後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「東京の観光(7)伊豆七島の神津島のご紹介と独り旅」

2022年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム
この連載記事では東京の観光名所をご案内してきました。
今日は少し趣くを変え、伊豆七島の神津島のご紹介と韓国の美少女、おたあジュリアの話をしたいと思います。
東京から高速船で4時間ほどの神津島(こうづしま)は、伊豆諸島の島の一つで、活火山の火山島です。東京都神津島村です。
伊豆諸島の有人島としては最も西にあります。最も近い有人島は10kmほどにある式根島です。 
島のシンボル的存在である天上山は、9世紀の噴火で形成された溶岩ドームです。『続日本後紀』では、838年(承和5年)に大規模な噴火をしたことが記録されています。山頂部は比較的に平坦で砂地があります。また山頂部では本州では2000m級の高山に生育している高山植物も生えています。
西側の前浜沿いに主な集落があります。

1番目の写真は神津島の前浜の写真です。主な集落があります。後ろの山が天上です。。真の出典は、http://runo345.btblog.jp/ です。

2番目の写真は2006年に私が撮った神津島の荒波です。神津島は太平洋の波頭に浮かぶ小さな孤島なのです。島には民宿も数軒あり、気軽に行ける観光名所です。
さて、おたあジュリアの話しです。
彼女は朝鮮から日本へ拉致されて来ました。秀吉の朝鮮出兵の時、小西行長に連れて来られたのです。そしてキリスト教の信仰を捨てなかったので伊豆七島の神津島へ流されたのです。その島で彼女は貧しい人々を助け、島の人に非常に大きな感銘を与えたのです。
私は神津島へ旅をして「おたあジュリア」が今でも島の人々に大切にされ尊敬されていることを知りました。

おたあジュリアが日本へ連行されて来た後にキリシタン弾圧が次第に厳しくなっていました。キリシタンとして捕まったおたあジュリアはむごい拷問にあいます。しかし絶対に棄教しなかったのです。
ジュリアは磔の刑を免れて神津島への遠島の刑を言い渡されます。
流された神津島では、ジュリアは罪人にも拘わらず貧しい人々の世話をして島民に愛されます。島民に尊敬され、親切にかくまわれます。
その時代にはキリシタンへ親切にしたり、尊敬した人々はキリシタンと同罪の罰を受けます。
ですから神津島の島民はジュリアを尊敬している事を絶対に秘密にしていました。それは島の人だけの恐怖の秘密だったのです。
時代は明治維新になり、明治、大正となりましたがジュリアを尊敬しているということは大声で話すことではなかったのです。
私は伊豆七島の神津島へ東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島へ旅をしました。山ばかりで平地が少ない小さな島でした。島では民宿に投宿しました。
そして燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞いたのです。彼は低い声で話し出しました。
「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」 と。
しばし沈黙の後、彼は話し出します。
「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。キリシタンだったのでここへ流された女です。当時の島の貧しい人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」 ・・・・
「おたあ、は立派な女です。元気に島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、悲しむ人々を慰めました。おたあは本当に優しく賢い女だったのです」 ・・・・
「おたあ、に島の人々は感銘を受け、彼女の島での生活を温かく助けたのです。しかしキリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」 ・・・・
「ですから神津島の人々はこのおたあジュリアのことは絶対に秘密にしたのです」・・・「秘密は明治、大正になっても固く守られたのです」・・・
「島の人々は今でも、おたあのことを尊敬しています。まあ、つまらない話かもしれませんが」・・・

現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものです。神津島とおたあジュリアの歴史は島の民宿に泊ったので知ることが出来たのです。
神津島への旅の後すぐにおたあジュリアのことを調べてみました。
おたあ、は3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の養女となり、洗礼を受け、ジュリアという名を授かりました。関が原の合戦の後、小西は石田三成とともに三条河原で斬首されます。
そしておたあは家康の側室の侍女となります。しかし信仰を持っていたので家康の言いなりになりません。
そんなおたあは桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になったのです。
それは慶長17年、1612年のことでした。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もあります。
現在は、毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」があります。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でおたあジュリアの慰霊祭も同時に行っているのです。

3番目の写真はおたあジュリアの絵です。
ジュリアの姿絵は、https://www.asahi.com/articles/photo/AS20190515000709.html から転載しました。

4番目の写真は神津島にある記念塔で彼女のお墓と想定されています。

5番目の写真は韓国の切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓です。1972年日韓の友情によって移設されました。

毎年、5月になるとジュリア祭りが現在でも開催れています。2019年にも5月8日にで第50回目のジュリア祭りが開催されました。おたあジュリアは慶長2年(1597年)に日本へ連行されたとすると、神津島へ来た時はまだ18歳の若さでした。

今日は孤島、神津島のご紹介とおたあジュリアの話をいたしました。

それはそれとして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「春の野山に咲くヤマブキの花」

2022年04月23日 | 写真
ヤマブキの季節です。庭に咲いてます。白いのや黄色のがあちこちに咲いています。本当の春になったのです。その写真をお送り致します。
写真の出典は、https://www.uekipedia.jp/.../%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%96.../ です。

道灌の山吹伝説、【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】
(http://youzantei.la.coocan.jp/mitisi.../yamabukidensetu.html )

太田道灌は扇谷上杉家の家宰でした。ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきたのです。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。

その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。
驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。





「東京の観光(6)御岳と河合玉堂美術館など」

2022年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は思い出の多い河合玉堂美術館と御岳と御岳神社などについてご紹介したいと思います。
御岳の付近の多摩川に行くようになったのは、1962年に東京に住んでからです。60年間です。東京の西郊の小金井市に住み始めたので、週末は必ずのように娘と息子を連れて多摩川上流に行き、川遊びや焚火や釣りを楽しんだのです。当時は川原で焚火をするのが普通で、子供たちに枯れ木にマッチ一本で火をつける方法を教えたものです。
そして御岳にケーブルカーで登ったり、駅の傍の河合玉堂美術館などに何度も行きました。駅のそばの玉川屋というソバ屋にもよく行ったものです。高い場所にある茅葺の昔風の家です。近くには玉堂美術館や古風な旅館の河鹿苑があります。玉川屋の下に東華園という中華店もありました。
御岳駅の付近の多摩川は私共家族の遊び場でした。
今日は玉堂美術館や御岳神社と付近の観光地についてご紹介しようと思います。

さて御岳駅の下には河合玉堂美術館があります。河合玉堂の大作が数枚展示してあります。

1番目の写真は玉堂美術館の入り口の写真です。
川合玉堂は日本画壇の巨匠です。昭和19年から昭和32年に亡くなるまでの10余年を御岳駅のそばに住んでいました。

2番目の写真は彼の作品の一例です。私の好きな絵を勝手に選びました。
玉堂は自然を愛し、人を愛し、その人柄は土地の人々からも慕われました。
玉堂は伝統的な日本画の本質を守り、清澄にして気品のある独自な作風を展開しつつ、明治・大正・昭和にわたって作品を描がいて来ました。
さて次は御岳登山と御岳神社をご紹介いたします。

3番目の写真は御岳に登るケーブルカーです。写真の出典は、https://san-tatsu.jp/articles/91579/ です。

4番目の写真は御岳神社です。この御岳神社の奥の御岳山頂に登ったり尾根を縦走し日の出山へもよく行きました。約1時間の行程です。
御岳神社は文暦元年(1234年)に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、以降は修験場として知られ、関東の幕府や武士から多くの武具が奉納されています。
ケーブルの山上駅から武蔵御嶽神社へ続く参道、門前町の集落には、天然記念物「神代ケヤキ」、二十数軒の宿坊、御岳ビジターセンターがあります。奥に奥の院、その奥に大岳山があります。

5番目の写真は御岳神社の祭礼の行列です。写真の出典は、https://san-tatsu.jp/articles/91579/ です。
御岳神社から尾根つたいに東へ歩くと展望の良い日の出山に行けます。

6番目の写真は日の出山の展望台です。新宿の高層ビルが見えます。写真の出典は、https://san-tatsu.jp/articles/91579/ です。

7番目の写真は御岳駅や御岳神社や日の出山の位置を示す地図です。写真の出典は、https://san-tatsu.jp/articles/91579/ です。左に御岳、中央付近に日の出山が示してあります。

以上の観光地の他に付近には養沢の鍾乳洞や払沢の滝や数馬の里のような観光地が沢山あります。しかしあまり長くなるので今日は省略しました。

以上、思い出の多い河合玉堂美術館と御岳と御岳神などについてご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「鯉のぼりが待ちどおしい、しかし端午の節句は元々は女の節句だった」

2022年04月22日 | うんちく・小ネタ
皐月の空に舞う鯉のぼりが待ち遠しい季節になりました。
青空に鯉のぼりが泳ぐ端午の節句が近づきました。
そこで青空に鯉のぼりが舞う写真をお送りし、端午の節句はもともとは女の節句だったというお話しをしたいと思います。
昭和の初めころの鯉のぼりは真鯉と緋鯉と吹き流しの三つが普通だったような記憶があります。昭和11年生まれの私の家の庭には太い丸太の棒を立て、真鯉と緋鯉と吹き流しが五月の風に青空を泳いでいました。それは戦前のつかの間の平和な時代でした。
その頃は鯉のぼりは男の子のいる家で上げるという風習でした。

1番目の写真はそのような時代の鯉のぼりです。写真の出典はhttp://nobrin7.exblog.jp/11057098/ です。

2番目の写真は五島列島の鯉のぼりです。
写真の出典は、http://yonchiworld.blogspot.com/2016/05/blog-post.html です。

3番目の写真は富士山の朝霧高原にあるドライブインの鯉のぼりです。
写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/akatukinosuzu/3851302.html です。

4番目の写真は新潟県の鯉のぼりです。
写真の出典は、http://shinkai-y.seesaa.net/article/449406484.html です。
この出典にある写真の説明文も少しだけ抜粋します。・・・残雪の山並みをみる丘に鯉のぼりが泳いでいます。やわらかく吹く風はやさしくて、眩しいほどに遠くまで太陽の光が透き通っています。鯉のぼりはそんな中、多くの人たちが歩く姿を少し高い位置から眺めているのでしょうか?
この丘の向こうでは、一面にある菜の花畑の道を多くの人が歩いています。日曜日の午後、よく晴れてくれました。・・・
 
さて端午の節句にまつわるお話しをしたいと思います。端午の節句は時代によって随分と変化したようです。
端午(たんご)は五節句の一つです。端午の節句は菖蒲の節句とも呼ばれます。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習がありました。
現在ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ国民の祝日「こどもの日」になっています。地方では旧暦や月遅れの6月5日に祝う地域もあります。

旧暦では午の月は5月にあたり(十二支)5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になったのです。端(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初の午の日を意味していましたが、中国語で「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わったのです。

端午の節句はもともと女の節句だったのです。
昔、中国では五月は悪い月とされ、薬草をとって悪い気をはらう行事がありました。かおりの強いアオイや菖蒲には、魔よけの力があると信じられていたのです。
また、このころは、ちょうど田植えのシーズンでした。田植えは、昔、女性の仕事だったので、この日は女性が大切にされ、女性だけが菖蒲をふいた屋根のある小屋に集まり、そこで過ごし悪い気をはらう行事がありました。
これが「菖蒲の節句」でもともとは女の節句だったのです。
中国の「女の節句」が日本の鎌倉時代ごろから、菖蒲が「尚武(武を重んじること)」に変わり、男の子の節句となったのです。
鎌倉時代ごろから、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また、菖蒲の葉の形が剣を連想させることなどから、端午は男の子の節句となったのです。
端午の節句では鯉のぼりだけでなく、鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾ります。
ただし「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となりました。
しかし京都を含む上方では、当時は見られない風習であったようです。
また端午の日には柏餅(かしわもち)を食べる風習があります。
柏餅を食べる風習は日本独自のもので、柏は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まりました。 
以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/端午 からの抜粋です。

それにしても端午は元々女性の節句だったとは面白いですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)



「東京の観光(5)規模壮大な昭和記念公園の魅力」

2022年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後米軍が旧立川飛行場を接収した、立川市と昭島市の両市にまたがる立川基地跡地の180haが昭和記念公園となっています。
「緑の回復と人間性の向上」をテーマに1978年(昭和53年)度より国土交通省の手で施設整備が進められました。
そして1983年(昭和58年)10月に昭和天皇臨席のもとに約70haで開園したのです。
その後、レインボープールや子供の森、日本庭園、砂川口、盆栽苑等次々と施設が整備され、2005年(平成17年)11月にはみどりの文化ゾーンが共用され、同時に昭和天皇記念館が開館したのです。
園内は広大で四季折々次のように花々が咲いています。
春 は、 ツバキや水仙からナノハナ、サクラ、チューリップ、ポピーと続く花の開花リレーが楽しめます。夜桜も有名です。
夏 は、 梅雨の頃はアジサイ、夏場はヒマワリが見頃です。花火大会もあります。またレインボープールもこの季節に開かれます。
秋は、 大規模なコスモス畑は有名です。イチョウも黄色に染まり、黄色のじゅうたんが広がります。
冬 は、 毎年12月には、クリスマスイルミネーションとシャンパングラスツリーが幻想的な光を演出します。
私どもは何度も規模壮大な昭和記念公園を歩きまわりました。
老齢になると歩くのが疲れるので園内を巡回しているトロッコ電車や貸自転車に乗って園内をまわりました。
5番目の写真にトロッコ電車が写っています。
コスモス祭りの頃は何度も行きました。
広いので足に自信の無い人々はトロッコ電車が便利です。時速15kmくらいで園内を巡回しています。1時間に3回か4回、廻ってきます。
勿論、自分の自転車を持ち込むのは自由です。自転車専用道路は無料です。
私共は自転車でも何度も公園を廻りましたが風景が違ってまた格別な感じを受けます。
是非、規模壮大な昭和記念公園をお楽しみ下さい.
交通は JR青梅線の西立川駅を下車すると歩道橋で結ばれています。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)








「新緑の樹々を眺めると心が爽快になる」

2022年04月21日 | 写真
新緑の季節が大好きです。今日も小金井公園に行って長い時間眺めていました。
新緑の写真をお送り致します。
そして新緑の季節の詩をお送り致します。この詩の出典は、

~緑の風になる~
たおやかな新緑の季節が来た
1年で最も美しい季節
生命が伸びようと輝く

風が木々にそよぐとき
キラキラとした新緑が目にしみる
穏やかな日の光に暖められて
心の中までゆったりと癒される

頑張ってきた何ヶ月かを振り返る
ちょっと無理をしていたね
身体も縮こまっているね
緑の風を肌で感じながら
思いっきり深呼吸しよう

風になる
木々になる
穏やかな日を受けて
生命の躍動で身体が蘇る






「春の九州の阿蘇エリアにある花畑の写真」

2022年04月21日 | 写真
春の九州の阿蘇エリアにある花畑の写真をお送り致します。
写真の出典は、 https://www.hoshinoresorts.com/guide/area/kyushuokinawa/kumamoto/aso/aso-hanameguri/ です。

1番目の写真は熊本県阿蘇市の長寿ヶ丘つつじ公苑です。
小高い丘にあり、お花見と眺望を同時に満喫できます。
阿蘇五岳の北西部、端辺(はたべ)原野と呼ばれる辺りにある、標高約600mの小さな丘です。その昔、阿蘇の外輪山上の草原から草を運んでいたという農道の休み場に、地元の人々がツツジを植栽したことからできた公苑です。

2番目の写真は熊本県阿蘇市のツツジの名所、仙酔峡に咲く群生したミヤマキリシマです。
阿蘇山の中岳と高岳(たかだけ)の北麓に位置し、阿蘇山が噴火したときの溶岩流によって造り出されたといわれる峡谷です。溶岩がむき出しの峡谷一帯には、約5万株ものミヤマキリシマが自生しています。
九州の高山で見られるツツジの一種で、5月頃になると紫紅色・桃色などの花が一斉に咲き乱れ、山肌一面がピンク色に見えるほどの素晴らしい景観が広がります。

3番目の写真は大分県竹田市久住町の1くじゅう花公園です。
標高850m、「阿蘇国立公園」内の久住高原にあり、日本百名山のくじゅう連山や、はるか南には阿蘇五岳まで望める公園です。
自然の起伏を生かした約22万㎡もの広大な敷地の中に、約500種500万本の様々な種類の花が植栽されています。春にはチューリップやパンジー、シバザクラ、ネモフィラなどが次々と開花します。

4番目の写真は2番目の写真と同じで仙酔峡に咲く群生したミヤマキリシマです。

「東京の観光(4)大島、波浮の港への旅」

2022年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は東京の観光として奥多摩の山岳道路と奥多摩湖をご紹介しました。
今日は海側の大島の波浮の港をご紹介します。
さて、戦後すぐの少年の頃、「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、波浮の港は夕焼け小焼け、、、」という歌がラジヲから流れていました。歌の意味は、島の娘が波浮からの船の艫綱を泣いて解く、、、船出する人と見送りに来た人が別れを悲しんでいます。鵜の鳥は日暮れに帰るがその人は帰らない、、、。
そんな悲しい歌なので忘れられません。仕事を一切止めてから、彼方此方へ旅をすることにしました。そんな時、大島の波浮の港へ独り旅しようと思い立ちまじた。

1番目の写真は大島の中心にある三原山です。活火山です。
朝、竹橋桟橋から高速に乗ると昼前に大島に着きます。観光客で騒がしい岡田港の交通案内所で波浮の港へ行って一泊したいと相談しました。対応してくれた若い女が、「あそこは観光客は行きませんが。何をしに行くのですか?」と聞きます。そして国民宿舎をとってくれました。バスで行きました。宿に着くと高台にあり、火口湖のように丸い波浮港が見下ろせます。
2番目の写真は飛行機から見下ろした波浮の港の風景です。
写真は、http://blog.livedoor.jp/zuifuuino/archives/52120612.html からお借りしました。
宿からの景色が良いのですが、憧れの波浮の港までは遠すぎます。
港へ行って地魚の寿司を食べようと思いましたがタクシーがありません。すると宿の人が電話してくれて寿司屋さんが迎えに来てくれることになりました。元気なオバサンが軽自動車を運転して迎えに来ました。
曲がりくねった急な坂道を降りて行き、そこ一軒だけの店に着きます。

3番目の写真は波浮の港の町並で、このような場所に寿司屋がありました。
この写真は、http://www.asahi.com/travel/bicycle/TKY201204060190.html からお借りしました。
地魚の島寿司を頼みました。「島寿司」とは地魚の握りの上に、どういう訳か甘ったるい醤油が塗ってあるのです。ワサビでなくカラシです。甘い魚の寿司なのです。
店の中には2組の客が居て日本酒や焼酎を飲んでいます。客が、寿司を握っている60過ぎの主人や手伝っている息子やその嫁と雑談をしています。

見ると店の壁に古い写真が沢山飾ってあります。波浮の港に木造漁船がビッシリと並んでいる写真です。港の通りには漁師が溢れ、居酒屋が軒を連ねています。
主人に聞くと昔は漁船の船足が遅く、この港が太平洋での漁の中継基地として賑わったそうです。今は船が高速化して、取れた魚を冷凍し、積んだまま築地の魚河岸へ直行するのです。
だれも波浮の港へ寄らなくなり、すっかりさびれました。と主人が淋しそうに言います。
そして島では火山灰が土地を覆っていて米が取れなく、昔から貧しい所だったと説明してくれます。私は地魚の刺身と「亀の爪」という一品を注文しました。
亀の爪のように見える小さな一枚貝が、磯の岩にしがみついているそうです。不味い貝です。普通には食べるものではない代物です。
亀の爪を食べていると、少年の頃聞いた島の娘の悲しい歌が実感として感じられるのです。
酔い醒ましに、暗い港通りを散歩すると、店も居酒屋も無く真っ暗な通りなのです。淋しげな波音だけが響いていて、通りが尽きた浜辺に「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、、、、」の野口雨情の記念碑が立っています。

4番目の写真は波浮の港の風景です。
波浮の港へ行ったのは3月の始めでした。町を歩いていると寒い夜風が吹き抜けて行きます。
もとの店へ戻り、もう一杯飲み暖まってから帰ることにしました。帰りは赤ん坊を連れた嫁が、軽乗用車で高台の宿まで送ってくれました。助手席に赤ん坊を乗せているので丁寧な運転です。道々、乳飲子の自慢話を聞かせてくれたのでこちらも明るい気分になりました。

5番目の写真は大島の南端にある波浮の港近辺の地図です。
私の行ったのが3月のせいで観光客が居ませんでした。しかし、夏には波浮の港も釣り客やダイビング客で賑わうそうです。

皆様、是非波浮の港へ泊まりに行って下さい。港通りのお寿司屋さんへも行って下さい。島寿司でなく普通の握りにしたほうが無難です。

それから大島ではレンタカーがお薦めです。波浮の港へはバスしかありません。レンタカーですと大島の海岸沿いを一周出来ます。三原山の火口近くまで車で登れます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人) 
===参考資料====================
(1)昭和の流行歌、「波浮の港」について、
https://ja.wikipedia.org/wiki/波浮の港
この流行歌はまだ大正時代だった1923年に野口雨情が発表した詞に、中山晋平が作曲した歌曲でした。
レコードは1928年5月に佐藤千夜子が日本ビクターから、その2ヶ月後の7月には藤原義江が同じくビクターから高額な赤盤レコードとして発売されます。
昭和初期の伊豆大島は、観光とは無縁の離島で、島の南東部にある波浮港村は、島の中心部の新島村からも三原山を挟んで反対側にあるわびしい漁村でした。
当時は東京からの船便もなく、雨情は現地には全く行かず、地図さえも確かめずに詩を書いたそうです。

歌詞
磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
明日の日和は ヤレホンニサ なぎるやら

船もせかれりゃ 出船の仕度
島の娘たちゃ 御神火暮らし
なじょな心で ヤレホンニサ いるのやら

島で暮らすにゃ 乏しゅうてならぬ
伊豆の伊東とは 郵便だより
下田港は ヤレホンニサ 風だより

風は潮風 御神火おろし
島の娘たちゃ 出船の時にゃ
船のとも綱 ヤレホンニサ 泣いて解く

磯の鵜の鳥ゃ 沖から磯へ
泣いて送らにゃ 出船もにぶる
明日も日和で ヤレホンニサ なぎるやら

(2)波浮の港の歌、
佐藤千夜子
https://www.youtube.com/watch?v=jL0-Va80y8A

藤原義江
https://www.youtube.com/watch?v=pF455p_Ocl8

「夢幻的な藤の花の咲く季節になりました」

2022年04月20日 | 写真
季節のうつろいは早いものです。ロウバイと梅が咲き、コブシ、白モクレンが咲き、桃、桜が満開になり春が過ぎ行きました。

最近は藤の花が咲き出して初夏のような日々がやってきました。
藤の花は実に夢幻的な淡い紫色で、眺めていると優しい気持ちになります。
嗚呼、いかにも日本的な色彩だとしみじみ思います。桐の花の色とも違いますが共に上品な香りがします。
藤は日本固有種です。縄文、弥生の古くから人々に愛されてきた花です。
万葉集では藤の花を藤波と言って数十の歌が詠われています。

私も藤の花が好きで栽培種と野生の藤の花の写真を沢山撮りました。
野生の藤は他の木に巻きついて大きく成長し山の新緑を一層美しく飾ります。山藤の蔓は上から見ると左回りで栽培種とは逆です。

今日はまず以前に撮った山梨県の甲斐駒岳の麓山藤の写真を3枚と栽培種の藤の花の写真を2枚をお送りします。





「中世戦国時代そのままのロシアの考え方」

2022年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム
どの人間も心の底には悪魔のような考えを多少持っています。しかし理性がそれを抑えています。ところがロシアの大衆はウクライナへの武力侵攻を命じたプーチン氏を支持しているのです。ロシア人の80%以上が武力侵攻を支持しているのです。これは21世紀に中世のヨーロッパの戦国時代そのままの考え方が生き返ったようです。武力で領土を拡大する戦国時代です。

1番目の写真はモスクワでのプーチン大統領を支持する大集会の写真す。

2番目の写真はモスクワでの大集会で大衆に感謝しているプーチン大統領です。

そこで今日は中世のヨーロッパの戦国時代はどのようなものだったかを書いてみたいと思います。
そのために中世の戦国時代に出来たドイツのローテンブルグの町の様子を例として取り上げます。ローテンブルグには私自身が1969年に3ケ月住んでいました。
ローテンブルグはドイツの中世のままで16世紀の町並が現在でも残っています。住んでいたローテンブルグの町の迷路のような路地裏を歩いていると自分が中世の人間になってこの町に暮らしているような気分になります。
そこで観察した中世のドイツの町の特徴を書いてみます。

(1)ドイツの中世の町は堅固な城壁に囲まれているのです。
ドイツでは商人だけでなく農民も城壁の中に住んでいて朝になると城門が開き、周囲の畑に出て農作業をします。そして夕方になると農民は城壁の内側に帰って、城門が固く締められるのです。

3番目の写真はローテンブルグの城門です。門の上の高い塔は敵襲を見張るための塔です。常に敵襲を見張っていたのです。自分で撮った写真です。

4番目の写真は城壁を内側から撮った写真です。自分で撮った写真です。
このように城壁の内側には町をぐるりと囲んで屋根のついた歩道が作られていました。中世にはこの歩道の上を衛兵が周回して攻めて来る敵を常に見張っていたのです。
(2)ドイツの中世の町は石造りです敵の侵攻に対して要塞のように作られておりました。
(3)中世の町では中心に必ず広場があり市役所があり、独立国として統治されていました。
市役所には市長を兼ねた領主がいて町を統治しています。広場には毎朝、野菜や食料品を売る市場になります。

5番目の写真はローテンブルグの中心にある広場の写真です。写真の左の建物が市役所で、そこには領主が住んでいました。
一方、人々の宗教の面倒をみる教会が必ずあります。プロテスタントのエバンジュレッシュ教会とカトリック教会が必ずあるのがドイツの町の特徴です。

このローテンブルグのような町があちこちにあり常に戦争をして領土を取り合っていたのです。それが中世の戦国時代です。
このような考え方がプーチン大統領の考え方です。ロシア人の80%以上の考え方なのです。
21世紀に中世のヨーロッパの戦国時代そのままの考え方が生き返ったようです。武力で領土を拡大する戦国時代です。プーチン大統領と80%以上のロシア人の大きな時代錯誤です。ウクライナ人にとって大きな悲劇です。
ロシアという国の悪逆ぶりに心が痛みます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「東京の観光(3)規模雄大な山岳道路、奥多摩周遊道路と奥多摩湖」

2022年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の観光地でお薦めしたいのは奥多摩です。その奥には奥多摩周遊道路があり下には奥多摩湖が輝いています。奥多摩周遊道路は大規模な山岳道路で奥多摩湖は都民の大切な水源です。
今日は奥多摩周遊道路と奥多摩湖をご紹介致します。
オートバイや4輪車でのツーリングが好きな人は意外に多いと思います。奥多摩周遊道路はそのアップ・ダウン、連続するヘアピンカーブの設計が絶妙で、ドライブする人々を楽しくさせています。奥多摩観光の重要なポイントなのです。
さらに途中にある「都民の森」は三頭山の斜面の森林を楽しむために遊歩道が四通八達しています。是非ご自分の足で1、2時間散策して頂きたい場所です。三頭山の登山路あり、ブナ林の道や探鳥の道、スポーツ歩道などさまざまな散策ルートがあります。また森林館にあるレストラン「とちの実」では美味しい蕎麦を出しています。見晴らしも良く、都内を朝出発すると昼食には丁度良い場所です。私も何度か風景を楽しみながら蕎麦を食べました。
車で行くには五日市街道で五日市に行ってさらに秋川街道で桧原村役場前を経由して数馬の里から奥多摩周遊道路に入ります。
逆に行く場合は奥多摩湖から周遊道路を登ります。今日は奥多摩湖から入って周遊道路をご案内致します。

1番目の写真は奥多摩湖です。奥多摩湖の写真の出典は、https://sotoasobi.net/3/13/24/blog/okutama-spot です。

2番目の写真は奥多摩湖の近景です。写真の出典は、https://sotoasobi.net/3/13/24/blog/okutama-spot です。

3番目の写真は奥多摩周遊道路の入り口です。
奥多摩周遊道路のヘアピンカーブを何度も折り返しながら登ると最初に有るのが月夜見第一駐車場です。そこからの風景が絶景です。

4番目の写真は月夜見第一駐車場からの風景です。遥かに奥多摩湖が碧く見えます。
この駐車場を出て少し登ると分水嶺の峠に至ります。手前は奥多摩湖へ注ぐ水流になり峠の向こうは桧原村の秋川へ流れています。峠を下ると次の写真に大きく出ているような「都民の森」の看板があります。

5番目の写真は「都民の森」の駐車場入り口です。
駐車場は無料で広いものです。都民の森は無料です。広大な山稜に広がる山林公園です。散策すると自然も素晴らしいし、中腹には森林館レストラン「とちの実」があり蕎麦が自慢です。
しばし都民の森を散策したら、周遊道路を秋川沿いに下ります。下ると「夢の滝」があります。その先が数馬の里の集落です。
数馬の里は昔風の桧原村の集落です。合掌作りに似た独特の家々があり不思議な雰囲気です。数馬の里には有名な山家料理の兜屋と三頭山荘があります。
数馬の里を下ると、中央高速道路の上野原ICへと続く峠越えの道への分岐点のある「人里」という名前の集落があります。普通は上野原へは出ないで五日市方面への道を取ります。
しばらく走って橘交差点を直進するとすぐに払沢の滝(ほっさわのたき)の入り口に出ます。
奥多摩周遊道路は奥多摩湖から払沢の滝の入り口まで、途中見物しなければ車で約60分位です。ただし、あちこち駐車して楽しみながら通ることを是非お勧めしたいのです。
平日の奥多摩は人がいなくて森閑とした実に静かな場所です。

今日は奥多摩周遊道路と奥多摩湖をご紹介致しました。東京の素晴らしい観光地です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

「山に咲いているいろいろなツツジの写真をお送りします」

2022年04月18日 | 写真
山梨県の甲斐駒岳の麓の山の雑木林を四季折々に歩くのが好きでした。
春に歩いていると思わぬ所に一本のツツジが華やかに咲いています。つい立ちつくして眺めいりました。

年老いて、もう歩けませんが懐かしい思い出です。そんなことを思いながら山に咲いているいろいろなツツジの写真をお送りします。

1番目の写真は山に咲いているミツバツツジです。
写真の出典は、https://pino330.com/archives/12264 です。

2番目の写真は郡馬屈指の名所の赤城山のツツジです。
写真の出典は、://we-love.gunma.jp/area/tsutsuji-week

3番目の写真は宮崎県の二上山のアケボノツツジです。
写真の出典は、://www.kojitusanso.jp/tozan-report/detail/?fm=3553

4番目の写真は箱根の「山のホテル」のいろいろなツツジの写真です。 写真の出典は、https://www.koubo.co.jp/contest/picture/tourism_photo/061776.html です。