後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

空と海の写真を撮りながら韓国人を差別する日本人の心の貧しさを想う

2016年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム
どこの国にも善人とそうでない人が住んでいます。そして全ての民族文化には絶対に優劣が無いとも言います。しかし最近になって北朝鮮人はもとより韓国人を差別し、一方的にあしざまに言う日本人が増えてきました。
私はその差別と非難は間違いであると思います。その趣旨で昨日まで、「80歳になって日韓友好を祈る」と題して3回の連載記事を書いて来ました。
それに対していろいろと考えさせるご意見を沢山頂きました。まだ連載は続けるつもりですが、一休みして少し考えてみようと思います。
そこで昨日は三浦半島の葉山、森戸海岸、長者ケ岬、佐島港とドライブしながら静かに考え直してみました。相模湾の海と空の風景をゆっくり写真に撮りながら考えると広い気持ちになります。本来人間の持っている性質は民族に関係なく同じだと感じるのです。
昨日撮った写真をここに示します。









今日書きたいことはたった一つです。簡単に言ってしまえば「他人を差別し非難する人は、その人自身が不幸になる」という考えです。
他人を何かの理由で差別すると快感を覚ええます。そして他人をあしざまに非難すれば自分が他人より偉くなって気持ちが良いものです。
ですから人間はついそうします。私も何度も繰り返し他人を差別します。快感を覚えます。気持ちが良いものです。
しかし次の瞬間に暗いみじめな気持ちになります。自分がそのような悪性な心を持っていたことに落ち込むのです。80歳になって悟りの境地になったと偉そうなことを書いても、時々は暗い気持ちになります。その結果、差別し、あしざまに非難することは自分の心の貧しさなのだと確信します。
韓国人を差別する行為は韓国人と自分自身を傷つけるのです。差別は自分の心の貧しさの表れなのです。
貧しい心で人は幸福になれる筈はありません。ですから韓国人を差別し、一方的にあしざまに言う日本人は幸せになれないのです。このように私は信じています。いや信じたいと思います。
このように書くと必ず韓国人の遺伝子が悪く、いくら好意を示しても絶対に友人にはなれないと反論してくる人が幾人もいます。これは決定的に間違っています。人間の遺伝子はどの民族も似たり寄ったりです。ある民族だけが凶暴で復讐心がおおせいだということはあります。しかしそれはその民族のまわりの他の民族の行為がそのようにさせているのです。これが文化人類学の原則です。
ですから韓国人が仮に凶暴だとしたら隣国の北朝鮮と日本がそのようにさせているのです。
このような理解が客観的な理解というものです。
このように書くと必ず日本は戦後賠償も含めて韓国を手厚く援助してきたのに反抗していると非難する人が多いのです。この考えも主観的過ぎる理解です。問題は先方がどのように思っているかなのです。そのように考えるのが自分自身を幸せにさせる考え方です。それは自分の問題であり韓国人には関係の無いことなのです。
最後に、1985年にドイツのヴァイツゼッカー大統領がした演説の一節を示して終りといたします。
「・・・ドイツ人(ここを日本人と置き換えてお考え下さい)であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。・・・」

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

80歳になって日韓友好を祈る(3)簡略にした朝鮮の歴史と金鉄佑さんのこと

2016年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム
80年の私の生涯において朝鮮の方々と幾度か親しい交流がありました。それは子供の頃友達になった一人の朝鮮人の少年のことから、人生の後半まで時々起きた不思議な出来事でした。
今日はその一つの金鉄佑さんのことを書いてみたいと思います。
しかしその前に朝鮮の歴史を簡単にご紹介したいと思います。
日本と朝鮮の交流が盛んだった時代は古墳時代だったといいます。日本の古墳と同じような古墳が韓国の慶州に沢山あるのです。日本で副葬された刀や槍、そして馬具などは韓国の古墳から出て来るものと全く同じなのです。埼玉県の行田の古墳と韓国の慶州の古墳の両方を見た私はその類似性に吃驚したものです。古墳の形だけでなくいろいろな副葬品が全く同じなのです。
それはそれとして古墳時代の後の飛鳥、奈良時代に交流のあった百済、新羅、高句麗の三国のことは学校でよく習います。日本と同盟した百済が滅び新羅と高句麗が栄えます。
これらの三国の後はいろいろ戦乱があり、918年、後高句麗の豪族の健が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗を建国したのです。この高麗は現在の韓国の英語名のKorea になったのです。
この高麗は918年から、1392年に朝鮮王朝の開祖李成桂が開城で王に即位し李氏朝鮮が始まるまで続きました。
このように整理すると朝鮮の歴史は分かりやすいのです。しかしこの整理の仕方は簡略化のし過ぎです。
日本の歴史と朝鮮の歴史を比較すると非常に大きな違いがあります。
朝鮮は中国と陸続きです。いろいろな時代に中国大陸から強大な敵国が侵入し、北朝鮮のみならず南も占領されたのです。そのたびに高麗や李朝は戦ったり和議を結んだり苦難の歴史を歩んだのです。
北朝鮮は渤海、東丹国、元朝に支配され、特に元は朝鮮半島全部を支配し、日本へまで攻め込んで来ました。
その日本も秀吉の出兵により李氏朝鮮の首都、漢陽(現在のソウル)も陥落したのです。それは1592年の 文禄の役(壬申の倭乱)と1597年の 慶長の役(丁酉の倭乱)です。しかし 李舜臣の活躍で日本軍を撃退されました。現在、韓国では李舜臣の銅像があちこちにあります。
さて朝鮮の歴史でもう一つ重要なことは地方、地方によって歴史が違うことです。現在でも百済、新羅、高句麗のあった地方はそれぞれ異なる文化と政治意識を持っていると聞きます。
以上が朝鮮の歴史を簡略にしたものです。
さて話は飛びますが、ここで金鉄佑さんのことをご紹介したいと思います。
彼は私を韓国へ招待してくれた人でした。一昨年亡くなってしまった忘れ得ぬ人です。
話の発端は1962年から1966年の昔のことです。
当時、東京大学工学部付属研究所に「生産技術研究所」がありました。
その研究所の雀部高雄教授の研究室に金鉄佑さんが所属していました。
金さんは、その時代の韓国の政府の政策に反対する政治運動もしていたらしく、日本の警察に逮捕され拘置所に長く拘留されていたのです。
人徳豊かな雀部高雄教授はその弟子の金さんの釈放を求める署名運動をしていました。雀部教授を尊敬していた私は進んで署名しました。
署名はしましたが長く釈放されなかったので、私は金鉄佑さんと一度も会ったことがなく20年近い月日が流れました。
そして1984年頃、突然、金さんから封書が届きました。知らなかったのですが彼はその後韓国に帰り、浦項製鉄所の技術研究所の所長になっていたのです。
そして私を韓国の金属学会の大会で講演するようにと準備万端整えて招待してくれたのです。
我々夫婦を招待して慶州のお寺や古墳群や、そして釜山や大丘やソウルの観光案内もしてくれました。案内してくれたのは韓さんという技師さんでした。浦項製鉄所では立派なゲストハウスに泊めてくれたのです。
私はその時、始めて韓国を訪問したのでしたが、人々の親切さに感銘を受けたのです。
金鉄佑さんとははじめて会いましたが、旧知の仲のように雀部高雄教授の思い出話をしました。雀部教授はその当時には既に亡くなっていたのです。
金さんは雀部教授から受けた恩を縷々話していたのです。その後いろいろな韓国人と酒席を共にして話し合いました。すると彼等はお世話になった日本人を絶賛するのです。
この気質や文化は現在でも変わっていないと私は信じています。

なお「金鉄佑」のことは、http://www.e-gci.org/15GCF/15GCF.html に出ています。
今日の挿絵写真は韓国の世界遺産の南漢山城の2枚の写真と同じく世界遺産の済州島の王宮の写真と仏教のお寺の本堂の3枚の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









「梅の花の写真が好評なので、また今日も撮りに行きました」

2016年02月03日 | 日記・エッセイ・コラム
私の住んでいる都下の小金井市には以前、あちこちに畑が広がっていました。梅林も幾つもありました。梅の実を収穫するための梅林なので花の観賞用の剪定がされていません。しかし自然にのびのびとした枝に紅梅や白梅が咲いている風情はなんとも言えず良いものでした。
そんな昔の記憶に誘われて梅林を探して武蔵国分寺跡まで昔農村だった地域を車で巡りました。
20年くらい前までは梅林だった場所には洒落た住宅が建ち並び梅林がすっかり消えて無くなってしまいました。
やっと農家の庭さきで一本の木が白梅を咲かせていました。写真の背景が悪い場所なのでクローズアップにしました。なお紅梅は昨日撮った写真です。
それにしてもあんなにあちこちにあった梅林が無くなってしまい淋しい思いです。
日本の風景がどんどん変わることに無常を感じます。
梅の花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。









80歳になって日韓友好を祈る(2)東日本大震災後の韓国人の支援を我々は絶対に忘れない!

2016年02月03日 | 日記・エッセイ・コラム
自分の隣人を大切にし尊敬することは人間の倫理の基本です。それにしても今日ご紹介します写真は真面目な韓国人達の本当の姿です。尊敬せざるを得ません。

ご紹介する写真は、東日本大震災が起きた後、すぐの韓国の街の様子の写真です。
あの時、街には、こんなメッセージが溢れかえっていたのです。
友人の中村 文政 さんから教えて頂いた写真集です。
2011年の3月11日の東日本大震災の後で、韓国人は我々を激励するメッセージを韓国の町中に掲示し、多額の義捐金や救援物資を送ってくれたのです。その上多数のボランティアの韓国人が被災地の復興に汗を流してくれたのです。

今日は、韓国人が我々を激励するために掲示したメッセージの写真を6枚お送りします。
写真は、http://cadot.jp/impression/1794.html?detail から転載いたしました。

韓国の人々、本当に有難う御座いました。ご恩は絶対に忘れません!











今日の紅梅と白梅の写真をお楽しみ下さい

2016年02月02日 | 写真
小金井市に隣接する府中市の北端に浅間山という小さな丘があります。雑木林に覆われた美しい小さな山です。その南隣に小さな公園があり、毎年、見事な紅梅と白梅が咲いています。今年もそろそろ満開になる頃と思い先ほど行ってきました。
今日の紅梅と白梅の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。















80歳になって日韓友好を祈る(1)李朝の磁器が日本に与えた良い影響

2016年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、非常に親日的な台湾に関して、「台湾のことを想うと心が痛む」と題する連載記事を3回掲載しました。台湾は日本の南です。そして西の隣国は韓国と中国です。東側は茫々たる太平洋です。自分の隣人を大切にし尊敬することは人間の倫理の基本です。
そこで今回から韓国を取り上げ「80歳になって日韓友好を祈る」と題する連載記事を書いてみたいと思います。
表題に「80歳になって・・・」と題したのは自分が生きた80年間の日韓交流の体験をまじえながら2000年間にわたる日韓交流を考えてみようと思ったからです。
連載の第一回は現在でも日本人に高く評価され愛好されている李朝の磁器のことです。それはまさしく朝鮮が日本に与えた良い影響の一つです。
皆様は柿右衛門が磁器に赤絵の焼き付けに成功したことを教科書で習ったことを憶えていると思います。それは1646年のことでした。
日本では秀吉の朝鮮出兵まで磁器の焼成ができず土器を簡単に焼いた須恵器という陶器しか出来なかったのです。
それが連行されて来た朝鮮の陶工たちによって初めて磁器が焼成されたのです。それは革命的な技術革新でした。
この新しい技術には2つの絶対条件が要求されます。
(1)磁器になる岩石成分を多く含有する磁石(じせきと言い、じしゃくとは違う)を発見する技術。
(2)焼成する炉の熱効率を上げて1000度以上の温度が出る構造の焼成炉を作る技術。
この二つの技術が日本には無かったのです。
さて朝鮮から連行されて来た陶工達はどのようにして上の新しい技術を伝えたのでしょうか?
この問題を詳細に研究して発表している専門家がいます。彼は東京都の清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんです。以下は彼の2008年6月発表の研究論文(http://members3.jcom.home.ne.jp/nabari.u.y/imari.pdf)からの抜粋です。
佐賀県の一帯には、古来より須恵器からつづく窯が点在していました。その景観が一変する契機となったのが、秀吉による次のような朝鮮半島への出兵でした。  
・文禄の役(1592 ~ 94)
・慶長の役(1597 ~ 98)
 この文禄・慶長の二度にわたる出兵により、数多くの朝鮮人の優秀な職人たちと共にわが国へ連れてこられたのです。そのなかに陶工達もいました。
秀吉は朝鮮半島での戦で戦果を挙げた日本の武将たちへ恩賞としての領地を与えられません。
そこで朝鮮陶工を帰化させることにり、諸藩へ新たな窯業を興させ、それをもって恩賞に代えることにしたのです。それが秀吉の政策の一つでした。
彼らは連れていかれた諸藩へ帰化し、各々の領主の庇護を受けて陶器の製造をはじめたのです。それらは後に、唐津焼、上野焼、高取焼、薩摩焼、萩焼と呼ばれる焼き物を生産する窯業地帯を形成しのです。     
 なかでも多数の朝鮮陶工をともない、後の唐津焼きの礎を築いたのが北九州の鍋島藩、平戸藩、唐津藩でした。
 その陶工らは、松浦・佐賀・多久・武雄、平戸・諫早に陶土をみいだし、それぞれの窯を築いたのです。やがて有田西部の乱橋に移住した李参平は、有田川上流の泉山の地で磁器原料となる磁石を発見します。
上白川の天狗谷に窯を築き、磁器の試作を完成させたのです。これこそが我が国で初めて磁器が焼成された技術革新でした。
そしてそれから40年余が経過した正保三年(1646)に、酒井田柿右衛門が赤絵に成功したのです。
国産赤絵の成功を契機に、藩は一方で磁器製法の秘術を守り抜くために有田皿山へ番所を設け商人の直取引を禁じ、他方で海上輸送の焼物の集積港である伊万里津へ買い付けの場を定め、販売の制度を確立していったのです。
美しい絵模様のついた磁器はやがていろいろな藩で焼成されるようになり藩財政を潤したのです。そして江戸時代の外国貿易の主要な輸出品になっていったのです。その詳細は是非、清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんの研究論文をご覧ください。
それはさておき視点を変えて、日本で現在でも尊重されている朝鮮本土の李朝白磁の写真を見てみましょう。
李朝の陶磁器は、初期には粉青沙器が主流でしたが、17世紀以後は白磁に変わりました。
中国の元、明の白磁の影響を受けたものですが、17世紀には色が青味がかり、李朝末期には濁った白色に変わったのです。
李朝では、磁器の製造は官窯でである工匠が行っていました。
一方、中国では1752年に広州に分院の官窯が作られ生産の中心になっていましたが、1883年に分院が民営化され官窯の歴史は終わったのです。
さて李朝の磁器には下絵付はありましたが、上絵付はありませんでした。
コバルト顔料で下絵付した青花も作られましたが、コバルト顔料が不足したため、鉄絵具で下絵付する鉄砂や銅絵具で下絵付する辰砂(赤茶色)も作られたのです。
しかし、李朝白磁の95%以上は他の色による装飾がない純白磁であり、江戸時代に日本で作られていたような華やかな色絵磁器は李氏朝鮮には存在していません。
以上の解説文は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%9C%9D%E7%99%BD%E7%A3%81#mediaviewer/File:Baekja-White_Ceramic.jpg から抜粋いたしました。
さて李朝の白磁は素朴で暖かみがあります。その上、上品な感じがします。見る人の心をなごやかにするのです。私も好きです。現在の日本人も尊重していますので、その写真を示します。
李朝の焼き物の一番目の写真以外の写真の出典は、http://www.nakamaga.com/newpage11.html です。一番目の写真の出典は上の解説文の出典と同じです。
二番目は李朝初期の白磁皿です。三番目は初期の白磁徳利です。四番目は李朝中期の貝文大徳利です。五番目は李朝後期の大白磁徳利です。
今日の話はこれでお終いです。このように日本へ良い影響を与えた朝鮮の文化を尊敬せざるを得ません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









今年の世界遺産への観光案内、今年は長崎が熱い!

2016年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム
国連のユネスコの認定する世界遺産はいろいろな意味で見に行くべき価値があり、毎年多くの観光旅行客が押し寄せます。
富岡の製糸工場が認定され観光客が急に増えました。そして富士山の山岳信仰が認定され登山者が急増しました。
さて今年は国連によって何処が世界遺産として、この5月に認定されるのでしょうか?
去年から政府によって正式の推薦書が送られたのが「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」です。
そして去年中に国際記念物遺跡会議(イコモス)の専門家による調査も終わっています。
イコモスは去年の調査結果を踏まえ、今年の5月ごろに評価結果をユネスコに勧告し、7月の世界遺産委員会で登録の可否が正式に審査される運びになっています。
前例に従うと「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産に認定されるのは間違い無いと言われています。
この状況なので多くの旅行会社は長崎方面のパック旅行の企画をしているのです。今年はキリスト教関連遺産のある長崎県や熊本県への観光客が急増すると言われています。
長崎が熱い観光スポットになるのは間違いありません。
特に江戸時代に隠れキリシタンが多数住んでいた五島列島には多くの美しい教会が散在していて魅力的な観光地になっています。私どもも昨年の4月に五島列島に2泊し、これらの美しい教会群をめぐり歩きました。
そこで今日は長崎と五島列島への観光案内を簡略に書いてみます。
五島列島は長崎港から船で2時間以上かかる本当に遠い離れ島です。
長崎の活水大学の教授だった片岡弥吉氏のキリシタンに関する数々の本や遠藤周作氏の「沈黙」などのカトリック関連の著書を読んで以来一度は訪れるべき場所として長らく心に決めて憧れていた場所でした。
私どもは長崎から小さい旅客機で下五島の福江に渡り、そこに一泊しました。2日目は海上タクシーで上五島に渡りそこに泊まりました。
3日間、観光バスで五島列島の険しい山々を越えて岬と岬の間にある小さな集落を幾つも巡り5つのカトリック教会を訪ねました。五島列島には全部で50ケ所のカトリック教会がありますので、訪問したところはそのほんの一部にすぎません。以下に上五島と下五島に散在する教会を示した地図を掲載いたします。
出典は、http://islands.chicappa.jp/goto-web/03sightseeingchurch.htm です。

ここには教会群だけではなく古い日本の文化も残っています。
この島は遣唐使以来、中国大陸への航海の最後の寄港地として弘法大師の空海や伝教大師の最澄が風待ちで長く逗留した場所でもあります。仏教も盛んな土地です。立派な神社もあります。
その上、山上憶良のこの地にまつわる歌もあるのです。従って五島列島は万葉集時代から文化交流の十字路として重要な島だったのです。キリシタン信仰はずっと後になって江戸時代から入ってきたのです。
遥かな五島列島への旅では驚くべきことを沢山見ました。人の近づけないような急峻な山に囲まれた小さな浜に建っている美しい天主堂。見にくい場所に隠れるように作られたキリシタン墓地。 狭い五島列島に50ケ所も存在しているカトリック教会。五島出身の26聖人の一人、ヨハネ五島の磔の像。そして擦り凹んだ踏絵の真鍮のマリア像。どれもこれも江戸幕府の過酷なキリシタン弾圧を耐え、信仰を守ろうとした証(あかし)です。
厳しい禁教とそれを耐え偲んだことを示す教会群などが人類の尊い文化遺産として後世へ伝承しようというのが今年の世界遺産認定の趣旨なのです。
しかしそんなキリスト教の信仰とは一切関係なく観光旅行に行っても五島列島の風景は素晴らしいのです。
入り組んだ浦々に何気なく建っている教会の姿に背景の山々の緑が調和しています。浜辺にはあくまでも透明な海水が静かにうち寄せています。海水から塩を作っている人々の顔が穏やかです。
弘法大師が唐へ向かって出港した浦が1200年以上たった現在も変わらぬ自然のままの風景です。そして弘法大使はまたその浦へ帰って来たのです。
五島列島へは長崎から船や飛行機で渡り、帰りは佐世保まで船で出て飛行機で東京に帰るもの良いと思いいます、
今回の「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」で認定される施設は下の参考資料にあるように長崎県から熊本県にまたがって広い範囲に散在しています。その全てを一度に回るのは難しいと思います。何度かに分けて少しずつ観光するのも良いと思います。
その中でも長崎の大浦天主堂と五島列島は是非お薦めしたい場所です。
写真は大浦天主堂からはじまって、去年、五島列島で撮った来た教会やキリシタン墓地の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)











====参考資料===================
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産の紹介:
(http://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/assets/)
構成遺産は、以下の3群の総計14資産から成り立っています。
(1)キリスト教の伝播と普及/キリスト教の繁栄と弾圧を示す遺跡 (日野江城跡、原城跡など)、
(2)禁教下の継承/禁教時代に形成された集落の内外にある、禁教時代から続く信仰の場、崇敬地等 (平戸の聖地や集落など)
(3)解禁後の復帰/潜伏して信仰を守ってきた場所に信仰の証として建てられた教会群 (黒島天主堂、頭ヶ島天主堂、天草の崎津集落など)

そして 構成資産リストは以下の通りです。
(1)大浦天主堂と関連施設
 大浦天主堂は、ゴシック様式の建物で、現存する最古の教会として国宝に指定されている。
加えて、厳しいキリシタン禁制の中で、約250年信仰を守り伝えてきた浦上キリシタンが、プチジャン神父に信仰を表白したいわゆる「信徒発見」の歴史的舞台でもある。それは、1865年3月17日の昼下がりであった。
1864年建設、煉瓦造、国宝・重要文化財・史跡、 長崎県長崎市

(2)出津教会堂と関連施設
 禁教時代の様相をとどめる小田平集落と、解禁後に建てられた出津教会堂、旧出津救助院の三つの要素から構成される。うち出津教会堂はド・ロ神父の設 計・指導により建てられた教会で、当初は現在の半分程度の規模だったが、1909年に2度目の増築で正面玄関部に、四角の鐘塔などが建ち、現状となった。 外海地区の強風を考慮した低平な外観と内部空間が特徴である。創建から増築まで一貫してド・ロ神父が関与した教会である。
 ド・ロ神父は、地域住民の生活向上はもちろん、子どもに伝える立場の母親や娘たちへの、小教育にも力を注いだ。平易な言葉で信仰教育に努め、司祭、修道者が他のどこよりも多く育つ為の基礎をつくりあげた。
 出津教会は建造から二回の増築に至るまでド・ロ神父が設計施工にあたった。国宝の大浦天主堂と同様、煉瓦の壁をモルタルで覆うという一見煉瓦造に見せない方法でつくられている。近隣のド・ロ神父記念館には、設計に関する書籍が残されている。
1882年建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県長崎市

(3)大野教会堂
 ド・ロ神父の設計・指導によって出津教会の巡回教会として建てられた、玄武石を外壁にした和瓦葺きの建物。赤土を水に溶かした濁液で砂と石灰を混ぜ、石材を積み上げるド・ロ壁を用い、信徒の奉仕で完成した。山中にひっそりと立ち、風土に密着した素朴な雰囲気と雅趣がある。
 山が海に急に落ち込み、平地もない場所にたたずむ外海の教会。大野教会は、出津から北上した角力灘を望む山間にある。
 自然石を用いた「ド・ロ壁」と呼ばれる、ド・ロ神父独特の工法により建てられた。入口側正面にある風よけの独立した壁が強風に耐え、素朴で風土に密着した建物である。
1893年建設、石造、国指定重要文化財、 長崎県長崎市

(4)日野江城跡
肥前西部で最大の勢力だったキリシタン大名・有馬氏の居城跡。
有馬氏はキリシタンを保護し、領民にもキリシタンになることを勧め、積極的に国際交流を推進した。
城下には教会やセミナリヨがあり、かつて日本のキリシタン文化最先端の街だった。
近年、金箔瓦や外来系の石垣遺構などが発見されている。
国指定史跡、 長崎県南島原市

(5)原城跡
徳川幕府の治下で最大の反乱といわれる「島原・天草一揆」。
その舞台となった原城では、老若男女を問わず、ほとんどの人々が殺され、島原半島南部の村には、全滅したところもあった。
城跡からは十字架やメダイなど、キリシタン遺物が多数発見されている。
国指定史跡、 長崎県南島原市

(6)黒島天主堂
九十九島で最大の黒島に潜伏したキリシタンの教会復帰は早い。
信徒発見の2ヵ月後には20人の総代が大浦のプチジャン神父を訪ねて信仰を告白、その後ポワリエ神父が総代の一人・出口大吉の家で最初のミサを行い、1873年までに「カトリックの島」となった。
現在の煉瓦造教会は、マルマン神父の努力と信者の献身的な協力で建てられた。
煉瓦・資材は名切の浜からの急な坂を背負って運ばれた。
内観はアーケード、トリフォリウム、高窓を備えた壮大な空間。
有田焼タイルや黒島の御影石など地域の材料が使われ、個性的である。
1902建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県佐世保市

(7)田平天主堂(鉄川与助の設計・施工)
田平教会は、ド・ロ神父やラゲ神父の尽力で出津や黒島から開拓移住した信徒たちが、中田藤吉神父の指導と鉄川与助の設計・施工で建立。重層屋根構成で、正面には八角ドーム屋根の鐘塔をもつ。
堂々とした煉瓦造教会は壁面に2色の煉瓦が使用され深みがあり、平戸瀬戸からの景色によく映える。
教会傍らには墓地があり、先祖たちが温かく見守る。
1918建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県平戸市

(8)その1、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
   その2、平戸の聖地と集落(中江ノ島)
平戸では、ザビエルが1550年に布教して以降、キリスト教が盛んだったが、16世紀末からの禁教政策のため、キリシタンは潜伏を強いられた。
厳しい弾圧の中、教会堂の代わりに、先祖の殉教地や平戸島の安満岳、また平戸島の北西岸にある中江ノ島などが聖地とされ、信仰を守り伝えるよすがとされた。
これらの聖地は今なお崇敬されており、禁教時代の独特の景観をとどめている。
国選定重要文化的景観、 長崎県平戸市
(2014年12月、「平戸島の聖地と集落」が1、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)と2、平戸の聖地と集落(中江ノ島)に分割されました。
この結果、構成資産数は13資産から14資産へ、変更となりました。)

(9)野崎島の野首・舟森集落跡(野首天主堂は鉄川与助の設計・施工)
五島列島の北に位置する野崎島には、野首と舟森という2つのキリシタン集落があった。
野首集落に建てられた旧野首教会は、設計・施工にあたった鉄川与助にとって最初の煉瓦造教会。
舟森集落にかつて存在した瀬戸脇教会と交互にミサが行われ、二つの集落を繋ぐ里道を信徒は歩いて通ったという。
高度経済成長の下、野崎島では過疎化が進み、1971年、住民全てが島を離れた。
無人となった島で教会は一時荒廃してしまうが、小値賀町により修復・整備され、現在は野生化した鹿とともに生きている。
国選定重要文化的景観、 長崎県北松浦郡小値賀町

(10)頭ヶ島天主堂(鉄川与助の設計・施工)
県内唯一の石造教会は鉄川与助設計施工、大崎神父の指導により建てられた。
島外から石工を招き、信者たちが身代をかけ11年以上を費やしながら、本島内の石を切出し、積上げて完成した信仰の結晶である。
内部に柱はなく、五島の椿を模した花柄とブルーの色彩を基調とした装飾が一種独特の華やかな雰囲気を漂わせている。
1919建設、 石造、国指定重要文化財、 長崎県南松浦郡新上五島町

(11)旧五輪教会堂
五島列島久賀島の東部、奈留瀬戸に面し、険しい山を背にする小さな漁港の狭い平地に建つ。
1881年に浜脇教会として建てられた聖堂が1931年現在地に移築された。
外観は素朴な和風建築でありながら、内部は三廊式、ゴシックの木造リブ・ヴォールト天井からなる。
明治初期の教会建築史を物語る貴重な遺構である。
屋根裏には、竹でおさえて少しでも天井高に、また豪華にしようとした人々の努力が見られる。
老朽化と急激な過疎化により、一時解体の話もあったが、信徒の熱意と力で隣接地に新聖堂を建て、旧聖堂を守っている。
1881建設、 木造、国指定重要文化財、 長崎県五島市

(12)江上天主堂(鉄川与助の設計・施工)
江上教会は奈留島の辺地、海岸沿いにあり、廃校となった小学校脇の林にひっそりと建つ。
外海から移住してきた潜伏キリシタンたちの多くは、漁業に従事していたが、僻地での厳しい生活を余儀なくされた。
1881年、洗礼を受けた江上の人々は当初聖堂をもたず、家でミサを捧げていた。
その後1917年には、現在の教会が鉄川与助によって建設された。
クリーム色と水色の木造教会は、リブ・ヴォールト天井やロマネスク風の窓があり、神の家としての美しさがある。
緑に包まれ青空を仰ぐように建つ教会を中心に、今も信徒が生活をしている。
1918建設、 木造、国指定重要文化財、 長崎県五島市

(13)天草の崎津集落
天草では、16世紀にアルメイダが布教して以降、キリスト教が盛んだったが、島原・天草の乱で多くのキリシタンが命を落としたため、崎津などの限られた集落にキリシタンが潜伏するのみとなった。
乱の後、天領であった天草も長崎奉行所の支配を受けることとなり、長崎で使用された踏み絵を用いて、庄屋役宅で絵踏みが行われた。
厳しい取締りの中、崎津集落の人々は、表向きは仏教徒でありながら、潜伏キリシタンとして信仰を守り伝えてきた。
※崎津の「崎」について、正しくは山偏に竒です。