後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本が貧しかった頃はクリスマスの習慣など無かった」

2024年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム
師走になりました。楽しいクリスマスも近づいて来ました。楽しいお正月も来ます。
今日は日本が貧しかった戦前、戦後の頃はクリスマスの習慣について書いてみようと思います。クリスマスの習慣など無かったことを書いてみたいと思います。ささやかな歴史小話です。
その頃はお正月だけが楽しかったのでのです。美味しいお節料理、餅つき、お雑煮、お汁粉、凧あげ、橇滑り、コマ回し、羽根つきなどなどの楽しかった思い出が沢山あります。着物を着て元朝詣りに行った思い出やお年玉を貰った時の嬉しさなども思い出します。
その頃の日本はどのようだったのでしょうか。そこで貧しかった昭和時代の農村と都会の写真をお送りします。その時代は都会も特に農村も生活は貧しかったのです。若い日本人はこの事実を知りません。
日本がまだ貧しかった頃の農家と都会の様子を示す写真をご覧下さい。

1番目の写真は山梨県の甲斐駒岳の麓の農村の風景です。写真の出典は、
https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E8%BE%B2%E6%9D%91%E9%A2%A8%E6%99%AF です。
昭和45年、1970年頃までは農民は茅葺の農家に住んでいたのです。藁ぶきの家でエアコンや冷蔵庫も無く囲炉裏だけが中心にありました。囲炉裏が唯一の暖房であり三食の料理は囲炉裏に吊るした大鍋一つでしました。
2番目の写真も茅葺の農家の前面です。私が疎開した宮城県の農家はこのような家に農家でした。3ケ月間だけ住んでいました。囲炉裏の煙がけむくて毎日泣いていたことが忘れられません。白米のご飯はありましたが毎日田圃で捕ったドジョウ汁だけでした。
3番目の写真は戦前の東京の風景写真です。自動車はアメリカから輸入したタクシーだけで自家用車はありませんでした。自家用車が普及したのは昭和40年、1965年以後の頃でした。。
4番目の写真も昭和40年前後の東京の花電車の写真です。当時は都電や市電が人々の交通手段でした。都電が主役だったので花電車など作って祝ったのです。まさしく都電が花形でした。しかしこの後の時代に都電は消えてしまったのです。自家用車が溢れ都電が邪魔になったのです。

終戦後の昭和の貧しい生活ではクリスマスを祝う家庭は殆どありませんでした。
ですから老人にはクリスマスの思い出はありません。高齢者にとってはクリスマスの楽しい思い出など皆無なのです。
この話を家内にしたら彼女の家では戦前から家でクリスマスを祝っていたそうです。鎌倉に住んでいて、彼女の父がハイカラだったので横浜のホテル等へも行ったようです。
ですから日本人でも西洋文化が好きな人は戦前からクリスマスを祝っていたのです。しかしその人数は例外的に少数だったのです。

今日は終戦まで日本にクリスマスを祝う習慣が無かったことを説明しました。その代わりお正月は盛大に祝い楽しかったのです。

時代によって社会習慣が変わるのです。時の流れは川の水のようにとどまりません。やがて今年も暮れて新しい年がやって来ます。新しい年が幸多いものとなりますように期待しましょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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