ここ数日、冷たい雨が降って寒い日が続いています。3月中旬のような天候です。そこでその頃の京王フローラルガーデンの花々を思い出し写真を見て楽しんでいます。皆さまへもお送りいたしますので花々の写真をお楽しみ下さい。
過疎化しつつある離島の悲しみとは親子の別離の悲しみです。子供は中学校や高校を出ると島を離れてしまうのです。めったに島に帰って来ません。残された祖父、祖母、父、母、兄弟姉妹は毎日去った人のことを思い出しています。
そして残った人々も毎日の生活のつらさに耐えています。それは過疎化しつつある離島の宿命です。
しかし何故7万人もの人々が五島列島に暮らしているのでしょうか?そこには都会には無い深い喜びがあるからです。九州本土から船で3時間もあると全く独立した小さな国のようです。そこには本土には無い自由さがあります。質素な生活ですが、緑豊かな山々や蒼い海に囲まれた文字通り楽園のような所に住んでいるという喜びが胸を打つのです。それがあるからこそ多くの人々が住んでいるのです。
それはそれとして離島の生活を考えてみましょう。以下は産経ニュース:http://www.sankei.com/politics/news/140723/plt1407230026-n1.html(編集委員 宮本雅史)からの抜粋です。
長崎県・五島列島での生活は他の離島と同様、不便さを伴う。
運転免許を取得するには本土の長崎県大村市に行かなければならない。高い運賃を支払って大村まで行くのです。
大学入試センター試験だって、福江島(五島市)で受けられるようになったのは平成21年からで、それまでは、船に乗って長崎大(長崎市)まで受けに行ったのです。天候の問題があるから、4、5日前に行くので、受験生の負担は大変大きかったのです。
五島の人々にとって九州本土は遠い存在になっているのです。
航空料金も高く福岡までの場合で島民向けの割引料金でも1万2850円です。早割料金の福岡・東京間とそんなに変わらないのです。
船便も長崎まで3時間以上で料金も飛行機とあまり変わらないのです。
こんな状態ですから島にはコンビニもファストフードの店もありません。家電や家具の量販店も回転スシもありません。
島の人々はめったに島を出ないで物価高の島内で不便をしのいで生活をしているのです。
生まれたときから離島というハンディを背負って生きているのです。
このような生活なので若者がどんどん島を出て行くのです。そしてそこには家族の別離の悲しみがあるのです。
五島列島は、西海国立公園に代表される自然景観や遣唐使の寄港地だった歴史、世界遺産登録を目指している「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成するカトリック教会など、観光資源が多いのです。しかし観光客は減り続けているのです。五島列島には140の島がありますが、有人の島は18島だけだそうです。そして無人島になっていく島もあるのです。その例は北端にある野崎島が一例です。
野崎島の無人島化と沖神嶋神社と野首教会
「沖神嶋(おきのこうじま)神社」は西暦704年に建立されています。
この島のカトリックの歴史は、それに比べると千年以上も違います。
江戸から明治になり、やっと信教の自由を得たとカトリック教徒が新天地を求めたやってきたのです。
しかし1300年も続いてきた島の神社を守ってきた神主さんのご夫婦も寄る年波に勝てず、何十年間も日課としていた神社への参拝ができなくなり、2001年の11月に島を離れることになりました。
野首教会とその内部
無人島に残った野首教会は、今も手入れされているので、美しくて立派な教会なのです。予約しておくと中にも入れます。
野首の地は1716年、捕鯨で財を成した小値賀島の豪商・小田家が開拓をしたことにはじまりますが、ここには長いあいだ人は住み着かなかったようです。平地が少なく急な斜面ばかりで、住むには不便な土地だったのです。
その後、1797年に五島藩が大村藩に対し、領民を土地開拓民として移住させるよう要請しました。大村藩主はこれを快諾し、外海地方から100人あまりが五島へ移住することになります。そのほとんどが潜伏キリシタンだったといわれています。彼らに開拓地が与えられたことが知れ渡るとさらに移住者は増え、最終的には3,000人を超える人々が五島に渡ったと伝えられています。
このうちの2家族が下五島を経由して野崎島に渡り、野首の地に住み着いたのが野首集落のはじまりだといわれています。
このように野崎島は、隠れキリシタンが渡ってきた島で野首教会は明治41年に、たった17世帯でお金を出しあって建てた天主堂です。3食、食べるところを2食に減らして、お金をためて建てたといいます。 この教会は鉄川与助という教会造りに生涯をささげた五島出身の棟梁が初めて手がけたレンガ造りの教会です。
しかし2011年には完全に無人島になり、現在は教会だけが野崎島を守っているのです。
下に野首天主堂の3枚の写真と現在の野崎港と野生鹿の繁殖した現在の野崎島の写真を示します。3枚の写真の出典は、http://www1.odn.ne.jp/tomas/nokubi.htmです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
これら3枚の写真は野首天主堂の現在の写真です。
上は現在の野崎港の様子です。
上は野生の鹿が多数棲んでいる様子です。
そして残った人々も毎日の生活のつらさに耐えています。それは過疎化しつつある離島の宿命です。
しかし何故7万人もの人々が五島列島に暮らしているのでしょうか?そこには都会には無い深い喜びがあるからです。九州本土から船で3時間もあると全く独立した小さな国のようです。そこには本土には無い自由さがあります。質素な生活ですが、緑豊かな山々や蒼い海に囲まれた文字通り楽園のような所に住んでいるという喜びが胸を打つのです。それがあるからこそ多くの人々が住んでいるのです。
それはそれとして離島の生活を考えてみましょう。以下は産経ニュース:http://www.sankei.com/politics/news/140723/plt1407230026-n1.html(編集委員 宮本雅史)からの抜粋です。
長崎県・五島列島での生活は他の離島と同様、不便さを伴う。
運転免許を取得するには本土の長崎県大村市に行かなければならない。高い運賃を支払って大村まで行くのです。
大学入試センター試験だって、福江島(五島市)で受けられるようになったのは平成21年からで、それまでは、船に乗って長崎大(長崎市)まで受けに行ったのです。天候の問題があるから、4、5日前に行くので、受験生の負担は大変大きかったのです。
五島の人々にとって九州本土は遠い存在になっているのです。
航空料金も高く福岡までの場合で島民向けの割引料金でも1万2850円です。早割料金の福岡・東京間とそんなに変わらないのです。
船便も長崎まで3時間以上で料金も飛行機とあまり変わらないのです。
こんな状態ですから島にはコンビニもファストフードの店もありません。家電や家具の量販店も回転スシもありません。
島の人々はめったに島を出ないで物価高の島内で不便をしのいで生活をしているのです。
生まれたときから離島というハンディを背負って生きているのです。
このような生活なので若者がどんどん島を出て行くのです。そしてそこには家族の別離の悲しみがあるのです。
五島列島は、西海国立公園に代表される自然景観や遣唐使の寄港地だった歴史、世界遺産登録を目指している「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成するカトリック教会など、観光資源が多いのです。しかし観光客は減り続けているのです。五島列島には140の島がありますが、有人の島は18島だけだそうです。そして無人島になっていく島もあるのです。その例は北端にある野崎島が一例です。
野崎島の無人島化と沖神嶋神社と野首教会
「沖神嶋(おきのこうじま)神社」は西暦704年に建立されています。
この島のカトリックの歴史は、それに比べると千年以上も違います。
江戸から明治になり、やっと信教の自由を得たとカトリック教徒が新天地を求めたやってきたのです。
しかし1300年も続いてきた島の神社を守ってきた神主さんのご夫婦も寄る年波に勝てず、何十年間も日課としていた神社への参拝ができなくなり、2001年の11月に島を離れることになりました。
野首教会とその内部
無人島に残った野首教会は、今も手入れされているので、美しくて立派な教会なのです。予約しておくと中にも入れます。
野首の地は1716年、捕鯨で財を成した小値賀島の豪商・小田家が開拓をしたことにはじまりますが、ここには長いあいだ人は住み着かなかったようです。平地が少なく急な斜面ばかりで、住むには不便な土地だったのです。
その後、1797年に五島藩が大村藩に対し、領民を土地開拓民として移住させるよう要請しました。大村藩主はこれを快諾し、外海地方から100人あまりが五島へ移住することになります。そのほとんどが潜伏キリシタンだったといわれています。彼らに開拓地が与えられたことが知れ渡るとさらに移住者は増え、最終的には3,000人を超える人々が五島に渡ったと伝えられています。
このうちの2家族が下五島を経由して野崎島に渡り、野首の地に住み着いたのが野首集落のはじまりだといわれています。
このように野崎島は、隠れキリシタンが渡ってきた島で野首教会は明治41年に、たった17世帯でお金を出しあって建てた天主堂です。3食、食べるところを2食に減らして、お金をためて建てたといいます。 この教会は鉄川与助という教会造りに生涯をささげた五島出身の棟梁が初めて手がけたレンガ造りの教会です。
しかし2011年には完全に無人島になり、現在は教会だけが野崎島を守っているのです。
下に野首天主堂の3枚の写真と現在の野崎港と野生鹿の繁殖した現在の野崎島の写真を示します。3枚の写真の出典は、http://www1.odn.ne.jp/tomas/nokubi.htmです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
これら3枚の写真は野首天主堂の現在の写真です。
上は現在の野崎港の様子です。
上は野生の鹿が多数棲んでいる様子です。