甲斐駒ヶ岳の山麓の山荘に独り住んでいる木内正夫さんは昭和14年生まれです。私の山の小屋に近いので30年ほど前からお付き合いをしています。そして2007年には私にこのブログを書き始めるように勧めてくれました。
彼自身は実に内容豊富な文章や写真を自分のホームページやブログに掲載しています。2005年1月に書き始めたホームページ(http://ihcuik69.web.fc2.com/)と、「北杜市・自然の中で」:http://sizen068.blog95.fc2.com/というブログです。ブログの方は2007年3月に書き始めました。
ブログの記事の下の段にある「里山に住んで2」をクリックすると「雑記帳」が出て来ます。それをクリックすると、「里山に住んでもよろしく願います」があり、それをクリックすると「思い出ー総集編」があります。この中にいろいろな思い出が感銘深い文章で書いてあります。「新聞店勤務」や「犬に追われて」や「恩師の押し売り」などは貧困な少年の目か見たら世の中の断片を描いた感動的な小品になっています。
その「思い出の総集編」の最後に、「葬儀について」という文章があります。
その抜粋を以下に示します。
======私の宗教感===================
宗教って一体何なのでしょうか。人類を幸せにするものなのでしょうか。それとも不幸にするものなのでしょうか。
少し昔ではイギリスでカトリックとプロテスタントの争い。イスラエルと隣国の争い。またはイスラム教の派閥間の争い。
インド、パキスタンの争い。我が日本でも古くは、曽我氏と物部氏の争い。織田信長と宗派の争い。
又日本を神の国のごとく国民を教育し戦争に導いた昭和の時代。宗教は人類を幸せにするものなのでしょうか。
この世に宗教さえなければ地球上の争いは半減すると思うのは私だけでしょうか。
我が母も宗教に凝り、その母の影響を受け子供たちの半数以上はその宗教を信じています。
母はお題目を上げさえすれば、病気は治り、いずれ幸せになると狂信していました。でも、晩年には宗教がいかに無力だったか悟ったようです。
そのような母の姿を見て育った私は、宗教に対する不信感は凄く、信じることは出来ません。
まして、死後の世界などあるはずもなく、全ては宗教関係者のでっち上げ、儲け主義によるものでしょう。
それでも、地獄と極楽のある事は信じています。ただ、死後の世界ではなく現世にあるのです。
生き地獄を味わったものに死後の地獄がたとえあっても怖くはないのです。
また、信仰心のある人は優しい心の持ち主だということもないでしょう。かえって無宗教の人のほうが心は優しい人が多いのではないだろうか。
この世から、宗教がなくならない限り争いは続けられ、いずれ人類は滅びるでしょう。そう遠くない日かもしれません。
愚かな政治家が日本が乱れているのは宗教心を教えないからだと発言していました。全ての国民が同じ宗教感を持ったら恐ろしい事が起こるでしょう。
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以上の文章には反論しません。それは正しい歴史的事実でもあり、多くの日本人の宗教に関する考え方でもあります。
ただし私はカトリック信者でありますので宗教に対する見方が上の文章とは違います。人間の食欲や生存欲や他民族を征服する衝動などをつかさどる脳の部分には宗教は効力を発揮出来ないのです。能の皮質部分は芸術や文学や科学や、そして宗教を考え出しました。しかしそれは戦争をしたいという衝動をつかさどる脳の部分にはまったく無力なのです。
ですから宗教が存在していても、存在していなくても人類はそれに関係なく戦争を繰り返すのです。
宗教を信ずれば病気が直る、戦争が無くなるという考えは全く間違いなのです。宗教に、そんな効果を求めること自体が大間違いです。
宗教には見返りはまったく無いのです。
しかし宗教を信じると自分だけが幸せいな気分に一瞬だけなれます。一瞬だけ神が見えます。お釈迦様が見えます。それだけです。
宗教を信じれば病気が直る、家庭円満になれる、商売も繁盛するからこの宗派に入りなさいという勧誘を受けたら、それは詐欺と思ったほうがよいのです。
一瞬だけで良いから神を見たい、お釈迦様を見てみたいと思ったら宗教を信じれば良いのです。ただそれだけの話です。
木内さんは・・・・信仰心のある人は優しい心の持ち主だということもないでしょう。かえって無宗教の人のほうが心は優しい人が多いのではないだろうか。・・・と書いています。私は全く同感です。下に木内さんのホームページからお借りした山荘の玄関前の写真と丹精込めて咲かせた水芭蕉とクロッカスの花の写真をお送りします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
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