後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「写真で見る沖縄の観光名所、冬なので南国風景を」

2022年02月21日 | 写真
寒い日々が続きます。こんな季節にはかつて旅したした沖縄の風景を想います。思い出すと暖かくなります。
沖縄へは2002年以来、4回観光旅行に行きました。レンタカーで観光客の行かない淋しい島へも行きました。
自然の美しさは圧倒的です。想像以上です。

今日はその美しい沖縄の観光名所を写真でご案内いたします。気楽に写真をお楽しみ下さい。
写真は和田義明さんのフォトギャラリー(http://wadaphoto.jp/japan/oki0.htm )からお借り致しました。

1番目の写真は沖縄本島の西に見える伊江島です。沖縄の海の碧さが違います。深い美しい色をしています。

2番目の写真はは沖縄本島の西海岸にあるホテルです。海が綺麗な上に、沖縄のホテルはすべて立派で、格安で素晴らしいサービスなのです。

3番目の写真は西表島から由布島へ浅瀬を渡る水牛車の光景です。
写真では分かりませんが水牛の動きがゆうゆうとして、この世のものではない動きをするのです。御者がジャミセンを弾いて琉球時代から伝わる民謡を不思議な節回しで唄います。

4番目の写真は仕事を終えた水牛がのんびりとしている光景です。由布島は熱帯植物園の様です。

5番目の写真は西表島にある川を観光船で遡った時、私が撮った岸辺の風景です。ガジュマルが水の中へ根をおろしているのが見えます。川を数キロ遡ると熱帯林の中で下船して、林の中を散策します。幹が平らに数か所分かれて地中へ入っている板根というものがあります。異境へ踏み込んだ気分になります。

沖縄は別世界です。沖縄本島の他に宮古島、石垣島、西表島、波照島、竹富島、伊江島、などなど多くの美しい島が散在しています。

さて沖縄の人々の悲しみも考えてみましょう。悲しみは江戸時代から始まりました。
1609年に薩摩藩が琉球王国へ侵攻し、琉球王国は薩摩藩へ重い税金を納めることで琉球王国の存続が認められたのです。財政的に困窮した琉球王府は宮古諸島などへ厳しい人頭税を課したのです。
宮古島に行くと観光バスが、人頭税石の前に一時停車して「この石柱より大きくなった男子には一人一人税金が取られ、薩摩藩へ送られたのです」と悲しげな説明があります。

6番目の写真は 宮古島にある人頭税石です。
この人頭税は驚くなかれ明治になっても続けられ、1903年になってやっと廃止されたのです。

さて沖縄へ行くとサンゴ礁が美しいです。しかしそのサンゴ礁で出来あがった島々は水はけが良すぎて、サトウキビや粟などの農作物しか出来ないことにすぐ気がつきます。人間が住むには過酷過ぎる島々なのです。
明治政府は1879年(明治12年)に琉球処分を断行し、琉球王国は完全に消滅しました。
そして第二次世界大戦では、アメリカ軍が凄惨な上陸作戦をしたのです。
上陸した米軍は地上戦を繰り広げます。機関銃や火炎放射機で沖縄の住民も殺戮したのです。それは歴史に残る残酷な地上戦でした。

7番目の写真はひめゆりの塔(手前)と 奥に見えている慰霊碑(納骨堂)です。塔と慰霊碑の間に口を空けているのが第三外科壕です。その壕は深さ14mあり当時はハシゴで昇り降りしていたのです。多数の女学生が看護師として動員されて死にました。

沖縄の風景は美しいものです。碧い海とサンゴ礁にかこまれた島々が平和な風景を見せていす。しかしその歴史を見ると悲しみも深いのです。
今日はそんな沖縄の風景を写真でご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「カトリック教会、2022年2月20日の年間第7主日のミサ動画配信」

2022年02月20日 | 日記
ミサの動画配信は以下の通りです。

2022年  2月20日(日) 10時

カトリック関口教会、
https://www.youtube.com/watch?v=orcVHXV-CiM

聖イグナチオ教会、
https://www.youtube.com/watch?v=ukylA4b0bsw

今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真はポーランドの古い木造教会です。


「私は隠れキリシタン、そうなって良かったこと」

2022年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム
昔のことです。私はカトリック立川教会で塚本金明神父から洗礼を受けました。洗礼を受けた頃は嬉しかったので自分がキリスト教徒だと吹聴していました。
しかしそれを言い出すと人々は何となく嫌な顔をするのです。察するに一部の日本人はキリスト教に距離感を感じるようです。はっきり言えば嫌いな人もいるのです。江戸時代のキリスト教禁止の時代が関係しているのでしょうか。
それで私はキリスト教のことを言わなくなりました。自分で「隠れキリシタン」になることにしました。
私は正真正銘の「隠れキリシタン」になりましたが、時々はこのようにキリスト教に関係したことを書いております。

今日は自分がキリシタンになったお陰で良かったことが幾つか個条書きにして書いてみようと思います。
(1)仏教が理解出来るようになった。
洗礼を受けると宗教とはどういうものかが体験的に理解出来ます。その結果、仏教のことも深く理解出来るようになったのです。
仏教をキリスト教と比較しながら考えると日本人の心の基本にある仏教が自ずと判然と分かったのです。
勿論、仏教は奥深く、そしていろいろな宗派がありますから、その概略を少し理解出来たと言うべきです。少しでも理解出来たので仏教に大変親しみを感じるようにまりました。心も豊かになりました。
宗教というものは教祖様の教えと、後の世のいろいろな優れた人の教えから成り立っているのが普通です。
佛教も例外ではありません。特に日本の大乗仏教では、お釈迦様の教えと後の世のインドの人々の教えから成り立っています。
まずこの2者を区別して、整理すると理解しやすいのです。
お釈迦様の教えは般若心経に過不足なく、そして明快に書いてあります。お釈迦様が弟子のシャーリプトラへ教えた内容が書いてあります。
日本の仏教が理解出来ると韓国の仏教も理解できます。そして韓国の民族信仰との混淆も理解出来ます。詳細は割愛して韓国のお寺の写真を3枚示して終わりとします。




キリスト教の洗礼を受けキリシタンになって何十年も教会のミサに出ていると、何となく宗教を信じることはこういう事かと合点がいきます。宗教を深く理解するためには、それを体験したり修行をしないと駄目だという事も分かりました。
私の祖父は曹洞宗のお寺の住職でした。ですから私は幼少の頃からお経を読んだり、檀家回りについて行ったりしました。その経験が私のカトリックの信仰を助けています。
日本は仏教国なのでキリスト教も自然にその影響を受けます。ですから日本のキリスト教は欧米のそれとは少し違います。
洗礼を受けるとそんなことも分かります。

(2)洗礼を受けると日本民族に誇りを感じるようになった
私が日本民族に誇りを感じるのは理由があるのです。それは江戸幕府の禁教政策にもかかわらずキリスト教の信仰を守り続けた歴史です。それは日本人の宗教に対する誠実さの証です。これを私は誇りと感じています。
ご承知の通り豊臣秀吉が始めたキリシタンの禁教政策は徳川家康に引き継がれ、三代将軍の家光の時に徹底的に厳しく実行されるのです。その結果、キリシタンとして捕縛された信者が日本全国で多数処刑されたのです。秀吉以来の処刑者は一説によると30万人に及ぶとも言われています。
しかしキリストの教えが根付いていたのです。250年も代々と人々の心の中に信じられてきたのです。
明治維新後にフランスから長崎へ来たプチジャン神父の所へ隠れキリシタンがやってきます。そして「神父様が帰ってきて教会堂を建ててくれると260年間信じてきました」と言いだしたのです。

4番目の写真は五島列島にある隠れキリシタンの墓地です。

5番目の写真は五島列島のある教会の内部です。
明治時代になって禁教が解けた以後に隠れキリシタン達が美しい教会をたくさん作ったのです。数年前、私は家内とともにこれらの美しい教会を巡る旅に行って写真を沢山撮りました。

(3)欧米人の気持ちが深く理解出来るようになった
キリスト教の洗礼を受けるとキリスト教文化圏の欧米人の考え方や気持ちの動きが分かるようになるのです。
詳しいことは省略してノルウェーの木造教会とパリのノートルダム寺院の写真をお送り致します。



さて最後のこれだけは是非書かせて下さい。
宗教を信じても私の悪い性格は一向に改善されないことです。行いはほんの少しだけ良くなったような気がします。宗教の限界です。キリスト教を信じている欧米の政治家には悪人もいます。ですから私は宗教を信じていても善人とは思いません。人間の限界です。嗚呼。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

「菜の花畑の写真を撮りに行きました、しかし、、」

2022年02月19日 | 写真
午後から菜の花畑の写真を撮りに三鷹の公園まで行きました。しかしすこい渋滞で公園まで行きつけませんでした。
そこでインターネットにある数多くの写真から特に美しい菜の花畑の写真を選んで、お送り致します。
写真の出典は、https://travel.rakuten.co.jp/mytrip/trend/nanohana です。






「中年になると人生が見えて来る、趣味を始める方法」

2022年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
学校を出て、いよいよ就職して働き始めた頃は緊張しています。結婚して家族を持って暮らして行かなければならないのです。わき目も振らず一生懸命に仕事に打ち込みます。
しかし中年になると気持に少し余裕が出て来ます。家族も出来、小さいながら家も出来ます。なんとなく人生が見えて来る時期です。
すると趣味でも始めようという気持ちになります。
趣味にはいろいろあります。私の場合はヨットの趣味を選びました。50歳の時でした。
一般的にヨットの趣味はお金のかかる趣味です。しかし私のような貧乏人でもいろいろ工夫すれば一生楽しく続けらる趣味です。

今日は経費を少なくしながらクルーザーヨットの趣味を楽しむ方法をご紹介したいと思います。
クルーザーヨットの趣味を楽しむためには、帆走技術を習い、中古クルーザーを購入して、その係留地を決めなければなりません。
これらの費用は生活費や家計へ響かないようにします。
以下に私が実行した順に書きます。
(1)江の島ヨットハーバーでのヨットスクールで帆走技術を習う。
何でも基礎が重要です。まずヨットスクールで小型ヨットのデンギィの帆走技術を習いました。
1番目の写真は江の島ヨットハーバーでのヨットスクールで帆走技術を訓練している風景です。写真の出典は、https://hamarepo.com/story.php?story_id=6618 です。
このような訓練を15回くらい受けました。それをさらに磨くために葉山マリーナの倶楽部に入りました。
(2)葉山マリーナの倶楽部での訓練
葉山マリーナのヨット倶楽部での訓練では指導者と共に小型ヨットのデンギィ に乗り相模湾を走りまわります。訓練は厳しいものでした。

2番目の写真は葉山マリーナです。
葉山マリーナのヨット倶楽部での訓練で帆走技術に自信がついたので中古のクルーザーヨットを購入しました。
(3)琵琶湖まで中古のクルーザーヨットを買いに行く
琵琶湖西岸の雄琴まで中古のクルーザーヨットを買いに行きました。安い中古のヤマハ19があったので買い陸送しました。ヨットにはエンジンが付いているので小型船舶操縦2級免許を取りました。実技と筆記試験がありました。

3番目の写真は購入したヤマハ19です。
進水後14年でしたが新品同様に見えました。中古なので100万円で買いました。琵琶湖からの陸送に15万円かかりました。
(4)霞ヶ浦の茨城県の県営の係留地を契約した
湘南海岸の係留地は驚くほど高価なので霞ヶ浦の茨城県の県営の係留地を契約しました。県営だったので格安でした。

4番目の写真は霞ヶ浦の茨城県の県営の係留地です。黄色の横線のヨットが私の船で26フィートの中古のクルーザーヨットです。

5番目の写真は26フィートの中古のクルーザーヨットで土浦港をゆっくり帆走している光景です。中古艇でアメリカ設計のジョイラック26フィートです。100万円で買いました。ヨットは30年や40年たっても使えるらしいです。
20年間の係留料金が80万円以下でした。
幸運にも格安の茨城県営の土浦港岸壁に係留できました。始めは民間マリーナにも置きましたが、すぐに県営岸壁に係留できました。これは地元の人々と親しくしていたら教えてくれました。幸運としか言いようがありません。

中古艇を持ってみると一番驚くことは故障が無いことです。船体やワイヤーなどが海上の荒波を想定して設計してあるので、霞が浦では全く故障しません。自分の不注意でバッテーリーをあげてしまったとか船体後部から雨水が漏ったなどの自分で修理の出来るものが多いのです。
定期的な船舶検査の費用は自動車の車検に比べると格安です。
一人でも楽しめる趣味なので楽しめました。人数が揃わないと楽しめない趣味は幾つもあります。野球やサッカーもそうですが、囲碁将棋は相手がいなければ楽しめません。その点、ヨット趣味は仲間がいればもっと楽しいのですが、独りでも帆走できます。

家人と気が向いたときブラリと行ってセイリング出来ます。疲れたらそのまま泊まってしまいます。
キャビンを男の隠れ家として使えました。

友人数人とキャビンの中でシャンパンやビール、ウイスキーを飲む。船が波にゆっくり揺れる。あるいは独りクラシックを聴きながらビールを飲む。夜が更ければ蒲団を敷いて寝る。朝は香り高いコーヒーを淹れてベーコン・エッグの朝食。そんな楽しみかたも出来たのです。
結局、ヨットの趣味は50歳で始めて75歳で止めました。始めの2年間はデンギイでその後ヤマハ19に10年間乗り、そしてジョイラック26フィートに13年間のりました。25年間のヨット趣味でした。
ヨットのことを書いていたらキリが無いので、これで今回は終わりにいたします。失礼しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「山林の中に小屋を建てる、山林は驚くほど安い!」

2022年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
私は山林の中に小屋を建て、泊って遊ぶ趣味を1974年から楽しんできました。小屋は山梨県にあります。甲斐駒岳や八ヶ岳が見えます。
今日は山林を安く買って小屋を建て心豊かに暮らす方法を書きたいと思います。山林は驚くほど安いのです。
まず小屋の近辺の山林の様子を3枚の写真で示します。山梨県北杜市の山林です。




写真で示しような山林を100坪、80万円で不動産さんから1974年に買いました。
早速、6畳と5畳の小屋を鉄筋コンクリートで建てました。それ以来、毎月2,3回は家内と泊りに行っていたのです。
小屋の窓から庭の小川や焚火の煙が林の中を流れる様子が見え楽しいのです。
そんな様子の写真を3お送り致します。



小屋は標高900mの寒冷地にあります。そこで北海道から簡素な薪ストーブを買って来て入れました。

写真のような簡単な薪ストーブですが実に暖かいのです。燃える木の香りが良いのです。
いろいろなストーブを使いました結局このシンプルな鉄板を瓢箪形にしたストーブが一番使い易いことが分り、長年、愛用してきました。
小屋の庭を流れる小川には岩魚が棲んでいたこともありました。一年中水が涸れません。
山の雑木林は美しいものです。その山林の背景には甲斐駒岳の稜線が連なっています。
遠い森の方から鳥の声が聞こえます。誰もいません。静かです。石空川の瀬音がかすかに響いています。
ストーブで湯を沸かしコーヒーを淹れます。コーヒーの香りが小屋の中に流れます。
午後は活発な家内が庭先の斜面を登って上の雑木林から見下ろしています。
静かな山林の中を歩いていると色々な野生動物が私を眺めています。野生動物は好奇心が強いのです。ジッと私を見ているのでゆっくり写真を撮りました。次に野生のカモシカ、ニホンシカ、キツネ、サルの写真を順に示します。





カモシカは特別天然記念物で好奇心が強く私を何時までも見つめていました。

今日は山林を安く買って小屋を建て心豊かに暮らす方法を書きました。山林は驚くほど安いのです。皆様も山林を安く買って小屋を建てて遊ぶ趣味を楽しむように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「何故かシルクロードの楼蘭を思い出す」

2022年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は老境になると昔のことを思い出して楽しむものです。今朝は何故かシルクロードの楼蘭を思い出しました。楼蘭という古代都市国家が日本中で有名になった頃のことをことをあれこれ思い出しています。
1959年に,井上靖が「楼蘭」という小説を書きました。平山郁夫は美しいシルクロードの風景の絵をたくさん描きました。
1979年には日本のNHKと中国の中央電視台による発掘調査が行われたのです。1980年の前後、楼蘭が有名になったのです。
マスコミで楼蘭が有名になり、日本中に「楼蘭」という名の中華料理の店が沢山出来た頃のことです。東京の自由が丘の「楼蘭」へよく行きました。1980年頃のことでした。
その上、マスコミでは1990年にヘディンに発見された楼蘭の美女のミイラの写真も騒がれました。
私はそれを見てひどくガッカリしました。黒い汚い骸骨を楼蘭の美女と断定した考古学者のスエン・ヘディンにはいささかあ呆れたものです。

それはさておき、今日はシルクロードと楼蘭にまつわる物語を書いてみたいと思います。

シルクロードは昔から東洋と西洋を繋ぐとても重要な交易路でした。それは紀元前2世紀から18世紀までの間、東洋と西洋の物資を運ぶだけでなく文化や宗教も運んだのです。
「シルクロード」という名前は19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが著書『China(支那)』で言い出したのです。
その後、リヒトホーフェンの弟子で1900年に楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが自分の本の題に『The Silk Road』とつけたのです。この本の出版(1938年)以後、シルクロードは世界中で有名になったのです。
シルクロードは多数あり、それらは大雑把に西域南道、天山南路(西域北道)、天山北路などと呼ばれています。

1番目の写真はシルクロードの概念図です。図の上方の赤い道がシルクロードです。青い線は最近いわれている海のシルクロードです。
この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89 です。

シルクロードの多くは砂漠地帯で交易には駱駝の隊商が行き来しました。そこで駱駝の隊商の写真をお送りいたします。

2番目の写真は駱駝の隊商の写真です。出典は以下の通りです。
https://www.gettyimages.co.jp/%E5%86%99%E7%9C%9F/%E9%9A%8A%E5%95%86?phrase=%E9%9A%8A%E5%95%86&sort=mostpopular

3番目の写真は夜の砂漠を行く駱駝の隊商です。日中は暑いので夏には夜に行くのです。
隊商と言えば「月の砂漠」という童謡を思い出す人が多いと思います。
1927年にラジオ放送されたことから評判となり、1932年に柳井はるみの歌唱で録音レコード化され一般に知られるようになりました。

 月の沙漠を はるばると  
  旅の駱駝が行きました
  金と金と銀との 鞍置いて       
  二つならんで 行きました    

話を楼蘭に戻します。
楼蘭の名が現れるのは中国の『史記』の匈奴列伝です。紀元前2世紀頃には楼蘭が存在していたのです。そして紀元後445年に北魏によって滅ぼされ消えて無くなった王国でした。
人々は楼蘭王国のことをすっかり忘れ去り1500年以上の月日が流れます。何処にあったか、どんな文化を持ってていたか全く分かりません。楼蘭王国は歴史の闇の中に消えてしまったのです。
その楼蘭王国の遺跡をスウェーデンの考古学者スヴェン・ヘディンが発見します。彼の1900年の発掘で楼蘭王国の全貌が明らかになったのです。それは20世紀の考古学の大発見でした。

楼蘭は現在の中国の新疆ウイグル自治区に存在していました。「さまよえる湖」というロプノール湖の西岸にありシルクロードが西域南道と天山南路に分岐する要衝にあったので交易によりとても栄えていました。しかしヘディンの遺跡発見までは謎の王国でした。
楼蘭王国はシルクロードのロマンです。さてここで新疆ウイグル自治区の写を示します。

4番目の写真は楼蘭があった中国の新疆ウイグル自治区の草原の風景です。新疆ウイグル自治区にはウイグル族の他、漢民族、カザフ族、キルギス族、モンゴル族など様々な民族が住んでいます。

1900年、ヘディンはタクラマカン砂漠を北から南へ縦断し、その高低図を作製しました。そうしたらロプノール湖が見つかりました。その場所には多数の螺貝の殻や厚い塩の層、枯れた白楊の林があったのです。その湖の岸に楼蘭があったのです。
ヘディン隊は古代の湖床の上を進んで行きました。そうしたらヘディン隊は偶然いくつかの廃址に遭遇したのです。そこに人々が生活していた痕跡です。
ヘディンの従者の一人ウイグル人のエルデクが仏塔を含む多数の住居址を発見したのです。その遺跡がヘディンの研究により楼蘭の遺跡だと確定したのです。ここでヘディンの発見した楼蘭の遺跡の写真を示します。

5番目の写真は楼蘭遺跡の小河墓遺跡です。写真の出典は、http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/06/ です。
ヘディンは翌1901年に再び遺跡を訪ね遺跡からで木簡や紙文書を多数発見して持ち帰りました。ヘディンの持ち帰った漢文やカロシュティー文字で書かれていた文書は専門家によって次々に解読されていったのです。
その解読の結果この遺跡はまぎれもなく古代都市「楼蘭」の遺跡だと判明したのです。そして楼蘭王国の全貌が明らかになったのです。こうして楼蘭はどこにあったかという謎が解決しました。

楼蘭の場所は中国の「新疆ウイグル自治区」の南部にあり、中央アジアにある内陸盆地のタリム盆地内の大部分を領有していたのです。
楼蘭王国は仏塔があることから仏教国だったことが分ります。
そして楼蘭に生きた人々やその暮らしについては墓地群から発見されたミイラ化した遺体や帽子や刺繍から分ります。
ミイラはヘディンが「楼蘭の王女」「砂漠の貴婦人」などと名づけた若い女性のミイラだったのです。ミイラの身に色とりどりの絹をまとっていたのです。

ヘディンの1900年の発掘後60年あまり、楼蘭をめぐる発掘は途絶えます。ヘディンらが見つけた墓の正確な位置すら定かではなくなりました。

しかし近年になって小河墓遺跡や古墓溝遺跡や鉄板河遺跡から、ヨーロッパ系白色人種のミイラが相次いで発掘されました。これらは放射性炭素計測法によって約3800年前の人だったと判明したのです。つまりこれらの人々は楼蘭王国よりも千数百年以上も前にこの地に住んでいた人々でした。

さて今日は楼蘭王国にまつわる物語を書きました。楼蘭王国は1500年間も忘れられた幻の王国でした。
今日の記事は「貴重書で綴るシルクロード」(http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/06/ )を参考にしました。これは実に優れた資料です。著者の方へ深い敬意を表します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「毎日寒いので暖かい地中海のマルタ島の写真をお送りします」

2022年02月16日 | 写真
毎日寒いですね。そこで暖かい地中海のマルタ島の写真をお送りします。

驚いたことにマルタ島にはエジプトのピラミッドより古い石造の神殿があるのです。世界の文化遺産になっております。その神殿の写真も2枚添えました。
写真の出典は、https://hotels.his-j.com/ct/tripiteasy/post-15838/ です。






「独り暮らし世帯が38%、独りで淋しくないのか?」

2022年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム
毎週一回、老人相手のリハリビに通っています。そこで15人位の老人と仲良くなりました。話を聞いて吃驚します。15人の半分以上の人が独り暮らしだと言うのです。淋しくないのかと聞くと、ケラケラ笑っています。
幸運にも私の妻は元気です。夫婦そろって健康に暮らしています。それでも時々老人特有の孤独を感じます。夫婦の一方が亡くなったらひどく淋しい生活になるのだろうと考えます。
そこで私は独り暮らしについていろいろ調べてみたのです。

今日は日本における独り暮らしの世帯の問題を考えてみます。
(1)日本の独り暮らし世帯が38%
最近の総務省の2020年の国勢調査の結果です。日本全体で世帯の単身化が一段と進む現状を浮き彫りにしています。一人暮らしの家が日本の世帯全体の38.0%を占めていたのです。そして単身高齢者は5年前の前回調査に比べ13.3%も増え、671万6806人に増えたのです。
日本には独り暮らしの老人が671万人以上も居るのです。
そして全世帯のうち一人暮らし世帯の数は急速に増加しているのです。
「一人暮らし高齢者」は平成12年に比べ27.5%の増加,高齢夫婦世帯は22.6%も増加しています。
夫婦だけの 核家族世帯の割合が最も高いのは奈良県の64.9%,次いで埼玉県が64.4%,兵庫県が62.7%となっているのです。 

一般的に言えば独り暮らしは淋しいものです。老人が一人で炊事をして一人で黙って食べるのです。話相手もいません。他人に会わない日々が続来ます。買い物に行った時だけ日本語を少し話します。淋しくないと言えば嘘になります。
しかしそんな一人暮らしでも楽しく暮らす方法があるのです。
以下に一人暮らし老人の分類 をし、孤独で不幸な老人はどの分類の老人かを書きます。そして最後に一人暮らしでも楽しく暮らす方法を書きます。

(2)一人暮らし老人の分類
一人暮らし老人のいろいろな事情を分類してみます。
(1)これといった原因も無いのに、生涯独身だったので、自然に一人暮らしの老人になっている人々。
(2)長い間幸せな結婚生活をしていたが夫婦のどちらかが亡くなり、その上、子供がいなかったので一人暮らしになった人々。
(3)別居している子供や孫もいるが、幸せだった夫婦の一方が亡くなってしまい一人暮らしになった老人。
(4)何度か結婚と離婚をした経験があり、子供もいるが、終いには一人暮らしになってしまった人々。
(5)同性婚をしていて一方が亡くなって一人暮らしをしている人々。この場合は子供はいません。
(6)種々の障害が原因で結婚が出来なくて一人暮らしをしている人々。

上記のように一人暮らしの老人にはいろいろ違った事情があるのです。
ですから一人暮らしの老人を助けようと安易に近づくのは必ずしも良いとは限りません。人によって孤独が好きで他人に干渉されることを嫌う人々もいます。
(3)孤独で不幸な老人の分類
それでは孤独で不幸な老人は上記のどれでしょうか?
(1)の人々は孤独に慣れていますから問題がありません。少し孤独を感じますが、まずまず幸せな老人です。
(2)の人々は一番悲しい老境を送っているのではないでしょうか?孤独で不幸な老人です。 
(3)の人々は子供や孫がいるので一人暮らしでも悲しくありません。何処かで子供や孫が元気に育っていると考えると孤独を感じないのではないでしょうか?独り暮らしでも幸せな老人です。
(4)の人々は何度か離婚の経験があるので人生の悲しみに対する耐性が出来ているので、あまり心配しなくても良いのではないでしょうか?独り暮らしでも幸せな老人です。
(5)の人々は悲しみに沈んでいると考えられます。独り暮らしになり悲しい老人です。 
(6)の人々には深く同情せざるを得ません。独り暮らしで困難を抱えている老人です。 
以上のように独り暮らしと孤独にまつわる問題は簡単でないとお分かりのことと存知じます。
独り暮らしの老人を助ける方法は一つあります。それは日常の暮らしで困っていることを具体的に支援することです。
車の運転が出来ずに買い物や病院通いが出来ない一人暮らしの老人は車で送迎してあげることです。体が動かず、庭が雑草だらけになっていたら草むしりをしてあげるのです。一人暮らしの老人の生活を少しでも楽になるように助けるのが良いと思います。
(4)老人の日々を楽しく過ごす方法
最後の孤独な老人が日々を楽しく過ごす方法を具体的に書きます。
人によっては再就職する、趣味のサークルに参加する、ボランティア活動をするなどいろいろあると思います。独りが好きな人もいるでしょう。
私の場合それはインターネットを利用する方法です。
インターネットを用いて新しい友人を作るのです。私はインターネットで出来た友人を大切にしています。信頼し尊敬しています。私の人生にとって掛替えの無い人です。
インターネットを用いて新しい友人を作るために一番重要なことは「老人の頑なさ」を綺麗さっぱり捨て去ることです。
以前の仕事の上での成功も失敗も全て捨て去り、徒手空拳の状態になることが一番重要なのです。その上で友人についての狭い了見を捨てます。
インターネットで知り合った人は尊敬すべき友人だと信じることが肝心です。
さてもっと具体的なことを書きます。
まず私はブログ(https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama  )に随筆をよく書いています。
その随筆をFace Book(https://www.facebook.com/kazu.s.goto )にも掲載します。
それから中高年者が主に会員になっている趣味人倶楽部というSNSの日記のページ(https://smcb.jp/mypage )にも掲載します。
すると外国や日本に住んでいる人々からコメントが来ます。コメントを下さった方々のブログやFace Bookや趣味人倶楽部のページを見て丁寧な言葉で返礼のコメントを投稿します。これを繰りかえしていると自然に親しくなります。

こうして私はブラジルに移民して、成功したある宗教家の男性と親しくなりました。
フランス人と結婚し孫までいる幸せな日本女性とも親しくなりました。
日本である問題の故に差別されてイギリスに移住し成功した日本人男性とも親しくなりました。みんな私のかけがえの無い友人になりました。
まだあります。猟期だけ北海道に移住しエゾ鹿の銃猟を趣味にしている方とも親しくなりました。この方は人格高潔で仲間に尊敬されている様子です。親しくなったらエゾ鹿とイノシシの上質な肉を送ってくれました。
インターネットを用いて新しい友人を作る方法はまだありますが長くなるので割愛します。
しかしどんな場合でさまざまな老後を穏やかに暮らせるよう自分自身を含めて祈っています。

今日の挿し絵代わりの写真は三鷹市の花と緑の広場の以前の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「写真で見る別世界の伊豆の魅力」

2022年02月15日 | 写真
伊豆半島の樹々は熱帯を想わせるような種類です。植生が本州と違います。
海岸が石が多く複雑に入り込んで僅かな平地に人々が住んでいます。
西側の伊豆には三津浜、戸田、土肥、堂ヶ島、松崎、妻良などがあります。伊豆半島の東には網代、宇佐美、伊東、熱川、河津などが連らなり突端に下田市があります。
伊豆半島は本州とは違う美しい別世界なのです。その魅力に惹かれ何十回も旅しました。

今日は伊豆の魅力を以前家内が撮った写真でご案内いたします。
西側から始めます。伊豆半島の西側は鉄道も無く、その上道路が細くて不便です。景色も良く温泉も良いのですが何故か陸の孤島のような感じがしています。
西伊豆にも何度か旅をしました。そこには美津、戸田、土肥、安良里、田子、堂ケ島、松崎、妻良という美しい所が連なっています。その西伊豆には沼津から入り海岸沿いに南下します。

1番目の写真は駿河湾に面した美津浜から見た富士山です。西伊豆の海岸沿いを走っているとこのように富士山が見えます。

2番目の写真は美津浜の沖に係留してあるヨットです。

3番目の写真は展望台の上から見た戸田港です。湾を囲んでいる岬は大瀬崎と同じように砂州で出来たもので、伊豆大島の波浮港のような火口湖ではありません。

4番目の写真は戸田からさらに南下して土肥に行く道から見下ろした海岸です。
伊豆半島の西側は険しい山々が海にそのまま落ち込んで、絶壁の下の岩礁に太平洋の白波が激しく打ちつけています。
そして同じような険しい道が土肥、堂ヶ島、松崎、そして石郎崎、下田へと続いているのです。

さて戸田には「戸田造船郷土資料博物館、駿河湾深海生物館」があります。ヨットや帆船が好きな人なら見逃せない博物館です。
江戸幕府が西洋式帆船の造船技術を導入し、風上にも登れるスクーナーを10隻以上も建造した事実を紹介しているのです。

5番目の写真は日本で作られた最初の西洋式の帆船「ヘダ号」を再現した帆船です。この写真は「戸田造船郷土資料博物館、駿河湾深海生物館」のHPからお借りしました。
「ヘダ号」は1855年5月に西伊豆の君沢郡、戸田村で完成しました。そしてロシアに向けて出港したのです。それは明治維新の12年前の史実です。
江戸幕府はこのスクーナーの構造の帆船を君沢形と命名し、幾つかの藩に、その造船技術を伝えたのです。江戸幕府は西洋式の帆船の量産体制を作ったのです。そして東京湾防備の品川台場の付属砲艦として12隻が一時期配備されたのです。
それはさておき伊豆半島の西海岸をさらに南下します。

6番目の写真は堂ケ島温泉の「かくれ湯、清流」という旅館の部屋からみた夕日です。この夕日を眺めながら冷えたビールを飲みました。
さて堂ヶ島の近くに松崎という町があります。コテを使った鏝絵の天才、入江長八の漆喰画(鏝絵)の生まれた町です。
長八は幕末に松崎の浄感寺にあった塾で学び、23歳で江戸に出て、狩野派の絵師に絵画を学び、それを漆喰細工へ応用し、独創的な漆喰を用いた「鏝絵」を生み出したのです。そして浄感寺の本堂の天井に有名な龍の鏝絵や客間の欄間に天女の絵や室内を飾る鏝絵など合計20点の鏝絵を完成したのです。現在その本堂と左右の客間は「長八記念館」として公開されています。

7番目の写真は入江長八の作った漆喰の壁です。松崎には長八の作品50点を集めた「長八美術館」があります。長八の作品は鏝絵だけではなく多くの建物の美しいナマコ壁としても残っています。

松崎をさらに南下すると美しい港町の妻良があります。民宿に泊まって駿河湾でカサゴを釣った思い出のあるところです。
さらに南下して突端に行くと下田市ががあります。
8番目の写真は下田港です。ヨットが舫っています。

9番目の写真はアメリカの最初の総領事館が3年間あった玉泉寺です。

ペリー提督が三浦半島の浦賀で江戸幕府と日米和親条約を作ったのが1852年。帰国後、ペリーはタウンゼント・ハリスを初代の在日総領事として下田へ派遣したのが1856年です。ハリスを乗せた3本マストの帆船で蒸気機関を持ったサン・ジャシント号が下田港に錨を下ろしました。ボートで陸に上がった所に玉泉寺があります。玉泉寺は420年の歴史のある曹洞宗の古刹です。江戸幕府はその寺をハリスにアメリカ領事館として与えたのです。
1856年8月5日にハリスは通訳官ヒュースケンを伴い、玉泉寺に入ります。次の日に高い旗竿を立てて、日本で初めて、星条旗を掲揚したのです。それから2年10ケ月の間、ハリスはこの寺にとどまり、アメリカの初代総領事館を守ったのです。

さて伊豆半島は小さな火山の連続的爆発で盛り上がった山々が半島になったと考えられます。従って山々が急峻で、黒い溶岩が固まった凸凹の激しい地形になっています。溶岩がそのまま海に流れ落ちて崖になっていて、その崖が伊豆半島をぐるりと囲んでいます。それでも注意深く観察すると狭い砂浜が所々にあり小さい漁船が発着できます。堤防で囲って漁港が崖のくぼみにあります。
溶岩で出来た半島なので稲作や畑作は無理です。しかし人間は山影にしがみつくようにして住んでいます。温かい黒潮が半島を洗っているので冬でも温暖です。山々は常緑樹で覆われています。ミカンの栽培が盛んです。関東地方の平野にはケヤキ、クヌギ、コナラ、カシワなどの樹木が生えていますが、伊豆半島はタブノキ類樹木種で覆われています。伊豆半島の植生は武蔵野と全く違います。伊豆半島は伊豆七島の大島や神津島、そして八丈島と土地の出来方が非常に良く似ています。
本州に繋がっていますが、元来は伊豆七島のように太平洋に浮かぶ島だったのかも知れません。植生が本州とあまりにも違うのです。伊豆半島は文字どうり別世界なのです。
伊豆半島の東の海には伊豆七島があります。伊豆七島には北から大島、利島(としま)、ウドネ島、新島、式根島、神津島、遠く離れて三宅島が有ります。そして八丈島や青ヶ島も伊豆七島では重要な島です。島の数は多いのですが略して伊豆七島と言います。

10番目の写真は伊豆半島の稲取海岸から見た伊豆七島です。左から利島、ウドネ島、新島、それに付いているように見る式根島、そして右へ離れて神津島が写っています。大島は左の方で視界に入って居ません。

半島が伊豆七島の親類だという話はこれくらいにして以下では伊豆半島の観光名所をご紹介いたします。
伊豆半島の東側の観光名所は城ガ崎海岸、一碧湖、池田20世紀美術館、稲取漁港、外浦海水浴場、爪木崎の野生の水仙群生地、須崎のえびす島、下田の玉泉寺、などなどです。

11番目の写真は城ガ崎海岸です。城ガ崎海岸の岩礁に砕ける波の光景です。

今日は別世界のような伊豆の魅力を写真でご案内いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ハウステンボスは本物のヨーロッパの街です」

2022年02月14日 | 写真
ハウステンボスは1992年に開園しました.。あまりにも感動したので泊りがけで2度も行きました。
ハウステンボスは本物を追求する精神で下記のように作られたのです。
どの地区の施設や街の紋章までもがオランダ政府の協力のもとオランダに実在する建物を忠実に再現したのです。
建物に付属の石像もオランダの文化財修復家が製作しました。
特に最奥部に建てられたオランダ王室の宮殿は王室の許しを得て忠実な再現が行われました。

本物を追求する精神は立派です。崇高です。
この精神がハウステンボスを美しく輝かせているのです。
その写真をお送り致します。写真はインターネットに出ているものをお借りしました。





「ある廃村の風景写真」

2022年02月14日 | 写真
ある廃村の風景写真として向之倉集落の風景写真をお送りいたします。

向之倉集落の概要・歴史,
https://haikyo.info/s/56.html

向之倉(むかいのくら)集落は、滋賀県犬上郡多賀町にある廃村。
かつては製炭業を営んでいたが、炭需要の減少に伴い過疎化が進み、昭和40年代に無人となり廃村となった。

廃村時期は1969(昭和44)年、1970(昭和45)年、1975(昭和50)年と諸説ある。
倒壊しかけた廃屋などが数軒残るだけです。







「何故、地方や離島は過疎化する一方なのでしょうか?」

2022年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
仕事を止め引退すると時間が潤沢にあります。そこで日本のあちこちへ旅をすることにしました。何処に行っても旅館やホテルが立派で快適です。しかし地方や離島に行き注意深く眺めていると過疎化している所が多いのです。無残な廃屋が目につきます。そんな風景を見ると胸が潰れる思いがします。
過疎化は便利な都会へ移住するから起きるのでしょうか。故郷や親しい人々と別れるのが悲しくないのでしょうか。日本人の精神文化が変わってしまったのでしょうか。
今日は地方や離島の過疎化にまつわる問題を考えてみたいと思います。

さて私は山梨県北杜市の甲斐駒岳の麓に小屋を47年間持っていました。周囲には牧場や田畑がある農村です。47年間のあいだに、その農村が次第に過疎化して行くのです。若者が都会へ出て行って残った高齢者も次第に旅立っていきます。47年ほど前までは集落の家々にシバザクラが美しく広がって咲いていましたが、過疎化とともに消えて無くなってしまいました。村のよろず屋も店仕舞いしました。悲しい地方の過疎化です。
常に都会に住んでいる人々にとっては、そのような地方の過疎化の現実が分りません。しかし一歩農村や山村地帯へ行くと地方は活気が無くなっているのです。以下に写真を示します。今日の5枚の写真は全て自分が撮った写真です。

1番目の写真は私の小屋の上にある花畑です。年老いた農婦がまだ手入れを続けています。

2番目の写真は八ヶ岳の麓のソバの畑です。過疎の進んでいる地域です。
よく農村の若者が都会に出るのは就職口が地元に無いからだと簡単に言っている人がいます。それも理由の半分です。
しかし、もう一つの大きな理由は農村や山村では若者の個人の自由を認めない雰囲気があるからなのです。若者は地元の小学校や中学校、あるいは高校で個人の自由と平等が一番重要だと教わります。しかし住んで居る田舎社会の実態は江戸時代とあまり変わりません。私は47年間ほど甲斐駒岳の麓にある小屋に通って農村地帯の閉鎖的な文化を良く知りました。
若者達は大学だけは大都会でという希望で家を飛び出し、大学卒業後は都会で就職します。これこそ農村と山村が過疎化する原因の半分の理由なのです。
田舎には江戸時代から連綿と続く封建的な考えかたがあって人間関係が息苦しいのものなのです。
こんな過疎化は離島でも同じです。
3番目の写真は数年前に行った八丈島です。
調べてみると八丈島の人口が減る一方です。その上、同じ八丈島でも過疎化が進行して廃村になった地域もあるのです。

4番目の写真は八丈小島の写真です。この小島には2つの村がありました。過疎化で廃村になり無人島になったのです。

過疎化は田舎だけでなく都会の中でも起きています。
私の住む近所の団地でも同じ現象が起きています。昔出来た団地が老朽化して人が住まなくなったのです。

5番目の写真は人の住まなくなった公務員住宅です。私の家のすぐ北側にあります。一つの棟に2,3家族しか住んでいません。殆どは空き家です。

団地に住む人がいなくなったのでそばにあった商店街も消えてしまったのです。過疎化は都会の中でも進み、商店街も消えて行くのです。
私どもが1964年に引っ越して来た当時は近所に20軒ほどの個人商店がビッチリと並んでいました。賑やかな商店街だったのです。酒屋、肉屋、葉茶屋、菓子屋、化粧品屋、八百屋、蕎麦屋、中華料理屋、本屋、電気屋そして歯科医院まであったのです。
夏になると商店街祭りがあり野外舞台にお笑い芸人や歌手が来ました。夜になると酒屋は椅子とテーブルをそろえ生ビールを出しました。浅草でサンバ踊りがあった後に踊り子が裏の商店街祭りにも来ていたのです。それは楽しい夏の夜の思い出です。そんな商店街が消えてしまったのです。
以上のように都会の中でも過疎化して商店街が消えている場所があちこちに沢山あるのです。
廃村訪問記と写真が沢山掲載されたHP、「廃村と過疎の風景」http://www.din.or.jp/~heyaneko/haison.html をご覧下さい。
日本中に廃村や無人島がどんどん増加しているのです。
無人島化した離島一覧表は、「SHIMADAS」(日本離島センター刊)と「無人島が呼んでいる」(本木修次さん著,ハート出版刊)に詳しい情報が出ています。

日本には約3600位の島があります。このうち368の島に人が住んでいました。しかし昭和時代に入ってから68の離島が無人島になってしまい、現在、人の住んで居る島は300位だけになってしまいました。
離島だけではありません。北海道から九州まで廃村になった村落が非常に増加しています。
廃墟検索地図(http://haikyo.crap.jp/ck/912.html )というHPを見るとその数の多さに吃驚します。

このような現象が日本中に広がっているのです。日本の文化の変質が進行しているのです。

今日は地方や離島の過疎化にまつわる問題を書いてみました。皆様のお住まいの地方では過疎化はどうでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「カトリック教会、2022年2月13日の年間第6主日のミサ動画配信」

2022年02月13日 | 日記
ミサの動画配信は以下の通りです。

2022年  2月13日(日) 10時

カトリック関口教会、年間第6主日のミサ動画配信
https://www.youtube.com/watch?v=nayyn7Q95EY


聖イグナチオ教会、年間第6日のミサ動画配信
https://www.youtube.com/watch?v=XLUmzz0zEb8


今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿絵はユトリロの「モンマルトルのミュレ通り」です。