後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「氷結した壮大なナイガラヤの滝の写真」

2022年02月12日 | 写真
ナイガラヤの滝は壮大な滝です。それが氷結した光景は何か恐ろしい感じがします。この滝の南にオハイオ州があります。若い頃、オハイオ州立大学に留学していたのでナイガラヤの滝には何度か行きました。
日本には見られない珍しい風景なので、氷結した滝の写真をお送りします。
写真の出典は、https://www.epochtimes.jp/p/2018/01/30515.html です。





「超大国、アメリカの苦しみと輝き、そして私のアメリカ体験」

2022年02月12日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は独立国ですがアメリカ合衆国の影響を深く受けています。日本の政治ではアメリカの政策を考えなければなりません。アメリカは良い意味でも悪い意味でも日本にとって一番重要な国なのです。
今日はこのアメリカの苦しみと輝きを書いてみたいと思います。苦しみの一例はアメリカ社会における黒人、ヒスパイック、アジア人、先住民などへの人種差別問題です。輝きの一例はアメリカが世界の民主主義を守る旗手だということです。

さてどの民族の文化にも明るい部分と暗い部分があります。アメリカの暗い部分だけを強調して書くのは公平ではありません。
アメリカに私は4年間住んでいました。アメリカの良さ悪さを実感しました。
良く書けばアメリカは民主主義の確立とソ連共産主義に勝ち民主主義を守ったことです。
悪い事の一つの例としてに黒人問題だけを取り上げてみます。たしかに公的には黒人差別の撤廃がなされ黒人のオバマ大統領が8年間統治しました。しかし個人的なさまざまな差別感情は残ります。これがアメリカ社会を暗くします。難しい問題です。

そこでまず民主主義と個人の尊厳の確立を書きます。
まず1776年のアメリカの独立宣言を読んでみましょう。
アメリカ独立宣言 (1776年)に書いてあるのです(https://ja.wikipedia.org/wiki/民主主義 )
・・・「われわれは、以下の事実を自明のことと考えている。つまりすべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき権利を与えられている、その権利には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれている。その権利を保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。そしていかなる政府といえどもその目的に反するときには、その政府を変更したり、廃したりして、新しい政府を打ちたてる国民としての権利をもつ。」
この民主主義と個人の尊厳の重要性を明記した内容はアメリカ憲法も同じです。
こんな国は欧米では初めてでした。
人民主権を強調し、「すべての主権の根源は、本質的に国民にある」と明記したフランス革命後の憲法は1793年に制定されました。
アメリカ独立宣言 の17年も後だったのです。

そしてヨーロッパでは19世紀以降、社会主義の潮流の中より暴力革命を唱える共産主義(マルクス・レーニン主義)が登場します。
共産主義陣営は資本主義陣営を帝国主義と批判し、資本主義陣営は共産主義陣営の共産党一党独裁を批判しました。
更に第二次世界大戦頃になるとイタリアではファシズム、ドイツではナチズムが台頭し、国家主義や民族主義を掲げて民主主義を批判したのです。

しかし1991年のソ連の崩壊によりアメリカの民主主義が最終的に勝利したのです。
アメリカのフランシス・フクヤマ氏は1991年のソ連崩壊後に、「国際社会において最終的に民主主義が勝利したと述べ、社会制度を巡るイデオロギーの対立が終わり、民主主義が政治体制の最終形態となり永遠に存在し得る制度となった」と高らかに宣言しました。
アメリカの民主主義の勝利でした。アメリカが燦然と輝いたのです。

1番目の写真はアメリカのワシントンDCにある議事堂の風景です。

2番目の写真は民主主義を守るためベトナム戦争で爆弾を投下するアメリカ空軍のボーイングB-52戦略爆撃機です。 ベトナム戦争 は1965年11月 から 1975年4月30日 迄でした。アメリカ側の被害は戦死者が5万8千人で戦傷者が30万人でした。
以上のように血を流しながらもアメリカが輝いたのです。
しかし国内社会では依然、黒人や他の人種の問題を抱えているのです。
私は1960年から二年間、オハイオ州立大学に留学し州都コロンバス市に住みました。1990年、1991年にも住んでいました。黒人問題を実感しました。
バスに乗ると、白人は前半分の席、黒人は仕切りの後ろ。遠慮して黒人の席に座ったら、白人男性が寄って来て、君は前半分に座れと言う。それ以来、白人席の末席に座るようにしました。
コロンバス市の南半分は黒人街、北半分は白人が住む場所と厳格に分かれていた。白人街にある映画館やレストランは白人専用で、黒人はよほどのことがない限り立ち入らないのです。写真にオハイオ州立大学をを示します。
3番目の写真はオハイオ州立大学の中心にある芝生の広場です。
4番目の写真はよく散歩したオハイオ州立大学の構内にあるミラーレイクです。
オハイオ州立大学には黒人学生がいたが、その数は圧倒的に少ないのです。教授は皆白人でした。実験室の掃除人はメキシコ人で、黒人はいませんでした。初めのころは差別に心が痛み暗い気持ちになりました。しかし、少し経つと慣れてしまい、当然と思うようになったのです。怖い変化でした。

このような厳しい黒人差別がキング牧師の公民権運動の結果、公的には完全に撤廃されたのです。バスの黒人席や白人席の区別は無くなりました。
5番目の写真はキング牧師夫妻です。
2009年にはアメリカ史上初の黒人のオバマ氏が大統領に選出され8年間もアメリカ大統領の座についたのです。
汚い黒人街は無くなりましたが白人と黒人の住んでいる地区は分かれています。個人的な感情のレベルでは差別感は残ります。これがアメリカ社会の苦しみです。目に見えない苦しみなのです。
アメリカには、昔アフリカから多数の黒人を奴隷として連れて来た歴史があったのです。
アメリカは民主主義を守る旗手として輝いていますが、一方国内には黒人をはじめ複雑な人種問題を抱えているのです。

さて世界中のどの国々にも明るい部分と暗い部分があります。
今日はアメリカの輝きと苦しみを書きました。アメリカの輝きとは民主主義を守っている旗手です。苦しみとは黒人、ヒスパイック、アジア人、先住民などへの人種差別問題です。複雑な人種問題です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「南極観測の経緯と犠牲になった18匹の犬とタロとジロの生存」

2022年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は雪降りで寒い日でした。寒いと言っても南極はもっと寒いだろうと調べたら昭和基地の夏の気温が平均でマイナス1度、冬の気温が平均でマイナス20度です。 そんなに寒くないのです。
そこで今日は日本隊による南極観測の経緯を簡単に書いてみたいと思います。そして犠牲になった18匹の犬とタロの生還についてもご紹介いたします。
まず今日の舞台になる南極の写真を2枚お送りします。
1番目の写真は南極大陸の岸辺と氷の写真です。
2番目の写真は南極ペンギンの写真です。
それにしても昭和基地はマスコミに取り上げられ日本中で有名になりました。その経緯を以下に示します。
(1)1956年の昭和基地の建設と越冬隊の派遣
昭和基地は閣議決定に基づき1956(昭和31)年に建設が始まります。
そしてすぐに第1次南極地域観測隊が派遣されました。
その後、南極観測船の引退に伴い中断もありましたが、昭和基地は現在まで67年以上に渡り南極観測を続けています。
昭和基地の歴史は、ほぼそのまま日本の南極観測の歴史でもあります。この昭和基地の写真を2枚お送りいたします。

3番目の写真は最初の頃の昭和基地の入り口です。

4番目の写真は昭和基地の美しいオーロラと星空です。
1956年に出発した南極観測船「宗谷」で、永田武隊長率いる第1次南極観測隊53名が東オングル島に到着しました。1957年1月29日に永田隊長らが上陸し昭和基地と命名しました。そして残った西堀栄三郎越冬隊長以下11名が越冬したのです。このときに輸送などで活躍したのが、樺太犬による犬ぞりでした。

1958年、1次隊に続けて隊長となった永田率いる第2次観測隊を乗せた「宗谷」は深い岩氷に挟まれ、接岸を断念します。
2月14日、1次隊越冬隊の全隊員は飛行機とヘリコプターで脱出しました。
しかし犬のうち15頭は輸送出来ずに残されてしまったのです。しかし天候は回復せず、2月24日正午(一説では13時)、永田は越冬不成立を宣言。犬は残酷にも置き去りにされたのです。
当初2次で終了する予定であった観測隊が、2次観測隊の不成立により3次まで延長され、1年後に第3次越冬隊が昭和基地に到着します。

(2)昭和基地の一時閉鎖
当初2次で終了するはずだった南極観測隊は、結局5次まで延長され、さらに再延長を求める声が高まったが、「宗谷」の老朽化により、1961年出発、1962年帰還の第6次観測隊(越冬はせず)により日本の南極観測は中断、昭和基地は再び閉鎖されました(1962年2月8日 - 1965年11月20日)。
1965年に竣工した南極観測船「ふじ」による、第7次観測隊および越冬隊から再開、1983年(昭和58年)の第25次観測隊および越冬隊から「しらせ(初代)」に変わった。
1973年(昭和48年)9月29日に昭和基地は国立極地研究所の観測施設となっり現在に続いているのです。

(3)生き残ったタロとジロの発見と18匹の樺太犬の運命
タロ(1955年(昭和30年) - 1970年(昭和45年))とジロ(1955年(昭和30年) - 1960年(昭和35年))は南極地域観測隊に同行した樺太犬の兄弟でした。南極に取り残されながら共に生存し、1年後に救出されたことで有名になった犬です。残りの18匹は無残にも餓死したり行方不明になりました。タロとジロだけが生き残っていたのです。
タロとジロの名前は樺太犬を集めていた犬飼哲夫北海道大学教授によって名付けられました。タロとジロの記念銅像を示します。

5番目の写真は現在名古屋にあるタロとジロの記念銅像です。
樺太犬の23頭は稚内で樺太出身の後藤直太郎によって訓練が行われます。
1956年(昭和31年)11月、第1次南極観測隊隊員がタロ、ジロを含む22頭の樺太犬と共に東京湾より南極観測船「宗谷」で南極へ出発しました。

第1次越冬隊に同行した樺太犬の運命を一覧で示します。
名前、出身地、年齢、運命の順で示します。
アカ稚内5昭和基地で没
アンコ苫小牧2行方不明
クロ利尻3.5昭和基地で没
ゴロ稚内2昭和基地で没
ジャック利尻3行方不明
シロ利尻2行方不明
シロ子稚内0.5第1次越冬後、8頭の子と共に帰国
ジロ稚内1第4次越冬中に病死
タロ稚内1第4次越冬後に帰国
テツ旭川6第1次越冬中に病死
デリー旭川5行方不明
比布のクマ比布4.5第1次越冬中に失踪
風連のクマ風連3行方不明、タロとジロの実父
ペス利尻4昭和基地で没
ベック利尻3.5第1次越冬中に病死
ポチ利尻2.5昭和基地で没
モク深川2昭和基地で没
紋別のクマ紋別3昭和基地で没
リキ旭川6行方不明→9年後に昭和基地付近で死体発見(※)
この表のように18匹の犬が犠牲になりました。ジロは第4次越冬中に南極で病死しタロだけが日本に生還したのです。

昨日は非常に寒い雪降りの日でしたので、もっと寒い南極や昭和基地、そして南極で犠牲になった犬たちについて調べました。
そんな訳で今日は日本隊による南極観測の経緯を簡単に書いてみました。そして犠牲になった18匹の犬とタロの生還についてもご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「ロマン溢れる帆船の写真」

2022年02月10日 | 写真
ロマン溢れる帆船の写真をお送り致します。
1番目の写真は沼津市の帆船Ami号です。帆船Amiは、2本のマストと縦帆7枚・横帆1枚を持つトップスルスクーナー型の帆船です。 駿河湾静浦港を母港として西伊豆を中心に活動しています。 一般の人も乗れます。申し込み方法は、帆船Ami Schooner Ami (schooner-ami.com)  をご覧下さい。
2番目の写真はリビエラグループ 所有の木造帆船『シナーラ』号です。この船は「クラシックボートアワード2021」にて帆船レストア・オブ・ザ・イヤー (over 40ft)を受賞しました。詳しくは、私が書いた記事の「よみがえった帆船シナーラ号にまつわる思い出」、2021年02月26日 掲載記事をご覧下さい。https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama

3番目の写真は神戸のグローバル人材育成推進機構 所有の帆船「みらいへ」です。一般の人も乗れます。申し込み方法は、://miraie.org/open_day.html#top  をご覧下さい。

4番目の写真の帆船は私がかつて霞ヶ浦で乗っていた船です。

ロマン溢れる帆船の写真をお送り致した。一般の人も気軽に乗れます。是非帆走の体験をして下さい。

「今日の東京は雪降り、美しい雪景色、そして森敦の『月山』」

2022年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム
窓の外では雪が霏々と降っています。予報どおり朝から降り出しました。やがて庭が美しい雪景色になります。まれに降る雪なので楽しいのです。雪国の人々にとっては雪は厄介ものです。同情しながら窓の外の雪を眺めています。
今日は美しい雪景色の写真を皆様へお送りしたと思います。
まず山梨県の山林の中の私の小屋の後ろに聳える甲斐駒岳や付近の雪景色の写真をお送りいたします。
1番目の写真は北杜市から見上げた甲斐駒岳の風景です。以前、自分で撮った写真です。写真の中央付近の森に中に私の小屋があります。

2番目の写真は甲斐駒岳の麓の私の小屋へ登る入口の風景です。

3番目の写真は私の小屋の周囲の雪景色に似た写真です。
写真の出典は、https://www.pakutaso.com/20160323091post-7456.html です。

4番目の写真は私の小屋の庭にある雪の小川に似た写真です。
写真の出典は、https://www.pakutaso.com/20160323091post-7456.html です
さらに美しい雪景色の写真を検索して探しました。美しい写真が沢山ありました。その中から3枚の写真を選んでお送りします。
写真の出典は、 http://iam-publicidad.org/article/%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%AB%E7%B5%B6%E6%99%AF%EF%BC%81%E6%80%9D%E3%82%8F%E3%81%9A%E3%81%9F%E3%82%81%E6%81%AF%E3%81%AE%E5%87%BA%E3%82%8B%E9%9B%AA%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%81%AA%E9%AB%98 です。
5番目の写真は霧氷が枝についたカラマツの森の風景です。
6番目の写真はまるで白い桜のように雪のつもった木々の風景です。 

7番目の写真は雪に埋まった池の光景です。

さて写真で示したような雪景色を眺めていると、森敦の『月山』を思い出します。第70回芥川賞を1974年に受賞した小説です。
雪の月山の麓の夜の寒さを描いた場面が印象深い作品です。
話は森敦が月山のふもとにある注連寺という寺に居候して冬を越すという話です。
東北の月山の冬は雪深く寒いのです。主人公はお寺に残っていた和紙を張り合わせて蚊帳のような形のものを作り、その中で寝るのです。しかし厳しい寒さが忍び寄りまんじりともせず夜を過ごすのです。
「月山」は深い内容の美しい作品として忘れられない小説でした。
この作品は森敦が自ら生まれ変わろうとするその姿を描いた作品のようです。月山を「死者の行くあの世の山」として描いています。現世とは隔離された異世界として月山を、そして山麓にある村の人々を描いているのです。冬を迎えると月山は雪や吹雪や霧により下界と遮断されてしまう異世界なのです。
森敦はその異世界の中で数々の奇妙な話を聞きます。吹雪の中で行き倒れになったよそ者をミイラにして観光の呼び物にするという風習があったのです。実際、注連寺も即身仏で有名な寺だったのです。
冬の夜の寒さがこの不気味な話と相まって一層寒々と感じるのです。
この森敦の「月山」という小説を読んだ頃に私は山梨の甲斐駒岳の麓に小さな山小屋をを作りました。まだ若く元気だったのでよくその小屋に泊まりました。特に冬に泊まるとすごく寒い夜を体験します。冬の夜に小屋に泊まると「月山」のことを考えてしまいます。

そんな個人的な事情で私は雪景色を見ると森敦の「月山」と甲斐駒岳の麓の山小屋の冬を想うのです。
年老いた現在はその山小屋にはもう行けません。遥かに想うだけになりました。森敦の「月山」を読んでから50年近い月日が流れてしまったのです。今朝は窓の外で降る雪を見ながらそんなことを考えていました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
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森 敦は1912年(明治45年)生まれ 1989年没でした。

1912年、長崎市銀屋町に生まれる(本籍は熊本県天草)。
1932年、旧制一高を依願退学。
1934年、「酩酊船」(よいどれふね)を「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に連載して文壇に登場。
1934年、「青い花」(文芸同人誌)に参加。1935年より、奈良市、松本市を放浪。
1941年、横光利一夫妻の媒酌により前田暘〔よう〕と結婚。
1945年、この頃より酒田市、弥彦村、吹浦村、山形県庄内地方、尾鷲市などを放浪する。
1951年、8月下旬から翌年春まで真言宗の古刹:湯殿山注連寺に滞在。
1974年、『月山』で第70回芥川賞(昭和48年下半期)を受賞。
1987年、『われ逝くもののごとく』で第40回野間文芸賞を受賞。
1989年7月29日、新宿区市谷の自宅で意識を失い、東京女子医科大学病院へ搬送されたが死去(享年77歳)。旧朝日村名誉村民(現:鶴岡市名誉市民)となる。

「北京冬季オリンピックとスキー、スケート遊びの思い出」

2022年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日テレビで北京冬季オリンピックの実況を見ていると昔したスキー、スケート遊びを思い出します。北海道、東北地方や氷雪の多い山間部で育った人は同じような思い出を持っている筈です。昔はもっと寒くて雪がよく降ったものです。
それにしてもオリンピックのスキー、スケートは神業です。流石にプロだと見る度に感動しています。
今日は私のスキー、スケート遊びの思い出を書いてみたいと思います。読み易いように小中学の時期、高校大学の時期、結婚以後の時期の3つの時期に分けて書きます。
(1)竹スキーと下駄スケートの思い出。
小中学の時期は日本の終戦を挟んだ貧しい時代でした。スキー、スケートは誰も持っていません。仙台の向山でしたので雪の坂道があります。そこで毎日竹スキーをしていました。
竹スキーは自分で作るのです。まず墓地に行って墓前の花を供えている太い竹の筒を失敬して来ます。花のある竹筒は流石に悪いので古い竹筒を持って来ます。長さ60cm位の太い竹を8つに割ります。これが竹スキーの本体になります。先の方を上に曲げます。曲げるところを焚き火で炙り、足と手で曲げると簡単に思うような角度になります。竹はあぶると柔らかくなるのです。こうして竹スキーは何本も作りました。友だちの分も作りました。
竹スキーに立って雪の坂を滑り下ります。何度も滑っていると轍の所だけ氷になります。もの凄くスピードが出ます。こうして私はスキーを覚えたのです。
さて下駄スケートですが、それは下駄屋で安く売っていました。出来の悪い下駄にスケート状の鉄片を打ち付けたものです。
家の下の沼の氷の上で下駄スケートをしました。そこで重要なことは下駄スケートを丈夫な紐で足にきつく巻きつけることです。立って滑るとき足とスケートが密着して気持ち良く滑れます。こうして私はスケートを覚えたのです。
(2)本格的にスキーをした高校、大学の時期。
高校の終わり頃、突然父が昔、伊吹山でスキーをしたと言い出してスキーを買ってくれました。当時、仙台に近いスキー場はJR仙山線の山間部に2つありました。八ツ森スキー場と面白山スキー場です。冬の間だけ臨時停車場が出来たのでスキーを担いで父と三兄弟で何度も行きました。
大学になると山形側の蔵王山のスキー場に行ました。地蔵岳下のスキー場、懺悔坂のスキー場、太平コースのスキー場、高湯温泉のスキー場など滑りした。
しかしスキーは全然上手になりませんでした。驚くほど下手のままでした。
ただ度胸だけはつきました。どんなに急で狭い道でも怖くないのです。横滑りで雪崩れ降りるテクニックを身につけたのです。
(3)結婚以後のスキー、スケート遊び。
結婚して驚きました。妻が白い皮で出来たみごとなフィギュアのスケート靴を持ってきたのです。下駄スケートしか知らなかった私は負けてなるものかと黒革のスケート靴を買いました。多摩川上流にある沢井の屋外スケート場に行ました。
沼で下駄スケートしかしなかった私はヨチヨチ歩きです。そばを妻が滑り抜けて行きます。その上舞うように回転します。私の完敗です。
聞くとスキーはしたことが無いと言います。そこで諏訪湖の北の白樺湖スキー場に連れて行ったのです。リフトで頂上まで行き、私と子供たちはサッサと滑り降りました。スキー経験の無い妻が変な姿勢で恐々滑って行きます。何度も転んでいます。そばを私がスイと滑り抜けて行きます。これでやっと夫の威厳が保てました。
ところが帰りに氷った諏訪湖でスケ-トをして又夫の威厳を失いました。なにせ諏訪湖の氷は凸凹していて滑らかなでないのです。妻がそれも計算ずみで凸凹の氷の上を上手に滑って行きます。その後も室内・野外のスケート場へ数えきれぬ程通いました。結局妻は60歳になるまでスケートを続けていました。
いろいろなスケート場に沢山行きましたが長くなるので止めます。

今日は北京冬季オリンピックにちなんで私のスキー、スケート遊びの思い出を書きました。

今日の挿絵代わりの写真は山形側の蔵王のスキー場の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)







「落ち込んだらゴッホの油彩画を見る」

2022年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今朝は落ち込んでいます。毎朝、ブログ記事を書こうとコンピューターの前に座ると書きたいテーマが沢山浮かんできます。午前中は面白いテーマを選んで楽しい物書きの時間です。毎日の日課です。ところが今日はテーマが何も浮かんで来ません。落ち込んでしまいました。空がどんより暗く、居間のガスストーブの具合が悪いのです。
こういう時にはゴッホの油彩画を見ることにしています。見ると気分が明るくなります。勇気が出てきます。こうして何十年もゴッホの油彩画に勇気づけられてきました。そこで今日はゴッホの油彩画の写真を8枚掲載致します。

1番目の写真は「ひまわり」です。1888年8月から1890年1月にかけての作品です。南仏のアルル滞在時に盛んに描かれた。花瓶に挿された向日葵の「ひまわり」は7点存在し、2007年には6点がありました。

2番目の写真は「糸杉と星の見える道」です。ゴッホがこの世を去る2か月前の1890年5月、フランス南部のサン=レミ=ド=プロヴァンスにある精神病院で療養中の作品です。

3番目の写真は「星月夜(ほしづきよ)」です。南フランスの聖ポール療養院で1989年にゴッホが見た星空です。
ゴッホが入院した聖ポール療養院(Saint Paul de Mausole)は、現在でも診療が行われており、ゴッホの病室や回廊も公開されているそうです。

4番目の写真は「医師ガシェの肖像」です。1890年6月の作品です。医師ガシェは絵画愛好家でありゴッホと親しくセザンヌやピサロらと交友があったほか、自らも絵画を描いていました。

5番目の写真は「カラスのいる麦畑」です。この作品は、ゴッホが拳銃自殺を図った1890年7月に完成されたもので、「巨匠最後の作品」です。

6番目の写真は1888年作の「黄色い家」です。この家は1944年に戦災で破壊され現存していません。
南仏アルルに活動の拠点を移したゴッホは、ラマルティーヌ広場(Place Lamartine)沿いのこの黄色い建物の一部をアトリエと住居として間借りしていました。

7番目の写真は1888年作の「アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)」です。
南仏アルルの跳ね橋をモチーフにした作品は複数あります。橋の手前で洗濯する女性たちが描かれた作品の一つがクレラー・ミュラー美術館に収蔵されています。
実際のモデルとなった橋はアルルの中心部から約3キロほど南西の運河に架かっていましたが現存していません。観光用に作った橋がありますが絵画の雰囲気とはまったく違います。

3番目の写真は1888年作の「夜のカフェテラス」です。
南仏アルルの星空の下、人でにぎわうカフェテラスが描かれています。オランダのクレラー・ミュラー美術館蔵です。

ゴッホの生前に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑』だけでした。それでも弟テオドール(通称テオ)の援助でなんとか生活していたのです。
ゴッホは油彩900点、素描1100点を遺しました。
傑作とされる作品はほとんどが晩年の約2年半(1888年2月から1890年7月)に制作されたものでした。
しかし彼の絵画は世界中で人々に感動を与えているのです。不思議です。私も彼の絵が大好きです。

好きという軽々しいものではなく魂がゆさぶられるのです。生きる勇気が猛然と湧いて来るのです。人間の素晴らしさを感じるのです。そして何と言っても美しいのです。
1989年、1990年にオハイオのコロンバス市に住んでいたときゴッホの絵があるシカゴ美術館やピッツバーグ美術館に何度も車を走らせたことを思い出しています。ゴッホの絵は世界の宝です。

もっとゴッホの絵をご覧になりたい方は、http://www.art-library.com/gogh/index.html にあります。

今日も寒い日なのでゴッホの絵でも見て家の中でのんびりと過ごすつもりです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

「曾遊の地の美しい雪景色」後編

2022年02月06日 | 写真
私は仙台に24歳まで住んでいたので蔵王山には四季折々何度も登りました。特に冬は山形側のドッコ沼の宿に連泊してスキーをしました。茫々60年以上前のことです。
この懐かしい蔵王山の雪景色の写真をお送りします。 

1番目の写真は懺悔坂の樹氷です。懺悔坂の樹氷は有名ですがもっと下りドッコ沼から蔵王温泉までの滑降コースは美しい霧氷の林に囲まれています。写真の出典は、http://ogennki3.blog.fc2.com/blog-entry-125.html?sp です。 

札幌への観光旅行は何度か行きました。ある時は郊外にある北海道開拓村を訪れました。明治の北海道開拓時代の札幌の街並みや北海道各地の古い建物が移築され展示してありました。政府が建てた役所は堂々として立派ですが一般の民家は木造の小さな家です。
曾遊の地の北海道開拓村の雪景色の写真をお送りいたします。

2番目の写真は北海道開拓村の馬に引かれた乗り合い橇です。開拓村では冬の体験をさせる企画がいろいろ行われています。 写真の出典は、「北海道開拓の村の冬のくらし」、(https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2345/ )です。 

さて善光寺は善光さんが建立したお寺で仏教のどの宗派にも属せず、人々の素朴な信仰だけで存続してきました。その素朴な信仰の雰囲気に魅了されて何度も長野市を訪れました。長野駅から真っ直ぐに伸びた大通りの先にあります。
善光寺に行ったのは何時も雪の無い季節でした。 

3番目の写真は善光寺の三重塔です。写真の出典は、http://www.imamiya.jp/haruhanakyoko/she/fuyutabi2019b/photograph13.htm です。 

ところで松島の素晴らしさは雪景色にもあります。

4番目の写真は雪の松島の五大堂です。写真の出典は、http://orgeldiary.da-te.jp/e404943.html です。 

最後に豪雪の南魚沼市の写真をお送り致します。
鈴木牧之が江戸時代に出版した「北越雪譜」という本の愛読者は多いと思います。豪雪の地の人々の冬の生活を活き活きと描いた名著です。
「北越雪譜」に感動した私は関越自動車道を走って湯沢を通って、南魚沼市の塩沢の鈴木牧之記念館を訪れました。暑い夏のことでした。

5番目の写真は南魚沼市スキー場のホテル街の夜景です。夕焼けが残っています。 写真の出典は、https://rtrp.jp/articles/102823/ です。 
北越雪譜の全文は 青空文庫にあります。https://www.aozora.gr.jp/cards/001930/files/58401_70229.html に出ています。この中には雪国の珍しい話や不思議なことが沢山書いてあります。
江戸時代の雪国の生活が客観的に、そして具体的に活写されているので記録映画を見ているような気分になります。文化人類学の本のようでもあります。
私はこんな本が江戸時代に出版されたことに驚いています。

「曾遊の地の美しい雪景色」の後編として5箇所の雪景色の写真をお送り致しました。曾遊の地は他にも沢山ありますがここで一先ず終わりとします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「カトリック教会、2022年2月6日の年間第5主日のミサ動画配信」

2022年02月06日 | 日記
ミサの動画配信は以下の通りです。

2022年  2月6日(日) 10時

カトリック関口教会、年間第5主日のミサ動画配信
https://www.youtube.com/watch?v=KM3T2sLTtrM
2月6日10:00 司式 ホルヘ神父(助任司祭)
入祭の歌 カ典19 きょう神の声を聞くなら
あわれみ・栄光の賛歌 カ典405・406
答唱 典134①②③ 主をたたえよう
アレルヤ唱 典268 年間第5主日    
信仰宣言 ニケア・コンスタンチノープル信条(2)
奉納の歌 典409 呼ばれています 
感謝・平和の賛歌 カ典407・408
拝領  プリント 主は水辺に立った
閉祭の歌 典387 神はキリストのうちに


聖イグナチオ教会、年間第5日のミサ動画配信
https://www.youtube.com/watch?v=lB0RD360Py0
【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
イザヤの預言(イザヤ 6:1-2a, 3-8)
第2朗読
使徒パウロのコリントの教会への手紙(1コリント 15:1-11または15:3-8, 11)
福音朗読
ルカによる福音 (ルカ 5:1-11)


今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿絵はユトリロの「モンマルトルのアブルヴォワール通り」(1911)です。ユトリロが描く『白の時代』の作品です。



「終戦から昭和30年代の 小金井駅の風景」

2022年02月05日 | 写真
ここに示す5枚の写真は終戦後から昭和30年代のJR中央線の小金井駅前の風景と玉川上水の土手の小金井桜です。写真は「小金井市観光まちおこし協会」などからお借りしました。

1番目の写真は小金井駅の東側の踏切です。写真の手前が新宿方面で奥の方が立川方面です。踏切番の様子から終戦直後の写真のようです。

2番目の写真は小金井駅の北口広場と昔のバスです。バスのラジエーターが進駐軍の軍用トラックと同じなので、軍用トラックを改造してバスにしたものと分かります。

3番目の写真は小金井駅の南口です。人々の服装から昭和39年代の写真と思われます。

4番目の写真は小金井駅の北口です。小綺麗になっているので昭和38年頃の写真と思われます。代書屋は府中の免許試験場行きのバスが頻繁に出ていたためです。

5番目の写真は終戦後間もない頃の玉川上水の土手の小金井桜です。写真の奥が上流です。羽村の堰から流れ下って来ます。写真の右手には玉川上水に沿って五日市街道が走っています。現在は玉川上水の土手には木々が鬱蒼と生えていて上水の水は見えません。

こんな写真を見ると毎朝、小金井駅から中央線で通勤していた頃を懐かしく思い出します。それにしても当時の日本は本当に貧しかったと、写真を見ると思い出します。嗚呼。


「シクラメンの花とある園芸店の思い出」

2022年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年11月になるとシクラメンの花の鉢を何個か買うことにしています。シクラメンの花はクリスマスや正月を越して5月まで咲いています。その後庭の畑に鉢を出しておくと年を越して翌年咲くこともあります。毎年、長い間楽しめる花なので我が家の家族のような気がします。
そして長年買い続けていると年々花の咲き方が少しづつ違うことに気がつきます。買った時分の色合いも時がたつにしたがって変わって行きます。でも華やかさは変わりありません。シクラメンは素晴らしい花です。
今日はそんなシクラメンの花にまつわる話を書きたいと思います。
1番目の写真は昨年の11月に買ってきたシクラメンです。

2番目の写真も昨年11月に買ってきたシクラメンです。昨年は特に大きな鉢のシクラメンを売っていたので買って来ました。
このような鉢植えのシクラメンを40年以上の間買い続けてきました。

3番目の写真は2018年に買ったシクラメンの花です。写真は2019年の1月に撮ったので背景の庭に薄く雪が積もっています。草木が枯れて冬の庭です。

4番目の写真は2019年の2月の頃のシクラメンの花です。2月なので背景の庭に梅が咲き出しています。

5番目の写真は2019年の5月に撮ったシクラメンの花です。さすがに少し疲れが見えます。背景の庭はスイセンやヒトリシズカ、ホウチャクソウなどの春の花々が散ってしまって一段と緑が濃くなっています。5月の庭の風景です。

シクラメンの花や植木をよく買った馴染み深い園芸花店は五日市街道にありました。自宅に近かったので四季折々よく花を買いに行きました。
その馴染みの店が10年程前に突然倒産して消えてしまったのです。常日頃なじんでいた園芸店です。ショックを受けました。
その大きな園芸花店では数棟の広い温室に熱帯の花々もあふれるように育てていました。
花の売り場も広くて2棟の店内には鉢植えの花が沢山売られています。店の前には梅、桜、藤、椿などの花咲く苗木、実を付けた蜜柑、柚子、柿、栗、葡萄等果実の苗木も売っていたのです。
毎年、11月末になると見事なシクラメンの鉢を幾つも買うのが家内の楽しみでした。家内の稽古事の先生や親類へのお歳暮にしていました。我が家用のも買いました。毎年時間をかけて花の色や形に迷うのも楽しい行事のようでした。
庭に植える八重桜やライラックの木、桂の木、椿も何種か買いました。
何時行っても四季折々の花々が豊かに飾ってある園芸店だったのです。
およそ50年前その店に初めて行った時、雪の残る広い畑で背の高い物静かな青年が一人で花々の苗を育てていました。その青年から雪の中に鮮やかに咲いていたパンジーの苗を買ったのが付き合いの始まりでした。
間もなく体格の良い陽気なお嫁さんが来て温室を建て、その数が次第に増え商売が繁盛していました。
女の子が産まれ、やがて成人して他の店で園芸の勉強をしていると奥さんが嬉しそうに話していました。アルバイトの若い男女を大勢使うようになり華々しい雰囲気の園芸店だったのです。
それが十年ほど前に突然倒産し消滅しました。
張り切って花を栽培し売っていた陽気な奥さんと、物静かな夫の姿が消えました。あれ以来二度と会っていません。近頃は数カ所の園芸店を廻って年ごとに違う店でシクラメンを買ってます。

懐かしい園芸店の跡はしばらく空地になっていましたが、洗車場が出来ました。しばらくして写真館、大きな回転寿司の店がやってきました。
私は一人で出かけ、寿司を食べながら「ああ、この辺には温室があったな!色々なランの花があったな」と花々のことを鮮明に思い出します。あの折々の家内の明るく輝く顔も思い出します。

シクラメンの花にまつわる思い出を書いていたら昔のことがあれこれ思い出しました。
オリンピックのあった1964年に私どもは小さい家を建てて小金井町に引っ越して来ました。

6番目の写真は1963年に小金井市本町小学校西交差点から北に向かって撮影した写真です。私達の家の近所です。私どもが小金井市へ引っ越してくる前の年の風景です。写真の出典は、小金井市教育委員会、編集・発行CD「写真でたどる昭和の小金井」 です。
道路は砂埃の舞い上がる土の道で、交差点には信号機が一切付いていませんでした。
道の左手に酒、味噌、醤油、野菜などを売るよろず屋が一軒あるきりでした。
その周囲には畑になっていて野菜が伸びています。
この道の奥の左側には現在は消防車庫になった火の見櫓があり、その向こうは当時としては贅沢な鉄筋コンクリート4階建ての公務員住宅が並んでいました。
引っ越してから食料品はこのよろず屋から買っていました。仲良くなりずいぶん長い間のお付き合いでした。それも十数年前に倒産してしまい、現在は有りません。

7番目の写真が現在の同じ場所の写真です。道路の左にあるマンションと果物の看板のある八百屋さんが、倒産した昔のよろず屋の跡地に建ちました。
日本の高度成長の結果、土の道は完全舗装され信号機も付きました。
道路の両側から畑が消え、住宅や商店が綺麗に並んでいます。泥や土埃が完全になくなり清潔な街路になりました。
その後、この通りで繁盛していたソバ屋さん、本屋さん、電器屋さん、お茶屋さん、御菓子屋さんなどの個人商店が10年くらい前から一軒一軒と消えて行きました。
京王ストアーというスーパーだけが生き残りましたが現在そのスーパーも廃業して消えてしまいました。
日本の経済の高度成長のお陰で我々の生活レベルは格段良くなりましたが、何故か淋しいかぎりです。

少し視野を広げると、東京駅前の旧丸ビルも無くなりました。有楽町駅前の日劇ビルや朝日新聞社も消えてしまいました。
時の移ろいに何か空しいものを感じます。

今日はシクラメンの花にまつわる話とある園芸店の思い出を書きました。そして近所の風景の変化も写真とともに書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)