後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日は青梅市の梅岩寺の枝垂れ櫻の写真を撮ってきました

2015年04月02日 | 写真
それは見事な枝垂れ桜で、毎年必ず行くお寺です。
長徳年間(995-999)に寛朝が開山したといわれる梅岩寺には、2本の大きなシダレザクラがあり、毎年、絢爛たる花を咲かせています。青梅駅から徒歩5分の便利な場所にあります。
詳しい情報は、http://www.its-mo.com/season/spring/detail/54615/ にあります。
あいにく曇りでしたので鮮明には写りませんでした。
写真を撮ってから足を伸ばし御岳駅の下の玉堂美術館の隣の「いもうと屋」という和食処で簡単な昼食をとりました。昼食後は少し上流の国際フィッシングセンターの堤の上の櫻の写真を撮ってきました。往復100Kmのドライブでした。
枝垂れ櫻の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。















日韓関係、日中関係の奥深さ(3)日中韓の共通文化としての漢詩の世界

2015年04月02日 | 日記・エッセイ・コラム
櫻も咲き春爛漫になると、「春眠暁を覚えず」という句を何度も思い出す人も多いと思います。春眠不覚暁、 処処聞啼鳥、 夜来風雨声、 花落知多少 、という漢詩の書き出しの部分です。意味は以下のようなものですね。春の(心地よい)眠りのため、(春は)明け方が来たのがわからない。あちらこちらで鳥が鳴くのが聞こえる。 夕べは雨や風の音(が聞こえた)。どれだけの花が散ったのかわからない。
中国の漢字を使う韓国や日本や台湾では現在でも漢詩を愛好する人々が多く日中韓の人々の絆になっています。
例えば「世界漢詩同好會のコーナー」というHPがあります。アドレスは、http://tosando.ptu.jp/koryu/sekaikanshi.html です。このHPによると、平成16年3月から、日本の 桐山堂(鈴木淳次)さんが韓国の溪さん、台湾の汨羅江さんと手を合わせて、国際的な漢詩交流を進めています。
季節毎に詩題と韻目を共通にして、その条件での詩をそれぞれのホームページで掲載し合い、相互に学び合っています。
このHPを見ると韓国と日本と台湾とその他の国々にいる漢詩愛好家による漢詩の作品が実に多数掲載されています。そして漢詩を気軽に作る方法も出ています。
丁度、日本の俳句のように気軽に漢詩を作る人が多いのです。
それにしても漢詩といえば唐時代の李白や杜甫や白楽天の作品は学校で習います。暗唱もしたり詩吟を謡った思い出のある人も多いと思います。
唐の時代から連綿と続く中国の文学や社会体制は東洋にある国々の手本になって来ました。西洋人が教養としてギリシャ文化を学ぶように、漢字文化圏の国々の人々は中国の文化を勉強します。
日本、中国、韓国のバックボーンになっている漢字文化の共通性が現在でも人々の絆になっているのです。この文化的な絆は政治的な対立や経済戦争よりも高尚なもので、人々の心を豊かにしているのです。
今日は漢詩の話になったので最後に王維の漢詩をご紹介します。
出典は、http://be-here-now.cocolog-nifty.com/…/20…/03/post-b9b1.html  です。

「客舎青青柳色新たなり」 送元二使安西(元二の安西に使するを送る)
渭城朝雨浥軽塵   渭城の朝雨(ちょうう)軽塵をうるおす
客舎青青柳色新   客舎青々(かくしゃせいせい)柳色新たなり
勧君更尽一杯酒   君に勧む更に尽くせ一杯の酒
西出陽関無故人   西のかた陽関を出ずれば故人なからん 
この漢詩は知人の元二(元家の二男の意)が、公務で安西に使者として旅立つのを見送った時の情景を詠んだ詩です。
この漢詩の出典には更に以下のような解説がついています。その解説を読むと詩の味わいが深くなるので転載させて頂きました。
・・・・ 詩全体のおおよその意味は以下のとおりです。 
 渭城に朝降った雨は、舞い上がる塵を潤して(抑えて)いる。安西に旅立つ元二の送別の宴のために入ることとした客舎(旅館)の庭に生えている草木は、朝雨のため青々としていて、分けても柳の緑葉は甦ったように生き生きとした新たな色合いを見せている。
 (転句である三句で、場面は変わって客舎の中の宴)。さあ、元二氏よ。もう一杯飲み乾したまえ。この先西の方の陽関の外に行ってしまえば、もう知り合いは誰もいなくなるのだから。
 この七言絶句は、第一句、第二句が特に絵画的です。わずか十四文字で、客舎周辺のようすがくっきりと視覚的にイメージされてきます。
 渭城とは、渭水のほとりにあった秦、漢の時代の都・咸陽(かんよう)のことで、現在の咸陽市よりやや西にあった都のようです。そこから元二は渭水沿いに西へ向い、やがて現在の蘭州付近で黄河を渡り、河西回廊を通って敦煌に到り、その南の陽関からいよいよ西域(シルクロード)に出てやっと安西にたどり着くルートを経たようです。
 安西には当時、安西都護府という唐の西域の前哨基地が置かれていました。唐の首都・長安から2,500kmという、遙か彼方の辺境の地です。・・・・

話は変わりますが、この漢詩は現在の中国の中学校でも挿絵入りで教えております。ですから漢詩は日本、中国、台湾、韓国の共通の文化となっているのです。
漢詩は 日本、中国、韓国のバックボーンとして現在でも国境を越えて人々の絆になっているのです。
今日の挿絵の写真は唐の長安にある大雅塔と鼓楼と鐘楼の写真です。私も1982年に見ました。当時は規制が厳しくなく、大雅塔のてっぺんまで自由に登れたのです。崩れかかった土レンガの階段に心が痛みました。写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/35904327.htmlです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)