です。

1601_2

K_0471

・上と下は函館のロシア人墓地です。正教徒の日本人のお墓も隣にあります。K_0411

Img_4430

上と下は横浜の山の手にある外人墓地です。主にイギリス人ですが、他の国の人々も一緒に眠っています。

Img_4427

=====参考資料:高麗王の墓===============

朝鮮半島にあった高句麗が新羅と唐の連合軍によって668年に滅ぼされました。その時、使者として日本に居た王族の若光は帰国できなくなり、日本へ亡命しました。

703年に文武天皇から従五位下に叙せられ、高麗王の姓を賜はりました。この事は続日本書記に明記してあります。

そして13年後の716年に大和朝廷は武蔵国に新たに高麗郡を作り、高麗王をそこの郡司に任命しました。高麗王は高句麗から従って来た1799名の家来を連れて高麗郡に移住しました。

高麗郡は現在の埼玉県西部から東京都の多摩地方にまたがっています。

高麗王の部下に農産物の増産を指導する人もいたらしく高麗郡は豊かになったそうです。そして無理な増税は強制しなかったようです。要するに大変評判の良い統治をしたのです。

高麗王は武蔵国の高麗郡に移住する前は神奈川県の大磯を治めていました。そこでも評判が良く、高麗郡へ去ったあと大磯の人々は高麗寺(現在は廃寺)と高来神社を作りました。

兎に角、大磯でも高麗郡でも高麗王は農民を大切にする善い政治をしたのです。

その高麗王、若光は一度も朝鮮へ帰ることが出来ませんでした。故郷から遠く離れた異境の土になったのです。

高麗王の没後、三男の聖雲が、現在の聖天院を建立し、一族の菩提寺にしたのです。

聖天院の後には高麗神社があり高麗王、若光が祀られています。そしてその神主は代々、現在に至るまで高麗王の子孫が務めて来ました。

朝鮮から亡命した王様が日本の武蔵国の高麗郡を見事に治め、現在も人々に慕われているのです。少し話をした住職さんの大黒さん(奥さん)が若光さんのお墓も忘れないで拝んでいって下さいと言いながら場所を教えてくれました。

時空を超えた、何か大きな歴史ロマンを感じながら境内の写真を撮って来ました。

038_2 035_2 012_2


はるか遠くへの旅(3)北海道、渡島当別(おしまとうべつ)のトラピスト修道院

2013年03月28日 | 旅行記

2012年の6月に函館の湯の川温泉に3連泊して、4日間、レンタカーで道南の一部を丁寧に見て回りました。

函館の西の松前は日本海に面しています。南は津軽海峡です。東の恵山道立公園から北は太平洋に面しています。

2日目には津軽海峡沿いに西へ丁寧にたどり松前の城下町を訪ねました。

次の日は東海岸太平洋沿いの海岸を根気よく森町まで北上しまさした。

特に東海岸は、函館、恵山道立公園、白尻町縄文土器展示館、森、大沼公園、とかなり丁寧に見て回りました。

何処も最果ての地のような感じでした。生活が厳しそうで胸が痛みます。

その中で特に強烈な印象を受けたのがシトー派のトラピスト修道院でした。函館の西、30km程のJR渡島当別駅から奥に入った寒冷な原野にあるのです。

1896年、明治29年に津軽海峡を越えてやって来ましたフランスの厳律シトー派の流れを汲むトラピスト派の数人の修道士が作った修道院です

石ころの多い熊笹の原野や深い森を切り開いて、何年もかけて乳牛の放牧場を作り、レンガ造りの建物を建設したのです。

レンタカーを駆って訪問してみると、観光客の少ない深閑とした林の中に修道院本館と大きな牛舎が高い塀の中に見えます。その外は一面に牧草が生えた放牧場です。

何故か深い印象を受けたので、4日間に4回も訪問しました。周囲の景観が素晴らしいだけでなくこの修道院の苦難の歴史に感動したからです。

以下はトラピスト修道院の古いほうのHPhttp://www3.ocn.ne.jp/~trappist/index.htmlから引用しました。

===============================

 - 祈り -
 「聖務日祷の時刻には、合図が聞こえるや否や、どのような仕事に携わっていても即座にこれを差し置き、急いで集合しなければならない」(戒律43章)観想修道者の最大の務めは、一日に7回の祈りをささげることです。「神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真理とをもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4.24)と主イエスは仰せられました。したがって、修道者は常に真理の霊に生かされ、主によって示された教えに基づいて、神をたたえ、いただいた恵みを感謝し、必要な恵みを願い、犯した罪やあやまちの赦しを願うのです。神はどこにでもおられますし、すべてを知っておられますが、とりわけ聖体の安置されている聖堂で全員集まって熱心な祈りをささげる時、神が必ずこれをきき入れてくださることを確信しています。修道者の祈りは自分たちのためだけではなく、神の助けを必要とするすべての人のためにささげられているのです。

 - 労働 -
 「怠慢は霊魂の敵である。われわれは師父たちや使徒の例にならって、みずからの手で労作し生活してこそ、まことの修道者といえるのである」(戒律48章)と聖ベネディクトは戒律の中で言っています。絶え間ない祈りの生活を続けていくためには、自分たちの働きで生計を維持し、同時に精神的、肉体的健康を保っていく必要があります。修道者たちは毎日数時間を労働にあて、互いに健康と技能を分かち合い、責任を分担しあって共同体の運営に寄与しています。自然界の中での労働(酪農・菜園・果樹園・庭園)、牧畜や農作業は、観想生活を助け、常に神の働きを体験する貴重な場になっています。「自然を見る者は神を見る」と言われているとおりです。修道者たちは、酪農のほかに、バターやクッキー、バター飴やジャムを製造し、つつましい仕事の中にも労働の価値を世にあかしする者になりたいと思っています。

 - 渡島当別 -  
 当別修道院は、函館から西方に約30・、JR江差線「渡島当別駅(おしまとうべつ)」で下車して徒歩25分のところにある。この地にヨーロッパから数名の修道者が来て、生活をはじめた。広大な敷地は今でこそ肥沃な美しい土地であるが、当時は「石倉野」と言われていた程、石ころが多く、熊笹の生い茂る荒涼たる原野であった。
 渡来した修道士たちは徐々に入会者を得て、苦労しながらこの原野を開拓し、道を作り、丘を平らにし谷をうずめて畑にかえ、今日の姿にしていったのである。生活の糧としては、トラピストの伝統である農耕、牧畜酪農に力を入れた。トラピストにとって、土地を耕したり、牛と共にすごす日々は神への賛美であり、感謝でもあった。
 当初、乳製品は日本人になじみ少なく製酪工場の経営は困難をきわめた。加えて、創立当初多国籍の当別修道院は、数知れぬ困難にあったが、院長を中心に一致団結してよくこれに耐え抜いた。第二次大戦後、酪農事業も日本人の生活水準が向上すると共に発展した。====以下省略=====

この修道院はローマ法王傘下のカトリック組織の一部で、戒律が厳しい事で有名です。修道士は一生の間、修道院敷地から出ません。早朝から夜まで、祈りと牧畜の労働だけで過ごします。

生産される乳製品の一部を外部へ売り、衣服や光熱費をねん出します。その製品はトラピスト・バターやトラピスト・クッキーとして現在でこそ有名ですが、昔は苦しい生活が続いたそうです。現在の修道士は外国人も居ますが、殆ど日本人男性です。

修道院の見学は女性禁止で、男子のみ往復ハガキで申請すれば可能です。

下の写真と共にご紹介いたします。

K_095_2

上は修道院の牧草地から見降ろした津軽海峡です。

K_067

正面入り口までは坂を登って一般の人も行けます。小さなレンガ造りの建物が開放されていて修道院の歴史や厳しい牧畜の様子の写真が展示してあります。

K_152

修道院の本館は木々のかげになって見えません。そこで500m位離れた場所からズームで撮った写真が上のものです。

K_093

修道院の高い塀に沿って裏の方へ回ると古い木造の牛舎が数個あります。大きな扉を開くと乳牛が外に広がる牧草地へそのまま出て行けるような配置になっています。

下に修道院周辺の風景写真と歴史の説明板を示したます。

K_056 K_159

K_072 K_074

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

====================================

以下はトラピスト修道院の新しいHPから引用した写真です。

上の4枚の写真の出典は、http://www3.ocn.ne.jp/~trappist/ です。

T19401

黒い頭巾を被った修道士が無言で食事をしている光景です。手話だけです。

Latinseimu21

ミサの光景です。

Winterrd1

牧草地の冬景色です。

Winterg1

朝焼けの風景です。

朝3時30分に起床し、以下のような日課が続き午後8時に寝てしまいます。

3:30 Rise        起床
3:45 Vigils        読書課
  silent prayer, reading,
5:30 Lauds        朝の祈り
5:45 Mass         ミサ聖祭
7:00 Breakfast      朝食
8:00 Tierce         昼の祈り
            午前中の労働
      Sext         六時課
11:30 Dinner        昼食
13:10 Nones        九時課
            午後の労働
17:30 Supper        夕食
19:15 Vespers and Compline 晩の祈り、寝る前の祈り
20:00 Retire        就寝