後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

祝琴奨菊優勝!そして相撲界の自由な国際主義を誇りに思う!

2016年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
琴奨菊が優勝しました。10年ぶりの日本人の優勝です。持ち前のがぶり寄りで一気に3横綱を倒し14勝1敗の文句なしの成績です。気が優しくて怪我ばかりしていた琴奨菊が生き返ったように強くなった今場所です。来場所も優勝したら横綱にもなれそうです。
今場所は白鵬は3敗、日馬富士3敗、鶴竜5敗でした。上位に強い稀勢の里に負けたのが印象的でした。
日馬富士の素早さが戻ってきて気持ちの良い動きを見せてくれました。
最年長の安美錦がインフルエンザにもめげず千秋楽まで闘いました。
大型の力士、逸の城が最近ふるいません。今場所は2勝13敗でした。私の好きな松鳳山も5勝10敗です。残念です。
前頭12枚目の正代が10勝5敗でと健闘し、同じく13枚目のベテランの豪風が10勝5敗と良い戦果でした。
遠藤や大砂嵐が休場してしまい面白さが減りました。
そして今場所は10年ぶり、60場所ぶりに日本人力士が優勝した場所になったのです。
わたしは相撲にはあまり関心が無かったのですが、照国・安芸乃海を見たという相撲大好きな家内と毎日観ているうちにだんだんと興味を持つようになりました。
そして何故外国人力士がこのように活躍するのか考えてみました。
それには2つの理由があると思います。
その一つは、日本人の親方達が外人力士を相撲の伝統に従いながら公平に育て彼らの強さを引き出したからです。
二番目の理由は数多くの力士をモンゴル、ブラジル、中国、韓国、ロシア、ブルガリア、エストニアなどから受け入れて来たからです。
この2つの理由についてもう少し深く考えてみます。
まず相撲界の民主的な、そして国際的な文化について考えてみたいと思います。
いかにも封建的で排他的な文化を持っていそうな相撲界が、意外にも開放的で自由に外国人力士を受け入れたのです。
その上、外国人力士を日本人力士と差別せず公平に育て上げたのです。個人の才能を尊重し上手に指導し、稽古を続けさせたのです。このような指導をした親方達が偉かったのです。
しかも強くするだけでなく相撲文化の伝統を寸分も曲げずに外人力士に伝承したのです。
モンゴル人は勿論、ロシアやブルガリヤやエストニア出身の力士達の挙動と日本語が、日本人以上に日本の伝統になっているのです。これは奇跡のようです。私は外国への日本文化の伝承に興味がありますので、まずこの点で感動しています。
この相撲界の自由で国際的な文化を誇りに思っています。それは外国にたいして自慢すべき文化ではないでしょうか?
もう一つは外国人力士の数の多さです。以下は外国出身の力士の一覧表です。
幕内の外国出身力士(2015年初場所)
http://www.nippon.com/ja/genre/society/l00090/
白鵬(29) 横綱 モンゴル 宮城野部屋
鶴竜(29) 横綱 モンゴル 井筒部屋
日馬富士(30) 横綱 モンゴル 伊勢ヶ浜部屋
碧山(28) 関脇 ブルガリア 春日野部屋
逸ノ城(21) 関脇 モンゴル 湊部屋
栃ノ心(27) 前頭1 グルジア 春日野部屋
照ノ富士(23) 前頭2 モンゴル 伊勢ヶ浜部屋
魁聖(28) 前頭5 ブラジル 友綱部屋
旭天鵬(40) 前頭7 モンゴル 友綱部屋
玉鷲(30) 前頭9 モンゴル 片男波部屋
蒼国来(31) 前頭10 中国 荒汐部屋
旭秀鵬(26) 前頭12 モンゴル 友綱部屋
荒鷲(28) 前頭12 モンゴル 峰崎部屋
大砂嵐(22) 前頭13 エジプト 大嶽部屋
時天空(35) 前頭13 モンゴル 時津風部屋
鏡桜(26) 前頭15 モンゴル 鏡山部屋
上の表を見ると現在の相撲界は外国人力士を抜きにしては考えられないことがよく分かります。
これをもう少し長い期間で考えて過去の歴代の力士の出身国を示すと以下のようになります。
歴代外国人相撲力士の出身の多い国・地域
http://matome.naver.jp/odai/2142128884307260201(更新日: 2015年11月17日 )
1 モンゴル55
2 アメリカ合衆国(米国)31
3 ブラジル16
4 大韓民国(韓国),中華人民共和国(中国)12
6 トンガ8
7 ロシア6
8 グルジア,フィリピン4
10アルゼンチン,英国,エストニア,サモア,ブルガリア2
上の一覧表を見るといろいろな感慨が浮かんできます。
これほど濃密な文化交流は他の分野ではあまり無いのではないでしょうか?
相撲の世界を単に勝敗を楽しむだけでなく国際的な文化交流という視点で見るとこれほど興味深いものがありません。
その証拠の一つが外人力士の達者な正しい日本語です。それは感動的なほどです。
それにしてももう少し日本人力士に頑張って貰いたとと強く願っております。10年ぶりの優勝ではなく、連続優勝は無理でも2場所ごとに優勝をしてくれたらもっと、もっと相撲が面白くなる筈です。
今日の挿絵代わりの写真はモンゴル力士に敬意を表してその国の風景と建物の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







上の写真はウランバートルにあるガンダン・テグチンレン寺院です。
写真と文章の出典は、http://www.tabitamago.jp/mongolia/ulanbator.html です。
チベット仏教のお寺です。モンゴルの人々からの信仰がとても篤く、ウランバートルにあるラマ教の総本山ともいうべき場所です。ガンダン寺の一番奥に、観音堂があり、中に入ると高さ25mもある大きな観音菩薩(モンゴル名メグジド・ジャナライサク)が立っています。

上の写真はボグドハーン宮殿博物館。(http://homepage2.nifty.com/ten-yasu/world/mn/uln2.html)
革命前の活仏の宮殿で、瑠璃瓦が鮮やかな中国風の見事な建築物である。 内部にはチベット仏教の曼荼羅や仏像がたくさん展示されている。あまり古い建物のないウランバートルにあっては貴重な文化財と言えよう。

キリスト教の排他性と、蟻の町のマリア北原 怜子さんを福者へ

2016年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
よくキリスト教は排他的で歴史的にみると数々の戦争の原因になってきたという非難があります。カトリック教徒の私はその批判を聞くたびに心を痛めています。そしてキリスト教が悪いのではなく人間がそれを悪用したに過ぎないと強弁してきました。それは仏教徒から見れば我田引水的な理屈にしか過ぎないと思われるでしょう。
そして昨日、キリスト教が排他的な性格を持っている客観的事実を見せつけられる経験をしました。
昨日、ローマ法王フランシスコの承認により福者に列福された高山右近が排他的にも神社仏閣を破壊しつくしたというコメントを趣味人倶楽部の会員の「のりまきさん」という方から頂いたのです。以下はそのコメントの冒頭部分です。
のりまきさん: 2016/01/22 のコメント(http://smcb.jp/column/detail/6825454/)
僕は摂津国の中心部・伊丹(大阪平野北部)に住んでいます。
東に山城(京都)、北に丹波(兵庫県中部)と接する摂津北部・東部(高山右近の本拠地・高槻含む)があります。その地域をバイクで走り回ると、キリシタンの痕跡が多く残っているのを見ます。右近の父親が生まれた山城や、母・マリアの墓を山中に訪問したこともあります。
江戸時代にこの地の一部を治めた能勢氏の家紋は、「切竹矢筈十字」というもので、まるで十字架です。
江戸時代禁教だったキリシタン信仰が濃い地を、幕府に目をつけられないように、住民を無理やり日蓮宗に改宗させました。しかし石仏に描かれたお地蔵様が持つ杖・錫杖の上の部分が十字架のように十字になっていたりします。
庶民のキリシタン信仰を弾圧するのではなく、仏像や仏具、そして自らの家紋にキリシタン信仰の象徴を入れ、幕府と対立せずに、とてもうまい治世をしたなと感じます。
高山右近の治世は、かなりキリシタン偏重になっており、勢力地内に存在していた神社や仏閣を破壊しています。
そのため、文化先進地であったはずの山城近在地でありながら、右近以前の寺社の建物は、隣接地域と比べ残存率がとても低いのです。
そういうのを実際に見ていると、仏教が日本渡来した時は寺院境内に神社を立てて守護の神にした包容性とは大違いで、一神教としてのキリスト教の他と相容れない姿が見えます。
ただ同じキリシタンを信仰していた黒田如水は、自身の出が神社神人であったこともあり、寺社を破壊しなかったし、キリシタン大名・小西行長なども穏健な治世をしました。以下省略。
高山右近は自分の信仰の邪魔になると感じて神社仏閣のような貴重な文化財を平気で破壊したのです。
実に残念ながらキリスト教が排他的な性格を持っていると言われても仕方の無い行為です。
それに比べると以下の「蟻の町のマリア」こそ福者にふさわしい人ではないかとひそかに思っています。
北原 怜子(1929年- 1958年)は、キリスト教の教義に基づき献身的な活動を展開した人でした。29歳で夭折し、「蟻の町のマリア」とよばれた人でした。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E6%80%9C%E5%AD%90 より抜粋しました。
墨田公園の中にある「蟻の町」と呼ばれるバタヤ集落の中でゼノ修道士がたびたび援助したことが当時の新聞に書かれていました。そしてその記事には蟻の町の子どもたちに取り囲まれた笑顔のゼノ修道士の姿が掲載されていたのです。
この報道でゼノ修道士の活動を知り、北原怜子は「何かせねば」との思いを巡らしていたそうです。
ある時、ゼノ修道士は北原怜子に会います。そして貧困者に関する新聞報道、写真、手紙等の資料を見せ、貧困者たちの惨状を熱く語ったのです。 そして暇があったらこのような貧困者たちを慰問して欲しいと言い残します。
当初は、通いながら奉仕活動をしてましたが、やがて彼女は、自らが汗を流して貧者と共に労働をし生活し助け合うことが重要であると考えるようになります。彼女の行動によって「蟻の町」、特に子どもたちの教育環境は段々と整えられていったのです。
彼女の行動は世界に発信され賞賛の声が多く届くが「財宝ばかりでなく、名誉や地位もまた悪魔的な誘惑だ」として、その名声に甘んじることはなかったそうです。
諸々の奉仕活動での体力的無理が祟り健康を害し、療養のため「蟻の町」を離れます。しかしやがて死期を悟ると「蟻の町」に再び移住し、1958年腎臓病で夭折したのです。29歳没。墓所は多磨霊園にあります。
コンベンツァル修道会日本管区では、北原怜子をローマ法王の福者とするため、列福運動を進めています。現在は福者の申請段階である「神のはしため」とされています。
2015年1月23日に、北原怜子を生前の徳や殉教により聖性が認められた「福者」とするための「英雄的徳行」を認定したとローマ法王庁(バチカン)列聖省が発表しました。これにより、2015年1月23日より尊者とされたのです。
私は北原怜子さんが福者としてフランススコ法王が認定するようにお祈りしています。
今日の挿絵代わりの写真は春がもう来たような花屋さんの店先の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)