後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

戦中、戦後、苦難の日本丸

2008年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

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写真の出典:(財)帆船日本丸記念財団監修・発行「帆船日本丸」1986年3月第一刷より、

こんなにも美しい日本丸の全ての帆と帆桁が撤去された。昭和18年、横浜浅野ドックで。撤去後、純白の船体も暗いネズミ色に塗り替えられた。鈍足なので敵潜水艦のいる太平洋へは出られない。瀬戸内海で筑紫炭田から尼崎火力発電所へ石炭運びを続けつつ敗戦。

敗戦は神戸港沖で迎える。B29からの投下機雷で港への入港も危険な状態だった。

戦後はアメリカ太平洋艦隊の管理下に置かれ、船体を真っ黒に塗られ、舷側に大きく、No.54と描かれる。

昭和20年12月から引揚船として24000名を運ぶ。

打ちひしがれた残留日本人を迎えにいった港は、上海、コロ島、シンガポール、ラングーン、台湾、南西諸島など。4年間で29航海した。日本丸にやっと乗り込めた日本人は、故国の土を踏んだかのように、涙を流しながらタラップを上って来たそうである。横浜に係留公開されてからは、何人もの引揚者が訪ねて来たそうだ。

先日、船倉の中まで案内してくれた大西船長が言う、「年老いた男性の引揚者が、この船倉に座り込んでしまいました。随分長い間、目を閉じていました。引揚げのとき、その場所に座っていたそうです」引揚者は何も言わない。大西船長も無言であちこち案内したそうだ。

敗戦後、日本丸はアメリカに没収される可能性があった。昭和25年、朝鮮戦争の勃発とともに今度はアメリカ軍の輸送船として米軍人を釜山港へ3回輸送する。帰りには韓国人避難民を日本へ。

翌年の昭和26年3月にアメリカ軍の管理を解かれやっと日本政府へ返される。

一方、日本丸の関係者は、昭和25年から帆走装備の回復改装の一大運動を展開し、昭和27年6月に総帆展帆が出来、改装が完了した。昭和18年以来9年ぶりのことであった。

昭和25年、日本丸の関係者が浅野ドックで、帆桁が雑草の中に埋まっているのを発見する。しかも帆桁の半数はアメリカ空軍の爆撃を受け使いものにならなかったという。関係者の落胆ぶりが見えるようだ。

帆船として生き返った日本丸は昭和28年、南方へ遺骨収集航海をする。南鳥島、ウエーキ、サイパン、テニアン、グアム、アンガウル、ペリリュー、硫黄島などの8島を巡り慰霊碑の建立と遺骨収集をした。

戦前の運輸省の練習船4隻のうち1隻はアメリカ空軍機の攻撃で沈み、もう一隻は戦後にアメリカ機からの投下機雷に触れて沈んだ。生き残ったのは日本丸と僚船の海王丸だけだった。

昭和の戦争に巻き込まれた日本人の苦難と同じように日本丸も危険な運命を何とか生き永らえ、横浜のランドマーク・タワーの前にゆっくり休んでいる。(終わり)

上記文章は:(財)帆船日本丸記念財団監修・発行「帆船日本丸」1986年3月第一刷の内容にもとずいて書きました。関係者へ深甚の感謝の意を表します。


絵画展のお知らせ

2008年06月05日 | 写真

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岡本太郎さんは「芸術は爆発だ!」と言いました。綺麗過ぎる絵は芸術では無い!、ともよく言われます。でも毎日爆発されてはかないません。やはり普通の日は綺麗な絵が楽しいものです。そのような素直に美しい絵画ばかりの展覧会のご案内を致します。

楽画樹ぐるーぷArt box ひまわり 2008 絵画展(油彩・水彩・パステル)がJR八王子駅北口前の「八王子エクスエアビル学園都市センター」の11階ギャラリーホールで、

9月5日、6、7、8、9日の5日間開催されます。

初日の5日は午後1時から開場し、そして最終日の9日は午後3時に終了します。その他の日は10時開場で17時終了です。車の有料駐車場はビルの地下にあります。

上の12号の絵は昨年度の出品作品の一例です。裏磐梯高原の風景で、T氏が昨年の5月14日に描いたものです。梅雨入り前の、朝の透明な空気がよく描いてあると感心しました。この絵と作風が同じ油絵が数枚、連続して展示してあるところにT氏が立っていて、いろいろ説明してくれる予定です。(T氏の立っている時間帯は;5日13時ー17時、6日12時ー17時、7日10時ー17時、8日欠席、9日13時ー15時です)

お問い合わせは、「学園都市センター」電話042-646-5611か内田光夫氏(電話042-644-3260)までご連絡下さい。


奇想天外な旅へご案内しましょう

2008年06月04日 | 旅行記

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 いろいろなパック旅行に参加したが、これほど奇想天外なスケジュールの旅は初めてだった。2006年3月25、26、27、28日の4日間、家人と2人で参加した。

旅程をご覧下さい。

第1日、9時に新宿を豪華トイレ付ベンツ・バスで出発、中央高速、松本平から安房峠を越えて奥飛騨温泉の平湯に14:00時到着。すぐに新穂高ロープウエイにて穂高頂上付近へ登り残雪の北アルプスの山々の絶景を楽しむ。夜は平湯温泉に泊まる。

第2日、平湯を昨日のベンツ・バスで8:30時出発、高山の朝市、宿場町を散策。その後、合掌造りで世界遺産になっている白川郷を見物する。午後は更に郡上八幡へ行き、市役所職員による盆踊り、春駒などを見る。踊りが素朴で上品で良い。富山の風の盆も上品な盆踊りだが、郡上八幡の盆踊りは賑やかで、しかも優雅である。

この後が奇想天外。そこから真っ直ぐ名古屋港へひた走る。20:00時出航の豪華フェリー、木曽(長さ200m、15795トン)の特等個室へ乗り込む。このフェリーで一泊しながら太平洋を北上し、翌朝、仙台港へ着岸するのだ。

第3日目:仙台に着いたら、名古屋で別れたベンツ・バスが待っていて、作並温泉へ行き一泊する。(バスは船倉に入って居たのかもしれない)

第4日目は作並温泉をバスで出発し、日本三景の一つの松島を観光してからバスで東京へ帰ってきた。

旅程が東京、奥飛騨、高山、白川郷、郡上八幡、名古屋、仙台、作並、松島、東京となっている。何回かパック旅行に参加したがこのような旅程は初めてなので、皆様へもご紹介したい。

=======以下に、木曽号について記す=======

木曽号には以前にも、仙台港から苫小牧港まで乗った。その設備の良さに感心していたので再度乗船した次第。ダイニングルームが豪華で洒落ている。夜にはクラシック音楽が広いシアターで上演される。入場無料である。ラウンジではプロのピアニストによる演奏もある。

特等個室は大きな窓があり、太平洋が一望できる。バス・トイレ付きである。

他に大浴場も売店も軽食スタンドも、なんでも揃っている。廊下が幅広くゆったりしている。

船倉には大型トラックや乗用車が積んであるが、カーフェリーという感じではない。以前、伊豆七島を周遊する豪華客船のニッポン丸に乗ったことがあるが、それとあまり変わらない。違う所はサービス専門の人の数が少なく、人件費を節約している点だけである。それと正装の必要が無い。気楽に時を過ごせる。

15000トンと言えば横浜に係留されている氷川丸の11622トンより少し大きい。氷川丸は5500馬力の大型ジーゼルエンジンを2基装備して太平洋を時速18.ノットで巡航した。

一方、木曽のエンジンは16100馬力のジーゼルエンジンを2基付けている。それで長さ200mの巨大な船体を時速25ノット(時速46Km)で走らせる。特等船室は船の前方上部にあるのでエンジンの音があまり聞こえない。木曽とその僚船は2005年に進水した。新しいコンセプトで作られた客船である。

以前、船旅へ憧れて、川崎から高知まで大型・快速フェリーに乗ったこともある。15000トン、25ノットで木曽と同様の性能だが、大型トラック輸送に重点がある。客室が簡単すぎる作りで、その上食堂が決まった時間にだけ定食を出していた。木曽が乗り心地の良い大型乗用車なら、四国・九州行きの大型フェリーはバネの硬いトラックに乗ったような心地がする。

ただ豪華客船のニッポン丸や飛鳥とは少し違う雰囲気ではある。

この3泊4日6食つきのクラブツーリズム(株)主催のパック旅行代金は1人当たり45980円であった。

似たような旅程が今でも有るか不明だが、問い合わせ先は;同社、東京バス旅行センター(電話:03-5998-3333)である。尚この会社は近畿ツーリストから分離、独立したパック旅行専門の会社である。

写真説明:上の大きな写真は木曽号のパンフレットより、下の列の左端は客室内の様子。その右はロビーにあるグランドピアノの様子。真ん中の写真は新穂高ロープウエイから北アルプスの山々を見た写真。その右が白川郷の写真。そして右端の写真は松島の福浦島へ渡る橋の写真。


この美しい城を誰が作ったのか?-諏訪の歴史概観とともに

2008年06月04日 | 写真

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諏訪湖から内陸に少し入ったところに高島城がある。何度見ても、その均整のとれた美しさに感動する。

琵琶湖から東にある彦根、長浜、岐阜、犬山、名古屋、掛川、小田原、松本などにある城の天守閣の中で高島城は特に美しい。誰が設計して築城したのだろう?

豊臣秀吉の武将、日根野 高吉 が1598年に完成した(写真にあるのは昭和45年に、残っていた写真と図面により再現)。高吉は安土城や大阪城の築城にも参加した築城の名手だった。それ故に美しい高島城を、現在でも楽しめるのだ。

でも、何故、高吉が此処に城など作る羽目になったのか?それ以前の諏訪盆地は誰の領地だったのだろう?

日本書紀に持統天皇が691年に作ったと書いてある諏訪神社はどんな歴史的役割をしたのであろうか?

答えを簡略に記す。

諏訪盆地一帯の支配者は1542年以後40年後の1582年までは武田信玄一族であった。ところが1582年織田軍が一挙に武田勝頼を滅ぼし、信長は諏訪に進駐し明智光秀らと共に13日間滞在した。この間に徳川家康も諏訪に来て織田信長へ拝謁した。(信長は諏訪でも光秀をなぶり、いじめたという)

同じ年の3ケ月後の6月に本能寺の変が起き、その後は当然、諏訪も秀吉の支配となる。

彼は戦勝に貢献した武将、日根野 高吉へ2万7千石を与えて1590年に領主にした。高吉は1601年までの短い間に高島城を作りながら領民の生活の安定に努力したという。

ところが、関が原の戦いで徳川側についた諏訪一族が活躍し、家康はそれに報いるために諏訪一族へ旧領地を与えた。諏訪頼水が初代諏訪藩主として高島城へ入城した。高島城は、それ以後、10代藩主、諏訪忠礼に至るまで266年の間、諏訪藩の城として諏訪湖を見下ろして来た。(当時の城は諏訪湖に接していた)

これとは違う歴史を辿ったのが武田信玄一族である。徳川家康が江戸城に落ち着くと甲斐の国は幕府の直轄領になりる。代々の城代が幕府から派遣されて来た。諏訪は独立した藩として残ったが甲斐はそうではなかった。

691年、持統天皇は諏訪神社を勅令で作った。平安時代になると上社と下社の神官たちが武装して諏訪地方を統治するようになる。上社と下社が諏訪盆地を2分し血みどろの戦いを続ける。鎌倉幕府へ参加したり、それぞれ南朝、北朝へ忠誠を誓ったり、その権力闘争のすさまじい歴史は、書く気がしない。あまりにも残酷で浅ましい。

諏訪神社の役割はその地方を武力闘争をしながら統治してきたことである。神社が武装して領民を統治する例は、日本の他の地方にあまり例を見ない。

日本の地方、地方で武力抗争が戦国時代の終焉まで続いたのであろう。江戸時代になって良かったことは、兎に角地方同士の愚かな戦争が無くなった事である。

明治以後、諏訪湖地方は養蚕・織機産業から始まり、時計を中心にした精密工業が進み、現在は半導体工業の先端的技術を駆使した工場群が集中している。

また諏訪湖温泉を中心にした湖岸には美術館やアールヌーボーのガラス芸術の展示館もある。湖岸には観光船の桟橋やヨットハーバーがあり観光地としても栄えている。

美しい高島城も観光名所になっている。

しかし城にまつわる歴史を調べると地方武力勢力の抗争の残忍な歴史があり、暗い気持ちになる。それだけに、平成の、この時代の有難味もより深く味わうことが出来る。(終わり)

撮影日時:5月31日と6月1日、撮影者:Mrs.藤山、

歴史情報の出展:諏訪市教育委員会編集、「戦国時代の諏訪」、平成19年1月31日初版発行、20年2月29日代版発行、連絡先は諏訪市教育委員会、電話:お266-52-4141、高島城天守閣入場券販売窓口で販売中)


自分の乗った車の思い出(4)ドイツでのオペル・レコルド、補遺

2008年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム

016 ドイツでオペル・レコルドを駆ってあちこち旅行しました。

この写真はフランスの東部のストラスブルグという町にあった中世の館の門の前で撮った写真です。たしか1970年の夏の日でした。

家族も38年経過すると、まったく別人になります。小生も。

ものには時効ということがあり、工業特許権も15年で無効になります。

38年とは如何に長い年月なのでしょう。

オペル・レコルドの写真を探していましたら、たまたまこの写真を見つけましたので掲載してみました。(終わり)


自分が乗った車の思い出(4)ドイツでのオペル・レコルド

2008年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム

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1969年8月にシュツットガルトの研究所に着任する。そこから、はるか遠方のローテンブルグ・オプ・デア・タウバーという中世の町で3ケ月のドイツ語の集中研修へ参加しなければならない。いずれ家族も呼ぶ。車が必要だ。研究所の機械工場のある職工さんへ中古車の購入と車の登録の一切を頼んだ。ナンバープレートを付けて持ってきてくれた車は空色のオペル・レコルド。値段の割りには見たところが綺麗だ。彼が、「見たところは良いが、エンジンルーム内の部品がかなり老化してるので故障しますよ。まあ故障は私が直してあげますよ」と言う。外国で生活するには現地の人を信用して任せる。損得を度外視すればこの原理で生活が楽しくなる。何故かは分からないが。

地図を頼りに暗い曇りの日、昔の曲がりくねった道路を、ローテンブルグ目指してドライブする。8月というのに寒い。周りの牧草が一面、秋のように黄色になっている。探し探して、やっと町が見えてきた。家々の屋根がすべて赤い。その周りを高い城壁が囲んでいる。いよいよ城門に入る坂道を登り始めた。と、その時、車のボンネットの隙間から白い煙が出る。すかさず車を止め、開けて見る。中から蒸気が吹き上げてくる。よく見ると冷却水のゴムパイプが劣化して裂けている。車を買ってくれた彼の予言が見事に的中したと感心してしまう。感心と同時に酷く心細くなる。寒い暗い雲の下、人っ子一人見かけない。

しばらく思案に暮れていたが、よく見ると200mくらい先にガソリンスタンドがある。

歩いて行ったら、スタンドの若者がすぐに牽引してくれて、劣化したゴムパイプを取り替えてくれた。これで一件落着、30分位で終わる。

ローテンブルグは、当時は日本からの観光客も来なくて、静かな「中世の昔」のままであった。特に夏から秋にかけては曇りや雨の日が多く、暗い毎日が続いた。そんな時は気晴らしに車を駆って、ノルトリンゲン、ザルツブルグやニュルンベルグなどへ観光に行った。

それ以後もこの車は良く活躍してくれた。

ドイツ語研修が終わって家族が来た。

週末にはフランス東部、スイスのユングフラウ、インターラーケン、ボーデンゼー、

シャッハハウゼンやミュンヘン、チロル地方、あるいはオーストリーのザルツブルグなどなどへ、この車で旅行したが、大きな故障は起きなかった。

一年三ケ月後に帰国するとき、車の購入・登録のお世話になった機械工のおじさんへ、「随分と快調に走ってくれました。お陰で楽しい思いをしました。有難う御座いました」と礼を言って、上げてきた。

写真説明:上の6枚の写真は全て1969年8月から10月に撮ったもの。全てローテンブルグの風景です。ぼんやり、かすんでいるのは、元々下手な写真をデジカメで撮影したためと思う。

(終わり)


江戸時代を再現保存している奈良井宿ー補遺、マリア地蔵のこと

2008年06月02日 | 写真

奈良井宿の大きな写真の下に小さな写真が3列あります。

その中段の中央の写真を良くご覧下さい。大宝寺の裏ある屋根のかかった小屋の写真です。中に安置されているのは首の無いマリア地蔵です。

地蔵さんの手には、明らかに十字架にみえる蓮の飾りを持ち、赤子が抱かれています。

後にイエス・キリストになる生まれたばかりの幼子です。

江戸時代初期、この地方のキリシタンが信仰の証として石工に彫らせたものでしょう。

禁教令とともに役人が石工に首を取らせ、頭部を砕き、さらに幼子の顔も砕き、奈良井川へ流したのでしょう。胴体の方は離れた裏山へ捨てました。300余年後の昭和になって胴体だけが藪の中から村人によって発見されました。

マリア地蔵を破壊させた役人も、石工もどんな気持ちだったのでしょう。この地方のキリシタンには棄教して命を永らえた人も居たことでしょう。棄教せずに役人に殺された人も居たでしょう。こんな木曽の奥にもキリスタンが居たのですね。驚きです。

キリシタンの弾圧も、棄教も、殉教も、人間の心の自由です。人間は自分が何をしているか分からないのです。とイエス様が言いました。残るのは木曽の山々の松風だけです。奈良井を訪ねた日は松風でなく春蝉の声が寂しく響いていました。殺した武士の声か、殺されたキリシタンの声かは判然としません。初夏の心地良い風が通りを吹き抜けて行きます。(終わり)


周囲の景観が美しい諏訪湖ヨットハーバー

2008年06月02日 | うんちく・小ネタ

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諏訪湖は緑したたる山並みに囲まれた大きな湖である。水はあくまでも澄んでいる。山々は高くなくヨットを走らせる風の邪魔にならない。

諏訪湖ヨットハーバーのマスターが言う、「このハーバーは諏訪湖市営なので係留料金が安いですよ。ただ誰でも出入り自由なのでヨットは自分で管理して下さい。東京の人も歓迎します」と言って係留料金表と諏訪湖の海図(?)をくれた。写真も自由に撮って良いという。

保証金は不要で、年間係留料金は15Feetのディンギーで79000円、19Feetのクルーザーで110600円、26Feetのクルーザーで165900円である。尚、陸置き料金も同じである。湘南のマリーナの約十分の一の料金で、保証金も不要とは驚きである。駐車場は無料で、艇の側まで車を持って行ける。空いたスペースが多く全体として広々としている。

見ていると小型モーターボートを車で牽引した人々が自分で入り口の鍵を開けてマリーナに入ってくる。水中へ伸びたコンクリートのスロープを使って、モーターボートを湖面へ下ろすために。スロープの使用料と桟橋への係留料が1日で合計780円という。

諏訪湖の近く住んでいる人々の幸運を祝福したくなる。

撮影日時:6月1日午前9時頃、撮影場所:諏訪湖ヨットハーバー

(電話:0266ー53-2440、住所:郵便番号392-0022長野県諏訪市高島3-1201-34)


江戸時代を再現保存している奈良井宿

2008年06月02日 | 写真

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長野県、塩尻から木曾谷へ国道19号線を木曽福島の方向へ20km位走る。昔の中仙道の奈良井宿が右手に見えて来る。奈良井へ入る道の案内看板があり、駐車場がある(一回500円)。車を預け、江戸時代の宿場町を再現し、保存している900m位の通りを散策する。

奈良井宿は鎌倉時代から宿駅として栄えた。木曽路の分水嶺、鳥居峠の北側のこの付近に土豪奈良井氏が居館を構えた。

戦国時代は木曽一族と甲斐の武田一族の戦いの場所であった。付近には多数の戦死者を葬った沢が「葬沢」という名前で残っている。

江戸時代になり徳川家康により慶長7年(1602年)中仙道の宿駅が決められた。それ以来、260年間、中仙道は江戸と京都を結ぶ重要な街道であった。

奈良井宿は木曽11宿で一番大きな宿であり、中山道、全67宿の中でも有数の規模を誇っていた。

幸い火災にもあわず江戸時代の家屋が残っていた。戦後、昭和30年台から、修理、復元の努力を続けて来た。昭和53年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定される。

同じ木曽路の馬籠宿と妻籠宿ほど有名でないので観光客も少なく落ち着いた雰囲気である。人影まばらな宿場町を初夏の風が通り過ぎて行く。

裏山の森から澄んだ春ゼミの声が絶え間なく聞こえる。

静かな蕎麦屋で、木曽蕎麦の「盛り」と五平餅の昼食をとって帰って来た。

撮影日時:6月1日午前11時から午後1時、撮影場所:長野県塩尻市大字奈良井

(奈良井宿の観光情報のURL:http://www.naraijyuku.com は良く出来ているので是非ご覧下さい。特に建物の特徴が面白いです))