後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の歴史(13)神武天皇と皇国史観の噓」

2023年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の高齢者は学校の歴史教育で神武天皇が日本という国を造り、神武天皇が初代の天皇だと教わりました。天皇が権力者になった奈良時代に書かれた日本書紀にそう書かれているのです。そして神武天皇の即位年は紀元前660年2月11日と考えられています。縄文時代の終わり頃です。
こういう日本書紀の記述は皇国史観というものです。
今日は神武天皇は架空の存在で皇国史観はまったくの噓であることを書きたいと思います。昔学校で神武天皇が日本を造ったと習ったので懐かしいのです。嘘でも懐かしい「神話」なので書きたいのです。以下は日本書紀に描かれている神話です。
(1)神武天皇の生まれた場所
神武天皇は九州の筑紫のくにの日向の高天ヶ原生まれました。
神武天皇は天照大御神の孫です。彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)と玉依姫(たまよりびめ)の第四子として生まれたのです。『日本書紀』では兄に彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命がいるというのです。彦波瀲武鸕鶿草葺不合命は万葉仮名です。
そして神武天皇は15歳で立太子になります。現在の成人式に相当するのが立太子です。
吾平津媛を妃として手研耳命を生みました。
(2)神武天皇の東征と大和での即位
45歳のときに兄や子を集め東征を開始します。日向から宇佐、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え大和国を占領しました。
その大和では畝傍山の東南にある橿原の地に都を開いたのです。そして媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とし、翌年に即位して初代天皇に成ったのです。『日本書紀』に基づく明治時代の計算によると即位日は西暦紀元前660年2月11日です。
現在日本では2月11日が建国の日として祝日になっております。神話に基づく祝日なのです。
そして神武天皇は76歳で崩御します。
(3)神武天皇に関連した写真
以上は神話です。まったく架空の話です。しかし日本人はこの架空の神話が好きです。私も昔学校で習って懐かしい話です。そこで神武天皇に関連した写真をお送りしたいと思います写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87#%E8%80%83%E8%A8%BC です。

1番目の写真は『神武天皇御尊像』です。1940年(昭和15年)の北蓮蔵画です。

2番目の写真は大和にある橿原神宮です。

3番目の写真は奈良県橿原市にある神武天皇の畝傍山東北陵です。架空の人物でもこんな立派なお墓があるのです。

さて現在の「建国記念の日」は昔は紀元節でした。私は終戦前の国民学校での紀元節の式典を憶えています。校長先生が意味不明の勅語を読みます。我慢して聞いていると・・御名御璽。で終わります。紅白の饅頭を貰って、その日の学校は終わりです。早く学校が終わるのでその後はゆっくり遊べるのでした。子供にとって紀元節は楽しい思い出です。

しかし明治維新以来、「皇国史観」が富国強兵の思想的な背景になっていたのです。「皇国史観」に影響をうけた教育では国民は天皇陛下にために命を捧げることは尊いことだと教えました。兵は戦死する時、「天皇陛下万歳」と叫べと教えたのです。
暗い話になったので、このへんで止めます。

今日は架空の神武天皇と皇国史観にまつわる思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「自由に花が摘める房総の花畑の写真」

2023年01月09日 | 写真
自由に花が摘めることは実に楽しいものです。何年か前に私どもも房総で体験しました。家内が少女に戻ったよぅに嬉々として、いろいろな花を摘んでいました。花畑の持ち主へお金を少々はらいます。 楽しい思い出です。
写真の出典は、https://bosotown.com/archives/22321 です。

「日本の歴史(12)理解不可能な応仁の乱しかしその影響は歴然」

2023年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム
応仁の乱は室町時代に起き11年間続いた大きな内乱でした。敵味方が複雑に入り乱れ、その経過を私は明快に理解できないのです。しかし応仁の乱の影響だけは歴然としています。応仁の乱の結果として「戦国時代」が始まったのです。応仁の乱で新しい時代が始まったのです。日本の歴史で無視出来ない大事件でした。
ですから大学の入試問題に、「応仁の乱を説明せよ」という問題がしばしば出ます。合格点の答えは次のようです。
応仁の乱とは室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した内乱です。
室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏がそれぞれの家督争いに端を発し、幕府を東西2つに分ける大乱となったのです。そして日本中の地方豪族が自分の利害をかけて戦争をした大規模な内乱でした。主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃しました。

1番目の写真は応仁元年(1467年)の勢力図です。水色は東軍です。黄色は:西軍です。黄緑は両軍伯仲の地です。この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1#%E7%B5%8C%E9%81%8E です。
1番目の写真を丁寧に見ていくと私は頭が痛くなります。あまりにも複雑な図面です。そこで応仁の乱の経過を正確に理解することを諦めました。
しかし応仁の乱の結果、日本中がどのように変革そしたか理解出来ます。結果は歴然としているのです。以下に応仁の乱の結果を幾つか示します。

(1)下剋上と幕府・守護権力の変化
応仁の乱により守護家に迫る勢力を有する国人(国衆)が台頭しました。また、東西両軍は味方を得るために家の格を問わず誰でも入れたのです。西軍は一介の国人であった人を大和守護に任命し、東軍は位の低い人を越前守護につけたのです。下層の人々が権力者になり上がったのです。下剋上です。
文明7年、足利義政が「諸国の御沙汰は毎事力法量(諸国の沙汰は力次第である)」と述べ、守護が他国を侵略することも是認しいたのです。このため室町幕府の家格秩序は完全に崩壊し、身分秩序が流動化することになったのです。
結果として国人や家臣は自らの地盤を固め、領主化していったのです。

(2)公家の没落
領主化を推進する守護や国人によって、公家や寺社の荘園は横領されました。さらに幕府の権威低下により、遠国など幕府の権力が届かない地域の荘園・国衙領支配は絶望的になります。荘園制度の崩壊が加速したのです。
収入を断たれた公家は没落し、朝廷行事や官位昇進への興味も失ってしまいます。 更に朝廷収入も激減し、即位礼や大喪の礼などの儀式を行うことも困難となったのです。このため戦国時代には献金による売官が行われるようになりました。

(3)京都の被害と荒廃

文明2年頃には戦火で京都の寺社や公家・武家邸の大半が消失しました。免れたのは土御門内裏などわずかでした。このため、歴史的資料の多くが失われました。また京都七口関は両軍の争奪戦となり、物資の流入も停滞します。さらに足軽の放火・略奪が追い打ちをかけ、京都の大半の人々は大いに困窮しました。また文明5年には疫病が流行します。
・・・「汝(なれ)や知る 都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)あがるを見るも 落つる涙はーー飯尾常房ーー

(4)京都の復活と周辺都市の繁盛
応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆は京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった周辺都市や地方の所領などに疎開していった。これが周辺都市の繁盛をもたらしたのです。
応仁の乱後の文明11年(1479年)に室町殿や内裏の造営が開始されます。しかし京都の荒廃によって疫病や火災、盗賊、一揆などの発生が頻発したのです。このため京都の再建は順調ではなっかったのです。
明応9年の祇園祭の前後数年間が京都の本格的な復興期と考えられます。

(5)戦術の変化と足軽の活躍
応仁の乱の戦いで特徴的とされるものは正規の武士身分ではない足軽の活躍です。それまでは正規の武士が少数の従卒による小グループを率いて騎射を主体に戦っていましたが、兵力不足に悩んだ両軍は足軽を大量に雇い入れ、戦力に加えたのです。
主力武器も個人戦に適しした薙刀から、足軽による集団戦に適した槍へと移行しました。
東軍の足軽大将の骨皮道賢や西軍の御厨子某は後方攪乱として足軽によるゲリラ戦を行って名を上げました。
足軽は盗賊などの無法者を多く含んでおり、高い自立性を持っていました。彼らは市街の放火や略奪を頻繁に行ったのです。

以上のように応仁の乱は下剋上によって日本の社会を根底から変革したのです。応仁の乱の結果として「戦国時代」が始まったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の歴史(11)小豪族が信玄へ出した起請文の過酷さ」

2023年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
武田信玄が支配下の小豪族に書かせた忠誠を誓う文書を見ました。信玄の厳しさ,非情さに心が氷ります。戦国時代の過酷さが身に迫ります。
その83通の起請文は上田市の生島足島神社に展示してあります。起請文と内容は学校教育では教えません。
私は小さな領主達237人に無理やり書かせた忠誠を誓う文書(起請文)の中の83通の実物を見た時の驚きが忘れられません。
以前に上田から別所温泉へ向かう途中にある生島足島神社で展示、公開しているものを見たのです。
起請文の文章は稚拙です。信玄の悪口を言いません。命令通り戦に参加します。などなど余りにも具体的なことが細々と下手な字で書いてあります。
書いた人は群馬県、長野県、山梨県の小さな在地
豪族達です。国人とか国衆と呼ばれる末端の支配階級です。平安末期から鎌倉時代にかけて全国に雨後の竹の子のように増え、農民を支配した地方の豪族たちです。小規模ながら武力集団を持っていて、大きな戦国大名へ適当に服従し合戦で手柄を上げ、褒美の領地を少し貰うのです。
負けそうな戦国大名に従うと悲劇に見舞われます。ですから信玄へ賭けるのも必死です。起請文のせつせつとした文章が痛々しく感じました。

こうして集めた国衆(領主)とその部下達を引き連れて信玄は川中島で数度にわたって上杉謙信と戦ったのです。雌雄が決まらないのも国衆の逃げ腰の戦いぶりによるようです。起請文を無理に書かせた武田信玄の弱味が伺えて興味深いものでした。
それでは関連の写真と参考資料を示します。

1番目の写真は上田市にある生島足島神社です。

2番目の写真は生島足島神社は池囲まれれています。本殿へはこの橋を渡ります。

3番目の写真は生島足島神社の本殿です。これ以降は家内が撮った写真です。

4番目の写真は本殿の横にある83通の起請文の展示場です。

5番目の写真は起請文の一例です。
現代語訳は次の通りです。
===================================
謹んで起請文を申し上げます。

一これ以前に捧げ奉った数通の誓詞(起請文)の文言について、一字たりとも相違するようなことは致しません。

一甲州・信州の二州が、ことごとく敵になっても、私は絶対に武田信玄様をお守り申し上げて、忠節を尽くします。

一村上義清、長尾輝虎(上杉謙信)以下の敵方より、どんな利益をもって誘われても、敵方には、同意致しません。ならびに、これらの敵方から何か申し入れがあれば、大小にかかわらず、隠さずに報告敦します。

一信州衆の中で、武田信玄様への謀反の企てを聞いたなら、実否に関係なく、急いで報告ほうこく致します。

一特に、敵方の屋代・室賀・大日方とは交際、ならびに、公儀のもろもろの交際のほかは、個人的な交際を決して致しません。

一右の趣は、決して他言たごん致しません。

この旨に偽るようなことがあれば、上は梵天・帝釈・四大天王・内海外海龍神など、飯綱・戸隠、甲州一二三大明神・御嶽おんたけ権現の天罰を蒙って、現世においてほ難病にとりつかれ、来世においては無間地獄におちることになります。起請文以上。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
天文22年(1553年)、東信濃を攻略した武田信玄はまず生島足島神社に社領安堵状を捧げ、さらに永禄2年(1559年)再び当神社に願文を捧げ、越後の雄・上杉謙信との戦いに勝利するよう祈願しました。この2年後に川中島の大合戦が行なわれています。

信玄は信濃の大半を勢力下に置いた永禄9年・10年(1566年~1567年)に信濃はもちろん、甲斐や上野の武将達を当神社に集め、神前で忠誠を誓わせました。そのときの誓いの文書(起請文)が当神社に83通残されており、国の重要文化財に指定されています。境内の歌舞伎舞台(県宝)で展示公開しています。

それにしても400年以上も前の文書が展示してあるのには驚きました。内容が生生しく戦国時代の厳しい雰囲気を伝えているのです。国の重要文化財に指定されているのも当然です。
です。是非、上田市に行って実物をご覧下さい。

====参考資料=====================
なお国人、国衆の説明をしておきます。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA )
国人は、平安時代中期に成立した後期王朝国家体制の下で荘園と公領の管理者となった荘官・郡司・郷司・保司の階層や、そこに出自することの多かった鎌倉時代以降の地頭の系譜を引く在国の領主の一般的呼称で、同時代的に使われた資料用語である。幕府や守護、荘園領主など外部の支配層に対抗する在地勢力の意味で使われ、独自の領域支配をめざした。

「国人」という呼称は、「在地に居住した惣領を中心に独自の勢力を持つ武士」を指す言葉として、鎌倉時代から散見される。彼らの直接の源流は鎌倉時代の地頭職の武士にあり、そうした武士たちが土着し、在地領主となったものである。鎌倉時代には、支配層に反抗する者の意味を含む「悪党」という名で呼ばれることもあった。

「カトリック教会、2023年1月8日の『主の公現の祝日』ミサ動画配信」

2023年01月08日 | 日記
カトリック教会、2023年1月8日の『主の公現の祝日』のミサ動画配信は以下の通りです。

2023年  1月8日 10時のミサ

カトリック関口教会、
https://www.youtube.com/watch?v=sGVCFH2GpZM

聖イグナチオ教会
https://www.youtube.com/watch?v=NdTgL8cXhkw

今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真はローマのバチカンにあるサンピエトロ寺院です。サン・ピエトロ大聖堂はカトリックの本山です。創建は4世紀。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものです。

「日本の歴史(10)彗星のように突然輝き消え去った奥州藤原氏」

2023年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム
この「日本の歴史」と題する連載記事では中央の権力者ではなく地方、地方の人々の歴史を中心にして書きすすめてます。
今日は彗星のように突然輝き、そして消え去った奥州の藤原氏4代の話を書きたいと思います。
豪族の藤原氏は平安末期、鎌倉初期に現在の東北地方のほぼ全体を平定し領有しました。
正確に言うと藤原氏は寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの102年間、岩手県の平泉を中心に現在の東北地方一帯に勢力を張った豪族だったのです。
初代の藤原清衡(きよひら)から始まり、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)、泰衡(やすひら)と4代続きましたが、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝に攻められて滅亡しました。源義経をかくまったのが征伐の口実になったのでした。
藤原氏の支配の確立は下記に詳しく説明されています。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F
清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かしませんでした。そのため朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認したのです。その上、奥州藤原氏は中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩さなかったです。
奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立していたのです。
この奥州藤原氏が平泉文化を隆盛させたのです。
その結果、中尊寺を中心にして平泉文化は、「平泉の文化遺産」として2011年に世界遺産に登録されました。 「中尊寺金色堂」も国宝建造物第1号と1951年に認定されています。
平泉には17院により構成される天台宗の寺院があります。嘉祥3年(850年)に慈覚大師円仁によって開山されたと伝えられます。その後、奥州藤原氏が再建し平泉文化を華やかなものにしたのです。
それでは写真で平泉文化をご紹介したいと思います。写真の出典は、
https://www.viewtabi.jp/articles/17122101 です。

1番目の写真は国宝の「中尊寺金色堂」 の全体写真です。私は1958年に初めて見た時はみすぼらしいお堂だなとガッカリしました。しかしこれは鞘堂で、中に入ると燦然と輝く阿弥陀堂があったのです。

2番目の写真は1124年に藤原清衡が建立した阿弥陀堂 です。「五月雨の降り残してや光堂(ひかりどう)」松尾芭蕉 。光堂は文字通りまばやく輝いていました。成程、国宝だと思いました。中尊寺には金色堂をはじめとして約3,000点もの文化財があり讃衡蔵(さんこうぞう)と呼ばれる宝物館に一部が展示されています。

3番目の写真はは重要文化財に指定されている平泉の白山神社の能舞台 です。近世能舞台遺構としては東日本で唯一の能舞台です。

4番目の写真は平泉の毛越寺庭園 です。「毛越寺庭園」は奥州藤原氏が仏の浄土をこの世に再現しようとして造ったものです。 私は1958年にこの広い池の回りをゆっくり歩きながら無常感をおぼえていました。荒れた庭園以外何も無いのです。豪華な毛越寺が跡形も無く消え失せているのです。

5番目の写真は801年に征夷大将軍の坂上田村麿が創建したと伝えられる平泉の達谷窟毘沙門堂 です。自然の洞窟を覆うように建てられた懸崖造りの御堂で す。

6番目の写真は平泉の近くにある厳美渓(げんびけい)です。 この渓谷は後に家内と一緒に行きました。

7番目の写真は厳美渓の遊覧船です。12月~2月末はこたつ舟が出ているので寒い時期でも舟下りを楽しめます。藤原一族らもこの景観を楽しんだのでしょう。

さて東北地方は弥生時代以降も続縄文文化や擦文文化に属する人々が住むなど、関東以南とは異なる歴史をたどりました。中央政権の支配も関東以南ほど強くは及んでいなかったのです。律令制の時代には陸奥国と出羽国が置かれ、蝦夷(えみし)系の人々と関東以南から移住して来た人々が入り混じって生活していたのです。
そんな東北地方で11世紀半ば有力な豪族は陸奥国の安倍氏と、出羽国の清原氏でした。そして両者の間で複雑な合戦が続きます。
その結末として両豪族が滅亡し藤原清衡だけが生き残ったのです。清衡の突然の幸運です。藤原清衡はあっという間に残存兵を撃ち負かせ全奥州の支配者になったのです。それは彗星の現れと耀きのようでした。
しかしその輝きも102年だけで消えてしまったのです。僅かに4代続いただけで藤原氏は完全に滅亡したのです。その平泉文化は102年間の儚い夢でした。

今日は「日本の歴史」の(10)として、彗星のように突然輝き、そして消え去った奥州藤原氏のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「熱海梅園の梅まつり 2023年」

2023年01月06日 | 写真
熱海梅園は、日本一開花が早いといわれる梅を楽しむことができる場所です。
59品種472本の梅が咲き誇る梅林の景色を見るために満開の時期には全国から多くの人たちが訪れます。
梅まつりも開催されています。
開催期間:2023年1月7日(土)から3月5日(日)
詳しくは、https://iwalkedblog.com/?p=26219 をご覧下さい。

「日本の歴史(9)2万年前の無土器、旧石器時代の人々の暮らし」

2023年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム
日本に人間が住んでいた確かな証拠は人の手で加工された石器です。それが多数、確実に出土するのは2万年、3万年前からの物です。それ以前の石器も少数ながら出土しているのでまあ大雑把に言えば4万年前から人間が住んでいたと考えても大きな間違いがないようです。すると以下のような時代区分が出来ます。
旧石器時代 –約4万年前ー 紀元前14000年頃 (16000年前)
縄文時代 前14000年頃 – 前3世紀頃
弥生時代 前3世紀頃 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年
この年代区分が仮に正しいとすると旧石器時代が約24000年間、そして縄文時代が約14000年間(正確には13700年間)も続いていたことになります。その後の歴史はたかだか2000年しかありません。
旧石器時代と、縄文時代と呼ばれる新石器時代の合計約38000年間がとてつもなく長い期間だったことがお分かり頂だけると思います。

ここで思いをはせて頂きたいのは旧石器時代には土器が一切無かった事実です。人々は獣肉やキノコなどを焚火で焼いて食べることは出来ても、木の実や食用の植物は煮ることが出来なかったのです。
土器の鍋や蒸し器が出来るまでの日常生活の不便さは想像にあまりあります。人々はそんな暮らしをしていたのです。
日本の旧石器時代の人々は定住していないで獲物の獲れる場所をさまよいながら焚火で獣肉を焼いて食べていたのです。
しかし近年の研究により旧石器時代の住居跡が幾つか発見されているのです。
関西では大阪府南東部の藤井寺市の「はさみやま遺跡」があり、関東では神奈川県の相模原市の「田名向原遺跡」があります。両方とも珍しい旧石器時代の遺跡です。
私は近くの相模原市の田名向原展示館に何度も通い旧石器時代の人々の生活の実態が少し分かりました。

以下に旧石器時代の人々の生活の概略を示します。
相模原市では考古学的な遺跡が多く発掘されており、特に相模川の岸の、田名向原、塩田、谷原、東原などの地域は驚くべき考古学的史跡の宝庫なのです。
そして相模原市の遺跡からは20000年前の旧石器時代の住居跡も発見されたのです。
この旧石器時代の住居跡の発見は特別な大発見です。特別な理由を簡略に以下に書きます。
戦前の学説では、日本の歴史は縄文時代に始まり、それ以前の旧石器時代は無かったと長い間思われていました。それが終戦直後の「岩宿遺跡」の発見で数万年前にさかのぼる旧石器時代の存在が証明されたのです。
それ以来急に旧石器時代の発掘研究が盛んになりましたが住居跡だけは発見されませんでした。従って石器時代では人々は定住しないで狩猟と採集の生活をしていたと考えられていたのです。
それが平成になってから事情が急変したのです。
各地の自治体が行う土木工事の前に、注意深い科学的な発掘調査をするようになったのです。
その成果として日本各地から黒曜石などを用いた精巧な石器が多数出て来ました。
石器の出た地層の精密な年代調査と炭素同位体の分析から、出土した石器は4万年から縄文時代が始まる16000年前までの後期旧石器時代のものと証明されているのです。
現在、少なくとも4万年前から16000年前まで続いた旧跡時代が日本に存在した事実を疑う人はいません。
住居跡が見つかっていないので旧石器時代には人間は家も造らず、定住もしていなかったという学説が広く信じられていたのです。
しかしこの学説は間違っていたのです。
少なくとも20000年前の住居跡が相模原市で発見され、相模原市の特別な歴史園に復元、公開されています。そしてその発掘の詳しい経緯は隣接する旧石器時代学習館に示してあります。
考古学を趣味としている私は何度もこの20000年前の旧石器時代の住居の復元模型を見て感動していました。
行ってみると其処は相模川の東側の岸辺でその向こうに丹沢連山が見えています。下の写真がその相模川です。

1番目の写真は相模原市の特別な歴史園の西を流れる相模川です。
ここ田名向原展示館の付近は相模川中流で、考古学的史跡が3層、4層と住居跡や古墳が集中して存在しています。

2番目の写真は2万年前の石器時代の住居跡を復元したものを示します。
この写真では平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡が見えます。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが旧跡時代の住居跡なのです。
年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。

3番目の写真は上の層に重なってあった5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。
その詳細は末尾の参考資料にあります。ご興味のある方はご覧下さい。

それでは石器時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか?
田名向原の展示館にある絵画で人々の狩猟や採集の様子と獣皮で屋根を作った住居の前で作業している人の様子などを示します。

4番目の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子を示しています。

5番目の写真は旧石器時代の男性が石器の穂先をつけた槍を構えている様子を示しています。

6番目の写真は大ツノシカを数人で囲んで倒している様子を示しています。

7番目の写真は2人の男が獣の皮をなめしている様子を示しています。後ろの竪穴住居の屋根はなめした獣の皮で葺いてあります。

8番目の写真は旧石器時代に日本に棲んでいた動物を示しています。大ツノシカとイノシシがよく食べられていたようです。
これらの写真を見るとこの地域の約2万年前の人々の生活の実態が少しだけ分かります。
このような生活のスタイルは、縄文時代、弥生時代、古墳時代になっても奥深い地方の人々は、ほとんど同じようだったと想像出来ます。その一方、支配階級の人々の生活は時代が進むと大きく変わっていったと思います。
円形の掘っ立て小屋に住み、土器や木製の農具を使い、石器も相変わらず使っていたに違いありません。青銅器や鉄の道具は高価過ぎて支配階級の人々しか使えなかったのです。
石器は安価で簡単に作られる道具だったに違いありません。弥生時代や古墳時代になっても鉄器は高価だったので農民は平らな石に木の柄を着けた鍬も使っていたと想像出来ます。
学校の歴史では豪族や朝廷や権力者の様子を教えますが、一般の人々を暮らしは違うのです。人々の暮らし方の実際を知ることも重要と思います。

今日は2万年前の無土器、旧石器時代の人々の暮らしの様子をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料:関連記事の紹介============
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」

はさみやま遺跡:
はさみ山遺跡は、大阪府南東部の藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっており、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘に立地する。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっている。この遺跡は、1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に新たに発見されたものである。以後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による調査が続いてきた。
後期旧石器時代の住居跡:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本であったと推定されている。なお、柱穴は円をなして並び、各柱穴がその円の中心に向かって斜めに掘られており、これに木を差し込むと上方でその中心に集まる角度になっていた。すなわち、直径約6mの円錐形の竪穴住居が復元できる。遺物としては、紀元前2万年頃のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。
なお、住居跡とは沢をはさんだ東側から径270cm×160cmの楕円形状の土坑が見つかっている。これは墓(土坑墓)ではないかと推定されている。

「滄浪泉園の巨木の写真を撮ってきた」

2023年01月05日 | 写真
「滄浪泉園」は明治時代に三井財閥・三井銀行の役員や政治家として活躍した波多野承五郎の別荘でした。庭園の命名は元首相・犬養毅です。現在は小金井市の市民公園として100円の入園料で一般公開されています。

東京都は敷地を買収して、1977年に都市緑地保全法に基づく「緑地保全地区」に指定した上で、「自然緑地」として小金井市に滄浪泉園の管理を委ねました。分かり易く言えば滄浪泉園は東京都が所有してますが管理は小金井市がしているということです。

なかなか素晴らしい庭園です。是非訪問なさって下さい。小金井駅から西南方向へ徒歩}10分くらいです。

「日本の歴史(8)領民を本当に愛した大名、上杉鷹山の人間性」」

2023年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム
上杉鷹山は江戸時代の中頃の米沢藩の藩主でした。領民を本当に愛した大名でした。
私は10年ほど前に山形県の米沢市にある上杉鷹山神社へ行きました。そして実に不思議な体験をしました。境内の中を『愛』という字が飛びまわっているのです。鷹山の領民へ対する愛と領民の鷹山に対する愛が小さな羽根をつけて飛びまわっているのです。それは不思議な体験でした。
それi以来私は上杉鷹山を忘れられなくなりました。
今日は上杉鷹山の人間性をご紹介したいと思います。

1番目の写真は米沢市の上杉鷹山神社にある鷹山像です。
鷹山は出羽国米沢藩9代藩主でした。名は治憲でしたが隠居後に鷹山と変えました。米沢藩政改革を行った江戸時代の名君として有名な大名です。借財に喘いでいた米沢藩を立て直した明君です。新田開発・水路・溜池の整備、養蚕・織物の奨励など多くの事業を起こし豊かな藩としました。

寛延4年(1751年)、九州の日向高鍋の藩主秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれました。文政5年(1822年)に逝去しました。享年71歳でした。

以下には鷹山の人間性を示す話をご紹介いたします。
米沢藩の農民がある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうになったのです。手が足りず困っていたところ通りかかった武士2人が稲束の取り入れを手伝ってくれました。取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例でした。そこで、餅を持ってお礼に伺いたいと武士たちに言ったところ、殿様お屋敷(米沢城)の北門に(門番に話を通しておくから)と言うのです。お礼の福田餅を33個持っておそるおそる伺ってみると、通された先にいたのは藩主(治憲)でありました。
お侍どころかお殿様であったので、腰が抜けるばかりにたまげ果てます。農民はその勤勉さを褒められ、褒美に鷹山から銀5枚まで授けられました。彼は末永く御恩を忘れなかったそうです。
 藩の民に殖産を薦め、多くの事業を起こしました。また倹約も奨め糧飯(かてめし)や食べられる草、木の葉の植栽を勧め米の保存を教えて天明の大飢饉に藩から一人の餓死者も出しませんでした。
話は変わって、アメリカのジョン・F・ケネディが1961年に大統領に就任した際に、日本の記者団に「日本でいちばん尊敬する人物」を聞かれたときすぐに鷹山の名前を挙げたという逸話があります。ケネディは鷹山を政治家の理想像を見たのでした。
上杉鷹山という人物は、内村鑑三著の「代表的な日本人」によってアメリカ人が知ることになったと言われています。
ケネディの長女で駐日アメリカ合衆国大使をつとめていたキャロライン・ケネディは、米沢市を訪れ、父親のケネディが鷹山を称賛していたことに触れるスピーチをします。
このように鷹山はアメリカでも知られています。

以下に鷹山にまつわる話の幾つかをご紹介いたします。
(1)着る衣は木綿、食事は一汁一菜を基本とし、木綿の使用は羽織や袴だけでなく、下着にいたるまで着衣の全てに使用していた。食事の内容は朝食に粥を2膳ほどと香の物(漬物)、昼食や夜食に千魚などの肴類を添えて、うどんやそばを食べていた。酒は飲まず、冬になると甘酒を一椀ずつ飲んでいた。結果的に倹約ができて健康にも良い粗衣粗食であった[。
(2)上杉家へ養子入りする際、高鍋藩老臣の三好善太夫重道より貰った訓言の一書を、鷹山は生涯これを机の近辺より離さず、また鷹山の業績はこれに基づいているとされる。この書は現在、米沢市の上杉神社に保管されている。
(3)一時期鳥の飼育を趣味にし珍しい鳥を何匹も飼っていたが、倹約令を出すにあたり、きっぱりとやめ飼っていた鳥を全て野に放っている。また、隠居後煎茶に凝り最上の味を求めてかなり上達したが、他人に入れてもらったお茶を不味く感じるようになったのを申しわけなく思いやめたと言われる。
(4)有名な「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた歌である。
(5)天明7年(1787年)8月に実父の秋月種美の危篤の報を受け江戸へ出立し、品川区上大崎の高鍋藩邸へ日参して30日間かかさず看病を続け、臨終を看取った。
その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報があり、実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国した。翌年2月までの80日間看病を続けて快癒させたが、一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜で看病したという。

今日は米沢藩の領民を本当に愛した大名、上杉鷹山の人間性をご紹介いたしました。この記事は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B2%BB%E6%86%B2 を参考にしました。記して感謝の意を表します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「冬でも咲いている花々の風景」

2023年01月04日 | 写真
写真の出典は、https://akuro-furari.com/suisenhanakaidou/ です。

1番目の写真は愛媛県 春の花の名所・デートスポット「犬寄峠の黄色い丘」です。

2番目の写真は愛媛県伊市の瀬戸内海を見下ろせる丘に咲き乱れる「日本水仙花開道」です。

3番目の写真愛媛県も愛媛県伊市の「日本水仙花開道」です。

4番目の写真は愛媛県最大の梅の名所 、早春の「七折梅園」です。