後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

世界遺産候補のとして審査されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成

2015年04月16日 | うんちく・小ネタ

少し詳しくなりますが、この際、長崎県全体のキリシタン遺跡を知るために、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成を以下にご紹介いたしたいと思います。キリシタンにご興味のある方々には参考になると思います
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産の紹介:
(http://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/assets/)
構成遺産は、以下の3群の総計14資産から成り立っています。
(1)キリスト教の伝播と普及/キリスト教の繁栄と弾圧を示す遺跡 (日野江城跡、原城跡など)、
(2)禁教下の継承/禁教時代に形成された集落の内外にある、禁教時代から続く信仰の場、崇敬地等 (平戸の聖地や集落など)
(3)解禁後の復帰/潜伏して信仰を守ってきた場所に信仰の証として建てられた教会群 (黒島天主堂、頭ヶ島天主堂、天草の崎津集落など)

そして 構成資産リストは以下の通りです。
(1)大浦天主堂と関連施設
 大浦天主堂は、ゴシック様式の建物で、現存する最古の教会として国宝に指定されている。
加えて、厳しいキリシタン禁制の中で、約250年信仰を守り伝えてきた浦上キリシタンが、プチジャン神父に信仰を表白したいわゆる「信徒発見」の歴史的舞台でもある。それは、1865年3月17日の昼下がりであった。
1864年建設、煉瓦造、国宝・重要文化財・史跡、 長崎県長崎市

(2)出津教会堂と関連施設
 禁教時代の様相をとどめる小田平集落と、解禁後に建てられた出津教会堂、旧出津救助院の三つの要素から構成される。うち出津教会堂はド・ロ神父の設 計・指導により建てられた教会で、当初は現在の半分程度の規模だったが、1909年に2度目の増築で正面玄関部に、四角の鐘塔などが建ち、現状となった。 外海地区の強風を考慮した低平な外観と内部空間が特徴である。創建から増築まで一貫してド・ロ神父が関与した教会である。
 ド・ロ神父は、地域住民の生活向上はもちろん、子どもに伝える立場の母親や娘たちへの、小教育にも力を注いだ。平易な言葉で信仰教育に努め、司祭、修道者が他のどこよりも多く育つ為の基礎をつくりあげた。
 出津教会は建造から二回の増築に至るまでド・ロ神父が設計施工にあたった。国宝の大浦天主堂と同様、煉瓦の壁をモルタルで覆うという一見煉瓦造に見せない方法でつくられている。近隣のド・ロ神父記念館には、設計に関する書籍が残されている。
1882年建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県長崎市

(3)大野教会堂
 ド・ロ神父の設計・指導によって出津教会の巡回教会として建てられた、玄武石を外壁にした和瓦葺きの建物。赤土を水に溶かした濁液で砂と石灰を混ぜ、石材を積み上げるド・ロ壁を用い、信徒の奉仕で完成した。山中にひっそりと立ち、風土に密着した素朴な雰囲気と雅趣がある。
 山が海に急に落ち込み、平地もない場所にたたずむ外海の教会。大野教会は、出津から北上した角力灘を望む山間にある。
 自然石を用いた「ド・ロ壁」と呼ばれる、ド・ロ神父独特の工法により建てられた。入口側正面にある風よけの独立した壁が強風に耐え、素朴で風土に密着した建物である。
1893年建設、石造、国指定重要文化財、 長崎県長崎市

(4)日野江城跡
肥前西部で最大の勢力だったキリシタン大名・有馬氏の居城跡。
有馬氏はキリシタンを保護し、領民にもキリシタンになることを勧め、積極的に国際交流を推進した。
城下には教会やセミナリヨがあり、かつて日本のキリシタン文化最先端の街だった。
近年、金箔瓦や外来系の石垣遺構などが発見されている。
国指定史跡、 長崎県南島原市

(5)原城跡
徳川幕府の治下で最大の反乱といわれる「島原・天草一揆」。
その舞台となった原城では、老若男女を問わず、ほとんどの人々が殺され、島原半島南部の村には、全滅したところもあった。
城跡からは十字架やメダイなど、キリシタン遺物が多数発見されている。
国指定史跡、 長崎県南島原市

(6)黒島天主堂
九十九島で最大の黒島に潜伏したキリシタンの教会復帰は早い。
信徒発見の2ヵ月後には20人の総代が大浦のプチジャン神父を訪ねて信仰を告白、その後ポワリエ神父が総代の一人・出口大吉の家で最初のミサを行い、1873年までに「カトリックの島」となった。
現在の煉瓦造教会は、マルマン神父の努力と信者の献身的な協力で建てられた。
煉瓦・資材は名切の浜からの急な坂を背負って運ばれた。
内観はアーケード、トリフォリウム、高窓を備えた壮大な空間。
有田焼タイルや黒島の御影石など地域の材料が使われ、個性的である。
1902建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県佐世保市

(7)田平天主堂(鉄川与助の設計・施工)
田平教会は、ド・ロ神父やラゲ神父の尽力で出津や黒島から開拓移住した信徒たちが、中田藤吉神父の指導と鉄川与助の設計・施工で建立。重層屋根構成で、正面には八角ドーム屋根の鐘塔をもつ。
堂々とした煉瓦造教会は壁面に2色の煉瓦が使用され深みがあり、平戸瀬戸からの景色によく映える。
教会傍らには墓地があり、先祖たちが温かく見守る。
1918建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県平戸市

(8)その1、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
   その2、平戸の聖地と集落(中江ノ島)
平戸では、ザビエルが1550年に布教して以降、キリスト教が盛んだったが、16世紀末からの禁教政策のため、キリシタンは潜伏を強いられた。
厳しい弾圧の中、教会堂の代わりに、先祖の殉教地や平戸島の安満岳、また平戸島の北西岸にある中江ノ島などが聖地とされ、信仰を守り伝えるよすがとされた。
これらの聖地は今なお崇敬されており、禁教時代の独特の景観をとどめている。
国選定重要文化的景観、 長崎県平戸市
(2014年12月、「平戸島の聖地と集落」が1、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)と2、平戸の聖地と集落(中江ノ島)に分割されました。
この結果、構成資産数は13資産から14資産へ、変更となりました。)

(9)野崎島の野首・舟森集落跡(野首天主堂は鉄川与助の設計・施工)
五島列島の北に位置する野崎島には、野首と舟森という2つのキリシタン集落があった。
野首集落に建てられた旧野首教会は、設計・施工にあたった鉄川与助にとって最初の煉瓦造教会。
舟森集落にかつて存在した瀬戸脇教会と交互にミサが行われ、二つの集落を繋ぐ里道を信徒は歩いて通ったという。
高度経済成長の下、野崎島では過疎化が進み、1971年、住民全てが島を離れた。
無人となった島で教会は一時荒廃してしまうが、小値賀町により修復・整備され、現在は野生化した鹿とともに生きている。
国選定重要文化的景観、 長崎県北松浦郡小値賀町

(10)頭ヶ島天主堂(鉄川与助の設計・施工)
県内唯一の石造教会は鉄川与助設計施工、大崎神父の指導により建てられた。
島外から石工を招き、信者たちが身代をかけ11年以上を費やしながら、本島内の石を切出し、積上げて完成した信仰の結晶である。
内部に柱はなく、五島の椿を模した花柄とブルーの色彩を基調とした装飾が一種独特の華やかな雰囲気を漂わせている。
1919建設、 石造、国指定重要文化財、 長崎県南松浦郡新上五島町

(11)旧五輪教会堂
五島列島久賀島の東部、奈留瀬戸に面し、険しい山を背にする小さな漁港の狭い平地に建つ。
1881年に浜脇教会として建てられた聖堂が1931年現在地に移築された。
外観は素朴な和風建築でありながら、内部は三廊式、ゴシックの木造リブ・ヴォールト天井からなる。
明治初期の教会建築史を物語る貴重な遺構である。
屋根裏には、竹でおさえて少しでも天井高に、また豪華にしようとした人々の努力が見られる。
老朽化と急激な過疎化により、一時解体の話もあったが、信徒の熱意と力で隣接地に新聖堂を建て、旧聖堂を守っている。
1881建設、 木造、国指定重要文化財、 長崎県五島市

(12)江上天主堂(鉄川与助の設計・施工)
江上教会は奈留島の辺地、海岸沿いにあり、廃校となった小学校脇の林にひっそりと建つ。
外海から移住してきた潜伏キリシタンたちの多くは、漁業に従事していたが、僻地での厳しい生活を余儀なくされた。
1881年、洗礼を受けた江上の人々は当初聖堂をもたず、家でミサを捧げていた。
その後1917年には、現在の教会が鉄川与助によって建設された。
クリーム色と水色の木造教会は、リブ・ヴォールト天井やロマネスク風の窓があり、神の家としての美しさがある。
緑に包まれ青空を仰ぐように建つ教会を中心に、今も信徒が生活をしている。
1918建設、 木造、国指定重要文化財、 長崎県五島市

(13)天草の崎津集落
天草では、16世紀にアルメイダが布教して以降、キリスト教が盛んだったが、島原・天草の乱で多くのキリシタンが命を落としたため、崎津などの限られた集落にキリシタンが潜伏するのみとなった。
乱の後、天領であった天草も長崎奉行所の支配を受けることとなり、長崎で使用された踏み絵を用いて、庄屋役宅で絵踏みが行われた。
厳しい取締りの中、崎津集落の人々は、表向きは仏教徒でありながら、潜伏キリシタンとして信仰を守り伝えてきた。
※崎津の「崎」について、正しくは山偏に竒です。


遥かな五島列島への旅(4)熱狂的なカトリック信仰のある五島の島々

2015年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム
長崎県の隠れキリシタンは250年の禁教を耐え忍びました。そして幕末の1865年にフランス人の神父の前に突然現れて、はじめて信仰を告白します。しかしそれは時期が早過ぎたのです。幕府も、その後の明治政府も禁教令を明治6年まで墨守し、その間の8年間にキリシタンが多数捕縛され各地へ流され、拷問され、殺されたのです。それは浦上崩れとか五島崩れと呼ばれるキリシタンの流刑と処刑です。
そして明治6年になってやっと晴れて信仰が公に認められ自由になったのです。
ローマ法王のもとに帰り、カトリック教徒になった信者たちはかつての辛酸をきわめた歴史の反動で熱狂的な宗教活動を繰り広げたのです。それは禁教の250年の間に溜まったエネルギーが一挙に爆発したようなものです。それは長崎県全域で起きました。しかし何と言っても隠れキリシタンが仏教徒を装って多数住んでいた五島列島で激しく燃え上がりました。
とにかく下の五島列島にある50ケ所のカトリック教会の分布図をご覧ください。

(地図の出典は、http://islands.chicappa.jp/goto-web/03sightseeingchurch.htmです。)
現在、五島列島の北半分の島々は新上五島町となり下五島は五島市という2つの自治体になっています。そして地図で示した教会は各地の集落のカトリック信仰のよりどころとして全て活動を続けているのです。この50の教会はすべて長崎大司教区に属し、その上のフランシスコ法王に直結しています。50もの教会にすべて常住の主任司祭はおけないので幾つかずつに分けて巡回教会のグループをつくり、時間をずらしてミサを行っています。この50の教会の一覧表は末尾に示してあります。

上の写真は今回訪れた堂崎天主堂で、内部は隠れキリシタン関連の展示場になっています。踏絵の延べ幾万人の足裏ですり減った青銅のキリスト像と、木目のクッキリ現れた台を見て家内は涙ぐんでいました。ここの祭壇や柳天井、そしてステンドグラスは創建当時のままです。長崎県の古いカトリック教会は初期に多くのフランス人神父の指導で作られたのでフランスの田舎の教会のような雰囲気を持っています。私どもが洗礼を受けた東京のカトリック立川教会も同じ様な構造になっていたので懐かしい思いをしました。そして家内ともども洗礼を受けた時の喜びがよみがえってきたのです。

上は日本最古のルルドの泉の上に立っているマリア様の像です。福江島の井持浦教会の左わきにありました。
http://gigazine.net/news/20111017_lourdes_japan/の資料によると以下のようです。
「1858年にフランスのルルドで聖母がベルナデッタという少女の前に姿を現し、そこの場所がルルドの泉と言います。バチカン市国も認定したので、現在でも当地を訪れる巡礼者は後を絶ちません。
1891年に当時のローマ法王レオ13世が自らバチカンにルルドの泉の模型を造らせたことから、世界中で「ルルドの泉」が造られるようになったのです。五島列島では、その8年後の1899年(明治32年)に、日本で初めて福江島の井持浦教会にルルドの泉が造られました。」

上は磔にされた聖ヨハネ五島の等身大の彫刻です。堂崎天主堂の入り口の向側にありました。聖ヨハネ五島は日本二十六聖人の一人です。
以下は、(http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/nihontabi/nagasaki4.html)から抜粋しました。
ヨハネ五島はこの五島の出身ですが、どこで生まれたのかははっきりわかっていません。両親ともキリシタンの家庭で育ち、長崎と天草のセミナリヨで学びました。
その後大坂に出てモレホン神父の同宿(どうしゅく)になり、一緒に暮らして手伝いをしていたのですが、神父を逮捕しようとして役人がやってきた時に、素早く神父を隠れさせ、代わりに自分が捕まりました。
モレホン神父は二十六聖人の殉教の様子を詳しい報告書を作成して記録しました。
神父はその後追放令にあってマカオに行きますが、そこで遺骨となってマカオの修道院に送られてきたヨハネ五島と再会します。

上は堂崎天主堂に展示してあった五島列島出身の司祭さんたちの写真です。展示ではこの3倍位の人数の司祭さんたちの写真が並んでいました。一生独身をとうし神に仕え信者の世話をした神父さん達です。それは現在でもカトリック集落の信仰の支えになっています。

上は観光バスの車窓から撮ったキリシタン墓地です。五島列島で多数見られるのは仏教風の墓地です。江戸時代から目立つところに作られ仏教徒をよそう必要があったのです。幕府の役人が検分しやすいように道端や丘の上に仏教風の墓場がありました。江戸時代のキリシタンはお葬式を仏式とキリシタン式の2回したそうです。

上は初めてゆっくり写真が撮れた頭ケ島教会の下にあったキリシタン墓地です。
今回の連載の表題は「熱狂的なカトリック信仰のある五島の島々」ですが、その熱狂は現在でも続いています。その一つの例は長崎の教会群を世界遺産として認定してもらう運動です。すでに仮登録は受理されて今年は国連から評価員が来て審査が進んでいます。
その為に4人の少年少女がフランススコ法王を訪問して応援を頼みにいったのです。フランシスコさんは心良く応援を引き受けますと言ってくれたそうです。そのようなことが五島では一大ニュースになるのです。これも熱狂的なカトリック信仰の一例です。下は長崎空港にあった写真です。

自分がカトリックなのでついくだくだ書いてしまいました。これで止めます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
五島列島のカトリック教会群の地図:
http://islands.chicappa.jp/goto-web/03sightseeingchurch.htm
名 称   所在地   電 話   備 考
福 江 島
福江教会  五島市末広町3-6 0959-72-3957
浦頭教会  五島市平蔵町2716 0959-73-0072
堂崎教会 五島市奥浦町堂崎2019 巡回(浦頭教会)
宮原教会 五島市戸岐町733-2 巡回(浦頭教会)
半泊教会 五島市戸岐町半泊 巡回(浦頭教会)富 江
繁敷教会 五島市富江町繁敷道蓮寺    巡回(水ノ浦教会)岐 宿
水ノ浦教会 五島市岐宿町水ノ浦1644 0959-82-0103
楠原教会 五島市岐宿町楠原 巡回(水ノ浦教会)
打折教会 五島市岐宿町打折 巡回(水ノ浦教会) 
三井楽教 五島市三井楽町嶽1420 0959-84-2099  
貝津教会 五島市三井楽町貝津458 0959-84-2585  
玉之浦 井持浦教会 五島市玉之浦町玉之浦1243 0959-87-2023  
玉之浦教会 五島市玉之浦町玉之浦622-1巡回(井持浦教会) 
久 賀 島
浜脇教会 五島市田ノ浦町263 巡回(福江教会)
牢屋の窄教会 五島市久賀町大開 巡回(福江教会)
五輪教会 五島市蕨町五輪 巡回(福江教会)
嵯 峨 島
嵯峨島 嵯峨島教会 五島市三井楽町嵯峨島  巡回(貝津教会) 
奈 留 島
奈留教会  五島市奈留町浦395 0959-64-3285
江上教会 五島市奈留町大串1131 巡回(奈留教会)
南越教会 五島市奈留町船廻1587 巡回(奈留教会) 
若 松 島
土井ノ浦教会  新上五島町若松郷 0959-46-2126  
大平教会 新上五島町若松郷 0959-46-2330 巡回(土井ノ浦教会)
有福教会 新上五島町若松郷 0959-46-3307 巡回(土井ノ浦教会)
中 通 島
桐教会 新上五島町桐古里郷357-4 0959-44-0006  
若松大浦教会 新上五島町宿ノ浦郷大浦 巡回(桐教会)
中ノ浦教会 新上五島町宿ノ浦郷中ノ浦 0959-45-3936 巡回(桐教会)
高井旅教会 新上五島町奈良尾郷高井旅 巡回(浜串教会)
福見教会 新上五島町福見 0959-45-3841 巡回(浜串教会)
浜串教会 新上五島町浜串724 0959-77-2061  
上五島 真手の浦教会 新上五島町今里郷495-2 0959-52-3721  
焼崎教会 新上五島町飯ノ瀬戸郷焼崎 0959-52-9252 巡回(真手の浦教会) 
猪ノ浦教会 新上五島町続浜ノ浦郷猪ノ浦 巡回(真手の浦教会)
跡次教会 新上五島町跡次 巡回(青方教会)
大曽教会 新上五島町青方郷2151-2 巡回(青方教会)
青方教会 新上五島町青方郷505-5 0959-52-8490  
丸尾教会 新上五島町丸尾郷940 0959-54-1700  
冷水教会 新上五島町網上郷623-2   巡回(青砂ヶ浦教会)
青砂ヶ浦教会 新上五島町奈摩郷1241 0959-52-8011  
船隠教会 新上五島町神ノ浦郷船隠48-11 巡回(鯛ノ浦教会)
佐ノ原教会 新上五島町東神ノ浦郷佐ノ原 巡回(鯛ノ浦教会) 
鯛ノ浦教会 新上五島町鯛ノ浦郷326 0959-42-0221  
頭ヶ島教会 新上五島町友住郷頭ヶ島638 巡回(鯛ノ浦教会)
曽根教会 新上五島町小串郷1028 0959-55-2128
大水教会 新上五島町曽根郷大水 巡回(曽根教会) 
小瀬良教会 新上五島町立串郷小瀬良 巡回(曽根教会)
江袋教会 新上五島町曽根郷字浜口195-2 巡回(仲知教会) 
赤波江教会 新上五島町立串郷谷ノ坂子1899 巡回(仲知教会) 
仲知教会
新上五島町津和崎郷1018 0959-55-8037
米山教会 新上五島町津和崎郷589-14 巡回(仲知教会)
小値賀島
小値賀教会 小値賀町笛吹郷字段地2679-1 巡回(仲知教会)
野 崎 島
野首教会 小値賀町野崎郷