後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本の原風景、夕焼け小焼けの里

2016年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
日本には幼い頃の故郷の風景や思い出を描いた童謡や歌が幾つかあります。
例えば、「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」で始まる歌や、「夕焼け小焼けの赤とんぼ・・・」や「うさぎ追いしかの山・・・・」などなど幾つもあります。
これらの郷愁をそそる童謡は大人になっても口ずさみ唄われています。
ですから童謡の中の故郷は日本の原風景として人々の心に焼き付いています。
故郷は懐かしく甘い思い出に満ちています。皆様はどんな故郷の風景や思い出をお持ちでしょうか?
一昨日、そんな想いで八王子市の浅川を遡って旧恩方村にある「夕焼け小焼けふれあいの里」という野外公園施設に行きました。
「夕焼け小焼けで日が暮れて・・」という歌詞を作った中村雨紅の出身地です。
この童謡を口ずさみながら五月晴れの旧恩方村にある公園を散歩して来ました。

『夕焼小焼』
夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないで皆帰ろ
烏と一緒に帰りましょ

子供が帰った後からは
円い大きなお月さま
小鳥が夢を見る頃は
空にはきらきら金の星

この童謡は野口雨情の弟子の中村雨紅が故郷恩方の風景を歌ったものです。1919年(大正8年)作詞し、1923年(大正12年)に草川信が曲をつけました。
「夕焼け小焼けふれあいの里」という公園の散策とともに中村雨紅の生家の宮尾神社まで登り記念碑の写真も撮ってきました。
写真をご覧になりながら中村雨紅の故郷、恩方の風景をお楽しみ下さい。

1番目の写真は中村雨紅の故郷、恩方村の新緑美しい山々の景色です。

2番目の写真は「夕焼け小焼けふれあいの里」という野外公園の中の芝生広場です。

3番目の写真は「夕焼け小焼けふれあいの里」の中にある水車小屋の風景です。

4番目の写真は江戸時代の甲州街道の裏街道の口留番所あとの碑です。番所跡の碑と松姫の碑とが並んでいます。武田信玄が娘の一人、松姫を恩方村の豪族に嫁がせ国境の守りとした歴史があるのです。

5番目の写真は中村雨紅の生まれた家のある宮尾神社の前にある記念碑です。雨紅の喜寿の記念に友人たちが建てた碑です。
尚宮尾神社までの急坂は長く険しいのでこの写真は家内に撮りに行って貰いました。
ついでにご案内しますと「夕焼け小焼けふれあいの里」には日帰り温泉や売店や宿泊棟やバーベキュー広場もあります。ポニー牧場もあります。天気の良い日は家族連れでゆっくり散策して楽しめる野外施設です。無料駐車場があり施設の入園料は大人1人、200円です。

それはさておき、皆様はどのような故郷の思い出をお持ちでしょうか?沢山思い出があると存じますが、幼少の頃の思い出の一つだけでもお知らせください。お待しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
中村雨紅(なかむら うこう、1897年〈明治30年〉1月7日<戸籍上は2月6日> - 1972年〈昭和47年〉5月8日)は、詩人・童謡作家である。本名は、井宮吉(たかい みやきち)だが、出版物など一般的には高井宮吉と記される。東京府南多摩郡恩方(おんがた)村(現在の東京都八王子市上恩方町)出身。
宮尾神社の宮司・井丹吾とその妻・シキの間の二男として生まれる。1909年(明治42年)上恩方尋常小学校(現・恩方第二小学校)を卒業し、1911年(明治44年)恩方村報恩高等小学校を卒業して、1916年(大正5年)東京府青山師範学校卒業後、その年に東京北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校の教師になる。1917年(大正6年)おばの家である中村家の養子となる(1923年解消)。翌年、日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤。1921年(大正10年)高井宮のペンネームで童謡『お星さん』などが児童文芸雑誌『金の船』に掲載される。1923年(大正12年)『夕焼小焼』を発表。同年、漢学者本城問亭の次女千代子と結婚。1924年(大正13年)長男・喬が生まれる。1926年(大正15年)日本大学高等師範部を卒業後、神奈川県立厚木実科高等女学校(現・厚木東高校)の教師となる。1927年(昭和2年)長女・緑が生まれる。この間、野口雨情に師事し、その名前の「雨」の一字をもらい、雨紅と称する。1949年(昭和24年)教師を退職。1971年(昭和46年)神奈川県立厚木病院に入院、翌年5月6日逝去。享年75。八王子市上恩方町・宮尾神社南、井丹雄墓所内に埋葬。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%9B%A8%E7%B4%85)

蕎麦の味、わかる人、わからぬ人、そして食文化とは?

2016年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム
おはようございます。ご機嫌いかがでしょうか?
ところで皆さまは蕎麦(そば)はお好きでしょうか?
私は今まで蕎麦の味が判る、蕎麦好きということにしていました。家内へ蕎麦の味を説明したりもしました。家内が蕎麦好きなので対抗心からそのように振る舞っていたのです。
しかし本当は蕎麦の味が分からないのです。もう80歳になったので家内へ嘘を言うのを止めることにしました。
今まで、蕎麦好きの家内につきあって都内の老舗、深大寺蕎麦、高尾参道の蕎麦、戸隠の蕎麦まで随分と蕎麦を食べに行きました。味の違いは判りますが、しかし美味しくて感動したという経験がありません。
しかし世の中には蕎麦好きの方が多いようです。そこで先週、訪れた山梨県の長坂にある「翁」という蕎麦屋をご紹介いたします。蕎麦通の人には名高い店です。
この店は高橋邦弘さんという方が池袋から移って、1986年に開店しました。私の山小屋から車で30分ほどの場所なので何度も蕎麦を食べに行きました。
ざる蕎麦と田舎蕎麦の2種類だけしか出しません。天婦羅などの種物が厳禁です。はじめて行った時、天婦羅蕎麦と言ったら高橋さんに無言で睨まれました。それ以来、天婦羅などの種物は蕎麦そのものの味を隠してしまうことが分かりました。
その高橋さんが2001年に広島の「達磨・雪花山房」へ行ってしまったのです。現在の翁は直弟子の大橋さんが相変わらずざる蕎麦と田舎蕎麦を出しています。種物は一切出しません。
先週、久しぶりに翁へ行きましたら、家内が感動してざる蕎麦を食べていました。蕎麦の色が薄緑で美しく蕎麦の香りがさわやかで歯ごたえが丁度良い、おいしい!といいます。ダシの効いたタレも絶妙だと言うのです。どんな味かと聞くと、「素晴らしい味です」と答えます。
しかし私には蕎麦の美味しさが理解出来ません。しかしガッカリする必要はありません。創業者の高橋邦弘さんが以下のように語っているからです。
「百人が食べて、百人がおいしいということはあり得ないんです。食べた人間すべてが翁が一番、他のそばは食べられないなんてことになったら、むしろ疲れちゃいます。 そのうち30人が気に入って、残ってくれれば、充分じゃないかと思います。」
納得しました。私はこの言い方の100人中の70人なのです。
そこでハタと思い出しました。箱根の東は蕎麦文化圏で西はウドン文化圏だと誰かが言っていたことを思い出しました。
しかし食文化の違いによってこのように2分することはいささか雑過ぎると思います。
箱根の東には長野県や新潟県の蕎麦の産地の山村も含めるべきでしょう。しかし関東から東北にかけてはウドン風のものは昔からよく食べられてきました。小麦粉を練って、寝かせた後に指でちぎって味噌汁にいれて食べます。「すいとん」と言ったり「おきりこみ」と言ったり「ほうとう」と言います。みんな小麦粉ですが、ちぎり方や切り方が違うのです。
仙台生まれ、仙台育ちの私は蕎麦は食べたことがありませんでした。もっぱらスイトンでした。ウドンも食べました。
そして兵庫県出身の父が帰省する度に三輪ソーメンや揖保乃糸ソーメンを食べ、その美味しさに感心したものです。
ですから蕎麦のあじは判りませんがソーメンの味は判ります。家内はソーメンに関心がありません。揖保乃糸を買って来てくれと頼むと、美味しいソーメンを出してくれます。
家内と私の背負っている食文化が違うのです。
食文化は地域によって違います。国によって食文化が違うように、日本の食文化と言っても地方、地方によっても違います。昔、甲府に行ってソースカツ丼という独特の美味しいカツ丼で感激したことを憶えています。
しかしさらに詳しく「食文化」を考察すると時代や地域による部分もありますが、母親の料理方法や味付けが子供に伝承されることも重要だと思います。「食文化は女性が支えている」とも考えられるのです。

さて皆様はお蕎麦の味がお好きでしょうか?
そして皆様のお住まいの地方にはどのような食文化があるでしょうか?変わった料理方法や味付けの特徴があったら是非お教えください。

下に長坂の翁の写真と蕎麦の写真と高橋邦弘さんの写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







===参考資料================
高橋邦弘について

昭和19年、東京生まれ。
東京都、南長崎に「翁」を開店する。
昭和54年8月
長野県、池田町にてそばの栽培を始める。
昭和60年7月、南長崎「翁」閉店。
昭和61年4月、山梨県、長坂に「翁」開店、自家製粉開始。
玄そばを求めて全国の産地を訪ね、生産者たちと交流を広める。
平成13年6月、広島県豊平町長笹「達磨・雪花山房」にて、そば指導を中心とした活動を開始する。現在、全国のそば会、そば祭り等で各地を飛び回っている。

茫々戦後70年、オバマ大統領の広島訪問に皆様は何を思うか?

2016年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム
オバマ大統領が間もなく広島を訪問する予定です。アメリカの原爆投下から茫々70年、現職のアメリカ大統領がはじめて広島を訪問するのです。
この事を皆様はどうのようにお考えになりますか?
この広島訪問の意味を少し理解するためにはオバマ大統領の2009年のプラハ演説を知るのが良いと思います。この演説の直後に彼はノーベル平和賞を貰ったのです。欧米社会で大きく称賛された歴史的な名演説でした。その抜粋を以下に示します。

・・・私は故郷シカゴで長年暮らすうちに、チェコの人々は陽気な良き仲間であるということがよく判った。・・・1918年、米国がチェコの独立支持を誓約した。・・・
私が生まれた頃、世界は分裂しており、我々の国は今とはまるで異なる状況に直面していた。私のような者がいつの日か合衆国の大統領になるであろうなどと予見する者は、ほとんどいなかった。米国の大統領がいつの日かこうしてプラハの聴衆に語り掛けることを許されるであろうなどと予見する者は、ほとんどいなかった。そして、チェコ共和国が自由国家となり、NATOの一員となり、統一された欧州の主導者となるであろうなどと想像する者は、ほとんどいなかった。そのような考えは、夢物話として片付けられたことであろう。
我々が今日ここにいるのは、世界は変わり得ないという声を気にしなかった多くの人々のお陰である。・・・

さて、本日私が焦点を当てる課題の1つは、我々両国の安全保障にとって、また世界の平和にとっての必須課題――即ち21世紀における核兵器の将来について――である。
何千発もの核兵器の存在は、冷戦が残した最も危険な遺産である。合衆国とソ連との間に核戦争が起きることはなかったが、人民は幾世代にも亙って、世界が一閃のうちに消え去るやも知れぬことを認識しつつ暮らしていた。幾世紀にも亙って存在し、多くの人類の美と才を体現してきた、プラハのような都市の数々が消滅する惧れがあったのである。・・・
今やこれは、世界中の人々にとって問題となっている。1つの都市で1発の核兵器が爆発すれば――それがニュー・ヨークやモスクワであろうと、イスラマバードやムンバイであろうと、東京やテル・アビブであろうと、パリやプラハであろうと――、何十万もの人々が殺害される惧れがある。そして、それが何処で起こったとしても、その影響は――世界の安全、我々の安全保障、我々の社会、我々の経済、そして我々の究極的な生存に至るまで――、留まるところを知らないであろう。・・・

20世紀に自由を求めて共に戦ったように、21世紀には、恐怖のない生活を世界中の人々が送る権利を求めて、我々は共に戦わねばならない。そして核保有国として――核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として――、合衆国には行動する道義的責任がある。我々は単独ではこの取り組みを成し遂げられないが、それを主導し、開始することはできる。
故に私は本日、信念を持って表明する。米国は、核兵器のない世界の平和と安全を追求するのだと。
・・・以下省略。(Wikipediaの「バラク・オバマのプラハでの演説」より抜粋)

この演説を現在もう一度読み返すとオバマ大統領の核兵器廃絶への熱い情熱と堅い信念にあらためて感動します。
ですから彼の広島訪問はこの「プラハ演説」にもとづいた彼の道義的な行動の一つであると理解出来ます。

しかし彼の広島訪問は戦後70年の日米感情にも関係した複雑な背景があります。原爆を落とされた日本人としてはいろいろ考えがあるのは当然ではないでしょうか?その日本人の考え方を3つに大別すると以下のようになると存じます。
(1)オバマ大統領は広島で原爆というような残忍な兵器を使ったことを謝罪すべきである。
(2)原爆犠牲者の慰霊碑へ花輪を供えれば、それ以外に謝罪する必要はない。
(3)オバマ大統領の広島訪問へは何も言わないで沈黙を守り核兵器廃絶を一緒に祈るのが良い。
皆様のお考えは上記の3つの内のどれでしょうか?そして上記以外のお考えがありましたなら是非お教え下さい。
皆様からのコメントをお待ちしています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真は3日前に山で撮った上から順に桐の花、オオデマリ、アカシヤ、山ツツジ、山藤の花の写真です。









どうしても好きになれないルオーの絵画、皆様はいかがですか?

2016年05月16日 | 日記・エッセイ・コラム
フランスの宗教画家、ジョルジュ・ルオーは多くの日本人が好きらしくて東京の汐留ミュージアムには230点もの作品があるそうです。
その上、山梨県の北杜市にある清春白樺美術館は実に多数のルオーの絵画が展示しています。
さらに同じ場所にルオー記念礼拝堂があり、そこにも絵画やステンドグラスが展示してあるのです。
東京の本郷3丁目には昔から有名なルオーという名前の喫茶店があります。ルオーの絵が数枚飾ってあります。
そしてルオーの絵画展が何回も開催されています。日本では有名な画家の一人です。
ルオーの絵画の主題はキリストです。そして聖書にまつわる話も絵に描きました。
私は毎年この風薫る皐月になると必ずのように清春白樺美術館を訪れます。美術館の一帯にフランスの彫刻やオブジェやフランスの共同利用の洒落たアトリエ、ラ・リューシュがあり芸術的な雰囲気があるのです。
その美術館にあるルオーの絵画だけは何十回眺めても好きになりません。
彼は信仰の篤いカトリック教徒でした。彼の信仰には敬意を感じますが絵画はどうしても好きになれません。理由は判りませんが、ステンドグラスのような輪郭の強い線が原因かもしれません。決して不愉快な絵画ではありませんが、ゴッホの絵から受ける感動が微塵も無いのです。マネーの絵のような印象深い技巧性もありません。モネーのような色彩の躍動感がありません。ロートレックやユトリロの絵のような構図の面白さもありません。シスレーやセザンヌのような風景美もありません。
油絵は何年にわたって何十回も見ていると好きになるという話も聞きました。しかしルオーの絵は何故か好きになれません。
何故、日本人はルオーの絵画が好きなのでしょうか?
白樺派の人々がヨーロッパ文化に憧れていろいろな絵画や文学を日本へ紹介しました。特にルオーの絵画を多数紹介しました。そこにはヨーロッパ文化の中心をなすキリスト教が描かれていたのです。日本人の西洋文化への憧れの結果、ルオーの絵を多数輸入してきたのかも知れません。
私自身はカトリックなのでルオーの絵の意味はよく判ります。
ヨーロッパの中世の美し過ぎる宗教画のアンチテーゼとして新しい宗教画の分野を切り開こうとした努力と情熱には感動します。しかし芸術的な感動が無いのです。
私が間違っているのでしょう。何故、多くの日本人がルオーの絵画を称賛するのでしょうか。私にはそこが分からないのです。
是非、皆様に教えて頂きたいのです。皆様のルオーの絵に関するご感想をお送り下さい。
お待ちしています。
写真に先週訪れた清春白樺美術館とルオーの作品を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は谷口吉郎設計の清春白樺美術館です。この美術館の1室にルオーの絵画だけが多数展示されています。

2番目の写真はルオー記念礼拝堂で、ここにもルオーのリトグラフ12点とステンドグラスが展示されています。

3番目の写真はルオー礼拝堂の祭壇と十字架です。右側にルオーの版画があります。祭壇背後のキリスト像(17世紀)は、ルオー自身が彩 色したものです。

4番目の写真は礼拝堂の壁にある12点の版画の中の2点です。

5番目と6番目の写真は清春白樺美術館に展示してあるルオーの作品です。



7番目の写真はルオーの作ったステンド・グラス「ブーケ」の窓です。
====参考資料=================
(1)ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault, 1871年 - 1958年)は、野獣派に分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家。ルオーは、パリの美術学校でマティスらと同期だったこともあり、フォーヴィスムの画家に分類されることが多いが、ルオー本人は「画壇」や「流派」とは一線を画し、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家であった。

1871年、パリに指物(さしもの)職人の子として生まれた。ルオーの家族が住んでいたベルヴィル地区のヴィレットは、当時は場末の労働者街であった。ルオーは14歳の時、ステンドグラス職人イルシュに弟子入りする。後年のルオーの画風、特に黒く骨太に描かれた輪郭線には明かにステンドグラスの影響が見られる。ルオーは修業のかたわら装飾美術学校の夜学に通った。1890年には本格的に画家を志し、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学、ここでマティスらと知り合った。同校でルオー、マティスらの指導にあたっていたのは象徴派の巨匠、ギュスターヴ・モローであった。教師としてのモローは自己の作風や主義を生徒に押し付けることなく、ルオーとマティスという、モロー自身とは全く資質の異なる2人の巨匠の個性と才能を巧みに引き出したのである。ルオーは終生、師モローへの敬愛の念が篤く、1903年にはモローの旧居を開放したギュスターヴ・モロー美術館の初代館長となっている。ルオーは同美術館に住み込みで働いていたが、給料は安く、生活は楽ではなかったようだ。

ルオー20歳代の初期作品にはレンブラントの影響が見られ、茶系を主とした暗い色調が支配的だが、30歳代になり、20世紀に入ったころから、独特の骨太の輪郭線と宝石のような色彩があらわれる。画題としてはキリストを描いたもののほか、娼婦、道化、サーカス芸人など、社会の底辺にいる人々を描いたものが多い。ルオーは版画家としても20世紀のもっとも傑出した作家の一人で、1914年から開始した版画集『ミセレーレ』がよく知られている。

1917年、画商ヴォラールはルオーと契約を結び、ルオーの「全作品」の所有権はヴォラールにあるものとされたが、この契約が後に裁判沙汰の種になる。ルオーは、いったん仕上がった自作に何年にも亘って加筆を続け、納得のいかない作品を決して世に出さない画家であった。晩年、ルオーは「未完成で、自分の死までに完成する見込みのない作品は、世に出さず、焼却する」と言い出した。ヴォラール側は「未完成作品も含めて自分の所有である」と主張したが、「未完成作の所有権は画家にある」とするルオーの主張が1947年に認められ、ルオーは300点以上の未完成作をヴォラールのもとから取り戻し、ボイラーの火にくべたのである。それが彼の芸術家としての良心の表明だった。ルオーは第二次大戦後も制作を続け、1958年、パリで86年の生涯を終えた。国葬を賜った。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%AA%E3%83%BC より。)
(2)清春白樺美術館
1983年(昭和58年)に清春芸術村の施設として建設された清春白樺美術館は、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった“幻の美術館”を、武者小路、志賀の両氏を敬愛し、個人的にも親交のあった吉井長三が実現したものです。

ジョルジュ・ルオー記念館(礼拝堂)
20世紀最高の宗教画家であるジョルジュ・ルオーを記念して建てられた礼拝堂。この村を訪れる芸術家たちの瞑想の場でもあります。

入口の扉の上には、ルオーがエベール・ステヴァンのアトリエで制作したルオーステンドグラス「ブーケ(花束)」があります。祭壇背後のキリスト像(17世紀)は、ルオー自身が彩 色したものです。この貴重な像は、ルオーの次女イザベル・ルオーから贈られたものです。堂内の壁面 にはルオーの銅版画「ミセレーレ」が掲げられています。
建築設計者は美術館と同じく谷口吉生氏です。

ラ・リューシュ
この建物はもともとギュスターブ・エッフェルが設計し、1900年に開催されたパリ万国博覧会のワインのパビリオンとして建設されたものです。
その後、モンパルナスに移築されてアトリエに改装され、通 称ラ・リューシュ(蜂の巣)と呼ばれました。若き日のシャガール、スーチン、モジリアニなどの巨匠たちが住んでいた所として有名であり、現在はパリ市の記念建築物として保存されています。
この建物を模して当地清春に再現されたラ・リューシュも、芸術家たちの創作の場として、内部はアトリエと生活設備が整えられています。

白樺図書館  (現在は閉館中のため入館はできません)
雑誌『白樺』の復刊版や、白樺派ゆかりの作家による文学ならびに美術書を中心として揃えております。また、子どもたちにも文学・美術に慣れ親しんでもらえるよう、絵本をはじめとした美術書もあります。
(以上,http://www.kiyoharu-art.com/library/index.htm より。)

イギリスの中世を忠実に再現した 高原にあるブリテッシュ・ヒルズ

2016年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム
福島県の高原にあるブリテッシュ・ヒルズはとにかく遠いです。
東京から車で200Km位、福島県の白河市から奥羽山脈の奥深くの高原に忽然と建物群が現れます。
中世のイギリスの時代別の建物が10棟ほどが霧にかすんでいます。
本格的な時代考証にもとづいて建てられ、内部の家具調度もイギリスから運びこみました。従業員もイギリス人が混じっています。とにかく本物のイギリスが有るのです。
神田外語学院の経営母体の佐野学園の初代と2代目の理事長が25年間にわたって構想をあたため、イギリスの歴史を研究しました。その成果にもとづいて1995年に完成しました。
2009年の5月のある霧深い日に訪問しました。
霧の中に見える建物は暗く重々しいのです。
「イギリスの中世の文化は重く、暗い。しかし、その底に産業革命の爆発力を秘めて来た」、という感じが体得できます。
領主の館の内部もつぶさに見ました。図書室にある数多い革表紙天金、金文字の蔵書も本物です。イギリス独特なミートパイの昼食もとりました。アフターヌーンティも美味しそうです
この様に、一国の中世の文化を正確に伝えようとする施設は珍しいので写真でご報告したいと思います。その旅は2泊3日の日程でした。詳しくは、http://www.british-hills.co.jp に御座います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

















石器時代に日本には象が棲んでいて当時の人々が食べていた!

2016年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
日本に縄文時代が始まる12000年前までは無土器の旧石器時代と言います。
その旧石器時代は約40000年前から12000年前までの28000年間も続く長い期間でした。
その時代に日本は象が棲んでいて、約20000年前に絶滅しました。絶滅するまでの2万年間は人々が集団で象を狩り、食料にしていたのです。
象が日本に棲んでいたことを科学的に証明したのは明治8年に、お雇外国人として来日したハインリッヒ・エドモンド・ナウマン博士です。
人間が象を狩りして食べていた証拠は、象の解体途中の骨の間から石器の刃物が多数見つかっていることです。
この事実に私は驚いています。随分以前に知って驚きましたが、現在でも思い出すたびに驚いています。
それではもう少し詳しくご説明いたします。
長野県の野尻湖で長年、ナウマン象の化石の発掘がなされてきました。
その発掘を指導したのが4年前に88歳で亡くなった亀井節夫氏でした。
その発掘調査で発見された象の化石などは野尻湖の湖畔にある「野尻湖ナウマン象博物館」で展示してあります。私も野尻湖畔に一泊して丁寧に見て来ました。
野尻湖は毎年春先に水が減少し湖底が現れ、ナウマンゾウの化石が多数出てくることで有名です。毎年、この化石の発掘が行われていたのです。
発掘は専門家によってもなされましたが、1962年から一般参加者も交えて18回も発掘作業を行ってきました。
野尻湖ナウマンゾウ博物館の展示は良く出来てい明快です。検索するとこの博物館の詳細が出ています。
このナウマン象を石器時代の日本人が集団で襲って、殺して、食べていたのです。
それはナウマンゾウの解体現場に残った骨と共に、解体に使った石器が多数発掘されたので明らかになったのです。
旧石器時代の人が作った石器は日本各地から多数出土します。しかし何を食べて、どのような生活をしていたかという問題を明快に示してくれるは珍しいことです。この博物館は貴重な存在です。訪問して見て、その問題の提起の重要性に感動しました。
写真にこの博物館を訪問した時に撮ったナウマンゾウの写真を示します。

1番目の写真は野尻湖ナウマンゾウ博物館の外にあるナウマン象です。

2番目の写真は室内に展示してある実物大のナウマン象です。一緒に写っている見物客と比較すると象の巨大さが分かります。

さて、ナウマンゾウの化石は全国から発掘され、数十万年前から北海道から九州、沖縄まで繁栄していたことが分かっています。そして2万年前の地層より新し地層からは発見されません。ですから二万年前に絶滅したと言われています。
この種類の象の化石は北海道や静岡県で多く出ています。野尻湖の象は4万年前から2万年前の地層から出ますが、これは日本に棲んで居た象のうちで一番新しい象の化石です。
関東地方にも当然棲んでいたと思いますが、化石が出ません。強い酸性の関東ローム層の土が動植物を溶かしてしまうので化石の出にくい土地なのです。
日本に地質学を教えたのは明治8年に、お雇外国人として来日したハインリッヒ・エドモンド・ナウマン博士です。
3番目の写真がナウマン博士です。
彼は伊能忠敬の労作の日本全図に従って全国を歩き回り、日本の地質図を始めて作った学者です。そしてフォッサマグナやナウマンゾウ化石などを発見し、日本の地質学を作り始めた人です。
茨城県つくば市にある産業総合技術研究所の地質標本博物館はナウマンが設立に尽力した地質調査所が、その後発展した博物館なのです。
日本全土の土や岩石がどういう成分で出来あがっているか?どのような結晶で出来ているか?それらが何億年、何万年の間にどのように変化し動いてきたか?
雨風に流されてどのように変化して来たか?
このような問題を体系的に研究する科学分野を地質学と言います。地質学を勉強すると自然に化石のことが分かるのです。動物の骨が石に変化し土壌に埋まれば化石になります。土質のよっては化石にならない土壌もあります。ですから化石の出やすいところは限られるのです。

4番目の写真は数年前に、つくば市にある地質標本館で私が撮って来た写真です。この展示物に感動して撮って来ました。
良くご覧下さい。黒っぽいん岩石の層が左上へ向かって90度折れ曲がっているのです。三陸海岸から持ってきた巨大な岩石標本です。
長い年月の間に地球の内部の動きによって表面の固い岩石も曲がってしまうのです。岩石がアメのようにグニャリと曲がったのではありません。岩石は弾力性の無い硬い結晶から出来ています。従って曲る場合には結晶と結晶の間の粒界に微細な割れ目(マイクロ・クラック)が多数出来て、次第に岩全体が曲がって行くのです。
岩が曲がる、島が海面から出て、移動する。大陸が離合集散する。壮大な自然現象を解明するためにも微細な結晶の研究が重要なのです。学問研究の醍醐味ですね。
ちょっと話題が本題からそれましたの止めます。
今日の記事は石器時代に日本には象が棲んでいた事実をご紹介しました。そして当時の人々が食べていた証拠も示しました。現在から考えると驚きの事実ではないでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

五月晴れの富士五湖への小さな旅、そして大きな幸せ

2016年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム
富士山は日本の心。多くの人が東海道新幹線から眺めます。山登りが好きな人は富士山に登る人も少なくありません。その富士山の麓に五つの噴火による堰止め湖があります。東から山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖と富士山を囲むように清浄な水を静かに湛えています。
昨日は五月晴れでした。この富士五湖の河口湖と精進湖への小さな旅を致しました。
その写真をお送りいたしますので高原の湖の静かな風景をお楽しみ下さい。

1番目の写真は鳴沢村の役場前から撮った富士山です。富士五湖の何処に行っても富士の峰が大きく迫って見えます。

2番目の写真は精進湖から見た富士山です。四季折々、精進湖に来れば必ず車を停め水辺を歩く場所です。車内でコーヒーを飲んだりオニギリなど質素な昼食を食べます。写真に写っているのはニッサン・ノートという私の車です。

3番目の写真は河口湖の勝山の道の駅の前の広い芝生の向こうに湖が見える場所です。何時も子供連れの家族が楽しそうに遊んでいます。

4番目の写真は勝山から湖に沿った道路をゆっくり走り富士ビューホテルの下から眺めた風景です。
湖面に太陽の光がキラキラ輝いています。

5番目の写真は弁天さまを祀った小島です。河口湖は流れ出す川が無いので水位が季節によって変わります。3年前の今頃は水が少なくなってこの小島まで歩いて行ったものです。

6番目の写真は弁天島へ一番近い所の公園に咲いていたラベンダーの花です。

7番目の写真は同じ公園に咲いていたアヤメです。この小さな公園には何時行っても花々が咲いています。

これらの写真のように富士五湖は平日なら観光客が少なく実に静かな場所です。
特に全ての湖では水辺まで車を入れることが出来ます。車を水際に停めて、静まり返る湖面を見ていると昔のことがいろいろと思い出されるのです。そうでした。自家用車を持つということが少年の頃からの憧れでした。戦前生まれ戦後育ちの私は貧しい時代に育ちました。食糧難の頃でした。そんな中で新聞や雑誌が自家用車の夢を書きたていました。
大学を卒業する頃は、日産ブルーバードやトヨペットクラウンが売り出されていました。
軽自動車はスバル360とマツダクーペが売り出されていました。その当時は皆が自家用車に憧れていたような雰囲気があった時代でした。朝日カメラのような写真雑誌も出てきました。キャノンやニコンは憧れの写真機でした。
旅の雑誌もありました。その中に富士五湖の美しい風景写真もあります。
青年の私にも憧れだけは沢山ありました。みんな見上げる坂の上の雲でした。
その憧れの一つに自家用車を買って富士五湖へドライブするのがありました。
そんな夢から茫々60年、私は写真のように精進湖の水辺に自家用車を止めているのです。そして傍らには健康な妻がいます。
大きな幸福感が身を包みます。幸せです。小さな旅で実感した大きな幸せです。
写真に写っている私の車はニッサン・ノートという車です。大衆車です。燃費が良く高速道路では1リッターのガソリンで16Kmも走ります。高速加速性能が良くて他車を追い抜く時、一瞬で追い抜けるので安全感があります。燃費が良くて頼りになる走りなので幸福感が湧いてきます。このような車が作れる国に生まれて幸せです。
それにしても富士五湖はいつ来てもゴミ一つなく花々が咲き、芝生が手入れしてあり、水が澄んでいます。多分、地元の人々が努力しているに違いありません。その心が嬉いのです。風景だけが良いから足繁くいくのではないような気がしています。
昨日、五月晴れの富士五湖への小さな旅をしながら、そんなことを考えていました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

ルピナスやマーガレットの美しい北海道に花咲いた縄文文化

2016年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の本州、四国、九州の旧石器時代は4万年前から12000年前までの28000年間、縄文時代は12000年前から紀元前300年前までの11700年間、そして弥生時代は紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。そしてその後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。勿論この時代区分は日本の地方、地方によって異なります。
しかし北海道の歴史は旧石器時代と縄文時代までは本州北部とまったく同じでしたが、それ以後の弥生時代や古墳時代は存在せず縄文時代が続き、やがてオホーツク文化の影響の強い擦文模様の土器の時代になります。そしてその後に明治時代まで続くアイヌ文化へと発展したのです。この書き方は大変雑ですが北海道の歴史を簡略に示したものです。
北海道は5月頃からルピナスやマーガレットやアヤメの花などが咲きだして美しい野原が広がっています。そして街路樹のアカシアも咲き出します。本州では季節ごとにずれて咲く花々が一斉に開くのです。
白樺や楡の木やブナノキの若葉が萌え、北海道の皐月は観光シーズンの始めです。
それではルピナスやマーガレットやアヤメの花々の写真をご覧ください。

この1番目と2番目の写真は道南の森町の道端で2012年の5月に撮りました。

この麗しい北海道に縄文文化が栄えていたのです。
しかしよく考えてみると、縄文時代(12000年前から紀元前300年前)に日本列島の北部に広く住んでいた人間はアイヌ人でした。ですからアイヌ人が縄文土器を多量に作ったのです。すなはち大部分の縄文人とアイヌ人は同じ人間だったと想定できるのです。
その後、朝鮮や中国か渡来した人が主になって弥生文化や古墳文化を作ったと考えられます。しかし北海道に居た縄文人(アイヌ)は渡来人と混血しないで独自の文化を伝承したのです。この北海道人こそが近年まで北海道に住んでいたアイヌ人なのです。
本州に居たアイヌは大陸からの渡来人と混血し弥生人になりました。そして本州を中心に棲みつき現在の日本人の先祖になったのです。
渡来人の血が濃いのは九州や大和地方の人で、アイヌの血が濃いのは東日本の人です。私は宮城県で生まれましたのでアイヌ人が祖先と言っても大きな間違いがありません。
それはさておき縄文人イコールアイヌ人。そして私の先祖。この大胆な仮説を信じるようになったのは北海道の函館市臼尻小学校付近から出土した多量の精巧な土器や土偶を見た瞬間です。瞬間的に確信しました。北海道にこんなに多量の縄文土器があることに吃驚しました。
岩礁の迫った険しい地形の海岸の臼尻町は孤立した村落でした。市町村合併で函館市になりましたが非常に辺鄙な漁村です。そこに立派な縄文土器の展示館があるのです。衝撃的な展示物は国宝に指定されている中が空洞になっている高さ41・5センチメートルもある大きな土偶です。詳細は、函館市縄文文化交流センターを検索すると出ています。
約1万年前から2000年前にかけて北海道には広く縄文土器が存在していたのです。当時はアイヌ人しか北海道に住んでいなかったのです。ですから縄文人イコールアイヌ人という結論になります。
3番目の写真は私が撮った臼尻町の縄文土器センターで撮った土器の写真です。

4番目の写真は精巧な石器の刃物です。

そして5番目の写真は国宝の中空土偶です。この写真はよく教科書に出ていたので、ご覧になった方々も多いと思います。

国宝級の縄文土器が北海道に存在していたとは驚きです。しかしのちに調べて判ったことですが、縄文文化は北海道西南部と青森県を中心にして花が咲いたのです。、
縄文土器展示館を見ながら係員の専門家へ、「アイヌ人と縄文人は同じ人なのですか」と聞きました。係員は、「いろいろな説があり結論は出ていません。しかし、北海道ではアイヌ人は縄文人の子孫と言われています」と答えます。

もう少し詳しく言うと、北海道から出土する縄文土器は円筒形をしたもので、同じような土器が北東北地方からも出てきます。
同じように黒曜石で作った矢じりや小刀は北海道も北東北も同じ産地の黒曜石を使っていました。矢じりを矢に接着するアスファルトも同じ秋田県産のものを使っていたのです。
この縄文時代の後に、アイヌ人と大陸からの渡来人との混血によって弥生人が出来て行きます。そうしてこの弥生人がアイヌ人(縄文人)を次第に北海道へと駆逐して行きます。
その後、大和朝廷は仙台市の多賀城に北端の城柵を作り、アイヌと違った文化圏を作りあげて行ったのです。
この歴史的な事情が日本人とアイヌ人の分離と住み分けに繋がって行くのです。
そして明治維新以後に、明治政府が北海道開拓を推進し、アイヌ人を日本人へ同化し、混血が進み、アイヌ人は日本人と融合してしたのです。
雄大な歴史ロマンではありませんか?

縄文時代には北海道も北東北も同じ円筒形縄文土器を使っていたのです。
6番目の写真にその円筒形の土器の分布図を下に示します。出典は、「南茅部町と北東北の交流」:
(http://isikari.genin.jp/kitanokodaisi/kitanojiyomon/kitatouhoku/kitatouhoku.html )です。

詳しく書くとあまり長くなるので続きはいずれ掲載したいと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

北朝鮮の核兵器開発が日本人の考え方へ与える影響

2016年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム
一昨日、「トランプ氏が大統領に?日米安保体制はどうなるか?」と題する記事を掲載致しました。このブログでは2500件余のアクセス数があり、同じ記事の趣味人倶楽部でのアクセス数は856回ありました。この問題に皆様のご関心の強いことにあらためて驚いています。
その上、趣味人倶楽部では20件のコメントを頂きました。この20件のコメントの大部分が、「日本の安全と平和はアメリカに依存するのは止めるべきだ」というものでした。
駐留するアメリカ軍に段階的に撤収してもらい数年後には自衛隊が主体的に日本の防衛を担うべきだとする意見が多かったのです。
この皆様のご意見には驚いています。従来の日本政府の方針は日米安保を強固に維持することが日本の平和を守るという方針と大きく異なるのです。
米軍の駐留費全額を払うべきで、それをしないなら米軍を撤収するというトランプ氏の発言に反応したのかも知れません。その結果、日本人は日米安保体制に対して考え方を変えつつあるのかも知れません。
米軍基地の撤廃は日本が真の独立国になるきっかけになるので良いという意見もありました。
しかし、れは観念論であり現実には米軍駐留にはいろいろな効果が複雑に重さなっているのです。
日本はアメリカの核の傘の下で安全だったのです。軽武装のおかげで経済の高度成長も出来たという意見もあります。
このアメリカの核の傘が無くなったら日本はどうなるのでしょうか?
特に北朝鮮は原爆の実験を数度にわたり実行し、宇宙へのロケット発射もしています。その上、日本を射程内にしたミサイルの発射実験を何度も実行しています。
原爆を小型化し、核弾頭としてミサイルに搭載す技術を開発中と言われています。
金正恩第一書記は最近、党委員長に就任し着々と権力の掌握に成功しています。
北朝鮮は欧米諸国の経済制裁にもかかわらず核弾頭ミサイルの開発をしているのです。
現在の世界で唯我独尊的な小さな国家として、北朝鮮は隣の韓国や日本へ脅威を与えているのです。
この状況は最近のトランプ氏の日米安保体制へ対する批判とあいまって日本人の防衛に関する考え方へ大きな影響を与えている筈でます。
北朝鮮の核兵器に対して日本の安全と平和はどのようにして守るのでしょうか?
仮にその方法を下記の3つに分けて考えるとしたら、皆様のご意見はどのようなものでしょうか?
(1)アメリカへ駐留費以上に武器開発費の一部も支払って従来通り、アメリカ軍に駐留して貰い、その核弾頭で日本を守ってもらう。
(2)日本にはアメリカの核兵器の部隊だけ残留してもらい、他の通常兵器の部隊は撤収してもらう。撤収したアメリカ軍のかわりに自衛隊を強化して配置する。
(3)日本が核戦力の研究を開始し、何年か後には自衛隊も核武装する。アメリカ軍には段階的に撤収してもらい何年か後の将来には核武装した自衛隊だけで日本の安全と平和を守る。

以上の3つの方法の方法は観念的な分類でもあるので、その実行には難しい問題も山積していると考えられます。
それと重要な事は上の3点は日本の立場のみから考えたものであり、アメリカ自身が従来通りの駐留を望んだらどうしようもありません。その上駐留費の増額を要求されれば支払うことになるでしょう。
上記の(1)、(2)、(3)は全てアメリカ政府と円満に話し合い、完全な合意の上で進めるべきと思います。
何年か前にフィリピンがアメリカ軍にスービック基地から撤収するように要求しました。そして米軍が撤収したあとで南沙諸島の中国軍が飛行場を建設し、ミサイルを配備したのです。フィリピンはまた米軍が戻ってくるように頼んだのです。アメリカ軍は戻り、スービックを基地にして南沙諸島を巡回、監視しています。これも一例ですがアメリカ軍の海外基地にはいろいろな役割があります。
上記の3つの分類に割り切って議論するのには限界があります。
しかし安全で平和な日本を将来の子孫に残すためのには論議を重ね慎重な政策をとらねばならないと信じています。皆様の建設的なご意見を頂けたら幸いです。
日本は最初の原爆投下の被害者なので、感情的には核武装の議論はタブーです。その感情は大切にすべきです。しかし感情を別にして理性的に日本の平和維持を考えるのは何時の時代でも重要ではないでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真は昨日、近所の園芸農家の温室のなかで撮った花の写真です。









縄文人の見ていた星空と彼らの暮らし方

2016年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は高齢になり悠々自適の境地に至ると心配事や悩み事が若い頃よりはずっと少なくなります。しかし時々はいろいろと心配したり悩んだりして心が疲れることがあります。生きている間は仕方がないのでしょう。
そんな時、私は縄文時代の人々の見た星空を想像したり、彼らの暮らしぶりを調べてみます。すると不思議に心がおおらかになり心配事や悩みが消えてしまいます。これは毎日を幸せに暮らすための私のひとつの方法です。
それでは縄文人の見ていた星空はどん様子だったのでしょうか?
当時はロウソクもランプも電灯もなかったので夜は真っ暗でした。ですから月夜の時以外の晴れた夜には星達がキラキラと輝いて見えました。その上、彼らは現在の我々より視力が優れていたと想像出来ます。
1番目の写真は彼らの見たような星空の写真です。

この写真は星空をより鮮明に見るために宇宙船から撮った星空です。宇宙望遠鏡で撮った写真なので縄文人の視力でもこれほど鮮明には見えなかった筈です。しかしキラキラ輝く満天の星達はこんなイメージで見えた筈です。
それではこの星空の下で彼等はどんな暮らしをしていたのでしょうか?
その前に少し整理しておきましょう。
日本の旧石器時代は4万年前から12000年前までの28000年間、縄文時代は12000年前から紀元前300年前までの11700年間、そして弥生時代は紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。そしてその後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。勿論この時代区分は日本の地方、地方によって異なります。
さて私的なことですが、私は42年前から八ヶ岳の見える森の中に小さな山小屋を作り足繁く通っています。
ですから折にふれて八ヶ岳山麓の縄文人の暮らし方を推定しようといろいろと調べてきました。
資料は幾つもありましたが、玉川学園の多賀 譲治先生の描いた、ゲンボー先生の「縄文人のくらし」というHPが2つの点で圧倒的に優れていました。そのURLは、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/jomon/index.htmlです。

二つの点の一つは、多賀先生のHPは神奈川県にある羽根尾遺跡から出土した多数の土器、食料にした魚やイルカ、そして鹿や猪の骨から当時の生活の様子を学問的に推定している点です。
多賀先生の研究の誠実な様子は、縄文時代のタイムカプセル・羽根尾遺跡、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/haneo/ をご覧頂くと納得がいきます。

もう一つはHPにある絵画が楽しげに描いてあります。絵画を描いている人が縄文人を尊敬しているのです。
この2つの理由でゲンボー先生の「縄文人のくらし」というHPが傑出しています。
このHPでは縄文人の生活を、(1)海浜に近い場所に住んでいる場合、と (2)八ヶ岳山麓のように海から遠い内陸部に住んでいる場合の2つに分類して縄文人の暮らし方を説明しています。
この2つの場所の食べ物の違いは海の魚貝類とイルカやクジラが有るか無いかの違いだけです。そこで以下に内陸部の縄文人の暮らしぶりを示す絵画をご紹介します。

八ヶ岳山麓では非常に多数の土器が出てきます。その数は自分たちで使う数以上の多量な土器なのです。2番目の写真は縄文人が土器を作っている様子です。

土器の生産を仕事にしていた人々がこの2番目の写真のように多量の土器を生産していたに違いありません。土器を焼く燃料の樹木が山麓には豊富だったのしょう。
3番目の写真は縄文人がイノシシを仕留めた様子です。

現在でも八ヶ岳山麓には猪は多すぎるくらい棲んでいます。
山で追い詰めて、弓矢や槍で仕留めた猪はその場で解体し、肉と内臓と毛皮を背負って帰りました。毛皮は後でゆっくりなめして、敷物にしたり服に仕立てます。
4番目の写真は生活用具の木工品に漆を塗っている場面です。

漆塗りの跡のついた生活用具は全国の縄文遺跡から出土します。
八ヶ岳山麓には現在も漆の木が沢山茂っています。漆にする樹脂が簡単に採れたはずです。

5番目の写真の絵は秋の終わり頃冬越しの食料を加工、貯蔵している様子です。

絵の後の方に吊るしてある大きな魚は河川を登ってきた鮭です。塩漬けにして乾しています。手前の人々は何やら木の実のようなものの皮を剥いでいるようです。

さてここで疑問があります。八ヶ岳山麓に流れている釜無川へは鮭が登って来たでしょうか?富士川を登り、釜無川を登って来なければいけません。
魚と言えばヤマメやイワナやウグイの方が自然です。その辺は正確ではないかも知れません。この絵は海浜に近い場所の秋の様子なのかも知れません。

6番目の写真の絵は縄文人の男性の冬の服装を示しています。

肌着としては麻や柔らかい植物の繊維で織った着物を身につけます。その上に鹿や猪のよくなめした毛皮の外套を着ます。
足には毛皮製の靴を履いています。
手に持っているのは野獣を獲る棍棒か槍のように見えます。この姿で山野を走り回って鹿や猪を獲っていたのでしょう。
鹿や猪は一度落とし穴に落としてから仕留めていたようです。

このような縄文人の生活の様子を見て、いろいろ想像していると何故か日頃の心配事が消えてしまうのです。


それはそれとして、今日も皆様のご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========
内陸部の縄文人の食物の一覧表:出典は、多賀 譲治先生のHPです。

「穀類・豆類」 アワ・ヒエ・キビ・うるち米・もち米・そば・えごま・緑豆
「野菜類」 ごぼう・のびる・アブラナ・緑豆(葉)・えごま(葉)・サトイモ・えびいも・ながいも・みょうが・しょうが・うど・たら・ふき
「果実類」くり・やまぶどう・きいちご・あけび・さるなし・またたび

(平野・山村の部)
鯉・ふな・うなぎ・あゆ・ごり・やつめうなぎ・はや・かわえび・かわがに・うぐい・ぼら・さけ・ます・やまめ・いわな・沢ガニ・川ガニ,などの魚類・甲殻類
しじみ・たにし,などの淡水の貝類
「肉類」 いのしし・鹿・たぬき・熊・きじ・鴨・うずら・すずめ・つぐみ,などの獣や野鳥
「調味料・他」 醤(ひしお)・塩・甘草(かんぞう)・酢・魚醤(ぎょしょう)・酒・山椒・わさび

それにしても意外に豊かな食生活をしていたものです。当時は日本全国の縄文人の人口は26万人しか居なかった事実がこの豊かな食糧の最大の原因だったのかも知れません。




トランプ氏が大統領に?日米安保体制はどうなるか?

2016年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
過激発言で物議をかもしているトランプ氏の共和党大統領候補の指名が確実になりました。11月に行われる対抗馬の民主党のヒラリー氏との決選投票に勝てば来年からアメリカ合衆国の大統領になるのです。
そのトランプ氏が戦後70年にわたる日米安保体制に厳しい発言を繰り返しています。
日本がアメリカ軍の駐留費の年間5830億円を毎年支払わなければ米軍は撤退すると言うのです。
この発言は思いつきではなく、1986年からの持論で、当時の彼の新聞広告に書いてあるのです。
日米安保体制は戦後70年の日本の安全を守りましたが米ソの冷戦構造のあった時代はアメリカの安全も守ったのです。ヨーロッパのNATO軍事同盟と連動しソ連の崩壊に大きく貢献したのです。
しかしトランプ氏は今後は自国の防衛は自分の軍備で行うべきだという堅い思想の持主なのです。
もし彼が次期大統領になったなら日米安保体制はどのように変化するでしょうか?
大雑把に言えば次の3つくらいに変わるのではないでしょうか?
(1)毎年、5830億円をアメリカに支払って従来通りに駐留してもらう。
(2)現在の半分ほどの米軍駐留にしてその費用の全額を支払う。そして自衛隊を増員し撤退した米軍の穴埋めをする。
(3)アメリカ軍に段階的に撤退してもらい最終的には強化された自衛隊だけで日本の安全を守る。
上記の(1)、(2)、(3)は全て何年間かけて実行するのが良いかという問題が付きまといます。
しかしいずれの場合も現在支払っている年間1900億円の思いやり予算は早急に増額することになるのでしょう。
お金の問題だけではありません。日本人の自主防衛に対する意識へも大きな影響を与えることになるでしょう。
11月のクリントン氏との決戦投票でたとえクリントン氏が勝って次期大統領になったとしてもトランプ氏の意見を無視出来ないのではないでしょうか?
トランプ氏が大統領にならなくても上記の(1)、(2)、(3)の変化は急でないにしてもゆっくり進行すると考えられます。
これは戦後70年続いた日米安保体制の大きな変化です。
日本の将来を平和で幸せな国にするためには一体どのように考えれば良いのでしょうか。時期尚早とは言え、今から少しずつ考えて行くべき重要な問題と思います。
皆様のいろいろなご感想やご意見を頂ければ幸いです。いろいろなご意見を交換することによって考えが深まると思います。どうぞよろしくお願いいたします。なお私の現段階の意見は上記の(2)に近いものです。(2)も詳しく議論すればいろいろな問題もあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真は先日撮ってきた都立水元公園の風景です。
====参考資料======================
「トランプ氏、日本に駐留米軍費用要求 年5830億円全額払え 」
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2016/05/06/kiji/K20160506012531360.html
日本防衛費の全額負担要求 支持者に話すトランプ氏
米大統領選で共和党候補の指名を確実にしたトランプ氏。ニューヨークで支持者らを前に演説=3日
 米大統領選で共和党候補の指名獲得を確実にした不動産王のドナルド・トランプ氏(69)は4日(日本時間5日)、大統領に就任すれば、日米安全保障条約に基づき米軍が日本防衛のために支出している国防費の全額負担を日本に要求する考えを表明した。全額負担に応じなければ駐留米軍を撤収するとの考えも示した。トランプ氏とのパイプを持たない日本政府には困惑が広がっている。

大統領に選ばれる可能性も出てきたトランプ氏からまたも強烈な発言が飛び出した。米CNNテレビのインタビューで、日本や韓国などの同盟国は米軍の駐留経費をすべて負担すべきかを問われ「当然だ。すべての費用を負担すべきだ」と主張。さらに「自動車産業で経済大国となった日本に補助金を払い続けるようなことはできない」と述べた。

米報道によると、米国の2016年度の予算教書では人件費を含む在日米軍への支出は55億ドル(約5830億円)とされる。一方、日本政府が支払っている在日米軍駐留経費負担(思いやり予算)は年間約1900億円になっている。
トランプ氏の外交基本方針は、米国の国益、安全を最優先する「米国第一」。これまでも「同盟国は応分の負担をしておらず、対価を払わなければ、防衛は自国でやってもらうしかない」と米軍による日本防衛の代償を払わせると主張してきたが、100%負担と言い切るのは初めて。
この日のインタビューの中で、トランプ氏は、米国が世界中で警察的な役割を担い、防衛するために、当事者国を上回る費用を支払っているとし「それらの国は米国を助けるべきだ」とも指摘。全額負担に応じない場合は、駐留米軍を撤収するとの持論を曲げなかった。
また、韓国が負担している駐留経費については司会者に「何%だ」と尋ね、「5割」と教えられると「なぜ100%ではないのか。全額負担するべきだ」とも述べた。
北朝鮮による核・ミサイル開発への対処に関しては「適切に米国の面倒を見ないなら、どうなるか分かるだろう。(日韓は)自国のことは自国で守らなければならなくなるのだ」と指摘。一方で、日韓の核武装を容認する考えも否定しなかった。









日曜日のミサとジャガイモの花

2016年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の日記です。
日曜日なので教会のミサに行きました。
いつものように気持ちが新らたになりました。そしてミサのなかで2人の赤ん坊の洗礼式がありました。はるばるポーランドから来てここの教会で結婚式を挙げ住み着いている人と日本人の妻との子と日本人夫婦の子でした。幼児洗礼は見ていて楽しいものです。ポーランドから来たような祖母がしきりに写真を撮って嬉しそうにしていました。
午後に近所のスーパーへ夕食の材料を買いに行ったらジャガイモの花が咲いている畑を見つけました。静かな日曜日です。









仏教のことを少し調べてみる、大悲心陀羅尼とは?

2016年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
好奇心のある限り人間は生きていると言います。そこで今日は、日本人が1500年以上、付き合って来た仏教というものをほんの少しだけ考えてみます。
ここで「付き合った来た」と書いたのは仏教を信じない人もお墓詣りやお葬式や法事など、この世の義理で仏教とかかわるからです。そして現在でも京都や各地の有名なお寺には参拝者が沢山押し寄せているのです。そのようなお寺では袈裟を掛けた僧侶が観光客に仏像の説明をしています。お守りを売っているお寺もあります。日本人は宗教を信じなくても仏教と無意識のうちにかかわって生活をしているとも言えます。ですから外国人は日本を仏教国だと言うのでしょう。
それでは仏教とはどんな教えなのでしょう?それを手っ取り早く理解するためには「般若心経」の意味を解説したホームページを検索してみれば良いのです。
この般若心経はお釈迦さまが舎利子(シャーリプトラ)という弟子へ仏教とはこういう教えなのだよと教えているのです。その内容は深く広大ですが、一言だけ取り出してみます。
それは「我々の生存は空(くう)であるということなのです。夢幻のごときものを、あたかも真実であるがごとく思いこんでいる誤ちをおかし、それを正さないで、真実に目覚めないでいるのです」という言葉です。
そしてこの世のもの全てのもの(色)は空なので無常なのです。色即是空なのです。そしてその逆も真なのです。空即是色です。
この般若心経というお経はほとんどすべての宗派のお葬式や法事で読経される一番重要なお経なのです。般若心経については数多くの解説本が本屋さんにありますから今日はこれでお終いにします。
私が理解出来ないお経が一つあります。それも大変重要なお経でお葬式や法事では多くの宗派で必ずのように僧侶が読むものです。それは大悲心陀羅尼というお経です。
このお経の半分は意味の分かる漢文で書かれていて、あとの半分は意味不明のサンスクリット語を音訳しで漢字に直してあります。従って意味の解明はほとんど不可能なようです。
玄奘三蔵法師は翻訳すると原語の意味が変わってしまうのだと言って漢訳しなかったという説もあります。それでは大悲心陀羅尼を簡略化して見てみましょう。
大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)は正式には千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼というそうです。観自在菩薩(観音さま)の大慈悲をあらわした経典だそうです。
陀羅尼とは「総持・真言」と訳され、一切の功徳を総(すべ)て持つという意味です。
翻訳とはいかに名訳ではあっても、しょせん翻訳には原語の深い意味は損なわれるものです。お経にあっては当然でしょう。
玄奘三蔵法師は陀羅尼を「五種不翻」(ごしゅふほん)といい、翻訳をすると原意からはずれる故に中国語に翻訳しないで、サンスクリットの発音のまま漢字にしたのです。この陀羅尼はインドで創作されて以来外国語に訳されることなく元の発音のまま伝えられてきています。
元の発音と言っても長い期間伝わっている間に少しずつ変化していき、中国、朝鮮、ベトナムなど各地で行われている発音は大分違っているようです。
日本で唱えられているものは漢字で表記されていますが、漢字のもつ意味はお経の意味と全く関係なく、漢字は発音だけを現す道具になっています。従って漢字をいくら眺めていても意味は全く理解できません。
もともと遠い地方の昔の発音の咒文ですから意味が解る筈がありません。


そのお経の読みと推察される意味は以下のようなものです。
ナムカラタンノートラヤーヤー
仏・法・僧(三宝)に帰依したてまつる

ナムオリヤーボリョキーチーシフラーヤー フジサトボーヤーモコサトボーヤー
モーコーキャールニキャーヤー
大慈悲尊・聖観自在菩薩摩訶薩に帰依したてまつる

エンサーハラハーエイ シュータンノー
一切の恐怖の中にあって衆生を救いたもう観自在菩薩に帰依したてまつる

トンシャーナムシキリート
そのお方に帰依したのち

イモーオリヤーボリョキーチーシフラーリントーボー ナームー
ノーラーキンジーキーリー モーコーホートーシャーミー
私は聖観自在菩薩の威神力を持つ大慈悲の真言を唱えます

サーボーオートー ジョーシューベン オーシューイン サーボーサートーノモー
吉祥なる一切の望ましいものを成就せしめ 一切の鬼神の悪行が及ばない

ボーギャー モーハーテーチョートージートー 
一切の迷いの世界を浄化する真言を唱えたてまつる 

エン オーボーリョーギールーギャーチー キャラーチイー 
オーン 光明である智慧ある尊よ世間を超越する尊よ

イーキリモーコーフジサートー サーボーサーボーモーラーモーラーモーキーモーキー
偉大なる聖観自在菩薩よ いざいざ 導きたまえ導きたまえ、憶念したまえ憶念したまえ

リートーイン クーリョークーリョー ケーモートーリョートーリョー
真言を速やかになしたまえなしたまえ 完成したまえ完成したまえ

ホージャーヤーチー モーコーホージャーヤーチイー トーラートーラー
偉大なる勝利の尊よ 大勝利の尊よ 保持したまえ 保持したまえ

中を省略します。そして以下の意味不明の文へと続くのです。

モーラーノーラーソモコー シラスーオモギャーヤーソモコー

ソボモコシドヤーソモコー シャキラーオシドーヤーソモコー

ホドモギャシドヤーソモコー 

ノラキンジーハーギャラヤーソモコー

モーホリシンギャラヤーソモコー

ナムカラタンノウー トラヤーヤー ナムオリヤーボリョキーチーシフラーヤー ソモコー

シテドー モドラー ホドヤー ソーモーコー(終り)

さて今日の疑問は何故半分意味不明のこのお経が多くの宗派で重要視され毎日のように読まれているのでしょうか?
私は般若心経は仏教の教理であり、大悲心陀羅尼は仏教への信仰告白だと思います。
「 一切の恐怖の中にあって衆生を救いたもう観自在菩薩に帰依したてまつる」という文句を形を変えて繰り返されています。ここに仏教の宗教性が明確に示されていると私は理解しています。
仏教のことに詳しい皆様のお教えとご指導を頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真は身延山久遠寺の写真です。
4月20日に撮った写真です。





===参考資料===========
千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼

南無喝囉怛那哆羅夜耶。南無阿唎耶。婆盧羯帝爍鉗囉耶。菩提薩埵婆耶。摩訶薩埵婆耶。摩訶迦盧尼迦耶。唵。薩皤囉罰曳。數怛那怛寫。南無悉吉利埵伊蒙阿唎耶。婆盧吉帝室佛囉楞馱婆。南無那囉謹墀。醯唎摩訶皤哷沙。薩婆阿他豆輸朋。阿逝孕。薩婆薩哷那摩婆薩哷。那摩婆伽。摩罰特豆。怛姪他。唵。阿婆盧醯。盧迦帝。迦羅帝。夷醯唎。摩訶菩提薩埵。薩婆薩婆。摩囉摩囉。摩醯摩醯唎馱孕。俱盧俱盧羯蒙。度盧度盧罰闍耶帝。摩訶罰闍耶帝。陀囉陀囉。地利尼。室佛囉耶。遮囉遮囉。摩摩罰摩囉。穆帝隸。伊醯伊醯。室那室那。阿囉參佛囉舍利。罰沙罰參。佛囉舍耶。呼盧呼盧摩囉。呼盧呼盧醯利。娑囉娑囉。悉利悉利。蘇嚧蘇嚧。菩提夜菩提夜。菩馱夜菩馱夜。彌帝唎夜。那囉謹墀。地利瑟尼那。婆夜摩那。娑婆訶。悉陀夜。娑婆訶。摩訶悉陀夜。娑婆訶。悉陀喻藝。室皤囉夜。娑婆訶。那囉謹墀。娑婆訶。摩囉那囉。娑婆訶。悉囉僧阿穆佉耶。娑婆訶。娑婆摩訶阿悉陀夜。娑婆訶。者吉囉阿悉陀夜。娑婆訶。波陀摩羯悉陀夜。娑婆訶。那囉謹墀皤伽囉耶。娑婆訶。摩婆唎勝羯囉耶。娑婆訶。南無喝囉怛那哆羅夜耶。南無阿唎耶。婆盧吉帝。爍皤囉耶。娑婆訶。悉殿都。漫哆囉。跋陀耶。娑婆訶。

今日は鎌倉の海を見に行きました

2016年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は新緑美しい奥多摩湖へのドライブを楽しみました。今日も晴天ですが、明日から数日天気が悪くなるという天気予報です。そこで今日は鎌倉の海を見に行くことにしました。
府中から中央高速道路に入り、八王子ジャンクションで圏央道に曲がります。
厚木サービスエリアで昼食を買い、圏央道をひたすら南下して茅ヶ崎海岸で一般道に出ました。
そこからは湘南道路を東に走り、辻堂、江の島を通過し、稲村ケ崎の有料駐車場に入りました。
その場所は、石垣の下が浜辺になっています。車を浜辺へ打ち寄せる波に直角に止めると、波の音が大きく聞こえます。窓を開けると磯の臭いのする潮風が吹き込んで来ます。
海岸の潮風を楽しみながら車中で家内と簡単な昼食を食べました。
沖の方からかなり強い風が吹きつけていて、浜辺には白波が次々と砕けていました。
沖の方を見ると広大な大洋が何処までも続いています。嗚呼、これが海というものだとしばし眺めていました。そして昨日見た奥多摩の風景を思い出していました。何か海を満喫したような気分になります。

今日は土曜日なのに道路が非常に空いています。そこで、稲村ケ崎から、いきなり長谷寺の前の道路に車を乗り入れました。
戦前からある柴崎牛乳店の前の小路を左に入り鎌倉文学館の下の住宅街を通ります。家内が生まれ育った家のあたりです。そして吉屋信子記念館の前を通って又バス通りに出ました。鎌倉はお寺の散策も良いのですが、何気ない住宅街も昔風で良いものなのです。
その後は八幡神社に続く段葛の道路で、鎌倉名物の「鳩サブレー」の本店でそれを買ってから帰路につきました。
帰りは行った道筋を忠実に戻りました。道路が空いていたので往復200Kmのドライブが爽快でした。10時に家を出て午後2時30分に帰宅しました。
今日残念だったことはカメラを忘れたことです。そこで2月5日に撮った鎌倉海岸の写真をお送りします。