後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

老齢になったら豊かな心の財産を増やしていく(2)この麗しい日本に生きたことへの感謝

2015年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
感謝をすると心の財産が増えるとは変な話に聞こえます。しかし感謝するためにはどのような理由で何に感謝するかを自然に考えます。すると感謝する対象が心に浮かびます。その映像や歴史的な遺産が心の財産になるのです。
具体的に私が何故日本に生きたことに感謝しているか順々に書いてみます。
(1)四季の変化に従って花々が次々に咲くこの土地が好きです。美しい風景が彼方此方に沢山あります。春になると暖かい風が吹き、秋になれば涼しい風が吹きます。気候も温暖です。このような国に生きることが出来たのです。感謝しています。
(2)人々が穏やかで親切です。高齢になると電車やバスに乗ると気持ち良く席を譲ってくれます。道を聞くと途中まで連れて行ってくれます。スーパーでもレストランでも働いている人々が実に親切です。感謝しています。
(3)この国では何処に行ってもトイレが清潔で完璧に掃除してあります。最近、五島列島という離れ島を旅しましたが誰もいない不便な集落に立派なトイレがあるのです。訪れる旅の人の為です。島の人々の心が豊かなのです。その光景を思い出して感謝しています。
(4)この国は穏やかな仏教国です。宗教を信じない人もお寺や仏像を大切にしています。京都や奈良や鎌倉には外国人に自慢したくなるような美しい寺院や神社があります。例えば私の好きなお寺は607年創建の法隆寺と752年創建の東大寺です。そして唐から波濤を越えてやって来た鑑真の建てた唐招提寺です。759年に創建されました。これらの寺には何度も行きました。荘重な本堂、五重の塔の美しさや廻廊や長く延びる土壁の光景が心に焼き付いています。
このような美しい寺院の沢山ある国に育ったことに感謝しています。
(5)この国の素晴らしさは自然や神社仏閣の美しさだけではありません。工業製品の高い信頼性には感動しています。テレビ、冷蔵庫、洗濯機などが故障しないで何年も使えるのです。それを苦心して作った技術者の良心を思うとこちらまで心豊かになります。
特に最近買ったニッサン・ノートという車には感動しています。走行性能の良さもさることながら、車の前後左右にカメラとソナーが多数ついていて360度周囲の映像がテレビ画面に出るのです。これには感心です。車の出し入れや車同士のすれ違いが実に安全になったのです。この様な工業製品を作り出す国に生きていることに感謝します。
このように書いているとすぐに10以上のことが書きだせます。
皆様はこの国のどのようなことに感謝していらっしゃいますか?
それを列挙していると何故か心が豊かになります。その状態を「心の財産が増えた」と考えるのです。
下に法隆寺の写真3枚と東大寺と唐招提寺の写真を順に示します。法隆寺の写真の出典は:http://kenbox.jp/photo/horyuji.htmです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









=====参考資料==================
法隆寺:607年創建http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA
法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。
法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。
東大寺:752年創建
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
唐招提寺:759年創建http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%8B%9B%E6%8F%90%E5%AF%BA
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。
鑑真の渡日と戒律の伝来
鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それを基にした淡海三船の『唐大和上東征伝』、寺に伝わる絵巻物『東征絵伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。