後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日は長躯、群馬の妙義山中腹の「櫻の里」へ行きました

2015年04月17日 | 写真
群馬県の下仁田町へ家内一家が疎開していました。家内はそこの小学校へ転校しました。茫々、70年も昔のことです。その小学校の同級会へ家内が出席すると言うので妙義山の麓まで車を走らせました。
早く着き過ぎたので足を伸ばし妙義山の中腹まで登り、「桜の里」の写真を撮って来ました。山の春は遅く、ソメイヨシノが満開でした。あいにくの曇りで鮮明な写真ではありませんがお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









遥かな五島列島への旅(5)美しい天主堂を沢山建てた鉄川与助の偉業

2015年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム
五島列島に行くと人々が鉄川与助のことを自慢します。美しい天主堂や教会を沢山作った五島出身の大工の棟梁でした。棟梁と言うより教会建築家と呼んだ方がふさわしい人でした。
今回の旅行で初めて名前を知ったので少し調べてみました。面白いことに彼は終生、仏教徒だったのです。外国の神父さんとの交流は深いものでしたが仏教徒を貫きました。
以下はhttp://allxa.web.fc2.com/a-map/jp_nagasaki/tetsukawa/tetsukawa01.htmlからの抜粋です。
・・・・鉄川与助は1879(明治12)年に長崎県五島列島の中通島で大工棟梁の長男として生まれました。父親の下で大工の修行をした後、野原棟梁の下について1899(明治32)年の曽根教会(設計 ペール神父)で初めて教会建築を手掛けます。
1906(明治39)年に鉄川組(現 鉄川工務店)を設立。1907(明治40)年、初めて自身で設計した冷水教会が竣工。以後、長崎県を中心に九州各県で教会を建設し、教会建築の第一人者と目されるまでになります。
1958(昭和33)年に鉄川工務店社長を息子に譲り同社会長に就任。1976(昭和51)年に亡くなりました。享年97歳。
鉄川与助は大学で正規に西洋建築を学んではいないものの、野原棟梁の下での教会建築の経験と、ペール神父や後年に出逢って大きな影響を受けるド・ロ神父といった外国人宣教師から受けた教えによって西洋建築のノウハウを習得し、独自のスタイルを確立するに至りました。
鉄川の教会は、かつて隠れキリシタンが潜伏していた九州の僻地にあるものが多く、現地を訪れるのに一苦労します。しかし、僻地に立派な教会が建てられた背景には、迫害を恐れて長年潜伏を続けた信徒がようやく信仰を表明できるようになったという事情があります。教会がいかに辺境の地に建っているかを身をもって体験することも、キリシタンの歴史を理解するには必要だといえるでしょう。
鉄川が手掛けた教会は、一部施工のケースまで含めると約50件、彼自身が設計・施工を担当したのは34件あるといわれています。ただし、この数は戦後の鉄川工務店の仕事も含んでいるようです。34件中、戦前の仕事は28件ですが、戦災等で消えたものも少なくありません。・・・・・
それでは鉄川与作の建てた教会を見てみましょう。

一番目の写真は五島列島にある堂崎天主堂です。

二番目は五島列島にある青砂ケ浦天主堂です。

三番目は五島列島にある頭ケ島天主堂です。

四番目は五島列島にある大曽天主堂です。

五番目は天草にある大江天主堂です。

六番目は青砂ケ浦天主堂の内部です。

七番目は頭ケ島天主堂の内部です。
これらの教会群のことは鉄川与作の孫娘が愛情をこめて説明しています。
そこで、「おじいちゃんの建てた教会」http://www1.odn.ne.jp/tetsukawa/issho.html より抜粋してそれをご紹介いたします。
・・・・私が祖父と暮らしたのは、私が中学2年の時から祖父が亡くなる少し前までですので、10年位でしょうか?祖父が80才を過ぎてからです。いつも穏やかでニコニコしていて、怒った祖父の記憶は全くありません。 
 祖父は明治12年、長崎県五島で生まれました。祖父は、大変きちょうめんな性格で、学校に行くにも毎日歩数をはかっていたそうです。有川小学校の高等科に進んでからは、船で学校まで、通っていたそうですが、漕ぎ手はほとんど祖父で、風雨の強い日には、山道を片道6キロ以上歩いて通ったそうです。祖父の体力は、そういう生活の中で、自然に鍛えられたのだと思います。 
祖父の父以外の初めての師との出会いは、野原(野崎ともいわれています)棟梁でした。野原棟梁は、当時ペール(ペルー?)神父のもとで、曽根天主堂を造っていました。祖父はペール神父に、丸みのある美しい柳天井と幾何学を学びました。そして翌年、祖父が初めて設計・施工した冷水天主堂を建てます。 
その次の出会いが、ド・ロ神父様です。長崎県外海を中心に活躍したフランス貴族出身の神父は、祖父を『てつ』と呼んで可愛がってくれて、モルタルの塗り方、レンガの使い方など、さまざまな事を祖父に教えて下さいました。
 『てつ お前の心が 悪くなければ 仕事はできる』 これが神父様の教えでした。
ド・ロ神父様は、遠藤周作先生がこよなく愛した外海地区に、煉瓦造りの出津天主堂や大野天主堂を建てた方です。大正4年に完成した大浦天主堂の大司教館は、ド・ロ神父様が設計し、祖父が施工しました。
『教会は、50年、100年もたせる必要がある。その為には土台をしっかりしなければ』というのが、ド・ロ神父様の教えでした。
 その次に、祖父が影響を受けたのは、旧浦上天主堂を建てたフレノー神父様でした。神父様は、図面を引かず頭の中にある構想だけで天主堂を建てる天才でした。のちに祖父は、浦上天主堂の双塔を建てます。これが原爆で壊れてしまったのはとても残念です。・・・・・以下省略。
下の末尾に「おじいちゃんの建てた教会の孫娘さんによる紹介」がありますのでご覧下さい。
それにしても東京ではあまり有名ではない鉄川与作さんが世界遺産候補になっている江上天主堂や頭ヶ島天主堂や野首天主堂などを建てたのです。それは日本の建築史の上の画期的な偉業ではないでしょうか。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========
「おじいちゃんの建てた教会の孫娘さんによる紹介」 
鉄川与助は明治12年に南松浦郡新魚目町丸尾(五島)で生まれました。
祖父鉄川与助の造った天主堂は、50以上と言われていますが、まだ全部はわかりません。現在の状態をわかる範囲で調べてみました。                
下に、名前、献堂、場所、天主堂の説明、今の状態、を順々に書きます。  
曽根天主堂 明治32 南松浦郡新魚目町 ペール神父、野原棟梁のもとで、初めて教会建築に参加、西洋建築との出会い、 建て替えに参加しました。
鯛ノ浦天主堂 明治36年 南松浦郡有川町 木造で、野原棟粱施工、 建て替えにに参加しました。
・・・・明治39年 に鉄川組を編成・・・・  
桐の浦天主堂 明治39年 長崎県 木造で、1部煉瓦造り
冷水天主堂 明治40年 南松浦郡上五島町 素朴な木造で、初めて設計施工しました。リブ・ヴォールト天井です。  
堂崎天主堂 明治41年 福江市 赤煉瓦造りで、野原棟梁施工です。ゴシック様式で、どっしりした重厚な天主堂です。  
・・・・明治41年に日本建築学会会員になります。・・・・  
野首天主堂 明治41年 北松浦郡小値賀町 初めての煉瓦造りです。4つの窓があり、花模様のステンドグラスがとても綺麗です。昭和64年復元。『火宅の人』のロケ地です。  
佐賀公教会 明治44年 佐賀県 木造、平家建 戦災
青砂ケ浦天主堂 明治43年 南松浦郡上五島町 煉瓦造り、屋根が2層になって高く大きくなり、煉瓦と白い十字架の対比が綺麗です。内部の装飾も壮麗になります。
楠原天主堂 明治45年 南松浦郡岐宿町 赤煉瓦造りで、ゴシック様式です。どっしりした天主堂で、屋根に銀色の十字架が輝いています。増改築 
山田天主堂 大正元年 北松浦郡生月町 煉瓦造り  
今村天主堂 大正2年 福岡県三井郡太刀洗町、珍しい双塔の赤煉瓦造りの天主堂で、祖父の、1番美しい建築物とも言われています。他の教会は島などに多いですが、筑紫平野の真ん中にあります。  
大司教館 大正3年 長崎市 大浦天主堂の右側大きな煉瓦造りで、3階建てで日本瓦です。ド・ロ神父設計、与助施工です。  
宮崎天主堂 大正3年 宮崎県 木造、平家建 取り壊し
大曽天主堂 大正5年 南松浦郡上五島町 煉瓦造りで、バジリカ式会堂です。入り口正面に大きな塔屋を持つ、ロマネスク調で、円形アーチ窓の、桜の花型の色ガラスが綺麗です。  
大水天主堂 大正6年 長崎県 木造、平家建
堂崎天主堂 大正6年 福江市 赤煉瓦造りで、ゴシック様式です。
江上天主堂 大正7年 南松浦郡奈留町、小さい木造の天主堂で、窓ガラスの花柄模様は手書きです。  
南田平天主堂 大正7年 北松浦郡田平町 与助最後の煉瓦造りの天主堂で、三層です。平戸島の向かいの丘にあり、グリーンのドームを持ち、回りの景色によく映えています。
頭ケ島天主堂 大正8年 南松浦郡有川町、唯一の石造り(島で取れた石)で、ロマネスク様式です。小さい天主堂を広く見せる為初めての折上天井です。
祖父が晩年1番話していた天主堂で、それだけ苦労したようです。私が好きな天主堂の1つです。  
細石流天主堂 大正10年、福江市 ザザレと読みます。今は廃堂です。 崩壊
旧浦頭天主堂 大正10年、長崎県 木造、折上天井です。 取り壊し
人吉公教会 大正11年 熊本県 木造、平家建  
長崎神学校 大正12年 長崎県 教会ではありませんが、祖父の初めてのコンクリート造りです。三階建です。  
旧浦上天主堂 大正14年 長崎市 建設の時にも参加しましたが、双塔は、祖父が作りました。残念な事に、昭和20年の原爆でこわれました。今の浦上天主堂は、与助の長男与八郎の設計施工です。
手取天主堂、昭和3年 熊本市 最初のコンクリート造り、大正12年の関東大震災で煉瓦造りの脆さが実証されたからだと思われます。八角形のドームで小さい天主堂ですが、内部は広く高くて花柄をあしらった内部装飾が美しいです。  
大牟田公教会 昭和4年 福岡県 木造、平家建 戦災
呼子天主堂 昭和4年 佐賀県 木造、平家建  
紐差天主堂 昭和4年 平戸市 白いコンクリート造りの美しい外観と、ステンドグラスからもれる光の美しい内部を持つ、大規模な天主堂で、内部の柱の装飾が綺麗です。  
八幡天主堂 昭和5年 福岡県 木造、平家建 戦災
戸畑公教会 昭和5年 福岡県 木造、平家建 戦災
大江天主堂 昭和8年 熊本県天草、ロマネスク様式の白亜の天主堂で、コンクリート造りです。私の好きな天主堂の1つです。  
新田原天主堂 昭和8年 福岡県 木造、2階建 建て替え
水俣天主堂 昭和8年 熊本県 木造、平家建  
小倉天主堂、昭和10年、福岡県 木造、1部鉄骨、平家建、 取り壊し
崎津天主堂 昭和10年 熊本県天草 前半分はコンクリート造りで、後ろは木造のゴシック風です。鉛筆のようなとがった塔があり、外観が華やかで畳敷きです。海の側に建っています。  
水の浦天主堂 昭和13年、南松浦郡岐宿町 木造で、大規模な白亜の天主堂です。堂内の貝の聖水器が美しいです。  
鯛の浦天主堂 昭和21年 南松浦郡有川町 煉瓦造、平家建。玄関だけ煉瓦(昭和21年に 原爆で壊された、浦上天主堂の煉瓦で作りました。) 建て替え
愛野教会 昭和26年 南高来郡 木造、平家造り  
桐教会 昭和33年 南松浦郡    
浦上天主堂 昭和34年 長崎市 コンクリート造り  
諫早教会 昭和40年 諫早市 コンクリート造り  
船隠天主堂 昭和40年 南松浦郡 木造  
丸尾教会 昭和47年 南松浦郡 コンクリート造り  
  昭和51年、祖父、与助が亡くなりました。97歳でした。趣味も、建築といいきれるような一生でした。亡くなった日の朝も、故郷の五島や、教会の写真を見ていたそうです。   
追記:五島列島にある国指定重要文化財の教会や天主堂
旧五輪教会堂(世界遺産候補)、江上天主堂(世界遺産候補)、頭ヶ島天主堂(世界遺産候補)、青砂ヶ浦天主堂