写真の出典:(財)帆船日本丸記念財団監修・発行「帆船日本丸」1986年3月第一刷より、
こんなにも美しい日本丸の全ての帆と帆桁が撤去された。昭和18年、横浜浅野ドックで。撤去後、純白の船体も暗いネズミ色に塗り替えられた。鈍足なので敵潜水艦のいる太平洋へは出られない。瀬戸内海で筑紫炭田から尼崎火力発電所へ石炭運びを続けつつ敗戦。
敗戦は神戸港沖で迎える。B29からの投下機雷で港への入港も危険な状態だった。
戦後はアメリカ太平洋艦隊の管理下に置かれ、船体を真っ黒に塗られ、舷側に大きく、No.54と描かれる。
昭和20年12月から引揚船として24000名を運ぶ。
打ちひしがれた残留日本人を迎えにいった港は、上海、コロ島、シンガポール、ラングーン、台湾、南西諸島など。4年間で29航海した。日本丸にやっと乗り込めた日本人は、故国の土を踏んだかのように、涙を流しながらタラップを上って来たそうである。横浜に係留公開されてからは、何人もの引揚者が訪ねて来たそうだ。
先日、船倉の中まで案内してくれた大西船長が言う、「年老いた男性の引揚者が、この船倉に座り込んでしまいました。随分長い間、目を閉じていました。引揚げのとき、その場所に座っていたそうです」引揚者は何も言わない。大西船長も無言であちこち案内したそうだ。
敗戦後、日本丸はアメリカに没収される可能性があった。昭和25年、朝鮮戦争の勃発とともに今度はアメリカ軍の輸送船として米軍人を釜山港へ3回輸送する。帰りには韓国人避難民を日本へ。
翌年の昭和26年3月にアメリカ軍の管理を解かれやっと日本政府へ返される。
一方、日本丸の関係者は、昭和25年から帆走装備の回復改装の一大運動を展開し、昭和27年6月に総帆展帆が出来、改装が完了した。昭和18年以来9年ぶりのことであった。
昭和25年、日本丸の関係者が浅野ドックで、帆桁が雑草の中に埋まっているのを発見する。しかも帆桁の半数はアメリカ空軍の爆撃を受け使いものにならなかったという。関係者の落胆ぶりが見えるようだ。
帆船として生き返った日本丸は昭和28年、南方へ遺骨収集航海をする。南鳥島、ウエーキ、サイパン、テニアン、グアム、アンガウル、ペリリュー、硫黄島などの8島を巡り慰霊碑の建立と遺骨収集をした。
戦前の運輸省の練習船4隻のうち1隻はアメリカ空軍機の攻撃で沈み、もう一隻は戦後にアメリカ機からの投下機雷に触れて沈んだ。生き残ったのは日本丸と僚船の海王丸だけだった。
昭和の戦争に巻き込まれた日本人の苦難と同じように日本丸も危険な運命を何とか生き永らえ、横浜のランドマーク・タワーの前にゆっくり休んでいる。(終わり)
上記文章は:(財)帆船日本丸記念財団監修・発行「帆船日本丸」1986年3月第一刷の内容にもとずいて書きました。関係者へ深甚の感謝の意を表します。