今日書くことは学校では習わなかった日本と朝鮮の関係の歴史です。
このような歴史は日韓友好のためにも知っておくべきではないでしょうか?
明治6年欧米視察に行った岩倉使節団の留守の間に西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らによって企画された李氏朝鮮の征伐計画を征韓論と言います。
日本の軍隊を送って征伐し鎖国中の李氏朝鮮を開国させ、日本と通商を行わしめる計画でした。日本の軍隊を朝鮮へ上陸させると主張したのが板垣退助で、西郷隆盛は自分が李氏朝鮮を訪問して外交交渉で円満に開国させることを主張したのです。
しかし欧米視察中の岩倉使節団の大久保利光、岩倉具視、木戸孝允らが明治6年9月に帰国すると彼らは征韓論は時期尚早として却下したのです。
面子を失った西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らは政府から離れそれぞれ独自の運動を始めたのです。
ご存じのように西郷隆盛は西南戦争をしました。
江藤新平は佐賀の乱を起こし、明治7年に処刑されます。
板垣退助は自由民権運動に走ったのです。これは明治政府はじめての大規模な政変でした。
西南戦争で西郷隆盛が亡くなると、それまで一番過激な征韓論を主張していた板垣退助は過激な征伐計画は西郷隆盛の主張だったとします。したがってその後は「西郷隆盛の征韓論」という一対の熟語が出来上がってしまったのです。ですから征韓論イコール西郷隆盛としたら、それは大間違いなのです。彼は武力使用に反対していたのです。
明治維新でいち早く近代国家になった日本は江戸時代の日本と同じように鎖国政策をしていた朝鮮に開国をせまります。アメリカが黒船で日本を威嚇したように近代的な海軍を誇示し、力ずくで日本へ有利な通商条約を要求したのです。
征韓論は一時消えましたが、ついに明治9年に日朝修好条規(江華島条約)が締結されるのです。この条約の特徴は2つあります。第一は李氏朝鮮が清国の冊封国(朝貢国)でなく独立国であると明記してあります。第二は独立国なので日本との間で不平等条約を作っても清国は干渉出来ないとしていることです。
この日朝修好条規の締結にあたって日本の海軍がどのような行動をとったかを以下に示します。この文章はWikipedea の「日朝修好条規」からの一部を転載したものです。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%9D%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E8%A6%8F)
国交交渉 :
国交交渉再開の気運が高まり、1875年に交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚が交渉のテーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山の洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢に朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山は4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申したが、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍の砲艦2隻(雲揚および第二丁卯)が5月に派遣され朝鮮海域を測量などの名目で示威活動を展開した。その後、「雲揚」は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。
江華島事件:
明治9年9月20日、首都漢城に近い江華島付近で日本の海軍の艦艇、「雲揚」のカッターが朝鮮軍から砲撃を受ける事件が発生しました。「雲揚」は直ちに反撃し、永宗島の要塞を占領し、砲台を武装解除しました。その砲台の武器、旗章、楽器などを戦利品として持ち帰りました。この事件の死者は朝鮮側は35名、日本側は死者2名でした。
この事件の事後交渉がきっかてになって日朝修好条規(江華島条規)が出来たのです。
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上の赤い部分が江華島です。
この様にして明治政府は砲艦外交で朝鮮側に不利な日朝修好条規を作ったことが出発点になってその後の朝鮮併呑へと進んで行ったのです。
その一番大きなステップは日清戦争に日本が勝利したことです。これで朝鮮国内にあった清国の権益が一切追い出され日本の権益だけが朝鮮全土に残ったです。そしてロシアの権益もその後の日露戦争で一掃されたのです。
日韓関係はこのようにして、その悲劇的な色合いを深めて行ったのです。(続く)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。
後藤和弘(藤山杜人)