後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

80歳になり、達観の境地に憧れる

2016年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
大部分の人々には引退する時期が来ます。そうすると達観の境地という言葉をなんとなく意識するようになります。私も例外でなく60歳の頃からこの言葉を意識し始めました。
そして今年の1月に80歳になると急に「達観の境地」に憧れるようになりました。
達観という言葉の意味は以下のように説明されています。
1 広く大きな見通しをもっていること。遠い将来の情勢を見通すこと。
2 目先のことや細かなことに迷わされず、真理・道理を悟ること。俗事を超越し、さとりの境地で物事にのぞむこと。
私のような俗物には「達観の境地」はかなり無理なことは判っています。
しかしその境地になると、少しだけ幸せな気分になるではないかと思っています。
急にその境地にいたることは無理なので、私は以下のようなことを日常、実践する努力をしています。
(1)敵対する相手や喧嘩の相手を許し、自分から謝る。
敵対する相手が出来る原因は相手が無理無体なことを主張するからです。しかし相手の考え方に従うと、その無理無体が当然の正義なのです。
「私が悪いのです」と謝ってしまえば、その瞬間、謝っている自分が幸せになれます。
無理に謝るのが難しいときは「今は謝るが、いつかわからせる」と決心すれば謝れます。言葉の上だけでも謝れば、幸せな気分になれます。浅薄な私は言葉こそが大切だと思っています。
(2)7の7たび、すなはち49回、声を出して「仕返しをする」と独り言を言う。
我(が)の強い私は何時もこれを実行するように努力しています。「仕返しをする」と声を出して言うと不思議にが馬鹿らしくなるのです。どんな場合も馬鹿らしくなるわけではありません。
しかし夫婦喧嘩の場合は例外なく馬鹿らしくなります。すると心が平安になり小さな幸せを感じます。そして1番目の写真のような最近見た悠遊とした多摩川の流れを思い出すのです。

(3)自分が落ち込んだら、幸せな人々が沢山いる風景写真を思い出し、考える。
不幸な感じが心に湧いてきたときは、自分の過去で幸せな気分になれた場面のことを思い出すのです。過去と言ってもなるべく数日前の生々しい風景を考えるのです。
例えば2番目の写真には幸せそうな多くの家族が子供連れで釣りを楽しんでいる風景です。都心からこの多摩川上流のマス釣り場まで来るには朝早く子供達を起こして弁当を持って家を出なければなりません。そんな家族の会話を想像すると自分も幸せになります。新緑に覆われた釣り場からは楽し気な子供の声がかすかに響いて来ます。

幸せな場面の思い出はどんな不幸な人にも必ずあります。生きて来た限り必ずあるのです。
その幸せな気分になった場面を思い出したら不幸な現在も幸せになります。少なくとも気分だけは強くなれます。
(4)不幸を感じたら、その原因を分析し、追求しないことです。
よく過去は忘れなさい。将来のことだけを考えなさい。そんな言葉があります。この言葉の実行する具体的な方法が、「不幸を感じたら、その原因を分析し、追求しない」ことです。
自分が不幸になったのは親のせいだ、悪妻のせいだ。子供が問題児だから自分は不幸だ。あるいは職場の上司が悪い奴なので自分は不幸だ。生まれつき自分のルックスが悪いから一生不幸だ。このように不幸な原因は数限りあります。少なくとも私には数限りあります。
自分が不幸になった原因を分析し、考察して行くとかならず自分以外の他人を悪人にせざるを得ません。その他人をあなたは恨みます。恨んでいるかぎり心の平安はありません。ですから心の中から恨みを完全に取り除くためには自分の不幸の原因を考えないことが鉄則です。
(5)自分が家族と友人から愛されていると声を出して独り言を言う。
子供が遠方に住んでいてめったに会いに来ない。可愛かった孫達が部活が忙しくなって姿が見えなくなった。妻が年のせいか夫婦愛が冷たくなったようだ。遠方に住んでいる友人たちから手紙も来ない。
どうも自分は誰からも愛されていないと感じるのが老境の特徴かも知れません。
そんな時には、「自分は家族や友人の全てから愛されている」と声を出して独り言を言うのです。すると幸せな気分になれます。少なくとも、この文章を書いている私はこの瞬間本当に幸です。そして3番目の写真のような新緑の山並の上にある白い雲へ想いを馳せるのです。

最後に1つの重要なことをかきます。
上のように気楽なことばかり書くと「それでは生まれつき貧しかったり、ハンディキャップを持って生まれたきた人々はどうすれば良いのか?」という質問が必ず出ます。
そいう境遇に生まれたことは重大な不幸に違いありません。それは私も認めます。しかしそんな境遇でも上に書いた5つの方法は必ずや役に立つと私自身は信じています。

最後に蛇足を一つ。これを読む家内は吹き出してしまうでしょう。私が上に書いてある通りの実行していないからです。しかし十分の一くらいは実行しています。なんと言っても「達観の境地」に憧れているのですから。
達観の境地とはすぐに飛んで行って入れるのでは無く、一見、関係の無いような上記の5つのことを実行する努力の積み重ねでやっと到達出来る境地だと私は信じています。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

新緑美しい奥多摩湖に秘められた3つの悲劇

2016年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
奥多摩湖は多摩川を遡った山の奥にある雄大な湖です。昨日、朝起きてみたら風薫る皐月晴れです。新緑に囲まれた奥多摩湖は美しいに違いありません。行く決心をしました。
自宅から立川、福生、羽村の堰、青梅、御岳駅前と旧奥多摩街道を根気よく2時間余ドライブすると山奥にある奥多摩湖に着きます。
予想していたとうり新緑に囲まれた湖は碧く輝いています。入り組んだ湖水に若々しい緑が覆いかぶさり夢幻の世界です。新緑のほのかな佳い香りが風に乗って車の窓から入ってきます。
この湖は高速道路も無い山奥の不便な場所にあるので数年行きませんでした。しかし若い頃は家族とともに何度も遊びに行った曽遊の地です。湖岸にそった道路をゆっくり走っていると若い頃の楽しい思い出が次々と蘇ってきます。そんな奥多摩湖の昨日の風景を1、2、3番目の3枚の写真で示します。





甲府へ抜ける柳沢峠の街道を脇にそれて入り組んだ湖岸に沿って走ってみました。
そうしたらその奥に普門禅寺というお寺があるのです。急な石段の上を見上げると江戸時代風の山門が若葉に囲まれて見えます。説明板によると寛永年間に建てられた山門です。
4番目の写真にその山門の写真を示します。

身軽な家内は急な石段を登ってお寺の本堂の写真を撮りに行ってしまいました。
静かになったので周囲を散歩しましたら5番目のような石碑を見つけました。

文章を要約すると、岩崎貞夫という共産党員が山村工作員として1951年にこの小河内村の山地に住み込んで、1953年に35歳で亡くなったと書いてあります。
ダム湖の底に沈む村人達を救うためにダム建設に命を賭けて反対運動をしたのです。
その共産主義は別にして他人を救うために35歳の命を捧げたのです。若者の死はいつの時代でも悲しいことです。悲劇です。
この石碑を見ていろいろな事を思い出しました。
この巨大なダムは1936年に着工され1957年に完工したのです。

第2の悲劇は旧小河内村と山梨県丹波山村及び小菅村の945世帯約6,000人が強制的に移転させられたのです。そして小河内村は、その大部分が水没しました。普門禅寺の山門も湖底に沈む運命でしたが、村人たちの懇願により小高い場所に移築されたのです。
6番目の写真に旧小河内村の風景を示します。

この旧小河内村の悲劇は小説や歌にもなりました。1937年には旧小河内村を歌った「湖底の故郷」(島田磐也作詞・鈴木武雄作曲・東海林太郎唄)がレコード発売され大ヒットしたのです。
そして戦後、ダム建設の工事が再開されると反対運動が激しく燃え上がったのです。
その一つに当時の共産党の山村工作隊があったのです。
1950年に日本共産党東京都委員会は小河内ダム対策委員会を設置しました。そして1952年になると、 日本共産党はダム破壊活動を目的とした山村工作隊を派遣したのです。
上に書いた岩崎貞夫はその山村工作員の先遣隊の一員でした。人間的に立派だったようで普門禅寺の住職に気に入られ石碑が立てられたのです。
しかしダム破壊活動は1952年の3月29日以降警察による一連の逮捕により失敗に終わったのです。

そして第3の悲劇とはダム建設によって下請作業員ら87名が殉職したことです。現在では湖畔に慰霊碑が建てられていますが、その殉難者名を見ると実の多くの朝鮮特有の姓名があるのです。
7番目の写真にその殉難者の慰霊碑の写真を示します。

今日の記事の表題の「新緑美しい奥多摩湖に秘められた3つの悲劇」の3つの悲劇とは、
1、ある山村工作員が35歳の若さで死んでしまった、
2、旧小河内村と山梨県丹波山村及び小菅村の945世帯約6,000人が強制的に移転させられた、
3、朝鮮出身者を含む87名が殉職した、
この3つの悲劇です。
現在、新緑美しいこの奥多摩湖に遊びに来る若い家族連れは多分この湖にまつわる悲しいことを知らないでしょう。
そして戦前、戦後の混乱の日本の歴史のなかの1ページとして次第に忘れられて行く運命にあるのでしょう。
地球は悲しみの満ちた器だという言葉を思い出します。そして新緑と碧い湖を見ながらゆっくりと車を走らせてきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



日本に絶対入らないアメリカのもの

2016年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム
風薫る皐月になりましたね。今日は日本に絶対入らないアメリカのものについて書いてみたいと思います。
先日、「戦後70年、気がついてみたらアメリカ文化に浸かってしまった日本」という題で日本がアメリカ文化にすっかり浸かってしまっている状況を説明いたしました。
コンビニが全国の津々浦々にあります。その数、7万店舗以上になると言います。スーパーもマックやケンタやスタバのようなファーストフードの店もきめ細かく普及しています。
郊外の大型量販店もアメリカ発祥の文化です。この狭い日本の国内旅行に飛行機を使うのもアメリカの風習です。その上、その旅客機はほとんど全てアメリカ製なのです。 こうしてキーボードを叩いているパーソナル・コンピューターもアメリカ発祥のアメリカ文化の産物です。
戦争に負けた日本がアメリカに憲法を押し付けらる民主化をして政治の分野でアメリカ文化に従ったのは随分昔の話です。しかしその後も連綿としてアメリカ文化が押し寄せて来て日本を飲み込んでいるのです。気がついてみると生活を便利にするアメリカのものは全て日本を占領してしまっているのです。
こういう状況ではアメリカ文化が日本にすべて導入されたと考えられます。しかしこの考え方には非常に大きな間違いがあるのです。
アメリカ文化のなかに日本には絶対に入らないものがあるのです。
それはアメリカ人の宗教に対する考え方です。アメリカの文化の特徴といえば進歩しつつある科学や技術の他にキリスト教に対する強い信仰があることです。日本にはアメリカの科学や技術は間髪を入れずに導入されて来ましたが、アメリカ人の80%が信じているキリスト教は日本へ全然入ってきません。まあ、厳密に言えば日本人の3%はキリスト教を信じていますから、全然入って来ませんと言えば間違いではありますが。
アメリカ社会における人間関係にはその下敷きにキリスト教への信仰があるのです。アメリカは弱肉強食の社会で、貧富の差が大きいので人間関係は殺伐としていると誤解しがちです。しかしアメリカに暮らしてみると助け合いの精神が溢れていて、実に暖かい人間関係があるのです。殺伐とした社会というより人間的で温かい社会なのです。
ですからアメリカ文化を万遍無く公平に理解しようとしたら彼らのキリスト教への帰依を理解しなければなりません。
勿論、アメリカにはイスラム教徒もユダヤ教徒も仏教徒も数多くいます。しかし話を簡明にするために今日はキリスト教だけを取り上げます。
それではアメリカのキリスト教はどのようなものでしょうか?
カトリック教徒も多いのですが、アメリカの特徴はいろいろなプロテスタント宗派が乱立していることです。理解しがたいような教理論争が延々と続いているのがアメリカの特徴です。
しかしその宗派の多くは福音主義なのです。
ですからアメリカ人は以下のことを単純に信じ切っていて疑いません。
1、聖書の霊感と無謬性(旧約聖書も新約聖書も間違っていない)
2、キリストの処女降誕(キリストは処女マリア様から生まれた)
3、キリストの贖罪(キリストは全ての人間の罪の解消のために十字架につけられ死んだ)
4、体の復活(キリストも全ての死者も何時かは生き返ってくる)
5、数々の奇蹟物語(水上歩行、水を葡萄酒に変えたなど数々の奇蹟話)

さてここで皆さまにお聞きしたいのです。日本人は上にかいた5つのことを信じられますか?
まず無理でしょう。日本人の3%だけが信じているのです。
ですからこそアメリカ文化のうち、これだけが日本に導入されていないのです。彼らの精神文化のキリスト教だけは日本へ導入されていないのです。
よくアメリカには物質文明はあるが精神文化が無いといいます。これは大変な間違いです。
正しくは「日本人の理解出来ない精神文化がある」と言い直すべきです。
私自身はカトリックです。しかし般若心経や大悲心陀羅尼経が大好きです。キリスト教と仏教のバイリンガルのようなものです。ですからアメリカの精神文化もある程度理解出来ます。
アメリカ文化がこんなに溢れている日本ですが、絶対にアメリカから入って来ないものもあるのです。日米関係を深く考えるとき、このアメリカ特有の精神文化を無視すると間違いをおかすのではないでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真は阿片の取れない無害なヒナゲシの花の写真です。先日、都立薬草植物園で撮りました。










「故人の三回忌の法事に行きました」

2016年05月04日 | 写真
今日は朝の雨が上がり、快晴になりなした。
義弟の三回忌の法要に行ってきました。般若心経の読経を聞きながら故人がお釈迦さまのおそばの浄土で静かに過ごせるように祈って来ました。読経の後は皆でお墓にもお参りしました。写真はお墓のある場所で撮った写真です。

大悲心陀羅尼、だ い ひ し ん だ ら に
( 大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)は正式には『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼』といい、略して、『大悲呪』ともいわれる。千手千眼をもつ観世音菩薩(観音さま)の大慈悲心をあらわした陀羅尼であり、梵語の呪文をそのまま漢字で音写したものであるため、経文を読んでもその意味を理解することはまったくできない。)

大だい悲ひ呪しゅう

ナムカラタンノートラヤーヤー
仏・法・僧(三宝)に帰依したてまつる

ナムオリヤーボリョキーチーシフラーヤー フジサトボーヤーモコサトボーヤー
モーコーキャールニキャーヤー
大慈悲尊・聖観自在菩薩摩訶薩に帰依したてまつる

エンサーハラハーエイ シュータンノー
一切の恐怖の中にあって衆生を救いたもう観自在菩薩に帰依したてまつる

トンシャーナムシキリート
そのお方に帰依したのち

イモーオリヤーボリョキーチーシフラーリントーボー ナームー
ノーラーキンジーキーリー モーコーホートーシャーミー
私は聖観自在菩薩の威神力を持つ大慈悲の真言を唱えます

サーボーオートー ジョーシューベン オーシューイン サーボーサートーノモー
吉祥なる一切の望ましいものを成就せしめ 一切の鬼神の悪行が及ばない

ボーギャー モーハーテーチョートージートー 
一切の迷いの世界を浄化する真言を唱えたてまつる 

エン オーボーリョーギールーギャーチー キャラーチイー 
オーン 光明である智慧ある尊よ世間を超越する尊よ

イーキリモーコーフジサートー サーボーサーボーモーラーモーラーモーキーモーキー
偉大なる聖観自在菩薩よ いざいざ 導きたまえ導きたまえ、憶念したまえ憶念したまえ

リートーイン クーリョークーリョー ケーモートーリョートーリョー
真言を速やかになしたまえなしたまえ 完成したまえ完成したまえ

ホージャーヤーチー モーコーホージャーヤーチイー トーラートーラー
偉大なる勝利の尊よ 大勝利の尊よ 保持したまえ 保持したまえ

チリニーシフラーヤー シャーローシャーロー モーモーハーモーラー
最勝なる観自在菩薩よ 動きはじめたまえ動きはじめたまえ 汚れを離れたる尊よ

ホーチーリー ユーキーユーキー シーノーシーノー
汚れ無き身体を持つものよ ここに来たまえここに来たまえ

オラサンフラシャーリー ハーザーハーザー フラシャーヤー 
貪欲の害毒を滅除する尊よ 瞋恚の害毒を滅除する尊よ 愚痴の害毒を滅除する尊よ

クーリョークーリョー モーラークーリョークーリョー 
取り去りたまえ取り去りたまえ 汚れを取り去りたまえ  

キーリー シャーローシャーロー
観自在菩薩よ 動きはじめたまえ動きはじめたまえ

シーリーシーリー スーリョースーリョー フジヤーフジヤー フドヤーフドヤー
現れたまえ現れたまえ 進み出たまえ進み出たまえ 成覚したまえ成覚したまえ

ミーチリヤーノラキンジー チリシュニノー ホヤモノ ソモコー
慈悲深き観自在菩薩よ 姿を見んと欲するものには形影をあらわし歓喜せる尊よ 吉祥あれ

シドヤーソモコー モコシドヤーソモコー 
大覚成就のため祥福あれ 偉大なる大覚成就のため吉祥あれ

シドユーキー シフラーヤー ソモコー
大覚の行法に自在なるものに吉祥あれ

ノラキンジーソモコー
観自在菩薩よ 吉祥あれ

モーラーノーラーソモコー シラスーオモギャーヤーソモコー
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇

ソボモコシドヤーソモコー シャキラーオシドーヤーソモコー
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇

ホドモギャシドヤーソモコー 
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇

ノラキンジーハーギャラヤーソモコー
〇〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇

モーホリシンギャラヤーソモコー
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇

ナムカラタンノウー トラヤーヤー ナムオリヤーボリョキーチーシフラーヤー ソモコー
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇

シテドー モドラー ホドヤー ソーモーコー
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇


過ぎ去りし日々よ、そして水芭蕉の群落に遭遇した思い出

2016年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム
老境になると月日が以前より早く流れ去るようになります。しかしその中でも忘れられない出来事が次々と起こり退屈することがありません。
今日は神秘的な水芭蕉の花の群落に突然遭遇した時の思い出を書いてみたいと思います。それは心に焼き付いている神秘的な光景でした。
水芭蕉の花は若い頃から一度見てみたいと長い間憧れていた花でした。尾瀬の「夏の思い出」という歌が一世を風靡したころから水芭蕉という花に魅かれるようになりました。作詞、江間章子、作曲、中田喜直のこの歌の中で尾瀬に咲く水芭蕉の花の美しさが出て来たのです。しかし東京に住んでいる私にとっては尾瀬はあまりにも遠い場所でした。
白い花びらのように見える苞(仏炎苞)がロウソクの炎のように太い蕊の後ろに後光のように立っている大きな花です。写真を何度も見て何時かは見てみたいと憧れていた花でした。
「夏が来ると思い出す、 はるかな尾瀬 遠い空、・・・」 という尾瀬の夏の日を懐かしむ歌で知ったので、私は水芭蕉は尾瀬にしか咲いていないと思い込んでいたのです。
晩年度々北海道を旅するようになりました。北海道を車で走っていた時、道に迷い、一面に白い水芭蕉が咲いている場所に突然遭遇したのです。それは2003年の5月の頃でした。あれからもう13年になりますが、その水芭蕉の花が群落して咲いている光景が忘れられないのです。
1番目の写真は13年前の5月2日に偶然迷い込んだ水芭蕉の群生地の写真です。

場所は網走湖の南端の湿地帯でした。
国道から呼人半島の付け根の方向へ少し入った雑木林の下に広がる湿地帯です。観光地でないので案内の看板も無く、近所の人だけが散歩するような細い悪路が林に中に続いていました。
私共はアイヌ民族の神様のフクロウに誘われるように暗い林の中を陶酔したように歩き回りました。あの頃は妻もまだ66歳で若かったので、白い花の群落に立っている姿も良いと思ったものです。
それはさておき、この幻想的な水芭蕉の群生地が忘れられず、その後何度か北海道へ行くたびにあちこちで湿地帯を見つけると車を停めて歩き回りました。しかし網走湖以外では見ることが出来ません。
ところが2012年の9月にまた網走湖のそばを通るチャンスが巡って来ました。
2003年に辿った道を思い出しながら探して行きました。そして9月20日にこの曾遊の地を再び訪れたのです。
しかし9月は水芭蕉の花の季節ではありません。雑木林の中は暗く、道も崩れていて、荒れ果てた感じです。そして以前に歩いた細い道の入り口には立ち入り禁止の綱が張ってあります。水芭蕉の花咲く季節以外は人を入れず水芭蕉を保護しているのです。
帰宅後、ネットで調べると毎年5月初旬には相変わらず2番目の写真のように咲いていることが分かりました。

この写真の出典は、http://abashiri.jp/tabinavi/02spot/abashiriko.html です。
3枚目の写真にもう一枚の水芭蕉の咲いている湿地帯の光景をしめします。

この写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%90%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6 です。
以前に泊まった丘の上の「網走湖観光ホテル」悠遊亭を思い出し、行ってみました。2002年と2003年の北海道旅行の折に2回泊った大きなホテルです。
ホテルは倒産したようで閉鎖されていました。玄関先には雑草が茂っています。
車を停めた広い駐車場にも雑草が生えています。「栄枯盛衰、世の習い」といいますので仕方が無いのですが淋しい思いがします。
下を見降ろすと、当時と同じように広大な網走湖が広がっています。岸辺に降りて行って撮ったものが5枚目の写真です。

網走湖は観光客があまり行かない湖です。大きなシジミだけが名物の地味な湖です。その南端の湿地帯に水芭蕉が群生していて現在でも毎年4月中旬から5月にかけて見事な神秘的な花を見せてくれます。網走湖呼人半島の水芭蕉を検索すると開花状況が出ています。

北海道の自然は変わりません。その大自然が美しいだけに何か淋しい思いをしながら女満別飛行場から飛行機に乗り帰京しました。
老境の日々はどんどん流れ去ります。しかし忘れ得ない思い出も沢山出来るのです。それは人生のおいていろいろな意味で貴重な期間なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====水芭蕉に関する参考資料================
水芭蕉の特徴: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%90%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6 より以下の文章と水芭蕉の写真を引用いたしました。その写真を5番目の写真として示します。

湿地に自生し発芽直後の葉間中央から純白の仏炎苞(ぶつえんほう)と呼ばれる苞を開く。これが花に見えるが仏炎苞は葉の変形したものである。仏炎苞の中央にある円柱状の部分が小さな花が多数集まった花序(かじょ)である。開花時期は低地では4月から5月、高地では融雪後の5月から7月にかけて。葉は花の後に出る。根出状に出て立ち上がり、長さ80 cm、幅30 cmに達する。和名の「バショウ」は、芭蕉布の材料に利用されているイトバショウ(Musa liukiuensis (Matsumura) Makino)の葉に似ていることに由来する。

水芭蕉の分布:
シベリア東部、サハリン、千島列島、カムチャッカ半島と日本の北海道と中部地方以北の本州の日本海側に分布する。南限の兵庫県養父市の加保坂峠にも隔離分布している。山地帯から亜高山帯の湿原や林下の湿地に分布する。学名の種小名は「カムチャツカ半島」に由来する。基準標本は、カムチャッカ半島のもの。

日本の主な群生地:
日本の各地に多数の群落がある。「夏の思い出」(作詞:江間章子、作曲:中田喜直)で歌われているが、実際に尾瀬沼でミズバショウが咲くのは5月末ごろ、これは尾瀬の季節でいうと春先にあたる。北海道南部の大沼国定公園においても群落が多数あり場所により開花の時期が違う、駒ヶ岳の噴火によってできた湿地であったり水の溜まる地形が多い為にミズバショウには適した地といえる。田中澄江が『新・花の百名山』で、薬師岳と北ノ俣岳の間にある「太郎兵衛平」を代表する花の一つとして紹介した。
北海道網走湖畔(大空町・網走市)、雨竜沼湿原(雨竜町)、仁田沼 - 福島県福島市の吾妻連峰、尾瀬沼、奥裾花(長野市)、以下省略。


外国に住む日本人と 「人間至る処青山あり」

2016年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム
高校時代の漢文の先生から「人間至る処青山あり」の一節を習って以来、長い人生の折々に必ず思い出す言葉です。
若い頃、オハイオ州に留学している時も、望郷の念に駆られるたびにこの一節を呪文のように唱えて異郷に住む苦しみをしのいでいました。貧乏のなかで勉強が厳しかったのです。晴れ上がった夕焼け空を白い旅客機が西の日本の方角へ飛んでいるのを見て望郷の想いで胸がかきむしられました。
その頃はこの「人間至る処青山あり」の意味を間違って、人間は何処に行っても美しい山の風景があるので幸せになれると理解していたのです。
何年かしてもう一度この一句を調べ直してみて自分の間違いに気がつきました。正しくは人間(じんかん)至る処青山ありと読み、その意味は、人はどこで死んでも青山(=墳墓の地)とする所はあるという意味だったのです。

この一節は幕末の長州の月性という僧侶が作った漢詩の最後の一節です。
言葉の響きが良い上に蒼く光る山々を連想されるので広く人々に使われる一節です。
その七言絶句の漢詩と訳は以下の通りです。          

「將東遊題壁」

男兒立志出郷關,
學若無成不復還。
埋骨何期墳墓地,
人間到處有山。

將(まさ)に 東遊せんとして 壁に 題す。

男児志を立て郷関を出ず
学若し成る無くんば復た還らず
骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん
人間到る処青山あり

(「人間(じんかん)」は世の中を指し、「青山」は墳墓を表しています。)
その大意は、人はどこで死んでも青山(=墳墓の地)とする所はある。故郷を出て大いに活躍すべきであるとの意です。
幕末の長州で月性は尊皇攘夷の運動を活発にしていて吉田松陰とも交友があったそうです。
明治、大正、昭和と時代が進むと樺太南部や台湾や朝鮮が日本の領土になります。それに従って日本を出てこれらの新天地で働く日本人も増えていったのです。
「人間到る処青山あり」という一句は何となく時代の風潮に合致しているように感じる人が多かったのでしょう。そしてその時代には学問で身を立てることが奨励されていました。そんな背景もあって旧制中学校の漢文の時間にはこの漢詩を教えていたかも知れません。
私が戦後に入学した新制高校は旧制中学校のままの漢文の先生が教えていました。
勿論、この漢詩の重要な一節は、「学若し成る無くんば復た還らず」です。学問をきわめるために故郷を出るのです。
しかしそれを省略して最後の一節だけが良く言われます。
最近、私はしばらく忘れていたこの一句を何度も唱えるようになりました。
理由はネットの上で知り合った何人かは日本の故郷を遠く離れて何年も異国に住んでいることを知ったからです。
フランス人と結婚して幸せそうなMotokoさん、ブラジルに移民し身を立てたHiramineさん、スペインで日本武道の師匠をしているSeigoさん、イギリスに長く住んでいるMionFさんなどが私の記事を読んでコメントを下さいます。
故郷の日本のことを懐かしく思っていらしゃるようです。

この日本を懐かしく思って下さることは大変嬉しいことです。その一方、現在住んでいるところを愛しお墓も作ろうと決心しているようでもあります。私はそのような人を尊敬しています。
外国に住む日本人はそれぞれの理由があるのでしょう。しかし住んでいる土地を愛し、その国の土になるという決心は崇高なものと思います。理由は分かりませんが私には崇高な決心のように思えるのです。
勿論、その逆も真です。日本に帰化して日本の土になった人も知っています。時々そのような神父さんの墓参りに行きます。何故か感動します。理由は分かりません。
さて最初の「人間至る処青山あり」の一句の意味に返ります。これを誤解のついでに「人間至る処、どこににでも花々がある。どこにでも善い人間がいる」と拡大解釈してみましょう。そう信じるとどんな異国に住んでいても人間は幸せになれるのです。
そんな想いで、今日の挿絵の写真は昨日、都立薬草植物圓で撮ってきた季節の花々の写真をお送りいたします。

それはそれとして、今日は異国に住む皆様の幸多かれと祈ります。あわせて皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

上はボタンです。

上は水辺に咲くカキツバタです。

上はヒトツバタゴ、俗称はナンジャモンジャです。

上はシランです。

上の写真に手前にツツジと奥にフジが写っています。

厳重に栽培が禁止されている有毒のケシの花の写真

2016年05月02日 | 写真
日本では厳重に栽培が禁止されている有毒のケシの花の写真を撮ってきました。
私の知ってる場所はたった一つで、小平市にある東京都薬草植物園だけです。
ケシは阿片の原料になり、猛毒の植物です。医薬品のモルヒネは阿片からつくります。
日本では 「あへん法」で栽培が原則禁止されていて、厚生労働大臣の許可を得た限られた場所だけで施錠された二重の鉄格子の中でわずかに栽培されています。

都立薬草植物園では毎年花の咲く時期になると二重の鉄格子のうち一つだけ開けられてケシの花の写真を一重の鉄格子の間から撮ることが出来ます。
現在日本において栽培許可を受けている場所は国や地方自治体の研究機関や、薬科大学の薬草園、および北海道に国から委託されている数軒の農家があるだけです。
国内のアヘン生産量は実験室レベルに留まっているために、モルヒネ製造の国内需要をまかなえません。そのため他国からアヘンを輸入しているのが実情です。
それはともかく鉄格子の間から先程撮ってきた有毒のケシの写真をお楽しみ下さい。









戦後70年、気がついてみたらアメリカ文化に浸かってしまった日本

2016年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム
いつものことながら今日も観念的でしかも雑なエッセイを書きます。気楽に読み流して頂けたら嬉しく存じます。
最近、私はコンビニという小さな店でよく買い物をしています。
理由は2つあります。第一に都心の外にあるコンビニには広い駐車場があるからです。そして第二の理由は商品が実に新しい発想で開発されていて店内を見ているだけで楽しいからです。
車だけに頼っている足の弱い小生にとっては広い駐車場のあることが一番幸せなことなのです。このような客の心理をつかんで郊外にあるコンビニは必ずのように広い駐車場を持っています。そこへの出入りが楽なように駐車場が設計してあるのです。
立派なデパートにはよく地下に広い駐車場があります。しかしそこから各階の売り場までが遠いのです。そこに上がるエレベーターが遅すぎるのです。
さて、コンビニの商品は日常使う物や食品が全てそろっているのです。香典袋からローソク、文房具などの日用雑貨、各種の酒類、卵から野菜、そして多種多様な弁当類がそろっているのです。昔の「よろず屋」よりも品数が豊かで品質が良いのです。私は何度もコンビニのお握りを買います。使っている米が上等で冷たくなっても美味なのです。そして弁当類には努力して美味しいオカズが入っているのです。パックごとに電子レンジに入れても困らないように漬物や生野菜は入れてありません。
それからコンビニのスイーツ類が美味なのです。あまり長くなるので食べ物の話はこれでお終いにします。
話は変わりますが、日本全国に仏教のお寺が7万5千軒あるそうですが、コンビニの数は同じくらいあるそうです。
コンビニはアメリカで生まれた便利な文化です。気がついてみると生活を便利にするアメリカのものは全て日本を占領してしまっています。
マックやケンタやスタバのようなファーストフードの店もお寺の数にせまっているそうです。
こうしてキーボードを叩いているパーソナル・コンピューターもアメリカ発祥のアメリカ文化の産物です。
郊外の大型量販店もアメリカ発祥の文化です。この狭い日本の国内旅行に飛行機を使うのもアメリカの風習です。その上、その旅客機はほとんど全てアメリカ製なのです。
戦争に負けた日本がアメリカに憲法を押し付けらる民主化をして政治の分野でアメリカ文化に従ったのは随分昔の話です。しかしその後も連綿としてアメリカ文化が押し寄せて来て日本を飲み込んでいるのです。これは日本だけではありません。世界中がアメリカ文化を受け入れているのです。マックやケンタの店は共産党独裁の中国にもあります。ロシアにもあります。
現代のアメリカは、良し悪しは別にして、その影響力が全世界に及んでいるのです。ですからローマ帝国より偉大なのです。そんな表現があながち嘘だと言いきれないのが実情なのです。
しかしここで私は問題を提起せざるを得ません。日本に入っているアメリカ文化は本物のアメリカ文化なのしょうか?
日本に輸入するために大幅に変えてしまっていないでしょうか?
アメリカの民主主義は日本の民主主義とは随分と違うとはよく聞く話です。それを説明していると長くなるので割愛しますが、今日は分かりやすい車の駐車場の設計の相違を示します。
日本では駐車場の無い公園や役所や店舗が沢山あります。むしろ駐車場が無いほうが一般です。それがアメリカでは必ずのようにあるのです。これこそ車社会の文化の大きな相違なのです。日本では車は早く走れば良いのです。アメリカでは止める場所に工夫を凝らします。
例えば病院では駐車場と病室の間を最短距離になるように設計します。大型量販店では駐車場所と販売カンターは離れていますが安全に楽しく歩けるように歩道が設計されています。飛行場には広大な駐車場があり出張の時は自分の車をそこに置いて出掛けます。私も何度か使いましたが広い駐車場から飛行場の建物まで送ってくる小型のシャトルバスが走っているのです。
日本の駐車場は高齢者のことを考えずに設計してあります。
このように書くと日本は土地が狭いから仕方が無いと言い、駐車場の改良を考えません。しかしもっと豊かになれば山々を崩して土地を広げ、便利な駐車場を完備した建物が増加する筈です。日本人の意識が変わるのを待つほかありません。
「車は贅沢品だ。だから不便は覚悟の上で使え!」 このような考えがあるのではないでしょうか?もしまだそんな考えがあったとしたら、それは日本が貧しかった時代の精神の残滓なのでしょう。
このように日本にあるアメリカ文化はどこか本国と違うのではないでしょうか?そしてそれに対する考え方は人それぞれで良いのではないでしょうか?しかし違いがあることだけは忘れにようにしたいと私は思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真は芦ノ湖畔にある「山のホテル」の近景と遠景の写真です。4月20日に撮りました。今日の文章の内容とは関係がありません。風景をお楽しみ下さい。










このブログ記事へのアクセス数を増やすための工夫

2016年05月01日 | 日記・エッセイ・コラム
いつもこのブログの記事をお読み頂きまして有難う御座います。
ブログを2007年11月に書き始めてもう9年以上になります。はじめはお読み頂く方も少なかったのですが継続して毎日のように記事を更新して来ました。おかげ様で最近は毎日の閲覧者数が約400人、そしてアクセス数が約2500件あります。このgooブログの総数は約250万編あるそうですが、私のブログのランキングは日によって違いますが1000位から1500位の間を上下しています。
このような読者の方々のおかげで毎日書き続ける張り合いがあります。
そこで今日はこの記事へのアクセス数が増えるように私がしていることを書いてみたいと思います。
いくつかありますが、それらを列挙してみると以下のようになります。
(1)広い分野の話題をなるべく万遍なく取り上げる。
長年書き続けているとどうしても自分の好きな分野の話題だけになりがちです。そこで私は自分の趣味の話だけでなく国内政治、国際関係、宗教の諸問題、社会時評、美術関連の展覧会の訪問記、などなどの出来るだけ広い分野の話題を取り上げるように工夫しています。
(2)記事を書く時は客観的にいろいろな意見を紹介しています。
特に難しいのは政治の問題です。自民党を支持する人、反対する人や全ての政治家は嫌いだという人、いろいろな方々がいます。従って政治に関する意見を書くときはまずいろいろな立場の人々の意見を公平にご紹介します。その後で自分はこんな意見ですと書きます。
同じ様に難しい話題は宗教に関する問題です。日本には無宗教の人も多い上に仏教が好きな人も多いのです。そして神社にお参りします。そして人口の3%と少ない数ですがキリスト教徒もいます。
これらの幅広い方々の反感を買うことなく、成程そんな考え方があるという気持ちになって頂くように書くのです。
宗教の問題を書く時に一番重要なことは自分の信念が確立していることです。その信念とは「全ての宗教には絶対に優劣が無い!」という確信です。そして無宗教の人も信心深い人と全く同じように尊敬しながら記事を書くことが肝要なのです。
(3)年齢差別や男女差別を絶対にしないで記事を書く。
自分はもう80歳の老人です。つい「最近の若者はいけない。頼りにならない。日本の将来が心配だ。」というような愚痴を書きたくなります。しかしそれでは若い読者がいなくなります。私は老人の愚痴は絶対に書かないようにしています。
本当のことを言うと最近の若者は老人たちより人間性が良いと観察しています。最近の若者は日本が豊かになってから育っています。従って驚く程「育ちが良い」のです。親切で優和です。他人を出し抜こうとしません。客観的に観察すると老人より数段民度が高いのです。私は昨年来あるリハリビ施設に毎週一回通っています。そこで話をしてくれ、いろいろな運動を指導してくれるのは皆若い男女です。随分と込入った話し合いもします。そこの若い人は我々老人より皆育ちが良いのです。老人より数段民度が高いのです。
日本が戦後70年で得た最大のものは若者の育ちの良さです。若者の民度の高さです。
このように書くと若者に迎合していると言う人がいます。しかしそれは迎合では無く私のいつわざる実感なのです。
(4)記事の文章は明快に書くこと。
明快に書くためには、まず書く前に自分の考えを整理して、何を書きたいのかを自分で明快に分かっていることが重要です。
そうすると書い文章はおのずから明快になります。
しかしそれだけではなく文章を短く区切るようにします。そして主語を何度も書き入れます。日本語では主語を省略した方が美しい滑らかな文章になります。しかしそれでは意味が曖昧になり誤解のもとになります。急いで読んで頂いても誤解が起きないようにします。
(5)面倒な文章を読むのは嫌だという方々の為に挿絵代わりの写真を添付します。
写真は自分で野山や公園に行って自分でとります。自分で撮った写真のほうが読者に喜んで頂けるようです。なるべく四季折々の花々の写真と日本の美しい風景を自分で撮って掲載するようにしています。一部は家内が撮った写真も使っています。

このような工夫をしながら毎日記事を更新しています。しかし世の中は思うようにならないものです。昨日は「明治の文明開化と黒田清輝の絵画世界」と「新緑の秋川渓谷の風景写真をお楽しみ下さい」という2つの記事を掲載しました。ところが前者のアクセス数は後者より少なったのです。私は前者の記事に精魂を込めたのです。残念です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真は昨日秋川渓谷で撮った藤の花です。