昨日の新聞によると高山右近という戦国時代の武士がローマ法王によって福者に認定される運びになりました。
数年前にマザーテレサやヨハネ・パウロ2世がやはり福者として認定されています。
福者はカトリック教会が世界的に偉い人が死んだ後に送る称号で、福者になると数年後には、最高の称号の聖者を与えられます。信仰を貫いて殉教した人や奇蹟を起こした熱烈な信者に贈られます。その大部分は聖職者です。
日本の武士が福者、そしてやがて聖者になるのは前代未聞のような珍しい出来事です。
それでは高山右近が何故、福者に認定されたのでしょうか?
そこで高山右近の人生を簡略にご紹介いたします。
右近は地方領主の家に生まれました。そしてカトリックの洗礼を12歳で受けます。その後、数多くの戦いで頭角をあらわし、有名な戦国武将になります。
後に織田信長や秀吉に仕え、秀吉のもとで高槻城の城主になり、戦国大名になったのです。
右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として生まれた。父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けたのです。その父は居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたため、右近もジェストというの洗礼名を得たのです。なお父の洗礼名はダリヨで母の洗礼名はマリアでした。
右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなったと言います。たとえば牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高などがその例です。細川忠興や前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であったようです。
慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去します。
長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに到着しました。
イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けたのです。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取ります。享年64。
葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげて聖アンナ教会で盛大に行われました。
ここからが私の推測です。間違っているかも知れません。
何故、ジェスト(あるいはユストとも読む)高山右近はこの世の栄華をさらりと捨て長崎から船に乗ったのでしょう。カトリックの信仰さえ捨てれば高槻城の城主としてとどまっていることが出来たのです。
右近の潔い態度は武士道の精神の変形ではないかと私は推測しています。武士道で重要な心は忠誠心です。清貧に甘んじ自己の武芸の修練に打ち込むのです。そして一旦緩急の折には自分の命をなげうって主君の為に戦うのです。質素な生活にあまんじ人格者になるための修行の毎日を送るのです。
ここで高山右近には主君の秀吉の上に、神とイエスが見えたのです。そして次第に本当の主君は秀吉ではなく全知全能の神であると思うようになったのです。イエスさまの優しい愛が右近を堅い信仰へといざなったのです。
彼には恐れるものがありません。長崎から船に乗る時は高揚した楽しい気分だったに違いありません。
そしてフィリピンで大歓迎を受けたあとで天国に昇ったのです。それは幸せな生涯でした。しかし余人には真似の出来ない生涯でした。
神やイエス様に対する忠誠心といえばもう一つの例をご紹介いたします。
それは昔のことですが、日露戦争が始まったときニコライの言った言葉です。「私は祖国、ロシアに仕えているのではない。神に仕えている。だから戦争が始まっても私はロシアに帰らない。日本人信者とともに居る」といって日本の土になったのです。明治天皇は彼の谷中の墓へ花束を贈ったのです。
今日の挿絵代わりの写真は高山右近がフィリピンで死ぬ前に見たと思われるフィリピンの花々の写真です。
その出典は、http://uscities.web.fc2.com/asia/manila/plant-j.html です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==========
戦国時代の武士としての高山右近の活躍:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91 より抜粋しました。
高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。
そうした中、右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として生まれた。
天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が没すると、明智光秀は右近と清秀の協力を期待していたようだが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけた。まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議でその功を認められて加増された。また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨを高槻に移転した。賤ヶ岳の戦いでは岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保った[5]。 その後も小牧・長久手の戦いや四国征伐などにも参戦している。
秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らした。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍している。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。