ある国の歴史を調べようとすれば10冊以上の専門書を読むべきと思います。しかし最近はもっぱらwikipediaの記事を頼りにしています。特に各国の歴史については専門家が書くらしく体系的に書いてあり記述も学問的で正確なものが多いのです。
例えば「台湾の歴史」はwikipediaの記事は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 にあります。
そしてその内容は次のように示されています。
1 概略
1.1 先史時代 (1624年以前)
1.2 オランダ植民統治時代(1624年 - 1662年)
1.3 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)
1.4 清朝統治時代(1683年 - 1895年)
1.5 日本統治時代(1895年 - 1945年)
1.6 第二次世界大戦後(1945年 - 現在) 1.6.1 南京国民政府(1945年 - 1949年)
1.6.2 台湾国民政府(1949年 - 1996年)
1.6.3 民主化後(1996年 - 現在)
この歴史の概略をみると台湾がいろいろな外部勢力による支配のされてきたことが分かります。
例えば一例として、1.2 オランダ植民統治時代(1624年 - 1662年)を見てみましょう。
まず1番目の図面をご覧下さい。
これは17世紀の台湾の地図です。図中ではオランダ統治下 (赤紫)、スペイン統治下 (緑)、大肚王国 (オレンジ)などが色分けして描いてあります。
台湾が注目されるようになったのは16世紀の明朝時代になってからです。
倭寇の活動が活発化するにつれて、台湾は倭寇の根拠地の一つとして使用されるようになり、やがて漢民族、日本人が恒久的に居住し始めるまでに至ったのです。
また、この時代になると、大航海時代のヨーロッパ各国から多くの人々が来航するようになり、オランダやスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としたのです。日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も台湾を経由したと言われています。
ヨーロッパ船として初めて台湾に到達した船はポルトガルの船であり、ポルトガル人船員が緑に覆われた台湾島に感動して「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだという伝承から、台湾の別称である「Formosa(フォルモサ、中国語では美麗島)」が誕生したとされています。
台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員、現在の台南市を領有します。
台南市を中心とした地域を制圧して要塞を築いたのです。
一方、スペインは同時期の1626年に台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築きます。
しかしオランダの東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から武力で追放したのです。
オランダによる統治期間中、東インド会社は福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることでプランテーションの経営に乗り出したのです。
余談ながら台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したと言われています。
それはさておき、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞であるゼーランディア城も陥落したために、進出開始から37年で台湾から全て駆逐されたのです。
そして鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)が始まるのです。
翻ってその頃の日本の歴史を見ると次第に鎖国体制を作り、キリシタン禁教を強化していた時代です、秀吉や徳川家康が上に書いた台湾の植民地化の状況を恐れ完全鎖国をしたことは正しい選択だったのかも知れません。
その後の台湾の鄭氏政権時代も興味のある時代ですが今日はこの辺で止め、私自身と台湾との関係について簡略に書きたいと思います。
私は大学時代からある台湾出身の黄さんという先輩に大変可愛がられました。黄さんはその後、東海大学の教授になり、現在は悠々自適の境地です。
そして私が東大の助手をしていたころ台湾からの留学生の呉さんの研究の世話をしました。呉さんを何度も自宅にも招びました。
その後、チャイナ・スチールとい大鉄鋼会社を訪問したとき台北の呉さんの自宅に招待されます。当時、彼はある大学の学長をしていました。
そして1990年頃にオハイオ州立大学で2人の台湾からの留学生と非常に親しくなりました。
その一人の台湾人の幼い息子と娘に日本語の名前をつけてくれと頼まれます。台湾では本来の漢字の名前と英語の名前を持っています。そして親日家は日本人に名付け親になってくれと頼むのです。
私が台湾を訪問したのは鉄鋼会社を訪問したときのたった一回だけです。
しかしその時、人々が非常に親日的なことに吃驚したのです。台湾の人々は昔の美しい日本語を話すのです。これには感動したものです。台湾の人々とはいろいろなことがありましたが、この辺でやめます。
今日の花の写真は台湾の花々です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
上の写真は台湾の桜です。出典は、http://cc-library.net/010008423_free-photo/
です。
上の写真はブーゲンビリアです。
出典は、http://formosalover.seesaa.net/article/255252191.html です。
上の写真の出典は、
http://www.osakatree.jp/tree-doctor/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%A8%B9%E6%9C%A8%EF%BC%88%E7%AC%AC%EF%BC%91%E5%9B%9E%EF%BC%89 です。
「水黄皮」という樹です。台北市内の公園等に植栽されています。マメ科の樹木で熱帯地域から亜熱帯地域で多く見られる樹木です。マメ科特有の奇数羽状複葉の葉を付けていて、花は清らかな香りがあります。実は油を多く含み。灯油や潤滑油と利用されてきました。
例えば「台湾の歴史」はwikipediaの記事は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 にあります。
そしてその内容は次のように示されています。
1 概略
1.1 先史時代 (1624年以前)
1.2 オランダ植民統治時代(1624年 - 1662年)
1.3 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)
1.4 清朝統治時代(1683年 - 1895年)
1.5 日本統治時代(1895年 - 1945年)
1.6 第二次世界大戦後(1945年 - 現在) 1.6.1 南京国民政府(1945年 - 1949年)
1.6.2 台湾国民政府(1949年 - 1996年)
1.6.3 民主化後(1996年 - 現在)
この歴史の概略をみると台湾がいろいろな外部勢力による支配のされてきたことが分かります。
例えば一例として、1.2 オランダ植民統治時代(1624年 - 1662年)を見てみましょう。
まず1番目の図面をご覧下さい。
これは17世紀の台湾の地図です。図中ではオランダ統治下 (赤紫)、スペイン統治下 (緑)、大肚王国 (オレンジ)などが色分けして描いてあります。
台湾が注目されるようになったのは16世紀の明朝時代になってからです。
倭寇の活動が活発化するにつれて、台湾は倭寇の根拠地の一つとして使用されるようになり、やがて漢民族、日本人が恒久的に居住し始めるまでに至ったのです。
また、この時代になると、大航海時代のヨーロッパ各国から多くの人々が来航するようになり、オランダやスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としたのです。日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も台湾を経由したと言われています。
ヨーロッパ船として初めて台湾に到達した船はポルトガルの船であり、ポルトガル人船員が緑に覆われた台湾島に感動して「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだという伝承から、台湾の別称である「Formosa(フォルモサ、中国語では美麗島)」が誕生したとされています。
台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員、現在の台南市を領有します。
台南市を中心とした地域を制圧して要塞を築いたのです。
一方、スペインは同時期の1626年に台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築きます。
しかしオランダの東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から武力で追放したのです。
オランダによる統治期間中、東インド会社は福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることでプランテーションの経営に乗り出したのです。
余談ながら台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したと言われています。
それはさておき、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞であるゼーランディア城も陥落したために、進出開始から37年で台湾から全て駆逐されたのです。
そして鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)が始まるのです。
翻ってその頃の日本の歴史を見ると次第に鎖国体制を作り、キリシタン禁教を強化していた時代です、秀吉や徳川家康が上に書いた台湾の植民地化の状況を恐れ完全鎖国をしたことは正しい選択だったのかも知れません。
その後の台湾の鄭氏政権時代も興味のある時代ですが今日はこの辺で止め、私自身と台湾との関係について簡略に書きたいと思います。
私は大学時代からある台湾出身の黄さんという先輩に大変可愛がられました。黄さんはその後、東海大学の教授になり、現在は悠々自適の境地です。
そして私が東大の助手をしていたころ台湾からの留学生の呉さんの研究の世話をしました。呉さんを何度も自宅にも招びました。
その後、チャイナ・スチールとい大鉄鋼会社を訪問したとき台北の呉さんの自宅に招待されます。当時、彼はある大学の学長をしていました。
そして1990年頃にオハイオ州立大学で2人の台湾からの留学生と非常に親しくなりました。
その一人の台湾人の幼い息子と娘に日本語の名前をつけてくれと頼まれます。台湾では本来の漢字の名前と英語の名前を持っています。そして親日家は日本人に名付け親になってくれと頼むのです。
私が台湾を訪問したのは鉄鋼会社を訪問したときのたった一回だけです。
しかしその時、人々が非常に親日的なことに吃驚したのです。台湾の人々は昔の美しい日本語を話すのです。これには感動したものです。台湾の人々とはいろいろなことがありましたが、この辺でやめます。
今日の花の写真は台湾の花々です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
上の写真は台湾の桜です。出典は、http://cc-library.net/010008423_free-photo/
です。
上の写真はブーゲンビリアです。
出典は、http://formosalover.seesaa.net/article/255252191.html です。
上の写真の出典は、
http://www.osakatree.jp/tree-doctor/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%A8%B9%E6%9C%A8%EF%BC%88%E7%AC%AC%EF%BC%91%E5%9B%9E%EF%BC%89 です。
「水黄皮」という樹です。台北市内の公園等に植栽されています。マメ科の樹木で熱帯地域から亜熱帯地域で多く見られる樹木です。マメ科特有の奇数羽状複葉の葉を付けていて、花は清らかな香りがあります。実は油を多く含み。灯油や潤滑油と利用されてきました。