後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

中国政府の指示を無視して周恩来の追悼行事をする人々の光景

2016年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム
中国人は唯々諾々として政府の言うことに従っている訳ではありません。時と場合によっては立ち上がるのです。
政府の指示を無視した周恩来の追悼行事がやがて天安門事件へと続くのです。現在は経済発展で生活が年々よくなり、かなり満足しているので反政府運動は顕在化していません。
しかし中国人は絶対に文化革命時の悲惨さと、民衆を救おうとした周恩来を忘れません。民主化を進めて失脚した共産党総書記、胡耀邦と趙紫陽を忘れません。
今日は私が実際に見た反政府の周恩来追悼行事の光景を書きます。
   ◎地下室で見た中国人の本音
中国の首相、周恩来が1976年に死にました。中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止しました。周恩来の人気が高すぎるので政権内に混乱が起きるのを恐れたのでしょう。この政府による禁止命令は1980年代まで続きます。
1981年に北京に行った私に、2年前ベルサイユ宮殿で知り合った周栄章さん(北京鉄鋼学院教授)が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。
 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、大学の地下3階の部屋でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。
そしてその大学の学生達が集まっていて、周恩来が出した文書などを静かに読んでいたのです。
周さんは「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と興奮した様子で私に言うのです。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。
深い恩ある人の死に対して嘆き悲しみ、追悼する。これは人間共通の普遍的な心情です。
このような光景を見て中国も日本も人々の考えは全く同じだと確信したのです。
中国人は恩人を絶対に忘れません。
中国の東北部にある瀋陽に行った時、東北工科大学の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で話しかけてきました。
そこで私は、東北大学で電気冶金学を習った森岡先生が旅順工大にいたことを話しました。
すると陸学長は、「日本人にはいろいろな人がいました。大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は絶対に忘れません」と懐かしそうに言うのです。
中国人は非常に人間的なことに吃驚しました。満州に行った日本人が全て悪いのではなく、敗戦後36年経過しても中国人から感謝されている日本人が沢山いたのです。
話は周栄章さんの戻りますが、彼は本音で話すのです。
1949年の共産党の中国が建国されてから1959年まではソ連と蜜月時代が続いたのです。
しかし1959年に中国とソ連が大喧嘩をして決別します。日本の新聞では、イデオロギー路線の論争でソ連が絶交して出て行ったことになっていたのです。
その喧嘩の原因を周栄章さんが説明してくれました。
「イデオロギー論議なんて高尚な話ではない。ソ連の空軍と海軍が中国全土の空港と港湾を自由に使い、すべての軍事作戦の指揮権をソ連に与えよと要求したからです。簡単に言うと、中国全土がソ連の植民地になるということだったのです」、「当然、毛沢東は断固拒絶しました。ソ連は中国全土から引き揚げる時、無償供与した工業設備をネジ一本まで貨車に積んでシベリア鉄道で撤収した。私の大學でもすべての実験装置が持って行かれ、ガランとした建物だけが残ったのです」
そしてある時は日本の真珠湾攻撃の話になりました。植民地や治外法権の租界を作られた中国人は西洋人を恨みに思っている筈です。ですからその西洋人に一矢を報いた真珠湾攻撃は中國人も内心嬉しかった筈ですと私が言いました。周栄章さんは否定も肯定もしませんでしたが、笑顔がそうですと言っているようでした。
海外在住の中国人も含め、全中国人が日本軍の真珠湾攻撃によって内心溜飲を下げなかったと言えば嘘になると私は確信しています。
この周栄章教授は2004年に亡くなりました。
次回は中國における新聞情報やネット情報と口コミ情報の違いについて書きたいと思います。
記事内容とは関係ありませんが、今日の挿絵代わりの写真は山中湖の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)