今回から、「中川」が「大落古利根川」と「弥生橋」で分岐し北上する川筋を遡った報告。
ここから羽生市にある起点まで、約50㎞。
出かけたのは、梅雨入り間近の6月12日(日)晴れ。その後、曇りが続いた日に歩きました。
それから2週間。今日、6月25日。東京・埼玉は猛烈な暑さです。
こういう猛暑日の川歩きには命の危険が。木陰など遮るものはなし! 近くに休憩できるようなお店もなし! 草いきれの中を歩く! マダニでもいたら、オオゴト! ・・・適度な水分補給と休息を、などいうのんきなことは言ってられません。
というわけで、涼しい部屋でブログを編集しています。
さて、
「弥生橋」から「中川」下流を望む。
ここで、「大落古利根川」と分かれ、上流へ向かいます。
「中川」上流を望む。一直線。昭和初期に開削された水路。
遠くに筑波山(↓)。
「赤岩橋」。
橋の上から西の方角を望むと、遠くに残雪の富士山(↓)。
この先、土手道は草刈りのため、通行止め。
そこで、すぐ東側を流れる「二郷半領用水路」伝いに歩くことに。
「二郷半領用水路」。
吉川市、三郷市、北葛飾郡松伏町東部地域の灌漑の為に整備された用水路。
水路の歴史は古く、寛永年間に開削された用水路で、現在の東京都葛飾区地内の葛西領が利根川に水源を求め水路を整備した際に、松伏溜井から15km下流の小合溜井まで送水するために整備された水路が元である。
江戸川と中川に挟まれた三郷市・吉川市の地域は、古くは二郷半領と呼ばれていた。この地域は早場米の産地であったが、元々中川低地に位置しているため、たびたび水害に悩まされていた。そのため、戦前・戦後を通じて幾多の灌漑排水事業を行った結果、良質な穀倉地帯となった。現在、松伏町大字松伏の二郷半領揚水機場にて大落古利根川の松伏溜井から、また水量補給の為、三郷市彦川戸の二郷半領中川揚水機場にて中川より取水を行っている。
(この項、「Wikipedia」より)
※「領(りょう)」は、利水や水防を目的として、鎌倉時代頃から自然的に発生した共同体。
この用水路に関する記事を掲載したことがあります。
葛飾区水元公園北にある「弐郷半領猿又閘門」。
※「弐郷半領」が、「猿又(東京都の地名。現在水元猿町)」に建設した閘門(水門)という意味。
当初、木造だったので腐朽が激しいうえに、洪水のたびに破壊され、頻繁に修繕を強いられていました。明治時代になり、当時の最先端の建材である煉瓦を使って改良された。
かなり激しい流れになっています。画面左・水元公園側から右・中川(大場川)。かなりの落差があります。・・・
はるか遠くまで広がる水田。
さすが、「穀倉地帯」です。
土手に上がれそうなので。といっても、草の中の踏み跡。
草刈りをした後のようですが、足もとにはもう草が生え始めています。
次の橋「旭橋」が前方に。
橋を渡った左手には、「松伏記念公園」や「中央公民館(田園ホール・エローラ)など総合運動・文化施設が広がります。
中でも、音楽ホールとしては超一流の施設、田園ホール「エローラ」。
日本が世界に誇る作曲家として、又、温厚さと誠実な人柄ゆえに、多くの人々から愛されていた芥川也寸志先生は、作曲家としての仕事の他、日本音楽著作権協会会長、テレビ、ラジオ、そしてアマチュアオーケストラの育成、ホールの建設にと幅広くご活躍をなされておりました。
当町の音楽ホール建設についても、快くお引き受けくださり、音楽ホールの基本的な考え方やホールの重要性、演奏者としての立場からのご指導を受け、ホール建設が進められました。
そして、町民に呼びかけ、愛称選考委員会や芥川先生にご相談をし、豊かな田園をイメージし、「田園ホール」を推薦いただきました。
そして、先生の訃報を聞くことになり、ホール建設にご指導、ご協力をいただいた先生の功績を後世に伝え、感謝の意を込めて先生の代表的な作品である「エローラ交響曲」よりお名前をいただき、愛称を「田園ホール・エローラ」といたしました。
(「松伏町」HPより)
※エローラ
インド西部、マハラシュトラ州の村。7世紀から10世紀ごろの仏教・ヒンズー教・ジャイナ教の石窟(せっくつ)寺院が現存。また、巨大な岩塊を削り出して造ったカイラーサナータ寺院がある。窟の壁面には美しい浮き彫りが施され、仏像や神像などが残っている。1983年「エローラ石窟群」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。
(「デジタル大辞泉」より)
(「世界遺産オンラインガイド」HPより)
ここに描かれた神々は、人間の官能性・性愛を肯定。セックスそのものを彫刻にしている。芥川也寸志氏は、この石窟寺院を訪れたときの強い印象から、「エローラ交響曲」を作曲した、とのことです。
二郷半領用水路が右手に離れて行きます(↓)。