初春の小金井公園の広々とした風景です。
南北朝時代の経緯ほど分かり難い歴史はありません。混沌として複雑怪奇です。
今日は私の理解した範囲で南北朝時代を簡略に説明し、その文化的創生を説明しようと思います。
南北朝時代は、歴史区分の一つで、鎌倉時代と室町時代に挟まれる時代です。始まりは、足利尊氏が京都で光明天皇を擁立したことです。これに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇が吉野行宮に遷った1337年を始めとします。
南北朝時代の終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した1392年です。55年間でした。
1番目の写真は北朝と南朝の天皇の名前を示した図面です。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) からの抜粋です。
鎌倉時代の後半から半世紀にわたって二つの家系から天皇を出すという不自然な形の皇位継承を繰り返していました。持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化していたのです。こては実質的な分裂でした。
それが京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存することになったのです。王権の完全な分裂状態です。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦いが起きます。
2番目の写真は数多くの合戦の様相を示す絵画です。
合戦は日本の各地でも起きました。守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れたのです。
南北朝時代の意義とは公家勢力のほぼ完全な無力化です。鎌倉幕府の前期は朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を持っていました。ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜します。
一方、北朝の公家も、室町幕府第3代将軍足利義満によって、警察権や民事裁判権などを次々と奪れていったのです。残ったのは足利将軍家を中心とする室町幕府と守護体制による強力な武家の支配機構だったのです。この経緯は次の2つの動画にあります。
3番目の写真は南北朝時代を説明した動画です。
(https://www.youtube.com/watch?v=PXWpS00ZsLg )
4番目の写真も南北朝時代を説明したもう一つの動画です。
(https://www.youtube.com/watch?v=EOeqZv2bD_U )
これらの動画が示すように南北朝時代にはいろいろな分野で変革が起きました。特に興味深い文化の分野での変革を以下に示します。
農業・商工・経済の発達によって、民衆の勢力が増し大衆文化が隆盛し、猿楽(能楽)・連歌]・闘茶(茶道の原型)・ばさら(かぶき者・歌舞伎の原型)などが生まれました。
宗教面では、古い寺社と結びつく南朝や公家勢力に対抗するために、室町幕府は新しく日本に輸入された仏教である禅宗を優遇し京都五山を定めたのです。
外交面では禅僧が中国事情に詳しかったことから、明との外交顧問を務めたのです。
学術面では儒学の新解釈である宋学が中国から輸入されるようになりました。
日本における数学は一時衰えていたが、鎌倉時代末期から南北朝時代には禅寺で再び学ばれるようになります。代表的数学者には臨済宗の中巌円月がおり、『治暦篇』に分数の使用や分数計算についての説明されました。江戸時代の角倉了以や吉田光由(『塵劫記』の著者)の数学知識は、禅寺での数学学習に端を発する可能性もあると言われています。
文芸面では漢詩が普及し、絶海中と義堂周信を双璧とする五山文学が禅林で隆盛しました。また禅僧春屋妙葩らにより五山版と呼ばれる木版印刷技術が最盛期を迎えたのです。
宋学の影響も文学に見られ、日本最大の叙事詩『太平記』はその頂点を為すものです。
芸術面では禅の思想が実体に反映されるようになり、禅庭が完成されました。夢窓疎石の天龍寺庭園(1339年)と西芳寺庭園(1339年)は世界遺産に登録されています。
さらに、連歌の完成者二条良基や能楽の完成者世阿弥らによって、それまでは仏教思想の一部であった「幽玄」が、日本芸術の審美的理想として捉えられるようになったのです。
以上のように南北朝時代は農業生産力から芸術の美意識まで全ての分野において、新しい日本文化を生むことになったのです。南北朝時代の混沌が新しい文化の創生にまったのです。
今日は私の理解した範囲で南北朝時代を簡略に説明し、その文化的創を説明しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日は私の理解した範囲で南北朝時代を簡略に説明し、その文化的創生を説明しようと思います。
南北朝時代は、歴史区分の一つで、鎌倉時代と室町時代に挟まれる時代です。始まりは、足利尊氏が京都で光明天皇を擁立したことです。これに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇が吉野行宮に遷った1337年を始めとします。
南北朝時代の終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した1392年です。55年間でした。
1番目の写真は北朝と南朝の天皇の名前を示した図面です。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) からの抜粋です。
鎌倉時代の後半から半世紀にわたって二つの家系から天皇を出すという不自然な形の皇位継承を繰り返していました。持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化していたのです。こては実質的な分裂でした。
それが京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存することになったのです。王権の完全な分裂状態です。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦いが起きます。
2番目の写真は数多くの合戦の様相を示す絵画です。
合戦は日本の各地でも起きました。守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れたのです。
南北朝時代の意義とは公家勢力のほぼ完全な無力化です。鎌倉幕府の前期は朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を持っていました。ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜します。
一方、北朝の公家も、室町幕府第3代将軍足利義満によって、警察権や民事裁判権などを次々と奪れていったのです。残ったのは足利将軍家を中心とする室町幕府と守護体制による強力な武家の支配機構だったのです。この経緯は次の2つの動画にあります。
3番目の写真は南北朝時代を説明した動画です。
(https://www.youtube.com/watch?v=PXWpS00ZsLg )
4番目の写真も南北朝時代を説明したもう一つの動画です。
(https://www.youtube.com/watch?v=EOeqZv2bD_U )
これらの動画が示すように南北朝時代にはいろいろな分野で変革が起きました。特に興味深い文化の分野での変革を以下に示します。
農業・商工・経済の発達によって、民衆の勢力が増し大衆文化が隆盛し、猿楽(能楽)・連歌]・闘茶(茶道の原型)・ばさら(かぶき者・歌舞伎の原型)などが生まれました。
宗教面では、古い寺社と結びつく南朝や公家勢力に対抗するために、室町幕府は新しく日本に輸入された仏教である禅宗を優遇し京都五山を定めたのです。
外交面では禅僧が中国事情に詳しかったことから、明との外交顧問を務めたのです。
学術面では儒学の新解釈である宋学が中国から輸入されるようになりました。
日本における数学は一時衰えていたが、鎌倉時代末期から南北朝時代には禅寺で再び学ばれるようになります。代表的数学者には臨済宗の中巌円月がおり、『治暦篇』に分数の使用や分数計算についての説明されました。江戸時代の角倉了以や吉田光由(『塵劫記』の著者)の数学知識は、禅寺での数学学習に端を発する可能性もあると言われています。
文芸面では漢詩が普及し、絶海中と義堂周信を双璧とする五山文学が禅林で隆盛しました。また禅僧春屋妙葩らにより五山版と呼ばれる木版印刷技術が最盛期を迎えたのです。
宋学の影響も文学に見られ、日本最大の叙事詩『太平記』はその頂点を為すものです。
芸術面では禅の思想が実体に反映されるようになり、禅庭が完成されました。夢窓疎石の天龍寺庭園(1339年)と西芳寺庭園(1339年)は世界遺産に登録されています。
さらに、連歌の完成者二条良基や能楽の完成者世阿弥らによって、それまでは仏教思想の一部であった「幽玄」が、日本芸術の審美的理想として捉えられるようになったのです。
以上のように南北朝時代は農業生産力から芸術の美意識まで全ての分野において、新しい日本文化を生むことになったのです。南北朝時代の混沌が新しい文化の創生にまったのです。
今日は私の理解した範囲で南北朝時代を簡略に説明し、その文化的創を説明しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
日本の各地の神社の正月風景の4写真をお送り致します。
写真は「日本の正月風景」を検索して出て来た沢山の写真からめでたい雰囲気の写真を選びました。
写真は「日本の正月風景」を検索して出て来た沢山の写真からめでたい雰囲気の写真を選びました。
吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある弥生時代の遺跡です。この遺跡は弥生時代の人々の生活を具体的に示す貴重な遺跡です。部落の間の戦いの様相も示しています。吉野ヶ里遺跡の特徴は集落同士の戦いの防御の備えを持った遺構であることです。
弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなります。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施されています。
大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられています。北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と呼ばれています。
弥生時代の竪穴建物、祭祀のための高床建物などがあります。祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂なども内郭の中で見つかっています。また、食料を保管する高床倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡なども発掘されました。
多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられます。
発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、当時の戦いのすさまじさが見てとれます。また、ガラス製の管玉などの装飾品が一緒に埋葬されたものも多く見つかっています。
多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土しています。勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなど沢山の遺物が出て来ました。1998年には銅鐸も遺跡の周辺部で発見されました。
この貴重な吉野ヶ里遺跡の写真を示します。
1番目の写真は主祭祀殿と王の家です。
2番目の写真は共同で煮炊きを行うための建物です。
吉野ヶ里遺跡では竪穴住居内の炉から煮炊きをした痕跡が見つかっていません。南内郭では竪穴住居の脇に小型の掘立柱建物が数棟見つかっており、これが共同で煮炊きを行うための建物であったと考えられています。
3番目の写真は高床式の穀類の倉です。
4番目の写真は吉野ケ里遺跡から出土した多数の生活用具です。
5番目の写真は吉野ケ里遺跡から出土した甕棺です。
弥生時代の終わりは3世紀頃です。3世紀は「古墳時代」の始めでもあります。邪馬台国では男子はみな顔や体に入墨を施していなました、人々は朱や丹を体に塗っていました。そして男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっていて女子はざんばら髪でした。着物は幅広い布を横で結び合わせているだけでした。
吉野ケ里に住んでいた当時の人々はそんな暮らしをしていたのです。
さて最後に稲作が始まった弥生時代の吉野ケ里遺跡を総括しておきます。
弥生時代になると紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになったと考えられます。
初期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始めました。また、南のほうの集落に環濠が出現します。
中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現すます。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっていきます。
また墳丘墓や甕棺が多く見られるようになります。大きな墳丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い墳丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されています。14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化します。3世紀ごろには集落は最盛期を迎えました。
後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎えたのです。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られます。
甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測されます。
吉野ヶ里墳丘墓のルーツは、朝鮮半島を経由せずに中国江南もしくは山東半島から北部九州に直接伝わったとする研究があります。吉野ヶ里遺跡は中国とも関係があったのかも知れません。
今日は稲作の始まった弥生時代の代表的な遺跡として有名な吉野ヶ里遺跡をごご紹介いたしました。縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代と続く、その中の弥生時代の人々の生活の様子をご紹介いたしました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなります。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施されています。
大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられています。北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と呼ばれています。
弥生時代の竪穴建物、祭祀のための高床建物などがあります。祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂なども内郭の中で見つかっています。また、食料を保管する高床倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡なども発掘されました。
多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられます。
発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、当時の戦いのすさまじさが見てとれます。また、ガラス製の管玉などの装飾品が一緒に埋葬されたものも多く見つかっています。
多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土しています。勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなど沢山の遺物が出て来ました。1998年には銅鐸も遺跡の周辺部で発見されました。
この貴重な吉野ヶ里遺跡の写真を示します。
1番目の写真は主祭祀殿と王の家です。
2番目の写真は共同で煮炊きを行うための建物です。
吉野ヶ里遺跡では竪穴住居内の炉から煮炊きをした痕跡が見つかっていません。南内郭では竪穴住居の脇に小型の掘立柱建物が数棟見つかっており、これが共同で煮炊きを行うための建物であったと考えられています。
3番目の写真は高床式の穀類の倉です。
4番目の写真は吉野ケ里遺跡から出土した多数の生活用具です。
5番目の写真は吉野ケ里遺跡から出土した甕棺です。
弥生時代の終わりは3世紀頃です。3世紀は「古墳時代」の始めでもあります。邪馬台国では男子はみな顔や体に入墨を施していなました、人々は朱や丹を体に塗っていました。そして男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっていて女子はざんばら髪でした。着物は幅広い布を横で結び合わせているだけでした。
吉野ケ里に住んでいた当時の人々はそんな暮らしをしていたのです。
さて最後に稲作が始まった弥生時代の吉野ケ里遺跡を総括しておきます。
弥生時代になると紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになったと考えられます。
初期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始めました。また、南のほうの集落に環濠が出現します。
中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現すます。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっていきます。
また墳丘墓や甕棺が多く見られるようになります。大きな墳丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い墳丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されています。14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化します。3世紀ごろには集落は最盛期を迎えました。
後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎えたのです。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られます。
甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測されます。
吉野ヶ里墳丘墓のルーツは、朝鮮半島を経由せずに中国江南もしくは山東半島から北部九州に直接伝わったとする研究があります。吉野ヶ里遺跡は中国とも関係があったのかも知れません。
今日は稲作の始まった弥生時代の代表的な遺跡として有名な吉野ヶ里遺跡をごご紹介いたしました。縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代と続く、その中の弥生時代の人々の生活の様子をご紹介いたしました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
カトリック教会、2023年元旦のミサ動画配信は以下の通りです。
2023年 元日 10時『神の母聖マリアの主日』のミサ
カトリック関口教会、
https://www.youtube.com/watch?v=3vFOo-MvtKk
聖イグナチオ教会
https://www.youtube.com/watch?v=u8wzAUf8O-M
今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
写真はローマのバチカンにあるサンピエトロ寺院です。サン・ピエトロ大聖堂はカトリックの本山です。創建は4世紀。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものです。
後の3枚の写真は今日の関口教会のミサ風景です。
2023年 元日 10時『神の母聖マリアの主日』のミサ
カトリック関口教会、
https://www.youtube.com/watch?v=3vFOo-MvtKk
聖イグナチオ教会
https://www.youtube.com/watch?v=u8wzAUf8O-M
今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
写真はローマのバチカンにあるサンピエトロ寺院です。サン・ピエトロ大聖堂はカトリックの本山です。創建は4世紀。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものです。
後の3枚の写真は今日の関口教会のミサ風景です。