後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「忘れ得ぬ人々(6)スウェーデンの古民家とエケトルプ先生の思い出」

2023年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム
スウェーデンには1972年にストックホルム工科大学へ講義に行って以来お付き合いが続きました。私を招んでくれたのはエケトルプ教授でした。4か月滞在の間自宅にも何度も招待されました。懐かしいエケトルプ教授が亡くなってからもう何年もの月日が流れました。亡くなったとき花束を贈っただけでした。
スウェーデンでは北端のキルナという町まで車で行ったこともあります。
ストックホルム工科大学のスウェーデンの大学院生さんを東京に呼んで我が家に3か月泊めたこともありました。いろいろお付き合いをした懐かしい国です。
エケトルプ教授の古民家の裏の野原に一面に小さい花々が咲いていたのが印象的でした。色とりどりの花が白夜のうす明かり中に夢幻のように広がっています。感動しました。
スウェーデンは緯度が高いので夏は白夜で太陽の光も弱々しい国です。ですから日本の高山植物のような花々が平野の野原に咲いているのです。
エケトルプ教授に聞くと、「草花の種を買って来て家の周りの野原に播いたのです」と言います。そして「よく見て下さい。日本の高山植物のように見えますが、種類は違います」とも云ってました。
エケトルプ教授の古民家の周りに咲いていた高山植物のような花々が忘れられません。
先生は中世のスウェーデンの古民家の構造を詳しく調べ、忠実に復元していました。ストックホルムの郊外のプラタナスの大樹の下に、藁葺と白壁の中世風の農家を復元して住んでいたのです。昔の農家の設計図を探し出し、忠実に再現した古民家です。
家の再現で苦労したのは釘を一本も使わないで造ることだったと言います。内装はすべて白っぽい北国の板材、柱は太い丸太の表面を磨いたもの。屋根は意外にもそんなに厚くない麦藁葺。年間雨量の少ない乾燥した北国なので、日本の合掌造りの屋根のように急斜面で部厚くはないのです。
建坪50坪ぐらいで、大きな室内は、寝室、食堂、炊事場、風呂場、トイレを北欧の材木で区切り、ドアもすべて同じ板材です。木製の蝶番(ちょうつがい)と閂(かんぬき)が付いています。
一番の特徴は一階の右半分を使用した炊事場兼食堂。部屋の真ん中に石造りの大きな竃(かまど)があり、その上には分厚い鉄板が乗せてあります。炊事の時にはその鉄板の上に鍋を三、四個置き、薪で煮炊きをするのです。深い鉄鍋を逆さに伏せればオーブンにもなります。
大きな石組みの煙突が家の中心を貫き、その余熱で二階の寝室の暖房にするのです。寝室には電気が無く、灯りはロウソクです。
昔のスウェーデンの農家との違いは炊事場と食堂に電燈と冷蔵庫があるだけでした。テレビはありませんでした。
木の香を楽しみ、夕食後は石の竃(かまど)の前に座り、コケモモでピンクに色づけしたスウェーデンの蒸留酒を飲みます。古い農家を再現するときの苦労話を聞きながら私はその強い酒を少しずつ飲みました。
夜が更ければ寝室へ引き揚げます。窓の外には白夜の牧草地が薄暗く広がっていて、遠くに馬の親子が立っているのがぼんやり見えます。このような白夜の風景が珍しく、いつまでも外を眺めていたものでした。
当時はデジカメがありませんでした。写真も撮りませんでした。そこで昔泊めて貰ったあのスウェーデンの古民家に似た画像をいろいろ探しました。似ている古民家の写真を見つけましたので下にお送りいたします。

1番目の写真はスウェーデンの古民家です。
写真の出典は、http://fuucaarchi.exblog.jp/tags/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3/ です。
写真の古民家では外壁が板壁になっていますが、私が泊まった家は窓から上の部分は白い土壁でした。屋根は藁葺でした。

2番目の写真はスウェーデンの古民家の室内の様子です。
写真の出典は、http://hanatomo31.exblog.jp/16424403 です。
日本でも古民家を復元して住んでいる人がいます。羨ましい趣味です。私はこの趣味に憧れていましたが、儚い夢です。
古民家に招待してくれたエケトルプ先生には公私ともに大変お世話になりました。その恩人も亡くなって随分年月が経ちました。
日本のテレビでは時々古民家を復元して住んでいる人を紹介する番組があります。それ見るたびにスウェーデンの古民家に泊めてくれたエケトルプ先生をしみじみ懐かしく思い出します。お元気だったころのお顔や姿が思い出されるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

ついでにスウェーデンの風景写真をお送り致します。

3番目の写真はストックホルムの旧市街の風景写真です。
4番目の写真はスウェーデンの農業地帯の風景写真です。

5番目の写真はスウェーデンの夕暮れです。(http://free.gatag.net/2011/05/24/190000.html )

「東京農工大科学博物館を見に行きました」

2023年06月22日 | 写真
私の住んでいる小金井市には東京農工大の科学博物館があります。
以前も行きましたが久しぶりに見に行きました。
展示スペースも以前より広くなり展示物も多くなっていました。

この東京農工大も科学博物館も国立だけあって立派です。
展示は生糸生産と織物のための機械に特化しています。非常に専門的な博物館です。以前は繊維博物館と言っていました。
ホームページにある写真をお送り致します。
詳しくは、https://web.tuat.ac.jp/~museum/information/index.html をご覧ください。


「高原のお花畑、花の都公園」

2023年06月22日 | 写真
高原のお花畑、花の都公園の花の写真をお送り致します。
富士山の麓の高原のお花畑です。

30万㎡のエリアが四季折々の花々で埋め尽くされ、花が好きな方や写真好きな方々等年間多くの観光客が訪れます。
山中湖の近くにあるので何度も行きました。駐車場もあり花々の間をゆっくり散歩できます。山中湖に行ったら是非ともお寄り下さい。 


「アメリカアジサイの花の写真」

2023年06月21日 | インポート
アメリカアジサイの花の写真をお送り致します。

大きくなると直径25㎝ほどの花房になります。アメリカアジサイ、アナベルの花色は、薄緑の蕾からクリーム色、やがて純白に変わり、長く楽しめます。土壌によって花色が変わることはありません。


「会津のおとめ百合の写真」

2023年06月20日 | 写真
会津のおとめ百合の写真をお送り致します。
会津の「おとめゆり」の群生地の写真です。おとめゆりは、福島・山形・新潟の飯豊山系や只見山系と宮城の一部のみに自生する日本特産種で準絶滅危惧種です。6月上旬から中旬に、淡いピンクの可憐な花を咲かせます。https://www.tif.ne.jp/flower/spot/disp.html?id=124&area[]=4

「忘れ得ぬ人々(3)ヨットを共に楽しんだ星野君の思い出」

2023年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「忘れ得ぬ人々(3)」としてヨットを共に楽しんだ星野君の思い出を書きたいと思います。
星野君は仙台の大学の同級生でした。彼とはいろいろな所で一緒にヨットに乗りました。
例えば猪苗湖で彼の大きなヨットで花春カップレースに3回参加したこともあります。そして会津城やその城下町を観光しました。
1番目の写真は猪苗代湖と磐梯山の写真です。出典は、http://www.yae-mottoshiritai.jp/seishin/inawashiroko.html です。

5番目の写真は夏の猪苗代湖を帆走するヨットの写真です。
出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.html です。
星野君とこの写真のような彼のヨットに乗り湖を何度も帆走しました。
3番目の写真は猪苗代湖の西南岸のヨットの係留風景です。星野君もここにヨットを係留していました。彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。写真の出典は、http://ameblo.jp/normanhiga/entry-11034780813.html です。

星野君と湖や海などいろいろな所でヨットに乗りました。
最後になったのは霞ヶ浦で私のヨットに乗った時でした。それは2010年の秋のことでした。当時、私は霞ヶ浦でヨットを係留していました。そのヨットで一緒にセイリングをしたのです。それが最後になりました。翌年彼は亡くなったのです。
4番目の写真は私のヨットと霞ヶ浦の風景です。星野君とヨットに乗り港を出ると、始めは風が穏やかでしたが、沖では物凄くなり、船が身を躍らせて走りまわりました。
5番目の写真の右が星野君です。強風で走るヨットを操船しています。左はやはり同級生の大友君です。帰港のころは風が又静かになり夕日を楽しみながら帰ってきました。
6番目の写真は帰港後のキャビンの中での宴会の様子です。星野君は自宅のある福島から東北新幹線で上野経由でやって来ました。よく冷えたシャンパンを担いで来ました。その後、ホテルに一泊し翌朝も3人でセイリングへ出ました。それが星野君に会った最後になりました。

星野君は仙台の大学を1958年に卒業しました。卒業と同時に父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島へ行ってしまいました。それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼が猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしているのことを話しました。
そして花春カップというクルーザーレースへ3回ほど私を招待してくれたのです。花春カップとは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、「花春」が主宰するレースです。花春は現在でも酒造をしていますが、ヨットレースはやめてしまったようです。
彼のヨットはヤマハ29というクルーザーで船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事施設がついています。
船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が静かに風波を立てている様子が眺められのです。

今日は我が友人、星野君とのヨット遊びの思い出を書いてみました。
星野君の住むかなたの国の湖にも、白い鳥が舞っているでしょうか? 猪苗代湖と白鳥の風景はそんなことを想わせるのです。あれから茫々13年がたちます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「忘れ得ぬ人々(2)若き日のアメリカ留学で出来た親友、ジョージの思い出」

2023年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の「忘れ得ぬ人々(2)」は若き日のアメリカ留学出来た親友、ジョージの思い出です。
私は1960年から1962年までオハイオ州立大学に留学しました。そのPh.Dコースでは戦場のような激しい勉強が続きました。
セント・ピエール教授、フォンタナ教授、ラドルフ・スパイサー教授、ゴードン・パウエル教授、スプレットネク教授の講義は厳しくて、それについて行くためにはアメリカ人の同級生からノートを見せてもらったり毎週行われる試験の予想問題を丁寧に教えてもらったのです。
激しく攻めるのが5人の教授で、隊列を組んで防戦するのが14、5人の同級生です。
同級生は戦友のような感じでした。その中でジョージ・オートン夫妻とは生涯の友人としてお付き合いをしました。
ジョージ・オートンさんは14歳年上の空軍大佐でした。大柄なふくよかな体格の持ち主でした。
彼は戦争中はB29に乗り組んで東京空襲をしていました。そのオートンさんと親友になり彼が死ぬまで交友が続きました。気さくな男でした。明るくて親切なのです。とても爆弾を落とした人間とは信じられないのです。
面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せて勉強を助けてくれました。何度も家に招待してくれました。当時、彼は空軍大佐でしたが、引退後は大学の先生になろうと博士課程を取っていたのです。
オートンさんの奥さんのケイが死んだのは40年以上も前です。
しばらくしてからアリゾナ州のサンシティーに住んでいたオートンさんを訪ね、二人でケイの墓参りをしました。ケイは赤毛の陽気な女性でした。オートンさんと缶ビールを飲みながら野球のテレビ中継を見ていると、チョットしたおつまみを持ってきて一緒にテレビ中継を見ていたものです。ケイの墓の前で、いつも陽気に話していた彼が消え入るように沈んでいます。墓地には白い墓石が一面に広がり、秋風が吹き渡っていました。
その後オートンさん は一度だけ日本に来ました。私どもを訪ねてくれ一緒に熱海温泉への旅を楽しみました。
そのオートンさんも1990年に亡くなってしまいました。息子さんから丁寧な手紙が来て知らせてくれました。
B29は日本側の発表では日本上空で714機撃墜されています。そして3041人の搭乗員が殺されたり、行方不明になったのです。無差別空襲に怒った人々に惨殺された人もいます。しかしオートンさんは無事でした。
オートンさんと私の交友は奇跡のようなものと思います。不思議な「えにし」でした。年老いて今日この頃、彼と一緒に過ごした場面のいろいろを鮮明に思い出しています。
オートンさんの思い出は、邯鄲の夢のような私の一生を美しく飾ってくれる走馬灯の絵のようです。
ある時、オートンさんと一緒にアリゾナの砂漠に咲いているサボテンを見に行きました。その時のことも思い出します。
私が生まれ育った昭和は幾つかの戦争、敗戦、戦後の困窮、復興と続く不幸な時代でした。
21世紀の日本は平和な、そして豊かな国になりました。

最後に、オートンさんにまつわる写真を5枚示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はオートンさんが搭乗していたしていたB29です。
2番目の写真はオートンさんと知り合った留学先のオハイオ州立大学の建物です。この建物の教室で一緒に机を並べたのです。
3番目の写真はオートンさんが乗っていたMGです。この車に私を乗せてあちこちドライブしてくれました。繊細なスポーツカーでした。
4番目の写真はアメリカの墓地の風景です。墓地には白い墓石が一面に広がり、秋風が吹き渡っていました。
5番目の写真はオートンさんと一緒に行ったアリゾナの砂漠のサボテンの花の写真です。


「忘れ得ぬ人々(1)モリアオガエルを飼っていた木内正夫さん」

2023年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム
甲斐駒岳の麓の山林の中に独りで何十年も住んでいる友人がいました。木内正夫さんという方です。
視力が弱くなる眼病になってインターネットへの書き込みが出来なくなりました。そのせいで10年以上毎日のように更新してきたブログを止めることにしました。
彼の最後の記事です。・・・「さようなら」
眼の状態が思わしくなく、ブログの記事さえ満足に読めなくなり皆様のブログにも訪問がむずかしく なりました。本日をもって終わりにします。・・・今まで応援していただき感謝しています。
コメント欄は開けておきますが返信は出来ません。ブログは人生の記録として残しておきます。 さようなら。・・・・
詳しくは、http://sizen068.blog95.fc2.com/ にあります。このブログは今でも見ることが出来ます。下の写真はこのブログにある木内正夫さんです。

今日は彼への私の感謝の記を送りたいと思います。
私がこうしてインターネットの上で毎日、写真や文章を掲載出来るようになったのは彼のお陰です。
2007年の秋に山小屋に泊っていた私を訪問してくれて、ブログを始めませんかと勧めてくれたのです。そして彼の山荘へ私を誘いインターネット上に写真や文章を掲載する技術を丁寧に教えてくれたのです。
そのお陰で私は2007年の11月から「後藤和弘のブログ」を始めました。
その後、木内さんとは大変親しくなり、いろいろとお世話になったのです。
彼は山荘の周囲の広い敷地にいろいろな花を育てていました。水芭蕉の花、クリンソウ、ヒトリシズカ、イカリソウ、フクジュソウ、ヤマブキ、などなど多種多様な花々を咲かせていました。
そして雑木の丸太を並べて椎茸やナメコも栽培していました。敷地にはクリタケが沢山生えていました。
草花の好きな家内へクリンソウやヒトリシズカやイカリソウを鉢に入れてくれました。私はシイタケの原木を5本も貰ったのです。東京に持ち帰った原木から3年間もシイタケが採れたのには驚きました。
私の家の庭には木内さんから貰ってきたヒトリシズカやイカリソウの花が咲きました。
木内さんは優しい性質の人でした、
自然を愛し小さな花や森の中の生き物を注意深く観察していました。
とくに熱心に努力したことは珍しいモリアオガエルを育てることでした。

彼の山荘の敷地の真ん中に小川が流れています。その傍の樹木の枝に直径10cm位の白い泡の塊があるのを見つけました。春、オタマジャクシが泳ぐ頃です。彼は直ぐにモリアオガエルの卵塊と気が付き、生まれたオタマジャクシを少しだけ分け取って、家の中で飼うことにしたのです。
モリアオガエルは本州と佐渡島にしか棲んで居ない日本固有種で深山にしか居ない珍しいカエルです。
白い泡の塊の中にある数百の卵が オタマジャクシになると下の水溜まりへ落下して小さな可愛いカエルになります。まだ尻尾が付いているのに樹木の枝に這い上がり、一生、樹上生活をします。
飛び跳ねる力が強く一回に3メートル位を飛びます。ですから樹から樹へと、猿のように飛び回って、虫を食べて大きくなります。大きくなるとガマ蛙くらい大きくなります。手足に吸盤がついていて木の葉にしがみ付きます。

ここで5枚の写真を示します。
1番目の写真は木内さんの山荘に行く道です。なお私の山小屋は木内さんの山荘から更に500m位入った山林の中にあります。
2番目の写真は森の中に埋まるように建ててある木内さんの山荘です。この位森と溶け合っていないとモリアオガエルは産卵に来ないのです。
3番目の写真は木内さんが庭に作った池の上の木の枝に産み付けられたモリアオガエルの卵塊です。中に数十匹以上のモリアオガエルの卵が入っています。
4番めの写真はオタマジャクシから孵って手足が消えた若いモリアオガエルです。これに虫の餌をやって育てると大きくなります。
5番目の写真は越冬して大きく育ったモリアオガエルです。翌年は自分が生まれた池の上の枝に卵塊を生むために森の中から帰って来ます。

このように写真を順に見て行くと簡単に飼育出来るように見えます。しかし木内さんの苦労は並大抵ではありません。
オタマジャクシを家の中の容器の水に移し、毎日、ゆで卵と野菜の餌で細心の注意を払って飼育します。
手足が出てきたら草の葉を入れ、這い上がらせます。これで水中生活から一生の間、縁が切れます。
そこからは別の大きな飼育箱へ入れ、ヨーロッパイエコオロギの小さな子どもを餌としてやります。春に孵化したオタマジャクシが11月なってやっと2cmから3cm位に成長するのです。
イエコウロギはインターネットで購入し、数個の飼育箱で子供を産ませます。これが難しくて大変だったと言います。コオロギの飼育箱とモリアオガエルの飼育箱をベットのそばに置いて毎日注意深く飼育しています。冬になったので冬眠させるため暖房の無い寒い部屋へ移そうとしていました。
一方、庭の人工の池で育った数百匹の小さなモリアオガエルは樹木に登って、何処かに飛んで行ってしまいました。森のなかを飛び回って大きくなり、冬眠を始めるのです。

木内さんにモリアオガエルを見せて貰う度に、私は自然の営みの不思議さに吃驚しました。モリアオガエルの美しさに感動しました。
彼は人間が、たまたま独りで森に住んで、そして死んで行くのも自然なことですと言います。モリアオガエルと同じだと言うのです。お葬式もいりません。発見したら玄関の外に書いてある遠方の弟へ電話して下さいと笑っていました。その弟さんは馬場駿という小説を書いている人です。伊豆で岩漿という文学会を主宰していました。

最後には木内正夫さんが眼病になってインターンットの世界から退場すると言うのです。10年以上毎日のように更新してきたブログを止めると言うのです。

その後、木内さんは北杜市の施設に入り、交友が絶えました。私はモリアオガエルを飼っていた木内正夫さんを懐かしく思います。そして感謝しています。
私の数少ない友人の一人でした。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===木内正夫さんのブログより=================
子供のころから頑固な私・6月中旬でブログを長期休止します
私は横浜の小さな漁村に生まれ、終戦後、横浜市立金沢小学校に入学しました 。まだ、その時代は学校給食などありませんでした。小学校、4年生か5年生の時に引越しましたが、 同じ学区内のため転校はありませんでした。
金沢も人口が増え子供の数も増して一校だけでは収容できず、八景小学校と文庫小学校2校が建設 されました。6年の学級組み換えでは、私は八景小学校に通うことになり、ある雨の日金沢小学校か ら八景小学校に移動したのです。学校は木造二階建ての小さな校舎で、3年生は記憶にありませんが 、4-5年生は金沢小学校に残っていました。1-2年生は授業も短く、教室が足りないため、午前と午後 の二部制でした。
この新しい学校には給食室があり、学校給食が始まり6年生のみ給食がありました。 でも、我が家の経済は最悪期をむかえていたのです。当然のことながら、給食費を払える状態ではあ りません。かといって弁当を持っていける状態でもなかったのです。給食時間になると「家に食べに いってきます。」と教室を出て学校の周辺で時間を潰し、皆が食べ終わった頃教室に戻っていました 。
大雨のときは傘がないので学校は休みましたが、小雨のときは濡れて学校に行ったものの、給食 時間になると、外にはいけず皆が食べているのを見ている辛い状態が何度もありました。 先生にはすぐに家に戻って昼食を食べていないのを知られてしまいました。ある日、職員室に呼ばれ 「木内よ、育ち盛りの今、昼食を食べずにいると将来大変な事になる。給食費は支払わなくても良い から食べるように」と言われましたが子供頃から頑固な私は申し出を断ってしまいました。
勿論、給食費を払えない状態なので、朝食や夕食も空腹を満たすような食事は与えられませんで した。
あの時素直に給食を食べていたら、身長は伸びていたでしょう。今では後悔しています。同時に「武 士は食わねど高楊枝」などの言葉は知りませんでしたが、心の中で意志を貫いた事を誇りに思ってい ます。
後になってわかった事ですが、先生は心配して家庭訪問してくれた事を母の死後、「母の手記」を読 んで知りました。
手記には、
「木内君は真面目で利口だ」と褒めた後、今日はお昼ご飯を食べに戻りましたかと私に聞きました。 先生の話では、「この前木内君に家からパンが届いたよと言って渡したら、家にパンなど買うお金な いよと言って受け取らなかった」と言うのです。・・・以下省略
正しいと思ったら変更しない頑固な考えは今でも続き、命取りになるかもしれません。
でも、ころころと風見鶏のような考える性格にならなくって良かったと思っています。
今風に言えば、風の読めない人間なのですね。
眼もだいぶ悪くなり、入力も苦痛になりました。6月中旬をもってブログを長期間休止するつもり です。それまで暗いブログですが、お付き合いお願いします。休止後1回だけ更新してから中止したいと 思います。
まだ、通販での画面を見てクリックだけの注文などの生活視力はあります。

「今日の年間第11主日のミサの動画配信」

2023年06月18日 | 日記
今日の年間第11主日のミサの動画配信です。

関口教会の動画配信、
https://www.youtube.com/channel/UCc2LbUPcHohKUgO2dYhrCvw

イグナチオ教会のミサ動画配信、
https://www.youtube.com/watch?v=-2_pe_AMSYc

広島のカトリック幟町教会
https://www.youtube.com/watch?v=OYYgtEBE0QE

写真は五島列島にある桐教会の風景です。
桐古里郷のガスパル与作が長崎に行きプティジャン神父を訪ねこの教会を建てたのです。

「私は仏教が好きです」

2023年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム
私は仏教が好きです。祖父や叔父がお寺の住職をしていたので幼少の頃から仏教になじんでいました。
そんなわけで今日は日本の仏教についてあれこれ書いてみたいと思います。
日本には75、000のお寺があると言われています。どんな山里に行ってもお寺があります。
江戸時代、明治、大正、そして昭和時代、そして現在に至るまで、人々はお寺と絆(きずな)があります。仏教を信じていなくてもお墓詣りをする人は多いものです。お葬式があると仏式で執り行い、僧侶の読経を根気よく聞いています。
その上、日本にある仏像の数は世界一とも言います。地方に行くと巨大な観音像があちこちに立っています。高崎の大観音、大船の大仏、韮崎の観音像、牛久の大仏などなど巨大な像が青空に中に聳え立っています。
最近特に、無宗教の人々が増え、お墓さえ作らずに樹林葬や海に散骨する風習が広がって来ました。しかし日本の仏教には13もの宗派があります。日本はやはり仏教国なのです。
そこでお釈迦様のお教えを簡略に書いておきます。
何と言っても、お釈迦様の教えは深く広大です。その慈悲の心は貧しい人にも富める人にもあまねく平等に注がれるのです。
お寺と人々の絆が弱くなっても、日本では相変わらず仏教に関する本が売れているのです。般若心経の解説をした本も売れるのです。
日本人はみんな諸行無常という言葉を知っています。色即是空(しきそくぜくう)という言葉を知っています。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、・・・という平家物語の冒頭の句を知っています。
ですから日本人はこのような言葉を知っていて、時々思い出し、無意識ながらその言葉にそって行動します。日本人の仏教とのかかわりを書きだせばきりがありません。
ですから、日本の仏教の歴史や宗派の違いは末尾の参考資料にゆずり、ここでは省略します。
以下は、私自身の仏教とのかかわりを簡略に書いたものです。
私の父方の祖父は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落のお寺の住職をしていました。それは曹洞宗の正林寺というお寺でした。その祖父は戦前に亡くなり、父の弟が後を継ぎました。その祖父の戒名は高天秀嶽大和尚といいます。

1番目の写真は曹洞宗の正林寺の石碑と鐘楼です。正林寺は石垣の上の高台にありました、その高台の下には農家の集落が広がっていました。

昭和11年生まれの私は毎年、夏になると一家でそのお寺に帰省し、お寺の暮らしを体験しました。
お寺の暮らしが珍しい上に、お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年見たのです。近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、そして銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き、お経を唱えるのです。
2番目の写真は施餓鬼供養でお経を唱えている住職さんです。

3番目の写真は施餓鬼供養に参列している人々の様子です。
お寺での施餓鬼供養が終わると、叔父の住職さんと一緒に私も檀家まわりをします。小坊主の法衣を来て、村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠んだのです。私はこうした宗教的体験をしたのです。この体験がその後の私の宗教感に深い影響を与えたのです。
現在、私はカトリックの信者です。しかしお葬式や法事で和尚さんのお経を聞くと、70年前の懐かしい光景がよみがえって来て楽しいのです。幼少の頃の楽しかった光景を思い出すのです。
一方、私は大人になってからカトリックのことを知りました。そして洗礼を受けました。この時、小さな頃にした宗教的な体験が非常に役立っていたと感じました。
洗礼を受けた後でよく次のような質問を受けます。
「私だけが洗礼を受けると先祖の魂はどうなるのですか?」
私は確信して答えます。「神様の愛は人間が想像出来ないくらい大きいのです。先祖様のことも子供のこともすべて神様に任せなさい。神様やイエス様は絶対に悪いようにはしない筈です」と。
そして、こんな質問も受けます。「洗礼を受けたら仏式のお葬式や法事には出られなくなりますか?」私の答えは簡単です。「従来通り出て下さい。欠席して親類や友人、知人の心を傷つけてはいけません」と。
私はお釈迦様を尊敬しています。玄奘三蔵法師も尊敬しています。弘法大師も大好きです。お遍路さんを尊敬しています。

今日の挿絵代わりに写真は私が好きな鎌倉の円覚寺の写真2枚と法隆寺の遠景の写真1枚です。
今日の写真は全てインターネットからお借り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


===参考資料========
(1)日本の仏教:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99#.E7.B3.BB.E8.AD.9C.E3.83.BB.E5.AE.97.E6.B4.BE
日本は統計的にみて約8470万人が仏教徒であり 、全世界で3億数千万人程度が仏教徒とされていることを考慮しても、やはり一大仏教国である。約7万5000の寺院、30万体以上あるといわれる仏像は、他の仏教国と比べても桁違いに多い。世界最古の木造寺院法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本にある。一方、現代の日本人は特定の信仰宗教、宗教観を持っていないものが大多数であり、自らを仏教徒と強く意識する機会は少ないがブリタニカ国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている。現在の日本の仏教の概略について解説すると、文化庁が編纂している「宗教年鑑」などの統計によると、現在の日本の仏教徒の大半はいわゆる鎌倉仏教に属している。浄土宗系(浄土真宗)の宗派と日蓮宗系の宗派が特に大きな割合を占めており、大乗仏教が特に多いと言える。
以下省略。
(2)日本の仏教の宗派:一覧表、http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/bukkyou26-4.htm
以下は、http://www.geocities.jp/yasuragigogo/butsukio6.htm から抜粋しました。
①律宗 奈良時代
開祖   道宣(中国) ⇒ 鑑真(日本)
総本山  唐招提寺
寺院数  115
教え: 三蔵(経蔵、律蔵、論蔵)の中で律蔵tがもっとも大事で、身、口、意の戒律を厳しく実践すること説いている。  
②華厳宗 奈良時代
開祖   杜順(中国) ⇒ 審祥(日本)
総本山  東大寺
本尊   毘盧舎那仏(太陽を意味する)
寺院数  61
教え: 華厳経の大方広仏、時間と空間を超えた仏を説いた。「一微塵(極めて小さなもの)中に全世界が反映し、一瞬のうちに永遠の時間が含まれている。」と説き、又「一の中に他の一切を包含すると同じにその一は、他の一切の中に入る」と無尽縁起を理想としている。即ちあらゆるもの一切は、縁によって起き、宇宙の万物は無限に関係しあって、持ちつ、持たれつして生存し、存在している。
③法相宗 奈良時代
開祖  玄奘(中国) ⇒ 道昭(日本)
総本山 興福寺、薬師寺
寺院数  55
教え:万物唯識を説き、「一切の万法は、私の心から生まれたものであり、私の心を離れては一切の存在はなく、一切の万有が私の心そのものである」と説く。即ち認識を通してのみ一切万物の存在を決定する。認識作用をするものに眼、耳、鼻、舌、身、意の六識のほか未那識(マナシキ)、阿頼耶識(アラヤシキ)が万物認識の基と説き。特に未那識(自我を自我たらしめる意識)と阿頼耶識(無限大のいれもの・すべてを記録するところ・行為が記録され、煩悩の種を作るところ)が基本的な識として、修行によって未那識と阿頼耶識を自覚し、これを空にすることにより悟りを得ようとする教えである。
④真言宗 平安時代:
開祖   空海
総本山  金剛峰寺、高野山東寺を中心に約50派に分かれているといわれる。
本尊   大日如来
経典   大日経、金剛頂経
寺院数  12000
教え:「密教を修める者は、密教の戒律と大乗仏教の戒律を実践しなければならない」と説き、密教ては、仏教は、真実の仏、大日如来の教えであり、この大日如来と心身ともに一体となって修行を実践すれば、この身、このままで仏となることができる(即身成仏)と説いている。
⑤天台宗 平安時代
開祖   最澄
総本山  比叡山延暦寺 約20派に分かれている。
本尊   釈迦如来
経典   法華経
寺院数  4400
教え:すべての衆生は、仏陀になることができる
以下は鎌倉仏教の宗派に続くが、省略します。

「北海道の花の写真をお送り致します」

2023年06月16日 | 写真
北海道の花の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://skyticket.jp/guide/22125 です。

1番目の写真は「フラワーランドかみふらの」です。
ラベンダー、ジャーマンアイリスなど色鮮やかなグラデーションで花々が咲き誇る「フラワーランドかみふらの」。時期によっては、広大なひまわり畑を楽しむことができます。上富良野駅から車で約10分。国道の近くにあるので、アクセスはとても便利です。

2番目の写真は滝野すずらん丘陵公園です。
北海道の国営公園はここ「滝野すずらん丘陵公園」だけ。園内には地名の滝野の由来でもある「アシリベツの滝」があり、4つに分かれたエリアでは、四季折々の花を愛でることができます。

3番目の写真は十勝ヒルズです。
「北海道街道ガーデン」のひとつである「十勝ヒルズ」は、季節ごとに表情を変える草花たちが魅力。テーマを持った6つのガーデンで構成されていて、約1,000種類もの草花たちが咲いています。庭園の一角には野菜や果物も植えられていて、エディブルフラワーなど珍しい植物も目にすることができます。

4番目の写真は.展望花畑 四季彩の丘です。
JR美瑛駅から南に向かったあたりの丘に帯のように広がるお花畑。十勝岳連峰などの山々が連なっており壮大な景色が見られ、眺望も抜群です。

5番目の写真はファーム富田です。
北海道富良野町にある「ファーム富田」です。見渡す限り続くラベンダー畑と、北海道富良野の町並みはとても綺麗ですよ。7~8月頃には、ポピーやカスミ草などを見ることもできます。

6番目の写真は百合が原公園です。
札幌市の百合が原駅から歩くこと約10分。「百合が原公園」は花を楽しめる公園として、札幌市民に愛され続けている憩いの場です。外国風のおしゃれな庭園の園内には、ゆりの花以外にもチューリップやバラ、ダリアなど、3,500種類もの花が四季を通して咲き乱れます。

7番目の写真は彩香の丘(佐々木ファーム)です。
「佐々木ファーム」は、知る人ぞ知るラベンダー畑。広大な丘に一面に広がる紫色のラベンダーは、水彩画のように美しい絶好の癒しスポットです。9月から10月にはサルビアが咲き、一面が赤と白と青紫の色に染まります。大雪山系が正面にどんと構えた景色は、北海道ならではの景色でしょう。


「夏の北海道への旅、トラピスト修道院の思い出」

2023年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
夏の北海道ではカラッと晴れ上がって涼しい風が吹いています。想像しただけで気分が爽快になります。そして北海道への旅にはロマンがあるのです。北海道へは何度も旅をしました。
北海道の魅力は自然の風景が本州以南と大変違うことです。そして北海道には異国情緒が漂っているのです。

今日は北海道の自然とトラピスト修道院のことを書いてみようと思います。
北海道は本州や九州とは違った地質でシベリア的な植物が育っています。そして農村地帯へ行くと、なだらかに起伏する丘に牧草地が広がり、風景がヨーロッパに似ているのです。牧草地や麦畑、甜菜畑などの仕切りに美しい白樺が並んでいます。なだらかに起伏する丘は氷河に削られたからと言います。
北海道だけに棲むヒグマやエゾ鹿をバスの車窓から眺めていると、やはりここはロマン溢れる異国だと感じます。
地質学的には太古の昔、北海道は樺太と共にシベリアに繋がっていたそうです。
そして本州以南は朝鮮半島や上海付近の中国大陸に繋がっていたようです。
このように考えると北海道の風景がヨーロッパ的なことが納得出来ます。
この自然の景観だけでなく、北海道には明治維新後、ヨーロッパ文化がやって来て根付いている場所もあちこちにあります。北海道にはアイヌ文化だけでなくいろいろな異文化が混在し、独特のローカル文化があるのです。
北海道の魅力は美しい風景を楽しみながら異文化の探訪も出来ることにあります。
そこで今日は異文化の色濃い函館の郊外にあるフランスのトラピスト修道院をご紹介したいと思います。
2012年の6月のことでした。函館の湯の川温泉に3連泊して、4日間、レンタカーで道南を丁寧に見て回ったことがありました。
函館の西の松前は日本海に面しています。南は津軽海峡です。東の恵山道立公園は太平洋に面しています。
4日間いましたので西の松前の城下町から東の太平洋岸まで観光しました。
東では、恵山道立公園、白尻町縄文土器展示館、大沼公園、と丁寧に見て回りました。
しかしこの旅の中で、特に強烈な印象を受けたのがトラピスト修道院でした。函館の西、30km程のJR渡島当別駅から奥に入った寒冷な原野にあります。
この修道院はローマ法王傘下のカトリック組織の一部で、戒律が厳しい事で有名です。修道士は一生の間、修道院敷地から出ません。早朝から夜まで、祈りと牧畜の労働だけで過ごします。
1896年、明治29年に津軽海峡を越えてやって来ましたフランスの厳律シトー派の流れを汲むトラピスト派の数人の修道士が作った修道院です。
石ころの多い熊笹の原野や深い森を切り開いて、何年もかけて畑や乳牛の放牧場を作り、レンガ造りの建物を建設したのです。
レンタカーを駆って訪問してみると、観光客の少ない深閑とした林の中に修道院本館と大きな牛舎が高い塀の中に見えます。その外は一面に牧草が生えた放牧場です。
何故か深い印象を受けたので、4日間に4回も訪問しました。
トラピスト修道院の見える牧草地を散歩しました。そして裏手に回って古い木造の牧舎を長い間、見上げて来ました。周囲の景観にロマンがあり素晴らしいだけでなくこの修道院の苦難の歴史に感動したからです。

このトラピスト修道院の中での生活を少し調べました。
一番大切なのは「祈り」だと書いてあります。
聖務日祷の時刻には、合図の鐘の音が聞こえます。それが聞こえると、どのような仕事に携わっていても即座にこれを差し置き、急いで集合しなければならないそうです。
修道者の最大の務めは、一日に7回の祈りをささげることです。
ご聖体のパンが安置されている聖堂に全員集まって熱心な祈りをささげます。
修道者の祈りは自分たちのためだけではなく、神の助けを必要とするすべての市井の人々のためにささげられているのです。
そして労働をします。
怠慢は霊魂の敵です。みずからの手で労作し生活してこそ、まことの修道者といえるのです。
祈りの生活を続けていくためには、自分たちの働きで生計を維持し、同時に精神的、肉体的健康を保っていく必要があります。
修道者たちは自然界の中での酪農、菜園、果樹園、庭園などの世話をする労働を行います。
このような厳しい生活を想像しながら、トラピスト修道院の見える牧草地を散歩しました。
そして裏手に回って古い木造の牧舎を長い間、見上げて来ました。

この地にヨーロッパから数名の修道者が来た当時は「石倉野」と言われていた程、石ころが多く、熊笹の生い茂る荒涼たる原野だったそうです。
 渡来した修道士たちは徐々に日本人の入会者を得て、苦労しながらこの原野を開拓し、道を作り、丘を平らにし谷を埋めて畑に変え、今日の姿にしたのです。
生活の糧として、牛乳から作ったバターやチーズを売り出しました。
当初、乳製品は日本人に売れません。なじみが少なかったのです。製酪工場の経営は困難をきわめたようです。しかし、よく耐え抜いたのです。
家内の撮った写真をご紹介いたします。

1番目の写真は修道院の牧草地から見降ろした津軽海峡です。

2番目の写真は修道院の入り口です。
正面入り口までは坂を登って一般の人も行けます。中には入れません。小さなレンガ造りの建物が開放されていて修道院の歴史や厳しい牧畜の様子の写真が展示してあります。

3番目の写真は古い牛舎の写真です
修道院の高い塀に沿って裏の方へ回ると古い木造の牛舎が数個あります。大きな扉を開くと乳牛が外に広がる牧草地へそのまま出て行けるような配置になっています。

4番目の写真は修道院の下に広がっている牧草地です。

5番目の写真は修道院の内部の聖堂でのミサの光景です。
この写真の出典は、http://www3.ocn.ne.jp/~trappist/ です。

この当別修道院は、函館から西方に約30Km、JR江差線「渡島当別駅(としまとうべつ)」で下車して徒歩25分のところにあります。

以上のように北海道の旅は美しい風景とともに何か異文化もあり楽しみが深いのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)