後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

地域限定の春の美味しいものー下仁田ねぎの苗

2015年04月04日 | うんちく・小ネタ
終戦の前後に家内は群馬県の山里の下仁田町に疎開していました。その縁で私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。現在は下仁田市になっていますが昔の日本そのままのような町のたたずまいです。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
その横山さんがときどき山里に暮らす四季折々の随筆や写真を送って下さいます。
====横山美知彦著、「下仁田ねぎ」の苗========
   春の彼岸の頃になると「下仁田ねぎ」の苗が15cmほどに成長する。本来の収穫は、初冬の霜の降りる11月の下旬になるのだが、春の若い苗も捨てがたい美味さがある。
 農家では一年がかりで苗を育てて春の終わりにその苗を、一旦掘り起し肥料を充分に与えた別の畑地に人の手により植え替えるのだ。だが苗を作らない農家の為に種を多めに蒔き譲り分けるのだが、その一部がスーパーや近所の一般の家庭に「ねぎみそ」や「油炒め」にと販売される。これが柔らかくて実にうまいのだ。これは僅かな期間の地元の楽しみで、遠方への出荷はしていない。
 特に「油炒め」は全体が柔らかく、春の気配を満喫出来る米飯の友になり、酒飲みには堪えられない肴なのだ。
「つくし」「たらの芽」「蕗の薹」「わらび」「山みつば」「ぜんまい」「こごみ」等は春の味覚でどれも捨てがたいが、この「ねぎ苗」はそれらとそん色ない春の味と毎年楽しみにしているひとつである。
(終わり)
櫻の咲く下仁田ねぎの畑の2枚の写真は横山さんから送って頂いた写真です。



韓国の多くのお寺の看板に豊臣秀吉の暴挙が書いてある!

2015年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム
1910年から1945年までの35年間、朝鮮半島全域は日本の領土でした。この日本の領土であったことは冷厳な歴史的事実です。
そして豊臣豊臣秀吉の2度にわたる朝鮮出兵もまぎれもない歴史的な事実です。もう400年以上のことだからと日本人は笑ってすませていますが、現在の韓国人はその歴史的事実をもって日本人が好きになれないのです。
その理由は、韓国のほとんど全てのお寺の看板に豊臣秀吉の暴挙が書いてあるからです。このことを日本人が知らないのです。以下は私が体験した事実です。
@秀吉がほとんだ全ての寺を焼き尽くした!
1985年に韓国金属学会の大会へ招待され、浦項製鉄所も見学しました。その前後に観光旅行もしました。同行してくれたのは製鉄所の技師のHさんでした。
3枚の写真にある佛国寺をはじめ、慶州周辺の古寺を数ヶ所回ったのです。
山全体に僧堂が散在し、中心に大きな瓦屋根の大雄伝という扁額がある本堂が建っているのが韓国のお寺の風景です。そのような山が数峰連なり、慶州の町を取り囲んでいます。大雄殿の瓦屋根の稜線の中心が少し低くなった曲線を描いているのが韓国のお寺の特徴です。この瓦屋根の稜線の曲線なんとも言えない宗教的な雰囲気をかもし出しています。
しかし、私の訪ねた全ての寺の山門の脇に、立派な真鍮製の看板があり、韓国文字でなにやら書いてあるのです。良く見ると、秀吉という漢字が何回も出ています。
同行したH技師へ聞くと日本びいきの彼は「秀吉さんの朝鮮成敗の折に、この寺は完全に焼失されたと書いてあるのです」と言うのです。「でも今日見た全部の寺に看板がありましたよ?」、「そうです。秀吉さんは朝鮮全土の寺を全て焼いたのです」
そんなことを私は知らなかったのです。戦争中に国民学校で秀吉は朝鮮に征き、加藤清正が虎退治をしたと習っただけでした。全ての寺を焼き尽くしたとは聞いたことが無かったのです。日本人の多くは、韓国で秀吉が、このように書かれているとは知らないと思います。韓国人だけが知っているのです。家内は英語ガイドのツアーに参加したのですが、この説明に申し訳なくていたたまれない思いをしたそうです。
昔の戦争ではお寺は兵士達の宿泊所だったのです。秀吉の時代でも敵地のお寺は焼くのが当然な時代でした。それにしてもお釈迦さまを祀る寺を焼くという暴挙は無信心の極みですね。戦争は人間を悪魔にするのです。
秀吉が朝鮮全土の寺を焼いたという看板がある事実に日本人は注目すべきと思います。下に韓国の世界遺産の仏国寺の写真を3枚示します。
世界遺産、韓国の仏国寺の3枚の写真の出典:http://www.i-treasury.net/korea03.html(終わり)





日韓関係、日中関係の奥深さ(4)日本の陶磁器作りは朝鮮が教えた

2015年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム
日本と朝鮮の関係はいろいろな時代に深い関係が重層的に続いていたのです。現在、日韓両国のマスコミが騒いでいる諸問題はそのほんの一例に過ぎないのです。マスコミの騒ぎを離れて歴史的に日韓関係を考えてみましょう。
すると秀吉の朝鮮出兵によって連行されて来た朝鮮の陶工たちが日本文化へ与えた影響程大きなものが無いと思います。芸術に高品質な焼き物は外国へ輸出され、江戸幕府の経済を支えたのです。それは焼き物の歴史における爆発的な技術革新でした。
この先進的な朝鮮の磁器生産技術の導入に関しては、数多くの本が出版され、研究論文も多いのです。
(1)は1616年に、陶祖 李参平が有田にて日本初の磁器の焼成に成功したということです。そして長崎出島のオランダ連合東インド会社などにより、東南アジアやヨーロッパ各地へ輸出され、有田焼の本格的輸出の時代が来たのです。日本の工芸品として、初めての世界市場へ本格的な輸出時代が構築されたのです。
(2)は日本で尊重されている李朝の陶磁器の簡略なご紹介です。有田焼と並んで朝鮮で作られた磁器との関係を考える上で参考になると思います。
(3)専修大学 樋口淳氏による「高麗・朝鮮陶磁と日本人」と題する研究論文のご紹介です。・・・韓半島を侵略した西南諸藩の大名たちは、折からの茶陶の隆盛に注目し、多くの陶工を意図的に連れ帰った。その結果、萩、上野、高取、薩摩などの今日でも日本を代表する名窯が生まれた。なかでも鍋島直茂に従った李参平(金ヶ江参兵衛)は、磁土を発見し日本に初めて白磁の技術をもたらしたとされる。・・・という記述にご注目下さい。
(4)は日本へ連行された朝鮮人達の構成と彼等の悲しみが描かれています。
さて以上の4件の資料をご覧頂くと朝鮮の陶工たちが日本と文化と経済へ与えた影響が非常に甚大だったことがご理解出来たと思います。それは焼き物の歴史における爆発的な技術革新でした。
ですから日本人にとって朝鮮の陶工たちは非常に有難い存在だったのです。
しかしその一方で連行されて来た朝鮮の人々にとっては大きな悲劇でした。その事情は参考資料の(4)「故郷忘じがたく候―九州の朝鮮陶工たち」―につぶさ描かれています。
日本と朝鮮の関係は良い意味でも深く、悲劇的な意味でも深いのです。悲しい思いをした朝鮮の陶工立ちへ強い同情の心を寄せるべきではないでしょうか?陶工達でなく連行されて来た数多くの人々へ心を寄り添えるようにしたいと思います。
以下の写真に伊万里焼の写真と有田焼に関する地図を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===============
(1)「日本磁器誕生・有田焼創業400年」より抜粋しました。
朝鮮の陶工たちが陶磁器作りの技法を教えた。
•1610年代
朝鮮から連れて来られた陶工たちによって、有田で日本初の磁器が誕生。(1616年に、陶祖 李参平が有田にて日本初の磁器の焼成に成功したとの伝)
•1640年代
中国では明朝から清朝へと王朝が変わり、国内が混乱。有田では初代柿右衛門による色絵技法が確立し、発展飛躍の礎となる。
•1659年~1757年
長崎出島のオランダ連合東インド会社などにより、東南アジアやヨーロッパ各地へ輸出が始まる。有田焼の本格的輸出の時代。日本の工芸品として、初めての世界市場本格的輸出時代を構築。
有田磁器が伊万里焼と呼ばれるわけ?
有田の磁器は、江戸時代には、一般的に伊万里焼と呼ばれていました。現在では、通常伊万里市で生産されるやきものを伊万里焼と称していますが、当時は、佐賀県や長崎県で生産された磁器は、すべて伊万里焼だったのです。つまり、伊万里焼とは、肥前磁器の総称ということができます。これは陶器も同様です。どこで作られようが、肥前の陶器はすべて唐津焼だったのです。
では、なぜ有田の磁器が伊万里焼になったのでしょうか?これについては“伊万里の港から船で全国へと積み出されたから”とする説明が一般的です。同様に、陶器は“唐津の港から船で積み出されたため”とされています。
(2)李朝白磁とは?:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%9C%9D%E7%99%BD%E7%A3%81 をご覧下さい。
李朝の陶磁器は、初期には粉青沙器が主流だったが、17世紀以後は白磁に変わった。中国の元、明の白磁の影響を受けたものだが、17世紀には色が青味がかり、李朝末期には濁った白色に変わった。李朝では、磁器の製造は官窯でである工匠が行っていた。以下省略。
(3)専修大学 樋口淳「高麗・朝鮮陶磁と日本人」:http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~thb0309/EastAsia/KoraiJapan01.pdf より抜粋。
16世紀も末さしかかって問題とされるのは、壬辰倭乱、日本で言う文禄・慶長の役と、
それに伴う朝鮮陶工の渡来である。韓半島を侵略した西南諸藩の大名たちは、折からの茶陶の隆盛に注目し、多くの陶工を意図的に連れ帰った。その結果、萩、上野、高取、薩摩などの今日でも日本を代表する名窯が生まれた。なかでも鍋島直茂に従った李参平(金ヶ江参兵衛)は、磁土を発見し日本に初めて白磁の技術をもたらしたとされる。
その一方で、安土・桃山時代にはじまった高麗茶碗の隆盛は、江戸時代に入っても衰えをみせなかった。対馬藩を窓口として釜山の倭館に注文がたえず、韓国や日本の陶工が韓国の土や釉薬を用いて多くの注文茶碗を焼いた。以下省略。
(4)日本へ連行された朝鮮人達の構成
「故郷忘じがたく候―九州の朝鮮陶工たち」―http://www.yoyokaku.com/sub7-66.htmより。
日本軍が朝鮮の人々を捕えてくる目的はいろいろあったそうだが、その第一は、大多数の日本の農民が軍夫として朝鮮に渡り、残された田畑が荒れるのを恐れ、その耕作の労働力にあてるためといわれている。
窯場で働く女性たちも描かれている
 第二は国内ばかりでなく、国外へ売る商品(奴隷)としてである。
 第三は、朝鮮の進んだ文化技術をもつ人を捕え、各大名は自領でその技術者を使役し財貨を貯えようとした。 
 文禄二年、鍋島加賀守など、朝鮮侵略軍の先兵をつとめる大名へ朝鮮の捕われ人のなかから「細工仕者、縫官、手のきき候女」がいたときは、献上するよう秀吉みずから朱印状を出し、命じている。このため多くの朝鮮陶工たちが、日本へ強制的に連行される原因にもなったといわれている。           
 このときの異国の陶工たちの手によって、日本の「やきもの」は画期的な飛躍をみせた。とくに我が国で初めて磁器を焼いた陶工は、鍋島勝茂(佐賀)の家老多久長門守によって捕えられ連れられてきた李三平であることは、あまりにも有名な話である。秀吉の朝鮮出兵は、なにも日本にもたらすことはなかったが、日本の陶磁器の歴史にだけは大きな貢献をしたということで、「やきもの戦争」という異名をつけて呼ばれるほどである。
 この朝鮮の陶工たちを連れて来た大名は、どういうわけか九州の大名に多い。以下省略。