後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

琵琶湖畔に住む「ちひろ」様の美しい花の写真をお送りいたします

2015年04月28日 | 写真
ちひろ様はもう何年もネットの上でお付き合いしている素晴らしい方です。
ご自分で毎日のように車を駆って琵琶湖周辺の四季折々の花の写真を撮って掲載されています。今日は久しぶりにお写真をお借りしてご紹介いたします。 
「カメラと遊ぶ日々」:http://blog.goo.ne.jp/yumenohanamiti8739からお写真をお借りしました。このブログには他にも沢山の花々の写真が満載してあります。お楽しみ下さい。









ネパールの人々の悲しみを想い浮かべています

2015年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
ネットの上で知り合い、何度かお会いし、その物静かな人柄に惹かれていた「ひかるの」さんは2010年の春に肺ガンで亡くなりました。
彼は26年間、カトマンズとバンコック両方に部屋を持ち住んでいました。ヒンズー語、タイ語、ネパール語、ブータン語などなどが話せました。アジアの各地を訪ね人々と温かい絆を結びました。特にカントマンズの大家さん一家とは親しくしていて、死の直前わざわざ飛行機でで別れの挨拶に行きました。
彼は、2つのブログでカトマンズのあれこれを書いていました。それを毎回読んでいた私にとってはカトマンズは特別に身近な存在になっていたのです。人々の暮らしぶりが目に浮かび、その声や息づかいを感じていたのです。その静かで平和なカトマンズが大地震で崩壊してしまったのです。ネパールの人々の悲しみを思うと沈痛な気持ちになります。その悲しみに心を寄せて毎日お祈りしています。希望を捨てないで生きるようにと祈っています。
幸い日本、インド、中国などの救援隊がカトマンズに到着し、夜を徹して救援活動をしています。
このような救援活動はネパールの人々に生きる勇気を与えます。感謝で感動を覚えます。2011年の東日本大地震の時、アメリカや中国からの緊急救助隊によって勇気を得、また復旧する希望を持ったことを思い返しています。
ネパールは遠い国です。あまり日本人にはよく知られていない歴史と文化を持っています。
そこでネパールの人々を良く知り親しみを感じて頂くように平穏に暮らしていた頃のカトマンズの風景をお送りいたします。









これらの写真は以下の2つのブログから転載いたしました。「カトマンズ・バンコク慕情~アジアの旅の徒然に」:http://blogs.yahoo.co.jp/hikaruno_season とイ「ンド ブータン アジアの布 染織美術館」:http://asiancloth.blog69.fc2.com/です。そしてカトマンズの歴史や文化についてひかるのさんは以下のように書いています。細かなことが詳しくかいてありますが、要するに古都カトマンズにはいろいろな王朝の文化が重なり、その中に住む人々の様子が生き生きと描いてあるのです。
・・・ カトマンズの街は 8世紀以後のマッラ王朝時代に造られた街並みと、18世紀以後のゴルカ王朝時代に造られた建物が並存している。ゴルカ王朝といっても 大半の建物は、1846年以後にラナ家専制時代に建てられたイギリス様式を真似たもので、ネパール建築とは程遠いものだ。街はマッラ王朝時代に建てられた建物が大半で、ゴルカ王朝時代に建てられた宮殿群はネワール族の造り上げた街の周辺地域に散在しているだけである。
日本の江戸時代のことを考えてみれば、江戸の中心に江戸城があり、その周辺に直参旗本の屋敷、大名屋敷、その外に商人たちの居住地と職人たちの居住区、さらにその外の浅草あたりには歓楽街が広がり、その向こうといえば、村になってしまう。
カトマンズの街を読み取るには、マッラ王朝時代の街づくりに眼を向ける必要がある。
ゴルカ王朝時代の建物を見ても、ただ権力を誇示するための建物ばかりで、生活する人々の心の有様を知る手がかりにはならない。
基本的にはこの構造は250年のゴルカ王朝の支配の中でも変化はしていないようだが、上級カーストの生活場所については、ゴルカ王朝に協力的であったものとそうでないものの違いによって、居住区の入れ替えはあったように思われる。
ネワール族の中のヒンズー教徒、仏教徒によって、ゴルカ王朝への協力度は違っていただろう。しかし、大半のネワール族は、マッラ王朝時代からの居住地域に住んでいるようだ。
ただ不思議なのは カトマンズの街には、悪場所である歓楽地域がないことだ。
ヒンズー教の影響なのだろうか。江戸であれば、隅田川の川向こうは、江戸庶民の歓楽街であった。ネワール族の60歳を過ぎた人たちに聞いても、カトマンズにはそんな場所はなかったという答えが返ってくるばかりである。
異国の街に足を踏み入れると、その街の匂いや色が気になるものだ。
カトマンズの色といえば、赤だ。赤なしでは、生活は成り立たないというぐらいに何かにつけて赤である。ネパール人にとって、赤は縁起のいい色とされており、結婚式、行事では、赤のサリーを身に着けることが多い。おでこにつけるティカも赤、街のいたるところに鎮座している神様の礼拝にも赤、これほど赤の好きな人たちはいないだろう。これほど赤が好きなのだから、情熱的な人たちだろうと思うが、そうでもない。お祭り好きなことはたしかであるが。・・・・以下省略します。
このような古い文化を背負った街々に人々が平和に暮らしていたのです。
その生活が崩壊するような大地震が起きたのです。人々の悲しみに心を寄せ祈りたいと思います。
ネパールの人々が絶対に希望を捨てないで生きるようにと祈っています。必ずや復興するようにと祈っています。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:ネパールの歴史==============
http://ashita.yu-yake.com/asia-history/nepal-history.htm
ヒマラヤ山脈は、大昔に海底だったそうですが、カトマンズ盆地も、有史以前には湖の底だったという事が解っているそうです。
紀元前6世紀頃、釈尊(ゴータマ・シッダールタ)がネパール王国の領土内、ルンビニーという場所に生誕しました。父は釈迦族の国王シュッドーダナ(浄飯王じょうばんおう)、母はマーヤー(摩耶夫人まやぶにん)とされています。釈尊の名前、ガウタマとは「最上の牛」、シッダールタとは「目的(アルタ)を達成した人(シッダ)」という意味らしいです。
紀元前3世紀には、インドのアショーカ王が釈尊生誕の地である、南ネパールを巡礼するなど、仏教が盛んでしたが、紀元200年までに仏教は衰退し、北インドから侵略してきたリチャヴィスによって、ヒンズー教が優勢になりました。(リッチャヴィ王朝時代)
その後、8世紀にはマッラ王朝がリッチャヴィ王朝に代わって、カトマンズ盆地を統一し15世紀までこの盆地を支配しました。(マッラ王朝時代)
15世紀にはマッラ王朝は三人の王子の元に3つに分裂します。三人の王子は、それぞれ、カトマンズ、バクタブル、パタンに王国を作り、並立してカトマンズ盆地を統治しました。
この時代には、3国が競い合ったため、美しい彫刻を施した寺院や王宮の建築が残っていす。(三王国王朝分立時代)
1741年頃、ネパール東部地域のゴルカ族は、カトマンズ盆地を征服する戦いを始め、27年に及ぶ戦いの後、1768年に首都をカトマンズに移し、繁栄しました。(ゴルカ王朝時代)
ネパール全土を統一したゴルカ王朝はチベットやインドへの侵入を図りますが、19世紀初めにインドへ侵入した英国軍と衝突し、ゴルカ戦争が始まりました。数に勝る英国軍も、山間部ではネパール軍に苦戦を強いられますが、ネパール軍をカトマンズへ敗退させ、1816年にネパールと講和条約を締結しゴルカ戦争は終結しました。なおこの戦争の後、英国はゴルカ王朝の兵士の勇猛な戦いぶりを高く評価し、英国の傭兵として雇うようになります。インドで、東インド会社への不満に端を発して起こったセポイの乱には、英国は、ゴルカ兵を傭兵として使い、勝利したそうです。
実質的にイギリスの勢力下に入ったネパールでは、以前、王朝が権力を維持していました。しかしジュング・バハドゥルが権力を握るようになると、称号「Rana」を名乗り、自身を生涯首相と宣言し、その職務を世襲としました。(ラナ将軍家による専制政治)
20世紀に入ると、人々はぎりぎりの生活を営んでいる一方、国王の一族は、大きなカトマンズ宮殿で贅沢にふけっていました。しかし第二次世界大戦後、イギリスがインドから撤退し、国王の主要な支援者イギリスもいなくなります。そしてとうとう、国家の政策に反対する暴動が起きました。1951年、トリブバン国王は、新しく創設されたネパール国民会議派のメンバーで構成される政府を認めます。しかし妥協は短かく、1962年、マヘンドラ国王は政党のない村落会議を模したパンチャヤト制がネパールにはもっと適していると決定し、王政復古で、立憲君主制となります。1972年、ビレンドラ国王が即位しますが、身内のひいき、外国からの援助が王族へ流れるなど腐敗が続き、長年の窮乏に限界が来たネパール人は、1990年、民主化を求め抗議行動が起こします。100人以上の市民が死にますが、ビレンドラ国王は内閣を解散、政党を公認し、臨時政府を作ることを認めました。1990年には、民主的な新憲法が導入され、1991年には、32年振りの選挙が行われました。ネパール会議派のコイララ政権が誕生します。    しかし、汚職事件等や、国民の批判、党内の対立などによって、解散しました。その後、再び総選挙が行われ、アディカリを首相とする共産党政権が成立しますが、また1995年に内閣不信任案により崩壊しました。その後、ネパール会議派のデウパを首相とする政権ができますが、経済の停滞、失業、識字率の低さなど、ネパールの状況は思わしくないそうです。