キリスト教は日本の社会にいろいろな形で溶け込んでいてその独特な風景を示しています。そして結婚式は教会でしたりクリスマスは多くの家庭で祝います。丁度、お正月を祝うように社会の習俗になっています。
すなはちキリスト教は、明治維新以前までの佛教、儒教そして神道を背景にした日本の伝統文化と混然一体となり、日本文化の一部として融合しているのです。
しかしその一方で、キリスト教は水と油のように日本文化と溶け合わない部分も持っています。日本人がキリスト教をなんとなく嫌いと思っているのもその部分のせいです。
私はカトリックなので、ついキリスト教の話をしてよくします。
しかし日本人の本音は、「私はヤソは嫌いだ!アジヤやアフリカを植民地にしたような欧米人は嫌いだ!それに西洋文化は物質的で日本の伝統文化の美しい精神性に融合する筈がない!」 というものでないかと思っています。
私はこの本音へ反論は致しません。
ただ重要な誤解についてのみ明らかにいたいと思います。
それはキリスト教と西洋文化を同じものとして理解していることです。西欧人の悪行を全てキリスト教のせいにしていることです。キリスト教が植民地を持っていう西洋人の手によって日本へ輸入されたので、この誤解は当然な誤解です。
私はある時、3つのプロテスタント教会と日本正教会のニコライ堂を訪問したことがありました。
その結果、明確に理解した事があります。それはキリスト教がある国を経由して日本に入ってくると、その国の文化を背負って入ってくるという事実です。一番明確なのはロシア正教として聖ニコライが持ち込んだ正教会は、共産革命以前のロシア文化そのものを背負って来たのです。
アメリカ経由のプロテスタントはアメリカの自由主義と平等の文化を背負っています。
カトリックは産業革命に遅れたスペインやイタリーのラテン文化を背負いっています。
私の目から鱗が落ちました。このような国々の固有の文化をそぎ落としてそれぞれのキリスト教のみを比較してみたのです。
そうすると全ての宗派は全く同じように、イエスの教えを記録した福音書を一番大切にしているのです。
ある牧師さんが言いました、「人間が福音書に書いてないことまでイエスの名を使ってするからいけないのです。福音書に書いてないことはしてはいけないのです!」と。
日本人がキリスト教を嫌うのは、ロシア文化や、ラテン文化や、アメリカ文化に違和感を感じているからなのです。それが、「私はヤソが嫌いだ!」という発言になるのです。
最後に日本人の鶴田健次さんという牧師さんがアメリカのラスベガス市に在住日本人の為の教会を作った事実をご紹介しておきます。そのホームページ http://lvjcc.com/index.htm を是非ご覧下さい。
「日本人に福音書は理解できるか?」という問題へあるヒントを与えています。
クリスマスの前夜の24日の夜には教会へ行ってキリストの降誕を感謝して祈ることを日本人の99%はしません。しかし子供の居る家ではサンタクロースが贈り物を持ってくる。そして家族が集まってパーティをする。又会社や色々な職場では親睦をはかるために「クリスマス・パーティ」を開催します。日本全国の商店は売上を上げるために盛んにクリスマスの楽しさを宣伝します。
これは日本の楽しい習俗です。それに対して目くじら立てて非難する必要などありません。
一家の先祖代々のお墓がお寺にあっても、結婚式は白いウエイディングドレスを着て教会で挙げる人々が非常に多いのです。これも楽しい風景です。
このようなクリスマスの過ごし方や教会での結婚式を見て、「キリスト教は日本へ根づいているとはとても思えない」と、若いころの私は感じたものでした。随分と昔の事でした。その時は日本文化の軽薄さを見るようで自己嫌悪になったものです。
しかし老境になった現在は、この社会現象を軽薄だと非難がましく見るのは間違っていると信じるようになりました。若い頃の物の見方が間違っていたと気づいたのです。
一般にある宗教がある国に根付くには2つの並行したことが起きるのが極く自然なことと思います。宗教教義を本質的に変えることなく正しく、論理的に導入され、それが人々の血となり肉となって信じられている。そしてもう一つは導入される宗教に纏わりついているお祭りや、風習が教義とはあまり関係なく入って行く。後者は教義とあまり関係が無いので不要と考える人もいます。しかし所詮人間は論理だけでは満足しないのです。賑やかな祭りやプレゼントや楽しい宴会があったほうがその宗教に親しみを覚えるものです。
日本のミッションスクールの卒業生は何百万人もいるようです。彼らの大部分は洗礼を受けないで卒業し、就職とともにキリスト教から離れてしまいます。しかし毎年クリスマスや復活祭になるとキリスト教のことを思い出して、心の中で祈っている人も居るのです。この時だけ教会に行く人々も多いと聞きます。
このような視点から考えると日本のクリスマスや、教会での結婚式はキリスト教が根づくために大変重要な要素と考えられます。あるがままにクリスマスを楽しみましょう。信心が無くても教会での結婚式も大いに良いではありませんか?イエス様は絶対に怒っていません。楽しげに微笑んでいるに違いありません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
すなはちキリスト教は、明治維新以前までの佛教、儒教そして神道を背景にした日本の伝統文化と混然一体となり、日本文化の一部として融合しているのです。
しかしその一方で、キリスト教は水と油のように日本文化と溶け合わない部分も持っています。日本人がキリスト教をなんとなく嫌いと思っているのもその部分のせいです。
私はカトリックなので、ついキリスト教の話をしてよくします。
しかし日本人の本音は、「私はヤソは嫌いだ!アジヤやアフリカを植民地にしたような欧米人は嫌いだ!それに西洋文化は物質的で日本の伝統文化の美しい精神性に融合する筈がない!」 というものでないかと思っています。
私はこの本音へ反論は致しません。
ただ重要な誤解についてのみ明らかにいたいと思います。
それはキリスト教と西洋文化を同じものとして理解していることです。西欧人の悪行を全てキリスト教のせいにしていることです。キリスト教が植民地を持っていう西洋人の手によって日本へ輸入されたので、この誤解は当然な誤解です。
私はある時、3つのプロテスタント教会と日本正教会のニコライ堂を訪問したことがありました。
その結果、明確に理解した事があります。それはキリスト教がある国を経由して日本に入ってくると、その国の文化を背負って入ってくるという事実です。一番明確なのはロシア正教として聖ニコライが持ち込んだ正教会は、共産革命以前のロシア文化そのものを背負って来たのです。
アメリカ経由のプロテスタントはアメリカの自由主義と平等の文化を背負っています。
カトリックは産業革命に遅れたスペインやイタリーのラテン文化を背負いっています。
私の目から鱗が落ちました。このような国々の固有の文化をそぎ落としてそれぞれのキリスト教のみを比較してみたのです。
そうすると全ての宗派は全く同じように、イエスの教えを記録した福音書を一番大切にしているのです。
ある牧師さんが言いました、「人間が福音書に書いてないことまでイエスの名を使ってするからいけないのです。福音書に書いてないことはしてはいけないのです!」と。
日本人がキリスト教を嫌うのは、ロシア文化や、ラテン文化や、アメリカ文化に違和感を感じているからなのです。それが、「私はヤソが嫌いだ!」という発言になるのです。
最後に日本人の鶴田健次さんという牧師さんがアメリカのラスベガス市に在住日本人の為の教会を作った事実をご紹介しておきます。そのホームページ http://lvjcc.com/index.htm を是非ご覧下さい。
「日本人に福音書は理解できるか?」という問題へあるヒントを与えています。
クリスマスの前夜の24日の夜には教会へ行ってキリストの降誕を感謝して祈ることを日本人の99%はしません。しかし子供の居る家ではサンタクロースが贈り物を持ってくる。そして家族が集まってパーティをする。又会社や色々な職場では親睦をはかるために「クリスマス・パーティ」を開催します。日本全国の商店は売上を上げるために盛んにクリスマスの楽しさを宣伝します。
これは日本の楽しい習俗です。それに対して目くじら立てて非難する必要などありません。
一家の先祖代々のお墓がお寺にあっても、結婚式は白いウエイディングドレスを着て教会で挙げる人々が非常に多いのです。これも楽しい風景です。
このようなクリスマスの過ごし方や教会での結婚式を見て、「キリスト教は日本へ根づいているとはとても思えない」と、若いころの私は感じたものでした。随分と昔の事でした。その時は日本文化の軽薄さを見るようで自己嫌悪になったものです。
しかし老境になった現在は、この社会現象を軽薄だと非難がましく見るのは間違っていると信じるようになりました。若い頃の物の見方が間違っていたと気づいたのです。
一般にある宗教がある国に根付くには2つの並行したことが起きるのが極く自然なことと思います。宗教教義を本質的に変えることなく正しく、論理的に導入され、それが人々の血となり肉となって信じられている。そしてもう一つは導入される宗教に纏わりついているお祭りや、風習が教義とはあまり関係なく入って行く。後者は教義とあまり関係が無いので不要と考える人もいます。しかし所詮人間は論理だけでは満足しないのです。賑やかな祭りやプレゼントや楽しい宴会があったほうがその宗教に親しみを覚えるものです。
日本のミッションスクールの卒業生は何百万人もいるようです。彼らの大部分は洗礼を受けないで卒業し、就職とともにキリスト教から離れてしまいます。しかし毎年クリスマスや復活祭になるとキリスト教のことを思い出して、心の中で祈っている人も居るのです。この時だけ教会に行く人々も多いと聞きます。
このような視点から考えると日本のクリスマスや、教会での結婚式はキリスト教が根づくために大変重要な要素と考えられます。あるがままにクリスマスを楽しみましょう。信心が無くても教会での結婚式も大いに良いではありませんか?イエス様は絶対に怒っていません。楽しげに微笑んでいるに違いありません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)