後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

新年の富士山、そして世界遺産としての富士信仰

2016年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム
快晴の昨日、新しい年があけた富士山の写真を撮ろうとして山中湖に行きました。
何度も行ってますので3ケ所の撮影ポイントからゆっくりした気分で写してきました。
その写真をまずご覧下さい。

山名湖の東北側の岸辺から富士山を撮ると手前に碧い湖水が写って美しいのです。
東北側の岸辺にも私は3つの地点からの風景が好きです。
この1番目の写真は山中湖の東端からのもので、湖の水面に逆さ富士が美しく映っています。

2番目の写真は東北岸の一番西よりの駐車場からの風景です。富士の全ぼうが写るので多くの人々が写真を撮るポイントです。

3番目の写真は山中湖の東端からのもので大きな視野で撮った写真です。富士山だけでなく手前の森逆さになって湖面に映っています。

4番目の写真は3ケ所の撮影ポイントの真ん中から撮った写真です。ここは何時行っても人のいない静かな岸辺です。

5番目の写真は吉田口5合目からジグザグに山頂まで続く登山道の写真を撮ったものです。この険しい道を現在登っている人々が沢山いるのです。
このような写真をゆっくり撮っているかたわらで家内が機嫌良く走ったり、散歩したりしています。
結婚以来、家内を観察していると富士山が見えるとご機嫌が良いのです。幼少のころ鎌倉の海岸から富士山を見ていたせいだろうと思います。しかしそれだけではないようです。心の中に富士山信仰があり一家の幸を富士山へ祈っている様子です。手を合わせて拝みませんが心で祈っているようです。
昨日は山中湖の周辺は車が渋滞するほど多くの人々が集まっています。多数の人が富士山を見ています。写真を撮っています。しかし静寂があたりを覆っています。騒ぐ人がいないのです。
みんなが心のなかで祈って幸せそうにしているのです。
それはまさしく日本人の宗教的風景だったのです。
この富士山への信仰は縄文時代から始まったと言われています。
縄文時代から江戸時代の宝永の大爆発まで何度も噴火していたのが富士山です。
ですから昔の富士山信仰は火を噴く恐ろしい山の神を鎮める祈りでした。
しかし現在は平穏な美しい形の山にたいする祈りになっています。
それは神社に家内安全を祈る神道の信仰と同じです。ただ富士山の場合はその山体が信仰の対象になっているのです。
富士山の8合目から頂上までの全てが富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)になっているのです。そして富士山本宮山宮浅間神社は、社殿を持たない形式の神社であり、富士信仰の祭祀形態を持つ神社として大変めずらしい信仰形態になっているのです。
このように縄文時代から連綿と続く富士信仰と美しい富士山の風景が一体になって世界文化遺産として認定されているのです。
そんなことを考えながら昨日は山中湖からの富士山の風景を静かに写真を撮って来ました。
特に昨日は風がまったく無く鏡のような湖面に逆さになった富士山や麓の森が映っていたのです。こんなことはめったに無い幸運でした。何故か今年は幸運な年になりそうな気分です。

それはそれとして、今日は皆様にとっても今年は幸運な年になりますようにお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===============
(1)富士山信仰は縄文時代から;
http://www.fujisan223.com/reason/faith/originate.html
富士山の信仰は、その美しさからはじまったわけではありません。富士山が噴火していた昔、そのあまりにも激しく吹き上げる火焔に、当時の人々は怒る神の姿を重ねていました。
静岡県富士宮市には、縄文時代中期の遙拝祭祀場跡と思われる遺跡が見つかっていて、いにしえより噴火する富士山に畏怖の念を抱いていたことが分かります。「遙拝」とは、遠く離れた場所から拝むことで、それこそ富士山には近づけないために神聖な場所を選び祭祀場としたのでしょう。山宮浅間神社(富士宮市)では、拝殿や本殿がない遙拝所として当時の面影を残しています。
・・・864年(貞観6年)に富士山は、大規模な噴火を起こしました。北西麓から噴きだした溶岩が大きな湖に流れ込み、その後の樹海をつくり、本栖湖、精進湖、西湖ができたと考えられるのがこの噴火です。湖の魚が死滅し、人々の居宅もつぶされ、甚大な被害が出ました。
その報せが平安京に届くと、朝廷はこの原因を大神祭祀の怠慢とし、駿河国富士山(現:静岡県)に「鎮謝(祈り謝る?)」せよ、甲斐(現:山梨県)の国司に「奉幣解謝(捧げものをして祀る?)」せよと下知。
そして、甲斐国八代郡に浅間大神の社殿を建てたのが、河口湖町河口の浅間神社と言われています。富士山の噴火を鎮めるため浅間神社の祈りは、国を超えて広がっていきました。
長い祈りが通じ、1083年(永保3年)を最後に富士山の噴火活動は収束。
人々は、「遙拝」から「登拝」へ、次なる信仰の動きへと足を踏み入れていきます。
・・・以下省略。
(2)富士山信仰の学術的な記述;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E4%BF%A1%E4%BB%B0
富士山が立地する地域周辺には千居遺跡(静岡県富士宮市)や牛石遺跡(山梨県都留市)など、縄文時代後晩期の祭祀遺跡が複数発掘されている。これらの遺跡には配石遺構(ストーンサークル)を伴う特徴があり、富士信仰に関わるものではないかと学術的に考える意見が存在する[誰によって?]。これが正しいとすると、少なくとも縄文時代以前には富士信仰の原型があったこととなる。
富士山が民衆の信仰を集めるに至るには、登山の大衆化が大きな要素としてある。富士山の登山の記録として古いものでは、役行者の登山がある。 『日本現報善悪霊異記』には「夜往駿河、富岻嶺而修。」とあり、役行者と富士山との関係が伺え、平安時代前期の官僚貴族で学者の都良香の著とされる『富士山記』には「昔役の居士といふもの有りて、其の頂きに登ることを得たりと。」とあり、役行者と富士山を結びつける記述は多く見られる。
「富士山開山の祖」とされる人物に末代上人がいる。『本朝世紀』(信西編)に「是即駿河国有一上人。號富士上人、其名稱末代、攀登富士山、已及数百度、山頂構佛閣、號之大日寺。」とあり、富士山頂に大日寺を建てたことが記されている。このような行為は信仰からなると考えられ、富士信仰の大きな機転であった。また末代は修験道を組織した人物とも考えられ、富士信仰の変移に大きく関わる人物である。
平安時代成立の『地蔵菩薩霊験記』(実睿撰)には「末代上人トゾ云ケル。彼の仙駿河富士ノ御岳ヲ拝シ玉フニ。(中略)ソノ身ハ猶モ彼ノ岳ニ執心シテ、麓ノ里村山ト白ス所ニ地ヲシメ …」とあり、末代上人と村山の関係が伺え、末代が村山修験を成立させたと考えられている[3]。村山修験は、民衆によるまとまった形の富士信仰の例として最も早い。
他にも平安時代末期の『梁塵秘抄』(後白河法皇編)には「四方の霊験所は、(中略)駿河の富士の山、(中略)の道場と聞け…」とあり、少なくとも平安時代末期には既に富士山が信仰の対象となっていたことが分かっている[3]。・・・以下省略。