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私の個人的な好き嫌いをブログに書くことはいけないことかも知れません。
しかしいろいろな教会に行くとおのずから好きと感じる教会とかならずしもそうでもない教会があります。絵画の好き嫌いと同じように気軽に書いてみようと思います。
私が好きな教会は、北ヨーロッパ風のゴチック建築で、内部が縦長で、祭壇にイエス様やマリア様が美しく飾ってある古臭い教会です。
1969年から70年にかけてドイツで通った教会がゴチック様式の造りでした。帰国して洗礼を受けたカトリック立川教会も木造ながらその古い構造でした。
洗礼を受けた前後に通った教会と同じような造りの教会が好きになってしまったのです。これは幼時体験のようなものでどうしようもないと思っています。
停年後は時間に余裕があるので家人とともに国内旅行をよくします。
旅先ではカトリック教会を訪問するようにしています。巡礼というほど堅苦しい気持ちでなく、観光のような気楽な気分で行きます。
カトリックでは常に、正面の扉が開いていて誰でも歓迎しています。内部に静かに入り、しばしお祈りをします。そして教会の中をゆっくり見物して回るのです。
沢山のカトリック教会へ行きました。私が好きだと感じ、印象の深かった教会はいろいろあります。
長崎の大浦天主堂と浦上天主堂、火事になる前の山口市にあった聖ザビエル記念聖堂、カトリック津和野教会、改築前の東京の聖イグナチオ教会、山形県のカトリック鶴岡教会、そして今回2度訪問した函館のカトリック元町教会などは私の大好きな教会です。函館には何度か行きましたがそのたびにこの教会を訪問しています。
この教会は1959年(安政6年)にフランス人の司祭、カション神父によって建てられた古い教会です。
明治維新の起きる前の江戸時代です。キリシタン禁教は厳しく、明治政府になってから7年間もキリシタン禁教が続けられたのです。
新しい明治政府によってもキリシタンが逮捕され、遠方に流され、多数の死亡者も出たのです。特に九州の大浦では多数の隠れキリシタンが逮捕され本州の各地の僻地へ送る流罪になったのです。津和野のように、流された先の人々によって殺された例も多いのです。
明治政府がキリシタン禁止の高札を撤去したのは1875年なのです。ですから教会が出来ても隠れキリシタンがそこを訪れることが出来ませんでした。
そんな古い時代に函館のカトリック教会が造られたのです。フランス人神父によって。
このカトリック元町教会は、以後、3度の火事にあいます。
現在、数多くの観光客が訪れる建物は1924年(大正13年)に出来たものです。
この教会の内部の中央祭壇と、会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻はイタリーのチロル地方の作品です。ときのローマ法王ベネディクト15世が寄贈してたものです。力強い作品です。美しい作品です。この教会全体が調和を持った一個の美術的な作品になっています。
函館観光に行ったら是非、このカトリック元町教会をご覧下さい。上に6月17日と20日に撮った写真を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
先程、梅雨時の鬱々とした雰囲気を写真に撮ってみました という題で暗い写真をお送りしました。
しかしやはり明るい風景がお好きな方々のために、晴天の下で碧く光る函館湾の風景写真をお送り致します。
海の向こうに見える山々は松前に行くとき越える峠のある山地です。山の向こう側に松前があります。
明治維新のときの函館戦争では土方歳三一行の幕府軍がこの山を越して松前藩を攻め落としたのです。
そしてその5ケ月ほど後に明治政府軍が江差に上陸して、この山並みを越えて函館へ攻め込んだのです。
土方歳三は函館の街路を馬に乗って奮戦中に銃で撃たれ戦死します。そして五稜郭にこもった榎本武揚に指揮された江戸幕府軍は降伏したのです。幕府軍の死者800人。政府軍の死者300人でした。
そんな激しい市街戦のあった函館も現在は静かに海の右側に横たわっています。
6月17日に撮影しました。
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梅雨の間は毎日曇りや雨で、昼間でも暗いものです。気圧が低くて、湿気が高いので体調も良くありません。暗い気分です。鬱陶しい気分です。
そこで気分転換のために、そのような感じを写真で表現してみることにしました。
鬱蒼とした森の広がる神代植物公園に行くことにしました。薄暗い林の中に暗い気持ちで咲いているアジサイの花々を撮ることにしました。暗欝な木々の向こうに広がる睡蓮の池の写真も撮ることにしました。車で20分位のところにある植物園です。
私の意図をクドクド説明して家人に写真を撮って貰いました。私は撮影の場所と構図を考えました。
下の写真群が作品です。
梅雨時の鬱々とした雰囲気が写真に写っていれば嬉しく思います。
写真を沢山撮って、この文章を書いていましたら大変元気になってしまいました。
皆様もお元気になりますようにお祈りいたします。
何時もは明るい太陽が射している中央広場も、今日はこんなに暗いのです。広場を囲む森が憂鬱そうな黒い色です。この中に分け入って暗い林の中のアジサイの花の写真を撮ろうとしました。
森へ続く道です。やはりアジサイが咲いています。
森の中には色とりどりのアジサイが沢山咲いています。
森の中でアジサイの花々の写真を撮りながら奥へ、奥へと進むと向こう側にスイレンの咲いている池が見えてきます。
下にはアジサイの花々の写真とスイレンの花の写真を追加しました。
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1853年にペリー提督が黒船で来航以来、江戸幕府はアメリカ、ロシア、イギリス、オランダなどと修好通商条約を結び、長崎、下田、函館に外国の領事館を置くことを許可しました。
そして江戸から遠方の下田に初めてのアメリカ領事館を置き、はるか遠方の箱館という寒村に初めてのロシア領事館とイギリス領事館が置かれたのです。
北海道には当時、松前藩があり、城下町の松前には北前船が通い、賑わっていたのです。
近江八幡の商人や大阪の豪商の出店が並び、商店の連なった町には人が溢れていたのです。幕末には松前藩13代目の藩主が善政を行い、領民は漁業と北前船を使った商業で豊かな生活をしていました。蝦夷地のアイヌ人はこの松前藩へコンブや海産物を売り、生活が楽でした。それは北海道の一つの繁栄した平和な時代だったのいです。
しかし江戸幕府はこの松前を開港しないで、そこから険しい山を越えた箱館という寒村を外国へ開放したのです。これが松前と函館の運命の明暗の別け目になったのです。
1858年、日露修好通商条約が出来るとロシア領事、ゴシュケヴィチがすぐに函館に着任します。
彼は領事館の付属聖堂としてロシア正教の教会堂を作ります。そして1861年には領事館付き司祭としてニコライ神父をよびます。
このニコライは後に東京の神田にニコライ堂を建て、ロシア正教を基礎にして日本正教会を作ったのです。
ニコライは日露戦争が起きても日本に踏みとどまって日本人信者の為につくしたのです。亡くなった時には明治天皇から花輪が贈られ、上野の谷中の墓地の土になったのです。
一方、イギリス領事館は1859年に箱館に出来、初代の領事としてホジソンが着任しました。このイギリス領事館はその後75年間も函館でいろいろな活動を続けたのです。
領事館より少し遅れましたが1874年にはイギリス聖公会・聖ヨハネ教会が函館に作られました。日本中からキリシタン禁教の高札が撤去されたのは次の年の1875年(明治7年)だったのです。
この函館聖ヨハネ教会の開設には当時のイギリス領事が強力に支援しました。
今回の函館旅行ではロシア領事館と函館ハリスト教会、そしてイギリス領事館と函館聖ヨハネ教会の写真を撮ってきました。いずれも火事に遭い、幕末の建物ではありませんが古い様式を忠実に守っています。詳しい歴史は検索するといろいろな情報があります。
上のロシア領事館は庭だけが開放されています。随分と傷んでいますが雨だけは洩らないように保守管理されています。正門わきにロシア領事館の歴史を書いた看板があります。
・上と下の2枚は函館ハリスト教会の外観です。内部は撮影禁止ですが、金箔がまばゆい祭具や燭台が聖画に供えられています。共産党革命以前のロシア文化の香りを湛えています。東京、神田のニコライ堂を少し小型にしたような教会ですが神秘的な中の飾り付けは信仰の強さを暗示しているようで、感動的なものです。
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下は函館イギリス領事館です。
現在、この領事館は入場料300円を払って見学できます。入口にイギリスの物産品を売っている店やティールームがあります。
下は函館聖公会・聖ヨハネ教会の現在の建物の外観です。
なお函館にはフランス人神父の作った古いカトリック教会もあります。この記事の続きとしてご紹介いたします。
このように淋しい小さな漁村に外国の領事館や教会が江戸末期に出来たことで箱館は急に繁栄し始めるのです。
その勢いは松前藩の城下町を追い越して明治時代には函館が北海道の開拓の玄関口になったのです。青函連絡船も出来、現在では松前は淋しい観光地になってしまったのです。
北海道の生活は厳しさと雄大な自然と一言で表現すると大きな誤りになります。
同じ北海道でも生活の厳しさは地域によって非常に格差があるのです。函館の街を車でおちこちへ走っていると、この街の繁栄ぶりが良く分かります。一方、松前へ峠を越えて行くとその淋しさが胸がせまります。
江戸幕府が松前の城下を避けて、寒村の函館をロシアとイギリスの領事館を置いたのが運命の分かれ目になったのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
北海道から出土する縄文土器は円筒形をしたもので、同じような土器が北東北地方からも出てきます。当時の縄文人は現在のアイヌ人の祖先と考えられます。
同じように黒曜石で作った矢じりや小刀は北海道も北東北も同じ産地の黒曜石を使っていました。矢じりを矢に接着するアスファルトも同じ秋田県産のものを使っていたのです。
やがてアイヌ人と大陸からの渡来人との混血によって弥生人が出来て行きます。そうしてこの弥生人がアイヌ人(縄文人)を次第に駆逐して行きます。
その後、大和朝廷は仙台市の多賀城に北端の城柵を作り、アイヌと違った文化圏を作りあげて行ったのです。
この現象が日本人とアイヌ人の分離と住み分けに繋がって行くのです。
そして明治維新以後に、明治政府が北海道開拓を推進し、アイヌ人を日本人へ同化し、混血が進み、アイヌ人は日本人と融合してしまったのです。
弥生時代になってから、全国に住んでいたアイヌ人が日本人と北海道のアイヌ民族と分離したのです。それが明治時代以降に再融合したのです。雄大な歴史ロマンではありませんか?
縄文時代には北海道も北東北も同じ円筒形縄文土器を使っていたのです。その円筒形の土器の分布図を下に示します。出典は、「南茅部町と北東北の交流」:
(http://isikari.genin.jp/kitanokodaisi/kitanojiyomon/kitatouhoku/kitatouhoku.html )です。
そしてその右に黒曜石の産地と移動を示す図面も示します。出典は同じです。
なお 北海道の生活の厳しさと雄大な自然(3)我々の先祖はアイヌ人だった! で紹介した函館市臼尻町は南茅部町と函館市が合併して出来た町名番地で同じ所のことです。
それにしても世の中には不思議な趣味があるのものです。
黒曜石からワザワザ刃物を作り、「石器ナイフ」として販売しているのです。
下にその写真をご紹介します。出典は、http://www.h2.dion.ne.jp/~isi/page5/sub5.htmです。
このようなナイフや矢じりの切れ味は大変良いそうです。これを使うと縄文時代の生活体験が出来るので興味持つ人が居るのでしょう。
・上のナイフには21000円の値段がついています。
下の矢じりは2千円から4千円といろいろな値段がついています。
縄文時代(BC15000年?ーAC200年?)に日本列島に広く住んでいた人間はアイヌ人で、彼らが縄文土器を多量に作ったのです。すなはち縄文人とアイヌ人は同じ人間だったのです。
そして北海道に居た縄文人(アイヌ)の子孫は朝鮮や中国か渡来した人と混じらないで純粋にその文化を伝承したのです。その北海道人が近年まで北海道に住んでいたアイヌ人なのです。
一方、本州に居たアイヌは大陸からの渡来人と混血し弥生人になりました。そして本州を中心に棲みついた現在の日本人の先祖になったのです。
渡来人の血が濃いのは九州や大和地方の人で、アイヌの血が濃いのは東日本の人です。私は宮城県で生まれましたのでアイヌ人が祖先と言っても大きな間違いがありません。
縄文人イコールアイヌ人。そして我々の先祖。この大胆な仮説を信じるようになったのは北海道の函館市臼尻小学校付近から出土した多量の精巧な土器や土偶を見た瞬間です。瞬間的に確信しました。しかし近年まで純粋にアイヌ文化を保持してきた北海道のアイヌ人は縄文土器も含めて焼物を一切作りません。それは失われた文化になってしまったのです。
岩礁の迫った険しい地形の海岸の臼尻町は孤立したでした。市町村合併で函館市になりましたが非常に辺鄙な漁村です。そこに立派な縄文土器の展示館があるのです。衝撃的な展示物は国宝に指定されている中が空洞になっている高さ41・5センチメートルもある大きな土偶です。詳細は、函館市縄文文化交流センターを検索すると出ています。
1万年前から2000年前にかけて北海道には広く縄文土器が存在していたのです。当時はアイヌ人しか北海道に住んでいなかったのです。ですから縄文人イコールアイヌ人という結論になります。
本州に住んでいたアイヌ人は渡来人と混血し弥生人になったのです。私はこの仮説を信じます。
以下に私が撮った臼尻町の縄文土器関連の写真を示します。
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この縄文土器展示館の係員へ聞きました。
「アイヌ人と縄文人は同じ人なのですか」と聞きました。係員は、「いろいろな説があり結論は出ていません。しかし、北海道ではアイヌ人は縄文人の子孫と言われています」と答えていました。
民族は生物学的な分類だけでなく宗教や文化の独自性で生まれるという考えを再確認する今回の北海道旅行でした。私にとっては驚きの旅でした。(続く)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
函館半島の東側は太平洋の荒波が砕けれる岩礁地帯です。急峻な岩山が海に落ち込んでいて、海岸には畑を作る土地もありません。岸壁にしがみ付くように古い家々が連なっています。
恵山道立公園の恵山岬、銚子岬、川汲の、そして臼尻町、から鹿部までの30kmほどの海岸道路には廃屋が点々と続いています。
現金収入は コンブと出稼ぎだけが頼りです。函館などの大きな漁港から出る大型漁船に乗組む出稼ぎです。勿論、出稼ぎにはその他にいろいろあります。
家の周りには畑を作る土地が無いのでジャガイモやカボチャすら出来ません。この地方を車で走っているとスーパマーケットもコンビニもありません。食品を積んで売り歩いている小型トラックを見かけます。住んでいる人は 高齢者が多いのでしょう。
廃屋の多さが生活の厳しさを示しています。
しかし、思い切って都会に出て行って成功して、裕福な生活をするのも人生です。
ですから廃屋の多さが不幸を意味しているとは信じません。
それにしても北海道の生活の厳しさの一つの部分であることは間違いありません。
下にそのような風景の写真を示します。
・このような急峻な岸壁が海へ続いているので小型の磯舟しか入れないような漁港しか作れません。家の裏は絶壁で畑作が出来ません。
・玄関の屋根の作りや電燈が 昔は立派な家だったことを偲ばせています。でも誰も住まなくなってから随分と時が経っているようです。隣の家の人が物置かわりに使っているので電気メーターが生きています。
この家は昔の住人が時々帰ってきて雨が屋内に入らないように手入れをしています。そんな様子が伺えます。
この家は住宅ではなくコンブなどの海産物を加工して箱詰にして出荷する工場だったようです。
この278号線の道路は鹿部まで岸壁が海に迫っています。
昨年の東日本大震災のような大津波が来たら一遍に洗い流されます。それを予測して所々に裏の岸壁に登る鉄梯子があります。その鉄梯子のある風景も怖い津波を連想させ、生活の厳しさが一段と強く胸にせまってきます。
278号線が鹿部を過ぎると途端に平地が開け、小綺麗な家々が見えます。畑作と漁業の両方が出来るとこんなに楽な生活ができるのかと感動します。
鹿部を過ぎ、イカメシで有名な森の町まで行くと平野です。森には水産加工工場が幾つもあって豊かな町のように見えます。何故かホットして少し立派な和食の店で昼食にしました。
刺身定食のほか地魚の八角のサシミとツブ貝を食べました。どれも新鮮でおいしかったです。帰路は海岸を通らないで国道で大沼公園へでました。
それにしても戦中、戦後に育った私の記億では日本には廃屋はありませんでした。当時は物資が不足していた時代なので廃屋の材木は貴重な建築材料や燃料としてすぐに再利用されたのです。
ですから廃屋の多さは日本が豊かになった証拠なのです。喜ぶべきことなのかも知れません。
しかし廃屋を見ると胸の潰れる思いをします。何故か不幸の象徴に見えるのです。そうは思っても廃屋を取り壊して、整理するのは所有主にしか出来ません。都会へ出て行って豊かな生活をしている人は昔の思い出のある家を壊したくないのかも知れません。廃屋を見る度に人生の不可思議さを考え込んでいます。
北海道だけでなく、東京の奥多摩の山地にも廃屋が沢山あります。そんな事を思い出し、考えさせられた北海道の旅でした。(続く)
東京の真ん中の銀座にヨットマリーナがあることをご存じでしたか?番地は銀座7丁目の外側のようですが、銀座7丁目に隣接した所に運河があります。
下のURLをクリックすると浜離宮があります。その右は築地の魚市場です。浜離宮と築地魚市場の間にある運河で、その端はJR新橋駅の方向に入り込んでいます。築地川という運河です。そこが昔からヨットやモーターボートの静かなマリーナになっています。
東京ベイヨットクラブの昔の所有艇のババリア39フィート艇のBig Bear 号のホームポートでした。3年前のある日の夜の東京湾セイリングの折に写真を撮ってきました。
浜離宮の緑の森の風景と合わせてお楽しみ下さい。新橋駅の品川寄りの出口から400mの所にあります。浜離宮へのお散歩に便利な地下街と思いましてご紹介いたします。(終わり)
右手の森が浜離宮です。下の写真は千葉県保田漁港から回航してきた東京ベイヨットクラブが昔所有していた大型43フィート艇、Bambino です。
下の写真の左手が浜離宮で、奥のビルの向こう側がJR新橋駅です。地下街でつながっています。400mの距離です。
ヨットの趣味は始めるのが面倒です。
学生時代にヨット部に入っていて、ディンギーと呼ばれる小型ヨットの経験がないと、就職してから始めるのは難しいと思っている人が多いのです。
ところが私は50歳になってから、江の島のヨット・スクールへ通い、セイリングを習いました。その後、葉山マリーナのスポーツクラブに入会しディンギーの趣味を続けました。
そしてヤマハ・19の中古クルーザーを購入し、10年間乗りました。
その次は大きなキャビンのあるジョイラック26というアメリカの中古艇を買って、13年6ケ月乗りました。
昨年10月にそのヨットを売り渡し、25年6ケ月のヨットの趣味を卒業しました。
この経験は私の人生観をかなり変えたのではないかと思っています。
兎に角、いろいろな職業の人がヨットの趣味を持っているので、その影響で自分の職業観が随分と変わったような気がいたします。
それまでは自分の職業だけに関心があり、とても狭い視野で世の中を見てきたのです。ヨットを始めていろいろな人々と一緒にセイリングをしたり、一緒にビールを飲んだりして、「目から鱗が落ちる」経験を何度もしました。
そのお陰で職業には貴賤が無いと確信出来るようになりました。
それと初対面の人とも直ぐに友人になれるようになったのです。従来の自分の人見知りの性格が変わってしまったのです。
その他、いろいろとものの見方が柔軟になったと思います。
そこでこのブログでは数多くのヨットにまつわる記事を掲載して来ました。
下にその一覧表を示します。右端の投稿の年月日から記事は左サイドのバックナンバーから容易に検索できます。
ご笑覧頂き、お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。そして中年の方々がヨットの趣味を始めるようにと祈っています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
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