後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「東京のカトリック関口教会のクリスマスミサのご案内」

2024年12月23日 | 日記
クリスマスミサのご案内をお送り致します。

主の降誕(クリスマス)のミサについて
12月24日(火) 
17:00
司式:アンドレア・レンボ補佐司教

 19:30
司式:小池亮太神父

22:00
司式:菊地功枢機卿

12月25日(水)
10:00
司式:菊地功枢機卿
写真は東京のカトリック関口教会です。



「軽井沢高原教会 の星降る森のクリスマスの写真」

2024年12月23日 | 写真
軽井沢高原教会では12月25日から数えて4週間前の日曜日から12月24日まで光でクリスマスを祝うイベントを開催します。
今年のテーマは「prism(プリズム)」です。このイベントがプリズムのように、訪れる人たちの心や未来が輝くきっかけになりますように・・・
イエス・キリストの生誕を待ち望む大切な期間です。
詳しくは、7https://www.blestoncourt.com/season/christmas-karuizawachurch/ 
をご覧ください。


「日本が貧しかった頃はクリスマスの習慣など無かった」

2024年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム
師走になりました。楽しいクリスマスも近づいて来ました。楽しいお正月も来ます。
今日は日本が貧しかった戦前、戦後の頃はクリスマスの習慣について書いてみようと思います。クリスマスの習慣など無かったことを書いてみたいと思います。ささやかな歴史小話です。
その頃はお正月だけが楽しかったのでのです。美味しいお節料理、餅つき、お雑煮、お汁粉、凧あげ、橇滑り、コマ回し、羽根つきなどなどの楽しかった思い出が沢山あります。着物を着て元朝詣りに行った思い出やお年玉を貰った時の嬉しさなども思い出します。
その頃の日本はどのようだったのでしょうか。そこで貧しかった昭和時代の農村と都会の写真をお送りします。その時代は都会も特に農村も生活は貧しかったのです。若い日本人はこの事実を知りません。
日本がまだ貧しかった頃の農家と都会の様子を示す写真をご覧下さい。

1番目の写真は山梨県の甲斐駒岳の麓の農村の風景です。写真の出典は、
https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E8%BE%B2%E6%9D%91%E9%A2%A8%E6%99%AF です。
昭和45年、1970年頃までは農民は茅葺の農家に住んでいたのです。藁ぶきの家でエアコンや冷蔵庫も無く囲炉裏だけが中心にありました。囲炉裏が唯一の暖房であり三食の料理は囲炉裏に吊るした大鍋一つでしました。
2番目の写真も茅葺の農家の前面です。私が疎開した宮城県の農家はこのような家に農家でした。3ケ月間だけ住んでいました。囲炉裏の煙がけむくて毎日泣いていたことが忘れられません。白米のご飯はありましたが毎日田圃で捕ったドジョウ汁だけでした。
3番目の写真は戦前の東京の風景写真です。自動車はアメリカから輸入したタクシーだけで自家用車はありませんでした。自家用車が普及したのは昭和40年、1965年以後の頃でした。。
4番目の写真も昭和40年前後の東京の花電車の写真です。当時は都電や市電が人々の交通手段でした。都電が主役だったので花電車など作って祝ったのです。まさしく都電が花形でした。しかしこの後の時代に都電は消えてしまったのです。自家用車が溢れ都電が邪魔になったのです。

終戦後の昭和の貧しい生活ではクリスマスを祝う家庭は殆どありませんでした。
ですから老人にはクリスマスの思い出はありません。高齢者にとってはクリスマスの楽しい思い出など皆無なのです。
この話を家内にしたら彼女の家では戦前から家でクリスマスを祝っていたそうです。鎌倉に住んでいて、彼女の父がハイカラだったので横浜のホテル等へも行ったようです。
ですから日本人でも西洋文化が好きな人は戦前からクリスマスを祝っていたのです。しかしその人数は例外的に少数だったのです。

今日は終戦まで日本にクリスマスを祝う習慣が無かったことを説明しました。その代わりお正月は盛大に祝い楽しかったのです。

時代によって社会習慣が変わるのです。時の流れは川の水のようにとどまりません。やがて今年も暮れて新しい年がやって来ます。新しい年が幸多いものとなりますように期待しましょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は東京のカトリック松原教会のミサにあずかりました」

2024年12月22日 | 日記
待降節も第4週を迎え、いよいよクリスマスはすぐそこに近づいています。 
今日は東京のカトリック松原教会のミサにインターネットを通してあずかりました。
待降節(アドベント)は、キリスト教西方教会においてイエス・キリストの降誕を待ち望む期間のことです。日本語では待降節といいます。 

今日のミサの写真をお送り致します。

「日本の高度成長と日本人の価値観の転換」

2024年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム
数年前に、日本と中国のGDPが世界の3位と2位になったことに私は驚きました。日本が貧しかった時代に生まれ育った私は驚いたのです。
日本は第二次大戦後に復興期があり、続いて経済の高度成長期があり、そのGDPが世界で2位になりました。
同じ様に中国は1966年から1976年の文化革命という凄惨な内戦があり、荒廃した中国の復興期があり、続いて経済の高度成長期があり、そのGDPは日本を抜いて世界2位になっています。
この日本と中国の高度成長を支えてきたのはどちらも欧米の技術を導入した工業技術の進歩によるものでした。
この高度成長にはいろいろな要因があります。政府の経済政策、資金調達に関する法律の整備、工業団地の設置、アメリカ式の経営と品質管理方法の導入などなど多数の要因の相乗効果で経済の高度成長が起きると考えられます。
そしていろいろな分野で優秀な人材が集まりました。中で重要なものの一つは、優秀な技術者を集めることです。そしてそれを育てる大学の工学部の学生が熱心に勉強することが非常に重要です。
日本の復興期と高度成長期の工学部の学生は猛烈に勉強をしたものです。大学を卒業して会社に就職した後も、技術者は職場で熱心に勉強会を開催して欧米の技術書を原語で読むことをしていました。兎に角、工学部の学生はよく勉強しました。工場の技術者達も職務時間の後も会社に残って欧米の専門書を読み、輪読会もしていたのです。そんな時代が日本にあったのです。
ところが現在、日本では大学生は勉強しなくなりました。技術者も勉強をしなくなりました。
1990年前後のバブル経済の崩壊によって多くの日本人の価値観が大きく変わってしまったのです。
一言で言えば、「経済成長よりも人間性を豊かに生きることがより重要だ!」という方向に価値観が転換したのです。
人生にとって生活を維持するためのお金は必要です。しかしボランティア活動をしたり趣味を楽しむ余裕を持ちながら自分らしい一生を送ることが一番幸福だと考えるようになったのです。結婚しないで自由に自分の独自の一生を送るのも幸せな一生だと考えるようになったのです。

高度成長期まで日本の社会にあった立身出世主義が消えてしまったのです。現在は東京大学や京都大学の卒業生で吉本興業に入ってお笑いタレントになる人もいます。
昔は大会社に入社して出世競争に勝つことが世の中の尊敬を集めました。中小企業は大会社の傘下に隷属し、縦社会を作っていたのです。
その産業構造が高度成長の基盤にあったのです。それが1990年前後にもろくも崩れたのです。
縦社会の崩壊は産業構造だけでなく社会のいろいろな分野で起きました。
その結果、価値観が大きく変化してしまったのです。
「経済成長よりも自分らしく生きることがより重要だ」という価値観です。
日本人の人間性が非常に良くなったことです。特に若い日本人は素晴らしい人間性を持つようになたのです。
現在の若い日本人は親切で優和で上品なのです。そうでないと反対する高齢者がときどきいますが、それは自分の心が貧しいだけです。
私は毎週一回、4時間ほどあるリハビリ施設に通っています。そこのスタッフは30歳代の男女ですす。いろいろな運動器具を使います。
全身のストレッチをしてくれます。ボールやゴムバンドを用いた奇妙な運動もします。そしてその合間、合間に盛んに話しかけるのです。高齢者の口の筋肉の劣化を予防するのです。
その話し言葉が綺麗な日本語なのです。彼等は皆人柄が良いのです。親切で優和で上品なのです。彼等は高齢者だから親切にしているのではありません。相手が人間だからなのです。それはスタッフ同士の会話を聞いていると分かります。嗚呼、日本人も変わったものだと心豊かになります。
さて独創的な技術の創造は容易なことでしょうか?
不可能ではありませんが、それには気の遠うくなるような日本文化の大転換をしなければなりません。
独創性の一例を箱根の彫刻の森の写真で示します。
展示されている彫刻を見てみると兎に角、嗚呼、独創的だと感動するのです。そしてその作者の名前をみます。ロダン、アントワーヌ・ブールデル、へンリー・ムーア、ジャコメッティ、ロッソ、ブランクーシなどの名前が銅板に彫り込んであります。
工業技術の独創性は芸術の独創性と密接に関連しているのです。芸術に独創性が無い限り、技術の独創性は生まれにくい社会と理解するのが自然ではないでしょうか。

今日は日本人の価値観の転換の歴史について少し書きました。
なお彫刻の森の写真は以前に訪れた時に撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「忘れられない昭和20年前後の風景」

2024年12月22日 | 写真
昭和11年生まれの私は昭和時代の侘しい生活を体験しています。日本が高度成長する前の貧しい暮らしを経験しています。昭和20年前後の貧しい日本の風景が忘れられないのです。
そこで「昭和時代の生活の写真」を検索しました。そうしたら昭和時代の生活を伝える写真が沢山出て来ました。その中から六衛府さんのブログ、「カラー画像で見る昔の時代」を選び、以下にその写真の一部をご紹介したいと思います。(六衛府さんのブログは現在削除されています。)
1番目の写真は奈良市東向北町商店街です。1952年(昭和27年)撮影
2番目の写真は吉田茂です。1950年(昭和25年)撮影
3番目の写真は日本国憲法が公布された昭和21年の神奈川県の大磯です。
4番目の写真は昭和19年3月の出征記念写真 です。
5番目の写真は昭和26年(1951年)の秋葉原です。
6番目の写真は1951年・昭和26年の広島駅です。広島郊外バスは現在の広島交通。
7番目の写真は昭和20年9月の東京・銀座四丁目です。服部時計店が進駐軍に接収されPX(兵士用売店)になっています。
8番目の写真は昭和28年(1953年)の沖縄県石川市(現うるま市)です。

1番目の写真は私が若い頃よく見た地方の町の様子によく似た風景です。日本の地方の町々はこのようでした。こんな町は現在でも中山道の奈良井の宿に現存しています。
写真には高度成長が始まる前の町の様子があります。ビルが立ち始め自家用車が次第に多くなっております。いろいろな小売店が繁盛している様子にご注目下さい。この後の時代に大型量販店が沢山出来て繁盛していた小売店が消えてしまったのです。
これらの写真が示すように高度成長前の日本の暮らしは貧しかったのです。
こんな貧しい時代には家庭でクリスマスでを祝うことはあまり一般的ではなかったのです。
私が本気でクリスマスでを祝うようになったのは子供達が幼稚園の頃からです。
山から樅ノ木を取って来てクリスマスツリーを自分達で何度も作りました。それは家内と私の良い思い出になりました。

今日は昭和時代の終戦前後の侘しい生活の写真を示し、私自身のクリスマスの思い出を少しだけ書きました。使った写真は六衛府さんのブログから選びました。最後になりましたが六衛府さんへ感謝の意を表します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「美味しいものは時代によって変わって行く!」

2024年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム
長く生きていると日本人の食べ物へ対する趣向の急速な変化に驚きます。
突然、個人的なことで恐縮ですが、私には男の孫が3人います。家内とよく旅にでたので孫のために美味しい食べ物をお土産に買って、意気揚々と帰って来ます。前の家に住んでいるので電話でお土産を取りに来るように言います。
次の日に、「どうだった?美味しかったろう?」と聞くと、「まあまあ」と変な返事をします。後で前の家に行ってみるとお土産が残してあります。
祖父、祖母が買って来たので礼儀上味を見ただけの様子です。
そこで愕然と悟ります。「美味しいものは時代によって変わって行くのだ!」と。
現在の子供が美味しいと思うのはマックやケンタッキーのようなファストフードやピザやスパゲティのようなイタリアンなのでしょう。
そこで孫に評判の悪かった食べ物を3品選んで以下に記します。これを見れば日本の食文化の変遷を実感出来ると思います。
その3品とは霞ヶ浦の小魚の佃煮と北海道のスルメと横浜の崎陽軒の昔風なシウマイです。
(1)霞ヶ浦の沖宿の小魚や小エビの佃煮
以前に霞ヶ浦で23年間ヨットをしていました。船を出して、沖にある沖宿という漁港に時々寄りました。そしてその漁村にある佃煮屋さんへ小魚や小エビの佃煮をお土産に買います。
その佃煮専門店には、ワカサギ、小ブナ、ハゼのような小魚、小エビなどの佃煮が種類別に、少しずつ味付けを違えて、昔風のガラスケースに並べてあるのです。分別しない小魚、小エビ類を一緒に佃煮にしたものもあります。
家に佃煮を持ち帰って、半分を孫たちへお土産としてあげます。あとの半分は自分の家用です。
それを肴にして冷たいビールを飲みます。すると子供のころに食べた佃煮の美味しかったことを思い出し実に楽しい気分になります。
思えば、昔、肉や卵が貴重で入手できず、佃煮でご飯を何杯も食べていたものでした。そして、その時代、木の折に入った佃煮の詰め合わせが贈答用としてもてはやされていたことを思い出しました。
家内も毎年霞ヶ浦の佃煮を贈ってくれた人のことを懐かしそうに話しだします。

1番目の写真は「沖宿」へ行くため岸へ向っているヨットの写真です。

2番目の写真は「沖宿」の村落のある岸です。

孫たちに佃煮の感想を聞くと、また「まあ、まあ」と例の調子で、曖昧です。美味しくなかったのかとしつこく聞くと、「まずくはなかったよ」と白状します。
評判が悪いようですが何度も佃煮をオミヤゲにしました。孫たちもすり込み効果でそのうち好きになると思ったからです。結果は惨敗でした。前の家は朝はパン食が多いようです。パンと佃煮は相性が悪いのです。その上母親の料理だけを美味しいと信じている様子です。
それでも私は自分用にと、佃煮を時々買います。
佃煮を買うたびにセピア色の写真を見るような郷愁を覚え、楽しいのです。
佃煮を買っては自分でも食べ残し、また買うのは郷愁を買っているのです。私は最後まで佃煮を買う運命にあるのです。
(2)北海道のスルメや魚の干物
北海道へ行くと昔よく食べたスルメやニシンやタラの干物を売っています。
終戦後の食糧難のころよく食べたものばかりです。スルメは七輪の火にあぶって裂いて食べるのです。その濃厚な味は感動的でした。体に力がみなぎってきました。
そしてカラカラに干したニシンやタラは鋏で切って水でもどして野菜類と一緒に煮るのです。肉類がなかなか食べられなかった戦後はそのニシンやタラの身がめっぽう美味しかったのです。からからに干し上げなければ鉄道便で本州まで送れなかったのです。
北海道に行くとそのような海産物が山のように積んで売っています。途端に嬉しくなってお土産に買いました。
結果は最悪でした。孫たちは小田原や伊豆の生乾きのアジやエボダイやキスの干物なら食べるのです。カラカラなスルメや干物は敬遠です。「猫跨ぎの魚」という表現がありますが、カラカラの干物は「孫跨ぎ」だったのです。
(3)横浜、崎陽軒の昔風のシウマイ
昔風のシウマイは真空パックでないので主に横浜にある崎陽軒の販売所で売っています。全国に流通しているのは真空パックです。
真空パックのものは高級ですが真空にするので硬くしまってしまい食べにくいのです。それにひきかえ「昔風のシウマイ」は傷みやすいのですが、ふんわりとして美味しいのです。戦前のレシピのままですので、味は文字通り昔の懐かしい味です。買うとき、「昔風のシウマイ」と大きな声で言います。言わないと真空パックのものを売ろうとします。そして、「今売れ筋はシューマイ弁当です」などと余計な雑音を発します。

3番目の写真は横浜、崎陽軒の昔風のシウマイです。
横浜に行くたびに昔風のシウマイを必ず買って来ます。家内も昔人間なので大変喜びます。
先日、孫達へ一箱上げました。感想は、例によって「まあまあ」です。その上、残しているのです。
結論は、美味しいものは時代によって変わって行くという重大な真理です。

この真理は世界中に普遍的に適用できます。しかしその変化の速度の大きい国と非常に遅い国があるようです。その変化速度はその国の文化の性質によるのです。それは大きなテーマになりますので今日はこの辺で終わりといたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「戦前の仙台市の風景」

2024年12月21日 | 写真
戦前の仙台市の風景です。私は昭和11年に仙台で生まれました。
懐かしい戦前の仙台市の風景です。
1番目の写真は戦前の仙台駅と市電です。
2番目の写真は東一番町の藤崎デパートです。
3番目の写真は戦前の馬車と市電です。
4番目の写真は戦前の公会堂です。

「幻のように消えてしまった懐かしい昔の風景」

2024年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前から戦後にかけての日本の風景は幾つか幻のように消えてしまいました。1964年の東京オリンピック以後の経済の高度成長が日本の風景をすっかり変えてしまったのです。特に都会とその郊外の風景は大きく変わったのです。
戦前生まれの高齢者にとっては昔のままの日本の風景が懐かしいはずです。幻のように消えてしまった昔の風景です。

そこで今日は懐かしい昔の風景の写真を示したいと思います。私と家内の生まれ育った仙台と鎌倉の昔の風景です。
インターネットで昔の風景写真を根気良く探し、見つけた8枚の写真をお送りいたします。

1,私が1948年に卒業した仙台市向山小学校の昔の写真
仙台の向山小学校の学区は青葉城址から続く八木山の丘陵地にある住宅地域です。東は愛宕橋、西はお霊屋下橋までです。
学校周辺には、赤松等の自然林が残っており緑が多く自然環境に恵まれています。学校からは仙台市の中心街が一望できます。天気の良い日は遠く太平洋まで望むことができます。
近くには発達障害児の収容施設があり昭和天皇も行幸なさいました。
1番目の写真は私が通っていた当時の向山小学校の表玄関です。写真の出典は、
https://www.sendai-c.ed.jp/~mkaiyama/school.html です。
この校舎は1979年に鉄筋コンクリートの立派な校舎に改築されました。写真の校舎は現在は存在しますん。
2番目の写真は当時の向山小学校の運動場側から見た昇降口です。運動場には松の大木と奉安殿がありました。

2,八木山吊り橋の写真
青葉山と八木山の間に広瀬川支流が形成した仙台市の名所「竜ノ口渓谷」があります。その標高差70mの断崖絶壁に八木山吊り橋が架かっています。
1931年(昭和6年)に第二師団の軍用道路の吊り橋として開通したものです。
3番目の写真は八木山吊り橋です。私の子供の頃何度も渡り青葉城跡に遊びに行った懐かしい吊り橋です。
(写真の出典:http://plaza.rakuten.co.jp/jxsdes4/diary/201011240000/)

3、鹿落坂(ししおちざか)
仙台の伊達政宗の時代よりはるかに古い坂が鹿落坂です。(https://www.hirosegawa-net.com/?p=625 )
そもそも鹿落坂を経て川を渡る道筋は城下町仙台の誕生以前から昔の東街道としてありました。 元禄年間に書かれた地誌『仙台鹿の子』には、「鹿落坂は越路観音下の坂なり 古よりの細街道にてある故此坂口より鹿とも里へ下り出る故鹿下り坂といへるを今世俗はししおち坂といふなり 此処は昔の東街道にて此道の外仙台西南の山より出入りの路なし」とあります。
私の家は向山にあったので朝夕この坂を通って片平町の東北大学に通ったものです。
4番目の写真は昭和9年に拡幅工事後の鹿落ち坂です。やっと自動車が通れるようになりました。
5番目の写真はお霊屋下橋と鹿落ち坂の遠景です。右の山は経ヶ峰で伊達政宗の霊廟がある山です。

 (4)家内が生まれ育った鎌倉の昔の写真
家内は昭和12年に鎌倉で生まれ昭和20年夏まで住んでいました。鎌倉のカトリック系の幼稚園と御成小学校に行きました。
自宅は長谷寺、鎌倉大仏、加賀藩主の別荘に囲まれた地区にありました。住宅地を少し歩くとすぐに由比ヶ浜に出ます。よく水着にケープを羽織ったまま通って海水浴をしたそうです。
6番目の写真は由比ヶ浜沿いの道路を江の島方向に行った海岸の風景です。終戦後数年後の海岸道路の写真です。海岸道路は現在、舗装道路になり家が建ち並んでいます。
7番目の写真は昔の由比ヶ浜の海水浴の様子です。
8番目の写真は終戦後数年後の鎌倉駅です。鎌倉は空襲に遭わなかったので駅舎は戦前のものです。

今日は昔の仙台と鎌倉の風景写真を示しました。それぞれ私と家内の生まれ育った場所です。写真を眺めているといろいろなことを思い出します。人間の一生は長いものです。しかしすべては邯鄲の夢でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「クリスマスの季節の欧米の街の風景」

2024年12月20日 | 写真
欧米ではクリスマスの季節になるとクリスマスの飾りを売る屋台が並んで賑やかになります。昔ドイツに住んでいた頃にそんな街の風景を見ました。懐かしいです。そこでクリスマスの季節の欧米の街の風景の写真をお送り致します。