後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

自分の乗った車の思い出(5)華麗な姿のトヨタ・スープラ

2008年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム

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トヨタはスープラをスポーティセダンと言う言葉を用いて盛んに広告をしていた。

あまりにも華麗な姿なので、初代スープラ、1G-EU を1987年に購入した。乗り心地は2000ccクラスの乗用車と同じ。エンジン性能も乗用車と同じ。排気量1988CC,OHC-自然吸気、出力105馬力、最大トルク、16.0kg-m/4000rpm であった。視界が悪くて取り回しが難しい車である。後部座席の定員は2名だが、座席が小さすぎて大人2人は無理である。

しかし、ボデーの色が輝くような白色で、形も綺麗だったので家人が気に入っていた。子供も独立して2人で乗ることが多かったので不便は無かった。幸い故障もなかったので、8年くらい乗った。終いには冷却水の循環速度を制御する車載コンピューターが壊れ修理が難しくなったので止めにした。

左の写真の出典は、トヨタ・スープラ - Wikipedia である。感謝の意を表す。

中の写真は1987年8月30日に、家人と2人で富士スバルラインを登り5合目で撮った写真である。

ところが、最近、友人が右端の写真のようなアルファロメオ156GTAに乗っている。何度か運転させてもらったが、その走行性能には驚いてしまった。これこそ正しく、「スポーティ・セダン」ではないか!
車マニアの為に記す。
アルファロメオ156GTAは通常の2L/2.5Lと異なり、専用設計の3.2L、V6DOHCのエンジン(250馬力)を搭載している。車重1420kgは、一馬力あたり5.7kgとなり、マツダのロードスターの6.4を大きく下回る。
0-100km/hに到達する時間は6.1秒、3.5Lエンジンを積むニッサン・フェアレディZ(6.7秒)やマツダ・ロードスターの9.4秒を大きく下回る。
加速性能だけでなくハンドルは非常に敏感に作られていてロックトゥロックが1.8回転(通常の車は4回転)という設定になっている。
ブレーキはブレンボ社の対抗4ポッドのキャリパーを採用、直径305mmの大型ディスクと強化タイプのブレーキサーボにより加速に応じた制動力を持つ。
しかもエンジンオイルを循環し、小型ラジエーターで常時冷却している。富士サーキットの一般向け開放日に試したら時速230kmは軽く出たと言う。
走行性能はヨーロッパの一流のスポーツカー並で、サスペンションや椅子が乗用車に近く設定しているので長距離でも、それ程疲れない。こういう車を欧米ではスポーティ・セダンと言うらしい。
それにしても運転技術の下手な小生にとってはトヨタ・スープラで十分であった。京都、神戸、伊根、丹後半島、天橋立など遠方へも走った。
自分が乗った歴代の車の中の唯一、所謂、高級車に近い車であった。(終わり)

佐伯祐三、鮮烈な生涯の絵画展をお見逃し無く

2008年06月12日 | 写真

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佐伯祐三、30年の全生涯の作品数十点の展覧会が、横浜駅東口そごう百貨店6階で5月10日から6月22日まで開催されています。大阪のあるコレクターが大阪市立近代美術館準備室へまとめて寄付しました。佐伯祐三の作品がその生涯の年齢順に展示されています。夜は午後8時までです。

命を削るようにして描いた作品群の前では、どんな美辞賛辞も空々しくなります。

何も説明出来ません。ご覧になって下さい。私個人としては2度目のパリーでの作品が好きです。(終わり)


一般道路を悠々と横切る飛行機

2008年06月11日 | 写真

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002  調003布飛行場と国土交通省の宇宙航空研究所の間には一般の都道があります。

飛行場から研究所の格納庫へはこの一般道を横切ります。陸置きのクルーザーヨットと同じように牽引車で移動しているのが面白く写真を撮りました。大変のんびりしたローカル空港です。周りには野球場、サッカー場、テニスコートなどが広がり、遠方には深大寺の森が見えます。

この調布飛行場は戦争中は帝都防衛のための飛燕が飛び立ちました。当時の「掩体壕」と飛燕のモデルが飛行場北の公園の中にあります。戦後はアメリカに長い間、接収されて軽飛行用の飛行場として使用されていました。米軍の関東村が返還されるとき飛行場も返還され、その後は国土交通省のもとで民間軽飛行機用に用いられています。(終わり)  撮影日時:6月11日午後2時30分。


旧甲州街道の小原宿、吉野宿、鶴川宿を訪ねて(6月の掲載記事の再掲載)

2008年06月11日 | 写真

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甲州街道は徳川幕府が設置した街道の一つで江戸と甲州を結んでいる。関東地方の五街道は甲州街道、奥羽街道、日光街道、中仙道、東海道。全て重要な街道である。

江戸から大月までの甲州街道の宿場を順に記せば、新宿、高井戸、布田、府中、日野、八王子、駒木野、小仏、小原、与瀬、吉野、関野、上野原、鶴留川、野田尻、犬目、鳥沢、猿橋、大月となる。

6月10日は梅雨の一休みで晴天であったので車をゆっくり走らせて、旧甲州街道の小原宿、吉野宿、鶴留川宿の3宿を散策して来た。本陣を保存し、歴史展示館のあるのもあるが、何も無く、昔の通りが有るだけのところもある。

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現在の甲州街道の大垂水峠を越し、相模湖町へ近づくと、右手に大きな「小原の郷」という歴史展示館がある。駐車場は無料で広い。そこから100m位歩いたところに小原宿本陣がある。よく手入れされ、公開している。展示館と本陣の2階部分もお見逃し無く。

最後から2枚目の写真は高島藩、高遠藩、飯田藩などの大名の泊まった部屋の写真で、「控えの間」の奥の8畳間が泊まった部屋。随分と狭い所に泊まったものと感心したので撮ってきた。入場料はいずれも不要。

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吉野宿は現在の藤野町にあり、JR藤野駅に近い。甲州街道を相模湖に沿って走って行くと本陣であった吉野浦(はじめ)氏の家が右にあり、その向かいに「吉野宿ふじや」 という看板の出ている歴史展示館がある。説明をしてくれた地方歴史家から聞いた話。承久の乱(1221年)で鎌倉側に負けた後鳥羽上皇側の主な貴族や武将がこの桂川流域に配流されたので大和、京都の地名が残ったという。JR中央線の高尾、大原(現在は小原)宿、吉野宿、付近の嵯峨野、奈良本、など現在の地名は承久の乱の後に配流された人々がつけたという。歴史的検証を一番深くされた方が、現在でも本陣に住んでいる吉野浦氏と聞き、後日、電話をした。いつでも詳しい話をして上げますから来て下さい、とのお言葉を頂く。天気の良い日に参上しようと思っている。

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鶴留川宿は現在の甲州街道の上野原町を通り過ぎて上野原警察署の前の切通うしの坂を下り、左へ曲がるところで右折して鶴留川の川原の方角へ下る(交差点は信号が無く、右折可であるかは不明。要注意!)。その下る道が旧甲州街道である。鶴留川の橋を渡った処に写真に示したような「鶴留川宿」という石碑が立っている。そこを上ると宿場町のような、でも現代風の家並みが道の両側に続いている。

本陣の建物も、展示館も一切無い。昔の、街道であった道が一本あるだけである。静かな町なのでしばらく散策していると当時の様子が何となく想像できる。(終わり)

撮影日時:6月10日午後1時から3時。尚、展示館「吉野宿ふじや」の電話番号は、042-687-5022である。吉野浦(はじめ)氏へお会いしたい方は此処の取次があると良い。


丸木舟、その形の強みと弱点

2008年06月11日 | うんちく・小ネタ

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019 017 024諏訪湖の漁船はまるで縄文・弥生、古墳時代の丸木舟の形をしています。現在に至るまで使われて来た理由を考えて見ます。この舟の形の強みは、小さな人力でスピードが出ることです。材料が木材なら転覆しても沈みません。水面より上に出ている部分が小さいので風が吹いても流され難いです。周囲に丸太を作れる大きな樹木が多ければ、材料費も少なくなります。

唯一の弱点は転覆しやすいことです。

これらの強みと弱みを考えるとその形は競漕用のボートの形に最適です。

上の写真の始めの2枚は4人で漕ぐ競技用のボートで、残りの2枚は1人で漕ぐ競技用のカヌーを逆さにして蔵ってある様子です。

大きな写真を更にサムネイルで拡大しご覧下さい。左下の端のほうにオールを支える金属棒が4本、舷側から突き出ています。これに長いオールを4本載せて、両舷側で合計8本の長いオールが船体の転覆を防止しています。ボートの細さをご覧下さい。4人の漕ぎ手(普通は大男)とコックス1人(小さな男)を乗せて沈まないギリギリの断面積の船体設計をします。

昨日の諏訪湖の漁船と見比べて、何処が違うかご観察ください。

それにしても競技用のボートとカヌーは美しい形です。船に惹かれる理由の一つは美しいフォルムのせいかも知れないと独りで納得しています。

撮影場所:神奈川県相模湖競漕艇格納庫、撮影日時:6月10日午前11時頃


丸木舟のような諏訪湖の漁船

2008年06月10日 | 写真

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1964年、諏訪湖へ行ったとき六斗川の湖へ出る河口に丸木舟の形をした漁船がびっしり並んでいた。何か異様なものを見てしまったような、驚愕の感情に打たれた。

一本丸木を刳り抜いたものではないが、完全木造で竿と櫂で動かすらしい。

あれから44年。まだ有るだろうか?と探して見た。彼方此方の舟溜まりに2、3艘ずつ舫ってある。同じ形の木造の船体の上にプラスチックが厚くコーテイングされている。船尾には5馬力の船外機が付いている。

諏訪湖でワカサギ漁をするとき、この舟の形が使い良いので残ったのだろう。縄文・弥生時代から古墳時代の丸木舟が全国で出土している。しかしその形を継承して実用しているのは諏訪湖しか知らない。何方かご存知でしたなら、お教え下さい。

原始時代のものを現在見ると何故か血が騒ぐ。遺伝子が騒ぐのかもしれない。1964年に諏訪湖で丸木舟形の漁船を見て異様な感動を体験したことが忘れられない。

そんな体験をお持ちの方々も居られるかも知れないと、写真を1枚掲載します。

撮影場所:諏訪湖、南岸の舟溜りにて。撮影日時:6月7日午前9時頃


立川基地の進駐軍のことなど

2008年06月09日 | 日記・エッセイ・コラム

カトリック立川教会に頑丈な木製の長椅子が並べられていた。椅子の背には金属製のプレートがあり、アメリカ人の名前が彫ってある。立川基地の進駐軍の人々が寄付した椅子だ。主任司祭の塚本金明神父様が基地内のカトリック教会と交流があった。

この椅子にまつわる思い出を書いてみようと昨日、長椅子の写真を撮りに行った。

無い。立川教会の建物がすっかり新しく改築されている。あの重々しい長椅子が1個も無い。幼稚園も無くなっている。当時茂っていた樹木も無い。駐車場だけが白く広がっている。撮りに来るのが遅すぎた。

筆者は1971年に塚本神父から家人と共に洗礼を受けた。代父は大学教授のY氏。代母は教会の守り役のA氏の奥さんであった。

塚本神父は小柄なイタリア人のように見えた。日本語が必ずしも流暢でない。色が白い。発想法が外国人のようだ。どういう訳でもないが、思い込みで「イタリア人の神父さん」と思っていた。

ろくに教理の勉強もせず、ある時、「洗礼を受けて良いですか?なにか試験でもあるのですか?」と聞いた。そのときの神父さんの顔が忘れられない。そんな質問は初めてに違いない。当惑したような、でも柔和な表情は思い出してもおかしい。しばらくして、「試験なんて有りません。今迄の人生を悔悟の気持ちで反省しているなら良いのです。すぐ洗礼式をしましょう」

塚本神父は占領軍兵士の跳梁する戦後の立川で、カトリック教会を再建し、進駐軍との交流も進めた。その一方でバチカン本部とも交渉し、東京で大バチカン展覧会を開催するような行動力も発揮していた。素朴な性格ながら信仰が篤く、信者の信望を集めていた。

ある時は、我々を進駐軍の基地内の教会のミサへ連れて行ったり、アメリカ人を立川教会へ多数招いたりした。

その折に知りあったぺロ夫妻を我が家へも招待した。35年後の現在でもクリスマスカードの交換をしている。ペロさんは空軍中佐、奥さんのサンタさんは病院のエックス線の技師でジェフリーという小さな息子が居た。

戦後、日本全国へ分散進駐した占領軍はたびたび犯罪を犯し、新聞によく記事が載っていた。進駐軍は悪いことをするという印象があった。そんな時に、ペロ夫妻と付き合い進駐軍への印象が変わった。

塚本神父にとっては占領軍も怖くない。日本人と話すように普段の調子で話す。英語を話している。神父さんにとっては占領軍も日本人も皆同じなのだ。同じ神の子なのだ。

基地は有刺鉄線に囲まれていた。広い芝生があり、アメリカ軍人は、その中の白い家に住んでいた。貧しい当時の日本人からは特別な人間のように思われていた。そんな時代であった。

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(写真説明:左、十字架像だけは昔のまま。中、塚本神父を讃える記念樹、右、昔の司祭館)

塚本神父様はその後、カトリック市川教会の主任司祭へ転じ、そして市川教会も引退し、数年後に亡くなった。なにか懐かしい神父さんだったので遠方の市川教会のミサへも何度か行った。

その後は小金井教会へ通っている。何年か前のある時、代父をして下さったY教授の息子さんが、主任司祭として小金井へ着任して来られた。

1971年頃、立川の塚本神父様の事務所にいつも遊びに来ていた学生さんなのでよく憶えていた。関口のカトリック本部の教会でMさんとともにY教授の息子さんも叙階して神父になった。その儀式へ出席したことも思い出深い。

主任司祭になったY神父様は優秀な方に違いない。説教が分かりやすい。イエス様が側に立って居られるように感じることがある。お話をそのまま文字にすれば立派な文章になっている。言語明瞭で話す言葉が書き言葉になっている。

日本全国から当時の恐ろしかった占領軍が次第に消えて行った。基地は沖縄や佐世保、岩国、厚木、福生などなどに残った。アメリカ車には乗らず、日本製の車を使っているせいか日本人とあまり変わらない。いや日本人の生活程度が高く、豊かになったせいでもある。

それと当時の進駐軍は威張っていた人々が多った。軍の制服を着て歩いていた。

進駐軍のことを知っている昔の人々にとって基地へ対しては特別な思いがある。

進駐軍というと、塚本金明神父を、代父のY教授、後に主任司祭になった息子さん、そしてペロ夫妻のことなどがつぎつぎと頭の中をめぐる。

昭和天皇も亡くなって20年。立川基地は広大な、そして美しい昭和公園になっている。

基地の跡形も無く、そこにアメリカの軍用飛行場があったなどと想像もつかない。

時の流れの速さを実感するのは老人になった証拠である。それも楽しいものだ。

(終わり)

補足:上の記事に対してzebra1192さんから、重要な、3つのご質問を頂きました。
(1)どんな理由で洗礼を受けましたか?
(2)神を信じると、心の支えにもなるのですか?
(3)どうも一神教は他と妥協することがなく、結局争いの火種を何時も抱えているのではと思ってしまいます。

これらは日本人が、小生も含めて、一神教に対して、皆んなが、かなり共通に持っている理解の仕方です。そこで、コメント欄に小生の感想を少し書きましたので合わせてご照覧頂ければ幸いです。zebra1192さん、有難う御座いました。


浮き城と言われた忍城(おしじょう)の姿

2008年06月09日 | 写真

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埼玉県、行田市は利根川と荒川の間にある低地です。周りは水を満々と湛えた水田が果てしなく広がっています。江戸時代にはこの水田はほとんど沼や湖でした。文政6年(1823年)、岩崎長谷の描いた「忍名所圖絵」を見ると沼に長い橋がかかり、その袂で農民が鵜飼をしています。

そんな湖沼を外堀代わりに忍城を作ったのが、熊谷を本拠にしていた戦国武将の成田顕泰(あきやす)です。1479年に完成しています。外堀のような湖沼が周りに広がり、敵が近づけない難攻不落の名城でした。その後111年間、1590年の秀吉による関東平定まで成田氏の城として存続しました。

1590年の秀吉の小田原城攻略の時には、城主の成田氏長が北条氏に味方します。

石田三成の率いる軍勢が忍城を取り囲みました。三成は湖沼の地形を巧みに利用して水攻めに出ました。利根川と荒川へ延長14kmもの堤を築き、多量の水を流し込んだそうです。今でも堤の一部が三成堤という名で残っています。

深い水で完全に囲まれましたが、なかなか落城しません。それを見た人々は、「城が浮いているから落城しない。浮き城だ!」と言い合ったそうです。

しかし、小田原城が落ちた後では、忍城も開城せざるを得ません。

江戸時代には徳川の城として、親藩、譜代16人の城主が在城する。

上の写真にある白い天守閣のような建物は三階櫓と称する建物で1702年に完成しました。1639年に忍城に城番になった阿部忠秋が城の大改修をした時に作りました。

全く根拠意の無い想像です。「江戸幕府へ遠慮して天守閣を作らないーでも天守閣のように見える立派な三階櫓を作ろう!」、こんな気持ちがあったのかも知れません。江戸時代は常に徳川幕府の意向を伺いながら生きて行かねばならない時代でした。

幸い、阿部氏はその後184年間城主を務めます。明治維新後、城は取り壊され民間へ払い下げになりました。現在の三階櫓は1988年に行田市によって再現された建物です。(終わり)

撮影日時:6月7日午後1時頃。 撮影者:Mrs.藤山


行田の秘密の食べ物と合言葉

2008年06月08日 | 旅行記

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005 034_2 035 007 東北自動車道を加須ICで降り、17km西へ走れば行田市に着く。ところが道の左右は茫々たる水田と麦秋の広がり。人家が遥か遠方に散在するばかりで心細くなる。行田は水田に浮かぶ孤島のよう。

忍城(おしじょう)を探し、水城公園に入るといきなり行田名物「ゼリーフライ」の看板の店がある。これが奇妙な食べ物で、秘密の名物らしい。ジャガイモ粉、おから、小麦粉を混ぜ、葱少々をいれ、木の串に笹かまぼこのような形につけて、油で揚げ、ソースに漬けたもの。おやつに行田の人々が好んで食べる。味は材料と製法からご想像下さい。微妙な味です。

これの妹のようなおやつに「フライ」がある。簡単に言えば薄いお好み焼きのようなもの。

味の好みは習慣によると言う。行田の人は子供の頃おやつとして食べ、習慣で好みの味になり、大人も老人も気軽に食べる。市内にゼリーフライやフライを売る店が数十軒ある。

好奇心の強い観光客が買っている。味はどうですか?と聞くと、買うのは2本だけにしたほうが良いですよ、と忠告してくれる。食した後で忠告に感謝!

行田の人の合言葉。「うまい。うまい!、うま過ぎる!」と呼びかけると、「十万石饅頭!」と答える。答えられない人は行田の人でない。よそ者である。上の最後の写真がこの十万石の店の写真である。

テレビの「秘密のケンミンショー」で最近取り上げられたのでご承知の方も多いと思う。地方テレビ局のコマーシャルで、この文章が30年間変えずに流れているからと言う。たまたま入ったウナギ店の隣が「十万石」の菓子店である。ウナギを丁寧に焼いている間に家人がそれを偶然見つけて饅頭を十分過ぎるくらい買ってきた。上質の小豆をつかった、じょうよ饅頭で「花園饅頭」の行田版である。

関東平野の広さとローカル文化の面白さを実感した小さな旅であった。(終わり)


埼玉古墳群と慶州の古墳

2008年06月07日 | うんちく・小ネタ

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上の写真の出典は、「さきたま古墳群」

(埼(さきたま)古墳群 は県名発祥の地、行田市大字埼玉(<wbr></wbr>さきたま)にあり、5世紀の終わりから7世紀のはじめごろまでにつくられた9基の大型古墳が群集し、国の史跡に指定されています。)ーーーの記事の写真を引用させて頂きました。深く感謝の意を表します。
www.sakitama-muse.spec.ed.jp/<wbr></wbr>historic-site/tomb-site.html

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076 080 081 084 学校教育で古墳は大和朝廷が作ったもので大和地方にあると教わった。仁徳天皇の前方後円墳などを写真入りの教科書で習い、他の地方には前方後円墳は無いものと中年になるまで信じていた。ところが行田市の埼玉(さきたま)という地域に巨大な前方後円墳や円墳が9個も集中して残っているのを見て驚いた。さきたまの古墳時代に強大な王国の存在を想像できる。出土した、見事な細工の金属製馬具や装飾品の展示もある。5世紀終わりから7世紀はじめに作られた古墳と副葬品である。

その金属製の馬具や飾りを見てハッとした。1983年頃、韓国、慶州で見た古墳からの出土品とあまりにも似ているのではないか。素人の気安さで言えば、埼玉の古墳を作った人々は韓国、慶州から渡ってきたようだ。高麗という地名も埼玉南西部に現存する。

専門家の研究は詳細には知らない。ただ戦中、戦後の学校教育では万世一系の天皇をよく強調していた。そのせいか、埼玉にも巨大な前方後円墳のあることを習った憶えが無い。小生のみの勉強不足のせいかも知れないが、中年になるまで古墳は大和地方にしか無いと信じていた。理科系の受験で、日本史を選択しなかったせいもあると思う。

尚、古墳に関する調査結果やその検証と写真は「埼玉古墳群」と検索すると出てくる。(終わり)

撮影場所:埼玉県行田市大字埼玉(おおあざ さきたま)、撮影日時:6月7日午後1時頃、  撮影者:Mrs.藤山


外国体験のいろいろ(45)霞が浦のアメリカ化

2008年06月07日 | 旅行記

     ○アメリカバスの繁殖

霞ヶ浦は万葉の時代から筑波山と対をなして土浦の景観を美しいものにしている。水が汚れていると言われているが、晴天の日に沖に出れば青い水が白い風波とともに輝いている。夕日の美しい日には西空に牛久の大仏が中空に浮かび、目をぐるりと北の方へ回せば紅色に染まった筑波山が聳えている。晴れた夜に船を出すと満天の星空。はるか西の方には土浦の街の灯がまたたいている。

ずうっと沖に出て浮島の港に回りこむと漁船やヨットが松林の下に静かに舫っている。以前は民宿があり独りで一晩投宿し静かな時を楽しんだのも懐かしい思い出だ。

そんな日本的美しさの霞ヶ浦へアメリカバスやブルーギル、そしてアメリカザリガニが大繁殖している。

彼らは旺盛な食欲で霞ヶ浦名物の白魚やワカサギ、そして芝エビを食い尽す勢いである。名物の帆引き網にもかかって漁の邪魔をする。

湖岸で漆塗りの輝くウキを静かに浮かべ、へら鮒を釣っている人がいる。しかし、上げられるのはブルーギルばかりで肝心の鮒が釣れない。生態系も変化している。

 アメリカ式ルアーの投げ釣りは日本古来のウキを静止させる釣りより面白い。特に若者にとっては魅力的である。色彩豊かな擬似餌の準備、リールをカラカラ言わせて遠投するときの快感。釣れれば、バスは手元に引き寄せるまで水中を走り回って抵抗する。それを上手に操って手元に引き寄せる時間が楽しい。こんな釣り遊びを経験した日本人がバスを日本の湖沼へ放流したといわれる。

○アメリカ式釣り文化

大物を釣るには人の行かない遠方の葦原の根本を狙う。高速のバスボートが外国から輸入され、霞ヶ浦を縦横に爆走している。アメリカ流の遊びはなんと言っても面白い。この傾向は若者に多い。新聞やマスコミはそんな遊び方を非難する。しかし、マスコミは非難するだけで何も解決しようとはしない。

遊び方は文化の一部である。アメリカ流の政治形態、教育制度、経済制度を輸入しつつ、遊び文化だけ流入を阻止するのは不可能であろう。新しい遊び方が霞ヶ浦に入って来たお陰で若者が集まり湖岸が活気づく。

現在の若者は豊かな時代に育っているので、戦中、戦後育ちの高齢者より礼節がある。へら鮒釣りの老人は湖岸にゴミを散らすことに平気である。バスボートは爆音さえ抜きにすれば湖上で実に礼儀正しい。ヨットや観光船がいると慎重に航路を変えて決して近づかない。アメリカバスが漁業の邪魔になるからと言って、アメリカ流の遊びをしている若者を悪人呼ばわりするのはいかがなものであろうか?

外国種の生物が霞ヶ浦で繁殖するとどのような生態系の変化が起きるのか?もっと科学的な研究を深化するのもよい。漁業への損害額をもう少し定量的に推算するのもよい。しかしこれだけ外国との交流が盛んになった現在、外国種生物の移住を阻止するのは困難になっている。どんな生物の移入が危険なのか、もっと明快に研究してマスコミで紹介して欲しい。個人的な感想ではあるが。(終わり)


鮮やかな黄色に萌えるマサキの新芽

2008年06月06日 | 写真

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武蔵野の面影を求めて、金山緑地公園の外を歩いて見ました。

マサキの新芽が華やかに萌えています。

歩きながら、プロの農民が作る作物の勢いの良いのに見とれてしまいました。

朝取りの野菜を何でも格安で売っている小屋があります。おみやげに2,3束買って帰ります。

向こうに見える丘は埼玉県ですが、府中に国府が置かれた奈良時代は埼玉県も「むさしのくに」でした。

撮影日時、6月6日午前11時頃、撮影場所:清瀬、金山緑地公園の東の外の農村地帯。


豊かな気持ちになる清瀬、金山緑地公園

2008年06月06日 | 写真

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何も無くただ静かな水面が広がっている公園。清瀬市の金山緑地公園をとりとめも無く散策して来ました。梅雨の一休み、青空が水面に映り、木々の緑が一層濃くなって来ました。

疲れがとれ、豊かな気持ちで帰ってきましきました。

撮影日時:6月6日午前11時頃、撮影場所:東京都清瀬市、市役所の北側に流れる柳瀬川のほとりにある金山緑地公園にて。尚、ここに掲載した11枚の写真はフォトアルバム「清瀬、金山緑地公園の四季」へ追加しました。(終わり)


枇杷の季節になりました

2008年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム

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梅雨と枇杷。今年もそんな季節がめぐって来ました。そこはかとない甘さと香り、控えめな味がいかにも和風の果物と、食べるたびに感心します。この写真では、この和風の果物の隣に味の濃厚なアメリカからのチェリーが並んでいます。そんな取り合わせが面白く写真を撮りました。それだけの話です。

撮影場所:サミット国分寺店の果物売り場、撮影日時:6月5日午後3時頃。(終わり)


帆船日本丸は日本の文化遺産だろうか?

2008年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

5月1日掲載記事に書いた通り、帆船日本丸は、姉妹船海王丸とともに昭和3年の第55帝国議会で予算案が可決し、英国のリース市のラメージ&ファーガソン社へ設計と鋼材の切り出しと部品の調達を発注した。

鋼材と部品は全て日本へ輸送し、組み立ては 神戸川崎造船所で行った。昭和5年3月31日に竣工・引渡しが完了した。鋼材の切削・加工を行ったスキニンググローブ社(England)の名前が今でも船内の鋼材の上に明記してある。

初めの帆走・操舵技術は英国人教官の直接指導によったと思われる。それが証拠には帆走に関する設備・備品は現在でも英語の名前で呼ぶ。

すると、JR桜木町駅前に係留・公開されている帆船、日本丸は英国の文化遺産ということになるのだろうか?

この記事の前に「戦中、戦後、苦難の日本丸」という記事を書いたのは、この問いに自分なりに決着をつけるためである。現在、公開されている日本丸には現役54年の間に日本人の情熱と英知が惜しみなく注がれてきた。

結論を言えば帆船、日本丸の80%は日本の文化遺産であり、残りの20%が英国の文化遺産である。しかし、設計図を作るという行為と出来た帆船を大切に保守管理する行為は異質の行為であり、それを比較することには無理がある。

ただ正直な個人的感情で判断すれば80対20位が、妥当な配分のような気がする。

このような比率は人それぞれ違って良い。

しかし帆船、日本丸に関する案内書や刊行本には英国のこともリース市のラメージ&ファーガソン社のことも一切触れていない。不公平ではなかろうか?いや、狭量すぎる。

しかし日本丸の関係者だけはラメージ&ファーガソン社のことを説明してくれる。内部書類には明記してある。

政府の役人の狭量さが見えるようで寒々とした気分になる。日本人の品格に関係することなので記してみた。

皆様のご意見を頂ければ幸いである。(終わり)