おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR武蔵野線「吉川駅」~東武野田線「藤の牛島駅」。その1。起点まで約50㎞。二郷半領用水路。穀倉地帯。田園ホール・エローラ。(「中川」を遡る。第5回目。)

2022-06-25 19:17:10 | 中川を遡る

今回から、「中川」が「大落古利根川」と「弥生橋」で分岐し北上する川筋を遡った報告。

ここから羽生市にある起点まで、約50㎞。

出かけたのは、梅雨入り間近の6月12日(日)晴れ。その後、曇りが続いた日に歩きました。

それから2週間。今日、6月25日。東京・埼玉は猛烈な暑さです。

こういう猛暑日の川歩きには命の危険が。木陰など遮るものはなし! 近くに休憩できるようなお店もなし! 草いきれの中を歩く! マダニでもいたら、オオゴト! ・・・適度な水分補給と休息を、などいうのんきなことは言ってられません。

というわけで、涼しい部屋でブログを編集しています。

さて、

「弥生橋」から「中川」下流を望む。 

ここで、「大落古利根川」と分かれ、上流へ向かいます。                  

「中川」上流を望む。一直線。昭和初期に開削された水路。

  遠くに筑波山(↓)。

「赤岩橋」。

橋の上から西の方角を望むと、遠くに残雪の富士山(↓)。

この先、土手道は草刈りのため、通行止め。

そこで、すぐ東側を流れる「二郷半領用水路」伝いに歩くことに。

「二郷半領用水路」。

吉川市三郷市北葛飾郡松伏町東部地域の灌漑の為に整備された用水路

水路の歴史は古く、寛永年間に開削された用水路で、現在の東京都葛飾区地内の葛西領利根川に水源を求め水路を整備した際に、松伏溜井から15km下流の小合溜井まで送水するために整備された水路が元である

江戸川中川に挟まれた三郷市吉川市の地域は、古くは二郷半領と呼ばれていた。この地域は早場米の産地であったが、元々中川低地に位置しているため、たびたび水害に悩まされていた。そのため、戦前戦後を通じて幾多の灌漑排水事業を行った結果、良質な穀倉地帯となった現在、松伏町大字松伏の二郷半領揚水機場にて大落古利根川の松伏溜井から、また水量補給の為、三郷市彦川戸の二郷半領中川揚水機場にて中川より取水を行っている

(この項、「Wikipedia」より)

※「領(りょう)」は、利水や水防を目的として、鎌倉時代頃から自然的に発生した共同体。

この用水路に関する記事を掲載したことがあります。

葛飾区水元公園北にある「弐郷半領猿又閘門」。

※「弐郷半領」が、「猿又(東京都の地名。現在水元猿町)」に建設した閘門(水門)という意味。

当初、木造だったので腐朽が激しいうえに、洪水のたびに破壊され、頻繁に修繕を強いられていました。明治時代になり、当時の最先端の建材である煉瓦を使って改良された。

かなり激しい流れになっています。画面左・水元公園側から右・中川(大場川)。かなりの落差があります。・・・

はるか遠くまで広がる水田。

             さすが、「穀倉地帯」です。

土手に上がれそうなので。といっても、草の中の踏み跡。

草刈りをした後のようですが、足もとにはもう草が生え始めています。

次の橋「旭橋」が前方に。

橋を渡った左手には、「松伏記念公園」や「中央公民館(田園ホール・エローラ)など総合運動・文化施設が広がります。

中でも、音楽ホールとしては超一流の施設、田園ホール「エローラ」。

日本が世界に誇る作曲家として、又、温厚さと誠実な人柄ゆえに、多くの人々から愛されていた芥川也寸志先生は、作曲家としての仕事の他、日本音楽著作権協会会長、テレビ、ラジオ、そしてアマチュアオーケストラの育成、ホールの建設にと幅広くご活躍をなされておりました。
当町の音楽ホール建設についても、快くお引き受けくださり、音楽ホールの基本的な考え方やホールの重要性、演奏者としての立場からのご指導を受け、ホール建設が進められました。
そして、町民に呼びかけ、愛称選考委員会や芥川先生にご相談をし、豊かな田園をイメージし、「田園ホール」を推薦いただきました。
そして、先生の訃報を聞くことになり、ホール建設にご指導、ご協力をいただいた先生の功績を後世に伝え、感謝の意を込めて先生の代表的な作品である「エローラ交響曲」よりお名前をいただき、愛称を「田園ホール・エローラ」といたしました。

              (「松伏町」HPより)

※エローラ

インド西部マハラシュトラ州7世紀から10世紀ごろの仏教ヒンズー教ジャイナ教石窟(せっくつ)寺院現存また、巨大な岩塊削り出し造ったカイラーサナータ寺院がある。窟の壁面には美し浮き彫り施され仏像神像などが残っている1983年エローラ石窟群」の名称で世界遺産文化遺産)に登録された。

(「デジタル大辞泉」より)

    (「世界遺産オンラインガイド」HPより)

ここに描かれた神々は、人間の官能性・性愛を肯定。セックスそのものを彫刻にしている。芥川也寸志氏は、この石窟寺院を訪れたときの強い印象から、「エローラ交響曲」を作曲した、とのことです。

二郷半領用水路が右手に離れて行きます(↓)。

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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その7。和戸橋。日光御成街道。大落古利根川起点。葛西用水路。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-23 21:04:27 | 中川を遡る

                満願寺橋方向を振り返る。

「備前堀川」が合流。

さらに「備前前堀川」が合流。

                    合流地点に架かる橋が左「和戸小橋」、右「和戸橋」。

橋を渡る道は旧「日光御成街道」。

※1 東大赤門先の本郷追分で中山道と分岐した「日光御成街道」は、この先、幸手宿で「日光道中(街道)」と合流します。

               この街道はすでに歩きました。

 その時には、今歩いている「大落古利根川」の起点がこんな間近にあるとは思いも寄りませんでした。

※2 地図の上部に「日光御廻(り)街道」が記されています。この街道は、幸手宿と栗橋宿の間にある権現堂川の洪水被害を避けるため、西回りする迂回路でした。約10キロメートル。現在、ほとんどその道筋は不明になっているようですが。        

和戸橋。

右手に大きな「大落古利根川治水碑」。

ここで、この付近のあれこれ。

①日光御成街道と一里塚

江戸時代に整備された日光街道の脇街道であり、将軍が日光東照宮へ社参する際に利用されました。下高野一里塚は、下高野と下野のほぼ境界に所在し、頂上には松が植えられています。もとは街道の両脇にありましたが、現在は東塚のみが残っています。

②西行法師見返りの松碑

文治2年(1186)西行法師は奈良東大寺再興の寄附を請う旅の途中、この地で激しい風雪に倒れ、土地の人に救われました。庭の松をこよなく愛した法師は村人との別れを惜しみ、この地を去る際にこの松を何度も振り返ったと伝えられています。

③古利根川の渡し

昭和初期以前、古利根川の渡河には渡し船が用いられており、江戸時代から近代の杉戸・宮代周辺では上流から「高野の渡し」「河原の渡し」「矢島の渡し」「船屋の渡し」「ガッタの渡し」の5箇所の渡船場がありました。中世にも現在の満願寺橋付近に「高野の渡し」があったといわれています。

      鬱蒼とした木々が迫る。

          遠くに「圏央道」が見えます。

両岸にはこんもりした森が続きます。

        釣り人の姿。

小高い丘。

   正面に「圏央道」の橋脚。

「中落堀川」が合流。

その先、「青毛堀川」が合流。

                      左が「青毛堀川」、右が「大落古利根川」。

右手は「昌平中学・高校」。

「葛西橋」。

           ここから上流は、「葛西用水路」となる。

「葛西橋 始点(中川合流点)から26.78㎞」。

「葛西橋」から「大落古利根川」下流を望む。

土手の草刈りが始まったばかりで、一部は、夏草ぼうぼうの中を歩きました。起点も草に覆われていて、何とか、かき分けて確認。

葛西用水(本川終点)」標示。

葛西用水の上流のようす。

「大落古利根川」歩きは、ここまで。

中川から分かれてから、変化に富んだ川筋でした。かつての大河を思わせる雰囲気。

特に、春日部(粕壁宿)の古利根川との関わりの深さや市民の景観保持の姿に感心しし、さらに、「杉戸宿」など、日光道中歩きの記憶も蘇ってきての歩きでした。

「中川」歩きから途中で「大落古利根川」歩きになりました。次回、改めて「中川」を遡ることにします。

「青毛堀川」から「大落古利根川」合流点を望む。

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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その6。髙橋屋。杉戸宿。特急スペーシア。鎌倉橋。満願寺橋。西行。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-22 19:31:46 | 中川を遡る

                  橋を渡り、左岸を歩くことにします。

右手に、

「うなぎ割烹 髙橋屋」。

古利根川の流れとともに
「伝統の味と心を」伝えて百五十年

私共は、川のほとりで、室町三井家の流れを汲んでおります。

かつて多くの旅籠で賑わった宿場町「杉戸宿」。その川沿いで明治より続く、百五十年の歴史を持つのが当店「うなぎ割烹・髙橋屋」です。
古き良き荘厳な佇まいの暖簾をくぐると、庭園を含めた五百坪の広大な敷地がお出迎えいたします。各界の著名人も足繁く通う、髙橋屋ならではの絶品のお料理とおもてなしをご堪能ください。

(「髙橋屋」HPより)

  八九間 空で雨ふる 柳哉   はせ越(松尾芭蕉)

※季語は柳で春。

元禄7年春。51歳。『続猿蓑』中の句。8、9間の柳には春雨が降っている。

※8、9間は柳の高さなのか、幅なのか? 1間は約1.8㍍。

春雨は、降ったり止んだり、しっとりと降る雨で、「来ぬか雨」(小糠雨)とも。

「河原橋」。

左岸の東側は旧「杉戸宿」。

杉戸宿
 現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町中心部に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて5番目の宿場。
 古くから利根川(現・古利根川)の渡し場があり、日本武尊が東征を行った際にこの付近に上陸し、そこが杉の木が茂る港(水門)であったことから杉門と名付けられたとする伝説がある。
 宿場自体は五街道の整備に伴い、1616年(元和2年)に近郊の郷村を集めて成立した。宿場は街道に沿って町並みを構成し、5と10のつく日には六斎市が開かれ、近郷商圏の中心地となっていた。町中は新町・下町・中町・上宿に分かれ、それぞれに名主や問屋が置かれ、本陣・脇本陣はいずれも中町に置かれていた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、杉戸宿の距離1里21町、町並8町20間、道幅5間、人数1663人(男789人、女874人)、家数365人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒(大4・中7)、問屋場1軒、宿建人馬25人25疋であった。
 現在の町並みは、都市化の影響をさほど受けていないためか旧家も比較的よく残り、旧宿場街の面影を感じさせる。(以上、「Wikipedia」より)

1880年代のようす。日光道中に沿っての街並み。

現在のようす。道筋は変わらない。

日光道中歩きの時の写真を紹介。

・・・

宿場の出口・入口にある曲尺手(桝形)に、

    

角穀跡/小島定右衛門邸
 宿場の特徴のひとつでもある町端の「枡型」。その道沿いに堂々たる風格を見せる古民家が「角穀」です。母屋と蔵が並ぶ優美さは道行く人の心にひときわ刻み込まれてきたことでしょう。
 かつて敷地内には、表の蔵(袖蔵)に続きさらなる他の蔵三つが連なっていました。敷地を囲む外壁にも収納空間があったといいます。屋内では大木を使った梁や柱が木材の美しさを際立たせています。また、母屋二階から見晴らす街道のほぼ全景には、ここからでしか味わえない爽快さが感じられます。
 創業は二代目小島定右衛門によるそうです。屋号は枡型の通りの「角」にある「米穀問屋」を意味しています。日本橋蛎殻町や門前仲町といった場所の、四つの商店と情報を共有し、相場の変動にあわせた米取引を行いました。米の輸送する際には、近くを流れる大落古利根川を利用していたそうです。角穀は、杉戸宿の面影を今に伝える貴重な建物です。
                       

 ・・・

東武日光線鉄橋。

                   特急スペーシアが通過中。

「南側用水の碑」。

     戦後使われていた、巨大なポンプが産業遺跡として設置されている。

「杉戸宿」の時、用水路跡が遊歩道になっていました。その解説板に、

南側用水路は、江戸時代初期の万治3年(1660年)、利根川筋・本川俣村に葛西用水の取水口が作られた際に、その支流として当時の幸手領南側一帯(幸手市から杉戸町を経て春日部市まで)に農業用水を供給するためにもうけられた。
杉戸町を9.5kmに渡り流れる南側用水路は、大切な農業用水路としての役割を果たすとともに、清らかな水に魚が泳ぎ、沿線の人々の生活に深く係りながら、身近な水辺として親しまれてきたという。
だが、農業用水のパイプライン化により、昭和63年3月に300年あまりに亘る用水路としての役割を終えた。
 
 
小さな堀が流れ込んでいる。
 
この流れは旧古利根川の古い流路跡になっているようです。そのため、対岸は、杉戸町に。
 
人道橋・「鎌倉橋」が見えてきます。
 
 
           中世の鎌倉街道にちなんでいるようです。
 
  
 
この付近の今昔。
 
1880年代のようす。右岸が西に屈折している。
 
北葛飾郡に所属する「杉戸・下高野村」の境が流路になっている(西は埼玉郡)。 
 
2010年代のようす。右岸に杉戸町の一部が。
 
次の橋は「満願寺橋」。
 
「起点(中川合流点)から24.1㎞」。
 
捨て果てて 身はなきものと おもへども 雪のふる日は さぶくこそあれ 西行
 
芭蕉は『西行上人像讃』で、この歌に、「花のふる日は浮かれこそすれ」と付けた。
 
確かに西行の歌は、後半があまりにも俗人的で、芭蕉の付け句の方が、生涯、花(桜)を詠った、西行らしい。
 
一説では、そもそも西行の歌ではなく、後世の贋作では、という。
 
といっても、芭蕉の時代にはすでに巷間に伝わっていたようですが。        
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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その5。宮東橋・清地橋・古川橋。杉戸宿。古利根川流灯まつり。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-20 18:57:34 | 中川を遡る

                     再び川沿いの道になります。

               遠くに見える橋は、「宮東橋」。水管橋と道路橋が並んでいます。

「起点(中川合流点)から18.98㎞」。橋を渡って右岸に。

下流を望む。

橋の先、左手に休憩スポットがあります。

木陰もたっぷりで、小休止。「「みやしろ健康マッ歩案内図」。

対岸を望む。

左手は田畑。

              

「起点(中川合流点)から20㎞」。

           川幅が狭くなっています。

「清地橋」。

             対岸(左岸)は、杉戸宿の街並みになります。

川沿いには、「流灯ふれあい館・ 杉戸町観光案内所」、「杉戸町流灯工房」が並んでいます。

夏には「古利根川流灯まつり」が行われるそうです。

古利根川流灯まつり

幻想的な流灯を見にきませんか

 古利根川流灯祭は、昭和初期頃に始まり、杉戸町と隣の宮代町との境を流れる古利根川を利用して、杉戸町・宮代町の商店会が協力し、「流燈曾」として、それぞれの店が工夫を凝らした灯篭を古利根川に浮かべる、店のPRを兼ねたイベントとしての祭りでした。

 その後、一時中断しておりましたが、近隣市町のように特色のある、誇れるイベントのない状況を憂慮したした町民より「何か特徴のあるイベントで町おこしを」という気運が盛り上がり、杉戸町の「本町昭和会」(駅前商店会の有志)が中心となって、平成2年に今ある形の「古利根川流灯まつり」として復活されました。

 以後、平成6年より杉戸町観光協会主催として、「古利根川流灯まつり実行委員会」を組織し部会を設け、賛助金の募集方法、イベントの内容、作業日程などの検討を行い、各団体が中心となって毎年準備を進め、実施しております。

 近年では、テレビにも毎年風物詩として取り上げられるようになり、県内外から多くのカメラ愛好家をはじめとする観光客が足を運び、「訪ねて見たい!-21世紀に残す日本の風景遺産100選-」(読売新聞社刊)にも選定されるなど、初期の目的を達成しつつあります。

見どころ

 畳1畳分もある日本一大きな灯篭が川に浮かぶ様子です。

 この灯篭は、組み立て細工の要領で釘を使わずに全て町の人の手作り。これが、200~250基。さらに、ミニ灯篭も加えて約1kmにわたり光の帯が川面を埋め尽くすさまは、まさに地上に降りた天の川のようです。

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(この項、「」HPより)

今年の開催ポスター。

次の橋が、「古川橋」。

だんだん古利根川の起点(あと約5㎞)に近づいてきます。

「起点(中川合流点)から21.68㎞」。

橋から上流を望む。

左折して200m程で、東武線「東武動物公園駅」。

「日光道中」歩きのときは、杉戸宿から「古川橋」を渡り、駅前に出て昼食休憩しました。

               「日光道中 宿場」。

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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その4。国道16号線。首都圏外郭放水路「第5立坑」・(地下神殿)。富士山。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-17 21:17:57 | 中川を遡る

春日部大橋」。

「国道16号線」。この国道は東京エリアを一周しているので(「環状道路」)、街道歩きや川歩きでは必ず出会います。

両側は、静かな住宅地に。

「起点(中川合流点)から16㎞」。

右手に大きな施設。

施設名に「国土交通省 首都圏外郭放水路(彩龍の川) 大落古利根川流入施設」。

ここは、「第5立坑」と名づけられた施設。

             

首都圏外郭放水路は、洪水を防ぐために建設された世界最大級の地下放水路です。中川、倉松川、大落古利根川、18号水路、幸松川といった中小河川が洪水となった時、洪水の一部をゆとりのある江戸川へと流すことができます。
中川・綾瀬川の流域は、利根川や江戸川、荒川といった大きな川に囲まれています。この地域は、土地が低く水がたまりやすいお皿のような地形となっているため、これまで何度も洪水被害を受けてきました。また、川の勾配が緩やかで、水が海まで流れにくいという特徴があり、大雨が降ると水位がなかなか下がりません。さらに近年では、都市化が急速に進み、降った雨が地中にしみこみにくく、雨水が一気に川に流れ込んで洪水が発生しやすくなっています。
首都圏外郭放水路の完成によって、周辺地域で浸水する家屋の戸数や面積は大幅に減り、長年洪水に悩まされてきた流域の被害を大きく軽減しました。

    全体構成図

まず、各河川から洪水を取り入れる「流入施設」と「立坑」、洪水を流す地下河川の「トンネル」、そして地下空間で水の勢いを弱め、スムーズな流れを確保する「調圧水槽」、さらに地下から洪水を排水する「排水機場」などで構成されています。

      

(この項、「」HPより)

江戸川にある調圧水槽

下水路のトンネルから流れてきた水の勢いを弱め、江戸川へスムーズに流すための施設

調圧水槽

この巨大な水槽の役割は二つ、水のくみ上げと排水を安定したポンプ運転で行うこと、ポンプを緊急停止させた時に発生する逆流を調節することです。
地下22mの位置にあり、長さは177m、幅78m、高さは18m。
調圧水槽の天井部分がサッカーグラウンドとなっているので、地上からもその大きさをイメージすることができるでしょう。
内部は荘厳な雰囲気と、柱と空間の巨大さから「地下神殿」とも表現され、首都圏外郭放水路を象徴する人気の施設です。

(「同」HPより)

※78メートル×177メートルの広さと高さが18メートル。池袋のサンシャインビル一杯分の水を貯水できるとのこと。

巨大な柱は500トンの重さで全部で59本あるそうです。

江戸川歩きのとき、国道16号線の手前で、対岸に「地底探検 ミュージアム 龍Q館」という施設があることを知りましたが、行くことが出来ず。見学会もやっているそうなので、機会があったら孫でも連れて来てみるかな。

外観。

古利根川側の流入口は定かではありませんでした。

航空写真(2010年代のようす)。

「小渕橋」。

右岸から「隼人堀川」。

「起点(中川合流点)から17㎞」。

ついで、「姫宮落川」が合流。

釣り人が何人も。

川沿いの細道を進む。

右手は河川敷内の田んぼ。その先で行き止まりに。

右手に左岸堤防。

河川敷外の水田。

「起点(中川合流点)から18㎞」。

振り返ると、遠くに、うっすらと雪を残した富士山(↓)。

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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その3。見世蔵・土蔵。新町橋。上喜蔵河岸。粕壁宿。古隅田川。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-16 21:29:04 | 中川を遡る

                   蔵造りの家並み。一本、春日部駅寄りの道が「旧日光道中(街道)」

公衆トイレの壁面。

       前回紹介した「碇山のイヌグス」にちなみ、河岸のようすが描かれています。

その先には「新町橋」。

              「中川合流点から15㎞」。

日光道中 粕壁宿 新町橋上喜蔵河岸跡」碑。

新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。長さ16間(約29㍍)、横幅3間(約5㍍)の板橋で、高覧が付いていた。架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、往来を妨げないように仮橋が架けられた。新町橋の上流には、上喜蔵河岸と呼ばれる船着き場があり、石垣の一部が現存している。江戸時代、粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い6月中旬~8月中旬(旧暦)には、小型の高瀬船などで米や生活物資を運搬した。

日光道中粕壁宿
 日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし正徳6年(1716)に五街道に名称についての御触れが出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。
 粕壁宿は、江戸時代元和2年(1616年)に日光道中千住宿から数えて第4の宿場に定められたとされています。寛永13年(1636)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わりの頃の記録によると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「脇本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字に分かれていました。

江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取りました。 また、岩槻宿と関宿を結ぶ道が通ることからも商業・交通の要地として商人や旅人でにぎわいました。

※『日光道中宿村大概帳』によると本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、家773軒があり、日光街道23宿のうちの6番目の規模であった

「粕壁宿」は日光道中歩きの時に通過。2016年5月、6年前でした。建物を中心に再掲。

・・・


    
 「永嶋庄兵衛商店」。創業は「慶長年間」とか。「慶長」は、天下分け目の関ヶ原の合戦、豊臣の滅亡、徳川幕府の成立など日本史の上では激動の時代。

    
 大きな「道標」には、「西南い八つき」「北日光」「東江戸 右乃方陸羽みち」と刻まれています。

 どっしりとした格調高い白壁のおうち。
    

    

    

蔵造りの建物。裏手に長く家屋が続きます。

中央奥に「最勝院」。

交差点のところに黒光りした蔵造りのおうち。 
高札場跡 浜島家住宅土蔵
 この十字路は、明治22年(1889)の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だった。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用された。 
 交差点を右に折れ、「新町橋」を渡ります。

    
          「新町橋」と「大落古利根川」の流れ。

・・・

「日光道中」は新町橋を渡り、その先を左折し、北に向かいます。

今回は、「大落古利根川」歩きです。新町橋を渡り、左岸に移ります。

左手から「古隅田川」が合流します(橋の上から上流を望む)。

かつて、隅田川利根川の下流に位置しており、武蔵国下総国の境界線となっていたと考えられている。埼玉県東京都にある2つの古隅田川はかつては利根川-隅田川の一部であり、現在の河川に則すれば、古利根川から古隅田川(埼玉側)、元荒川中川、古隅田川(東京側)、隅田川という流れが利根川及び荒川の本流であったと考えられている。

なお、現在の埼玉県の古隅田川は元荒川の近く(さいたま市岩槻区南平野付近)を源として古利根川に向かって注いでいるが、中世以前は反対に古利根川から元荒川に向かって大河川が流れていた。

これは現在も一部に残る自然堤防跡や古文書において現在の古隅田川流域の東側地域(春日部市の旧北葛飾郡庄和町など)が「下総国」下河辺荘に属していることからも分かる。

その後、関東造盆地運動の影響により古隅田川一帯が隆起して、利根川の本流が現在の古利根川からそのまま中川に向かう経路を取る様になり、更に江戸時代利根川東遷事業やそれに付随した入間川の荒川・隅田川への付け替え工事によって利根川・中川・荒川(隅田川)が切り離され水位が低下、埼玉の古隅田川の流れも逆方向に向かうようになったと考えられている

(この項、「Wikipedia」より)

※亀有駅付近では、葛飾区と足立区の区界となっている「古隅田川」が存在している(ほぼ暗渠で、一部「東京拘置所」北側に流れが見られる―探索済―)。

                 この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

日光道中沿いの粕壁宿のようす。橋は、「新町橋」のみ。

                     2010年代のようす。

中央に東武線「春日部駅」。古隅田川の流れは変わっていない。

左岸から新町橋を振り返る。

※粕壁宿(春日部)内から遠ざかるので、春日部に縁ある二人の俳句を。

川縁の案内板を見逃したので。※案内板に掲載された句ではありません(たぶん)。

葛飾や桃の籬も水田べり水原秋桜子)

鰯雲人に告ぐべきことならず加藤楸邨)

春日部は「クレヨンしんちゃん」が特に有名ですが、それだけではないのです。そうそう「匠大塚」本店もあります。

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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その2。風のテラス。イヌグス・タブノキ。芭蕉・曾良。千住馬車鉄道・テト馬車。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-15 21:59:34 | 中川を遡る

緑道に沿って、様々な草花が咲いています。小さなアジサイもいくつか。地元の方が管理運営しているようです。

             

「大落古利根川 風のテラス」。下流方向へ続く。

他の場所でも花壇など、環境整備に努めているようす。散歩しながらゴミなどを拾い集めている人たちにも出会いました。

「八幡橋」。賑やかな市街地になってきます。

「中川合流点から14㎞」。

「埼葛橋」。

           「国道4号線(現日光街道)」の橋梁。

整備された遊歩道。

左手の森に「イヌグス」の解説板があります。

古くからまちを見守り続けるイヌグス

江戸時代の粕壁宿は、米や麦の集散地として栄え、古利根川を利用した舟運が行われていました。この看板のある付近には、下喜蔵河岸(荷の積み卸し場)があったと伝えられています。舟の停泊に便利で、その岸辺が小高い丘であったことから、地域の人々はこの辺りを「碇山(いかりやま)」と呼んでいました。

また、この「碇山」にあるイヌグスの巨木は、船頭にとって船着き場の目印とされていたと伝えられており、「碇山のイヌグス」と呼ばれ、親しまれてきました。

かつては、夏になると、涼を求めてイヌグスの木陰に集まり、地域の憩いの場となっていました。子どもたちは、枝にロープを付けてブランコ遊びをしたり、昼時になると、近くで働いていた職人たちの食事場となり、イヌグスの枝の上で涼む人もいたようです。

このイヌグスは、現在も地域の人々に愛され、春日部の歴史を現代に伝える貴重な地域資源となっています。

     他の木々も鬱蒼と茂っている、その真ん中にイヌグスの古木があります。

はっきり分からないので、「Googleマップ」から拝借。

※「イヌグス」=「タブノキ」。

・・・漁業では海上から見て陸に高くそびえるタブノキを目印に位置を知り、魚を集める「魚寄せの木」として活用された。(「Wikipedia」より)

「春日橋」。

          どういう用途の舟? ではないか。

その先は、「古利根公園橋」。

立派なお屋敷。

「古利根川親水テラス」に案内板が。

奥の細道 曾良随行日記

三月廿七日夜カスカヘニ泊ル江戸ヨリ九里余 廿八日マゝタニ泊ルカスカヘヨリ九里 前夜ヨリ雨ル辰上尅止ニ依テ宿出 間モナク降ル午ノ下尅止 此日栗橋ノ関所通ル手形モ断モ不入  河合曾良

※尅=刻 廿=二十

解説

曾良随行日記のこの記述から奥の細道の旅の芭蕉が第一夜を春日部に泊まったことが確実視されています。新町橋は江戸時代に古利根川に架かっていたので、芭蕉と曾良は新町橋を渡って日光への道を急いだものと思われます。

(旧暦三月二十七日・・・新暦五月十六日)

草臥れて 宿かるころや 藤の花 松尾芭蕉

※「笈の小文」にある句。季語は「藤の花」で、春。

松尾芭蕉が貞享4年(1687年)10月に江戸を出て、尾張・伊賀・伊勢・吉野・大和・紀伊をまわり、須磨や明石を旅したときの俳諧、記録をまとめたもの。この句は、吉野山(桜の名所・歌枕)に向かうときの句。

『笈の小文』の一節

旅の具多きは道ざはりなりと、物皆払捨てたれども、夜の料にとかみこ壱つ、合羽やうの物、硯、筆、かみ、薬等、昼笥なんど物に包みて、後に背負ひたれば、いとゞすねよわく力なき身の、跡ざまにひかふるやうにて、道猶ほすゝまず、たゞ物うき事のみ多し。

        草臥れて宿かる比や藤の花

 

          草土手や 茶屋の前なる 鳳仙花   ※作者名が撮れていない!

         古利根公園橋正面にある千住馬車鉄道「テト馬車」のレリーフ   

明治26年(1893年)日光街道に、千住茶釜橋(現千住新橋付近)を起点とし大沢(現越谷市)まで、レールの上を馬車で人や荷物を運搬する千住馬車鉄道が開業しました。その後、粕壁(現春日部市)まで鉄道は延伸されましたが、東武鉄道の開業に伴い明治33年(1900)に廃止されました。

写真は明治28年(1895年)。

(この項、「草加今昔」HPより) 

ちなみにこの写真は、現市役所付近らしい。「日光道中」歩きの時にこの馬車鉄道の跡をたどっていたわけです。

※「トテ馬車」の由来は、お豆腐屋さんが吹くラッパを使って「トテー、トテトテトテー」と吹いて、馬の歩くリズムと合わせてお客さんに聞かせていたことから、そう呼ばれるようになったらしい。(「コトバンク」参照)

下流を望む。        

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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その1。鳰(にお)・かいつぶり。古利根きらめき通り。ゆりのき橋。川久保公園。葛飾。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-14 20:56:58 | 中川を遡る

今回、「大落古利根川」の起点まで歩くことに。橋がけっこうあり、左岸、右岸の歩きやすい土手道を探りながら歩くことにします。

「藤塚橋」からしばらく右岸(西側)を。「古利根きらめき通り」・「古利根川緑道」。

左岸(東側)は桜並木が続く道。右岸は日差したっぷりで暑い! 

古利根の 水なめらかに 鳰進む (高野素十)                              

                             ※鳰(にお)=かいつぶり。冬の季語。

                              鳰の海=琵琶湖の古名。

「万葉集」には、 

鳰鳥の 潜(かづ)く池水 心あらば 君に我(あ)が恋ふる 情(こころ)示さね 《大伴坂上郎女》

※「鳰鳥の」は「葛飾」の枕詞。

鳰鳥(にほどり)の葛飾早稲(わせ)を饗(にへ)すともその愛(かな)しきを外(と)に立てめやも

                                         《作者不明・東歌》

(「Wikipedia」より)

カモの子?もしくはカモの仲間? いえいえ、まったく関係ないです

全長26cm。夏羽では首は赤茶色、冬羽では黄茶色です。足には各指にみずかきがあり、潜水は大得意で、足だけで泳ぎます。小魚、ザリガニ、エビ類、大きな水生昆虫などを食べています。日本では全国に分布しています。
水ぬるむ春、池や沼や湖で、そこに浮いていたかと思うとアッという間にもぐってしまい、あちらの方でポッカリ浮かびあがる潜水の名手。カモなどと一緒にいると、カモの子供に見られてしまうことがありますが、親鳥です。水草を積み重ねて水面に浮巣をつくり、夏のはじめ、綿毛のようなかわいいヒナを連れて泳いでいます。
琵琶湖の古名は「鳰(にお)の海」で、鳰―カイツブリは昔から知られていたようです。

(この項、「サントリー日本の鳥百科」HPより)

※「古利根きらめき通り」には、案内板の下部に、このように、主に古利根川や春日部にちなんだ俳句が掲載されています。すべてが当地で詠まれたものではないようですが、歩きながら、果たしていくつ気がつくか? 楽しみです。

 古利根川の遊歩道(古利根きらめき通り)には、いくつかの案内板があります。案内板の下半部に注目していただきますと、主に古利根川や春日部にちなんだ俳句が書かれています。すべてが当地で詠まれたものではありませんが、松尾芭蕉、正岡子規、高浜虚子、水原秋桜子、加藤楸邨等々の俳句は、川歩きをする人々へ心の彩りを与えてくれます。

 春日部来訪者で1、2を争う著名人といえる松尾芭蕉(1644~1694)は、同行していた弟子の曽良の日記によると、元禄2年(1689)『奥の細道』の行程で日光道中粕壁宿に一泊したと考えられています(今日は何の日)。芭蕉が当地で詠んだ作品はありませんが、案内板には、大和国で詠まれた「草臥て 宿かるころや 藤の花」が選ばれています。想像をたくましくして、藤の花で有名になった現代の春日部へ、もしも芭蕉が訪れたとすると、このように藤花を愛でて句を詠んだかもしれませんね。

 古利根川と古隅田川沿いを実際に歩いたのは、近代俳句では著名な2人の人物、水原秋桜子(1892~1981)と加藤楸邨(1905~1993)です。旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)へ昭和4年(1929)に新任で国語教師として赴任した加藤楸邨は、中学校の同僚教師に勧められて俳句を始め、安孫子医院(閉院)に月2回ほど東京から往診に来ていた水原秋桜子から俳句の指導を受けていました。句会が終了すると二人は古利根河畔を散歩して、俳句について論じあっていたといいます。加藤楸邨は、昭和12年に辞職し、俳句を志すため大学に進学し東京へと移ります。この間8年、夫人や子供たちとともに、古利根川と古隅田川の河畔を歩いたことでしょう。夫婦で散歩していて、生徒たちにからかわれたというエピソードも伝わっているようです。

(この項、「春日部市教育委員会・郷土資料館」ポータルサイト」より

※「藤塚橋」の補足(上記の解説板に「さんぞうの渡し」と記されています。

 

昭和17~18年                    昭和25年ごろ

橋が架けられる以前、藤塚橋を挟んで上流には「三蔵の渡し」、下流には「藤塚の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。古利根川と庄内古川に挟まれた豊野村にはこのほかに、古利根川には「地蔵坊の渡し」「彦太(平方)の渡し」「戸崎の渡し」が、庄内古川には「永沼の渡し」「水角の渡し」「倉田の渡し」という渡船場がありました。藤塚橋より下流の「地蔵坊の渡し」は、古利根川右岸に地蔵が祀られていたことにちなんだもので、渡し舟は藤塚村本田下組の人々の寄付で造船され、村の人たちによって管理されていたそうです。渡し賃は下組の人は無賃、組以外の人からは一銭くらいをもらっていたそうです。藤塚橋が架橋される昭和初めまで渡し舟があったといわれています(『春日部市昔むかし』)。藤塚橋は、一ノ割駅に直接通ずる橋として利用されましたが、「三蔵の渡し」「藤塚の渡し」の中間点にあたり、事実上、二つの渡船場を継承する橋として架けられたともいえるでしょう。

(この項、「春日部市教育委員会・郷土資料館」HPより)

やっと木陰が。

                   前方は「ゆりのき橋」。

              

                       その先、左には、「川久保公園」。

川久保公園は、埼玉県春日部市のほぼど真ん中の緑町にある大落古利根川の河川敷を整備して作られた公園です。園内には、珍しい石で作られた滑り台やベンチ、モニュメントがあります。
また、河川敷の水辺の自然をそのまま利用したビオトープがあり、多くの野鳥や水場に生きる生物を観察することが出来ます。
その他に、河川敷側の園路は春には桜が綺麗に咲きますので、桜を見ながらの気持ちいいお散歩やお花見がおススメです。
親子連れや仲間同士でのんびりと過ごすのに適した公園です。(「」HPより)

釣り人の姿。

             対岸も緑豊かな「牛島古川公園」。

東武野田線(アーバンパークライン)橋梁。

全線、ほぼ単線です。

牛島人道橋。

「中川合流点から13㎞」。

          ハンゲショウの群生地のようです。どれがそれなのか、分からず。

※ハンゲショウ は、ドクダミ科ハンゲショウ属に分類される多年草の1種である。カタシログサ ともよばれる。水辺や湿地に生え、高さ1メートルに達し、葉は互生する。夏に小さな花が集まった細長い総状花序をつけ、その周囲の葉が白く変色する 。東アジアから東南アジアに分布し、日本では本州以南から報告されている。

                    (「Wikipedia」より)

春日部市立東中学校。

この付近の1880年代のようす。

                                          「葛飾郡」とある。

葛飾郡は下総国の西端に位置する、南北に長い広大な郡で、南は東京都墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区、千葉県市川市・船橋市西部、北は埼玉県杉戸町、茨城県五霞町に及んでいた。

※現在も杉戸町は、北葛飾郡となっています。

この地域は、東に「庄内古川(現中川)」と西に「古利根川」に、はさまれた微高地になっている。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「一ノ割駅」。その4。古利根橋。起点から10㎞。旧日光街道。川の駅ふじつか。藤塚橋。(「中川」を遡る。第3回目。)

2022-06-13 21:23:21 | 中川を遡る

               水管橋と並んで「古利根橋」。

     対岸は、越谷市。

下流を振り返る。

「始点(中川合流点)から8.13㎞」。

先に見える橋が「古利根川橋」。

国道4号線バイパス。             

古利根橋を振り返る。

古利根川橋をくぐります。橋のたもとにうどんのお店が。土手沿いに幟がはためく。

水原秋桜子の句。青葭の そよぎて禽は 水に入りぬ

                              ※「青葭」夏の季語

釣り人一人。

植え終えたばかりの田んぼ。

ここにも小舟。

                     うち捨てられたまま。

「起点(中川合流点)から10㎞」。東武線「一ノ割駅」まであとわずか。

          

「川の駅ふじつか」案内図。

①大落古利根川周辺には、流作場と呼ばれる田んぼがありました。流作場とは、河川堤防内の田んぼのことで、洪水のときは収穫がありません。ハンノキは、かさがけ(木の間にロープを張り稲を干すこと)に利用されました。

②むかしは川でカラスガイ取りが行われていました。

③藤塚地域では、河畔砂丘が形成されました。河畔砂丘は、大きな河川の平野部に作られる特殊な地形で、川の氾濫と季節風によって作られます。

                  この付近の今昔。

                                                                   

1880年代のようす。渡船場がある。川沿いが旧日光街道。     2010年代のようす。藤塚橋が架かっている。

                                                                          1880年代のようす。自然堤防があり、微耕地が広がっています。

「藤塚橋」。この橋を渡って「一ノ割駅」へ。

「起点から11.24㎞」。

川の中央に木がポツンと。

東武伊勢崎線「一ノ割駅」。

「一ノ割」は、古くは「下総(しもうさ)の国」に属し「市野(いちの)割(わり)村」と呼ばれていました。 その後、田畑となっている土地を、一ノ割、ニノ割と分けて呼んだ事から、明治時代には「一ノ割村」となったそうです。 大正15年、東武伊勢崎線の新駅開設時には、地名から「一ノ割駅」と命名されました。

今回は、ここまで。

次回、「大落古利根川」の起点まで歩くことに。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「一ノ割駅」。その3。桜並木。かがり火公園。堂面橋・渡し。(「中川」を遡る。第3回目。)

2022-06-12 20:29:27 | 中川を遡る

               土手沿いに桜並木が続きます。

解説板。

             地元の方の環境整備の熱意を感じます。

亀が悠々と。

「大落古利根川リバーウォーキング」。

       距離が示され、目安になって助かります。

「堂面橋」。

その先に、「かがり火公園」。

遊歩道から下流を望む。

上流方向。

               釣りをする人がテラスに腰掛けて。

解説板。高浜虚子の句 藻刈り舟 つなぎ上りし 昼餉かな

                     ※「藻刈り舟」=藻を刈るために用いる小舟。季語は夏。

同じく 泳ぎ児や 河童のごとく 藻をかぶる

さらに、この付近にあった「堂面の渡し」の解説が。

『武蔵国郡村誌』の埼玉郡向畑村の項には「耕作渡 村道に属し村の東方 古利根川の下流にあり 渡船一艘 私渡」とあります。昭和30年(1955)の初代堂面橋架橋まで営業していました。また、堂面橋周辺は、大落古利根川沿いの桜並木と富士山、川面に映る夕焼けといった良好な景観が望めるポイントとなります。

また、松伏町の名の由来や特色の解説も。

(由来は省略)・・・江戸川、中川、大落古利根川の3本の河川が流れ、春には川辺がからし菜や桜で彩られるほど、多くの自然が残っています。町の北部と南部に広がる水田、点在する屋敷林といった貴重な田園風景が町の景観のとくしょくとなっています。・・・

この付近の今昔。

1880年代のようす。渡し場がある。

     ただし、街道等の渡しではなく、上記にもあるように耕作地への行き来に利用されたもののようだ。

2010年代のようす。

       三角形のところが「かがり火公園」。

大河の趣。

「始点(中川合流点)から6㎞」。

その先に、古い距離標(「6.2K」)。

先に進みます。

右手に旧土手。

新旧土手の間に水田。

緑道が続きます。たまに散歩する人たちと行き違う。

木製の小舟が一艘、川面に。

                まだ現役のような印象。これで行き来するのでしょうか。

緑道のすぐ脇にも畑地。

               春日部市に入ります。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「一ノ割駅」。その2。松伏町。ウォーキングロード。古利根堰。(「中川」を遡る。第3回目。)

2022-06-10 20:25:03 | 中川を遡る

            「水と緑のネットワーク」案内板。

        左岸も右岸もウォーキングコースとして整備されています。

中川との合流点を振り返る。

          左岸は、松伏(まつぶし)町。対岸は、越谷市。

ところで、「松伏町」とは?

松伏町は、埼玉県の東南部、北葛飾郡のやや南に位置し、都心から30km内の首都圏近郊整備地帯に属しており、東は江戸川を隔てて千葉県野田市、南は吉川市、西は大落古利根川を境に越谷市、また、北は春日部市に接しています。
 町域は、東西約4km、南北約7.5kmと南北に長い形をなしていて、行政区域面積は、16.20平方kmです。

 地形は、一部北部の台地を除いて標高4mから6mの氾濫平野自然堤防で形成された、ほぼ平坦地です。

(地名の由来は、)松伏町の名の由来
 「まつぶし」という地名の由来には2説あります。ひとつは、巷説に、
中世末期に松伏に移住した石川民部家が移植させた松の樹形が伏せ松であったから、とする説です。もうひとつは地形由来説で、「ぶし」とは河川が形成した自然堤防地形を意味し、松の生えた「ぶし」が地名の起こりとなったといいます。

(この項、「松伏町」HPより)

河川敷にも遊歩道が。

     林と茅と芝と。

          「始点(中川合流点)から1.3㎞」。

その下に加藤楸邨の句畔塗りて 新しき野が 息づけり(る)

※季語「畔塗り」=春、畦を土で塗り固めること。

田んぼを取り囲んでいる土の壁に田んぼの土を塗り付けて、割れ目や穴を塞ぎ、防水加工をすること。モグラやケラが開けた穴から水が漏れるのも防ぐ。

(「」より)

「ふれあい橋」。

上流に「水管橋」。

対岸左奥は、「増林公園」。

             

両岸とも河川敷が広く、土手も低くて、開放感があります。

土手のすぐ脇には、畑。

川面と河川敷と土手とその外側とあまり高低差がありません。川が運んできた土砂によって微高地が形成されているようです。

      

川幅は狭いが、緑豊か。

            快適なウォーキングロード。

前方に「古利根堰」が見えてきます。

「寿橋」。

「古利根堰」。

上流側は最大貯水量2,000千㎥、貯水面積109haに及ぶ松伏溜井となっていて、右岸側から瓦曽根溜井に送水する「逆川」(「葛西用水」)の取水をしている頭首工。

※「頭首工」

農業用水を河川から取水するため、河川を堰き止めて水位を上昇させ、水路へ流し込む施設(水門、堰堤、土砂吐等)のこと。用水路の頭の部分にあたることからこのように呼ばれている。

大落古利根川の水位を調整するためのもので、最初に設置されたのは寛永7年(1630)という記録が残っています。古利根堰をダムのように利用し川の流れを制限することで、洪水防止のために隣を流れる逆川へ水を逃したり、稲作が開始される5月頃には、川から水を引き込み、農業用水を確保したりしています。堰の利用時の水位と、普段の水位の高低差は約3メートルにもなります。また、多くの水を溜めた様子は「松伏溜井」と呼ばれ、昔から親しまれてきました。
(「松伏今昔物語」より)

水門の右手に「逆川(葛西用水)」取水口。

「松伏溜井」。

                 この付近の今昔。

1880年代のようす。2010年代のようす。

川幅がめっきり広くなります。ここで小休止。

「始点(中川合流点)から4㎞」。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「一ノ割駅」。その1。大落古利根川(おおおとしふるとねがわ。サギコロニー。合流点。(「中川」を遡る。第3回目。)

2022-06-09 20:32:21 | 中川を遡る

                「月の公園」。ネーミングの根拠が今ひとつ。

今回は、「中川」を歩き、分岐点から「大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)」へ向かいます。

大落古利根川

埼玉県を流れる一級河川利根川水系中川の支流で、流路延長は26.7キロメートル

江戸時代以前は利根川本流がこの河道を流れ東京湾へ注いでいた。

起点の碑(久喜市内)

現在の起点は久喜市と杉戸町の境界にある葛西橋である。杉戸町・宮代町春日部市越谷市松伏町の境界付近を流れ、中川に合流する。おおむね北葛飾郡市と南埼玉郡市の境界に沿っている。起点には上流から葛西用水路が流れ込んでいる。名の「大落」とは農業排水を落とす幹線排水路の意味である。大河の頃の名残で流域には発達した河畔砂丘自然堤防が見られる

古利根川と上流の葛西用水路の一部は江戸時代以前の利根川本流であり、利根川の主要分流である会の川浅間川とが合流した地点(加須市川口)から南流し東京湾へ注いだ。古い流路(最下流については隅田川)は、武蔵国下総国葛飾郡)の当初の境界だった。

最下流は葛飾区亀有付近で二つに分流し、江戸川区西葛西付近を河口に持つ東の河道は中川(現在の旧中川)、葛飾区小菅墨田区向島付近を通り現在の横十間川付近の河口へ向かう西の河道隅田川と呼ばれた(「古隅田川」)。両者の河口は接近しており、挟まれた位置には亀戸島があった。東京湾へ注ぐ分流量の比は近世にかけて後者から前者の河道へ移った。

杉戸町高野付近は高野川とも呼ばれ、中世の奥州街道が川を渡っていた鎌倉街道)。

利根川東遷以前には、戦国時代に太田道灌江戸城を築いたときの石材運搬や、兵糧米の輸送に使われた

文禄3年(1594年)に会の川の流頭が締め切られ元和7年(1621年)に浅間川久喜市佐間で南への流れが締め切られたため、利根川から切り離され古利根川と呼ばれるようになった。

1918年(大正7年)の開削工事で庄内古川下流が松伏町下赤岩(越谷市との境)付近で古利根川へ接続された。庄内古川および合流点から河口に至る旧古利根川河道は全て中川とされた。

(この項、「Wikipedia」より)

大落古利根川の河道は上流の葛西用水から連続しており、久喜市と杉戸町の境にある葛西橋から松伏町下赤岩付近で中川に合流するまでの延長26.7km、流域面積182.3kmの区間が一級河川となっています。

※現在も、利根川の流れは「利根大堰」から埼玉用水、葛西用水路等を経由して流れ込んでいます。利根川から葛西用水路への取水口(跡)は、「利根川」歩きの時、羽生市付近で探索しました。「葛西用水路」は、途中、「古利根堰」から分流し、南下します。

1000年前のようす。

利根川東遷事業。

(地図は「」より)

ということで、かつて「中川」が上流では「古利根川」と呼称されていたこともあり、「中川」から「(大落)古利根川」に向かい、その起点まで歩くことにしました。

JR武蔵野線・吉川駅で下車に、西に向かうとすぐ中川の土手に。ただし、護岸工事中のため下の道を進み、「月の公園」のところで土手に上がります。

JR武蔵野線の鉄橋。

「吉越橋」。

対岸は、越谷市。

              左奥には、「レイクタウン」が広がっています。

長年、周辺の問題となっていた中川綾瀬川元荒川流域の治水と新市街地整備を同時に実施するため、区画整理地内に大規模な治水施設として大相模調節池を造成、同時に池の周辺に商業施設や集合住宅、公園などを誘致・建設し、調節池の周辺一帯をニュータウンとして整備した、と。

「吉川橋」。

            橋の向こうが「元荒川」合流点。

※「元荒川」は、江戸時代以前の荒川本流。ここで利根川と荒川が合流していた。

吉川市マンホール(仕切り弁)。ナマズが描かれている。

上流からの「吉川橋」。

      

川面や林にシラサギの姿が。

水管橋付近にはたくさん。

対岸にサギコロニー (サギ繁殖地)。

             合流する川は、「新方(にいがた)川」。

たくさんのシラサギが飛び交う。車が激しく行き交う道路端でしばし観察。対岸にはカメラマンが。

「新川橋」。

木洩れ陽の下、ゲートボール。

前方に中川と大落古利根川との合流点。

「弥生橋」から中川下流を望む。

上流を望む。

ここから左に曲がり、「大落古利根川」左岸を歩きます。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。中川は開削されていない。

                     2010年代のようす。北に向かう川が中川。

     古利根川の旧河道が西側に残っている。そのため、この地域は中川をはさんで、吉川市に所属する。

     古利根川に建設中の橋脚。「国道4号線バイパス」工事のようです。

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権現堂川調整池(行幸湖)~権現堂堤~中川。アジサイ。(「中川」を遡る。番外編)

2022-06-08 20:57:57 | 中川を遡る

       

6月7日。曇り、時々雨。

6年前の夏。「日光道中(日光街道)」歩きのとき、幸手から栗橋の途中、「権現堂堤」を歩きました。そのときに、権現堂堤は桜の名所ですが、アジサイも植えられていて、咲く時期にはさぞすばらしいだろうな、と思いました。

前日、東京地方も梅雨入り。その権現堂堤へ行ってみました。「あじさい祭り」も開催され、梅雨空の下、けっこう人も出ていました。満開まではもう少し日にちがかかりそうですが、しっとりと雨に濡れたアジサイがすてきでした。

さて、歩くならと、東武日光線「南栗橋駅」で下車。「権現堂(川)調整池(行幸湖―みゆきこ)」から歩き始め、「権現堂堤」へ。そして、中川を少し下流まで歩きました。

・・・

権現堂川は暴れ河川としても恐れられ、宝永元年(1704年)に、はじめて権現堂堤が切れてより、幾度も決壊をしてきました。その被害は遠く江戸にまでおよび、大江戸八百八町の半ばは水浸しになると言われ江戸を守る堤として大切に管理されておりました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の破堤により濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難していましたが、それも根こそぎ流され平野村須賀間に流れ着き無残にも75名という流死者が出てしまいました。このため、現在でも犠牲者の供養が行われております。

この後も、幾度にも水害に襲われ、享和2年(1802年)にも、権現堂堤の月の輪堤部分が決壊をし、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ております。

母娘の順礼の悲話」もこのときのものとされております。

文政9年(1826年)には、度重なる堤の決壊に困り、堤の補強にと上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えられましたが、根づかず何度か植えなおしが行われました。ですが、結局根づかなかったようです。

この頃になると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)頃には、堤通りへ竹や木が植え付けられ林同様に茂る場所や屋敷同様に堤を囲い、河岸場の便利に任せ小段を切りならし、作付けのための小段とその他を掘り返し苗木を植え付けるなどの実態が指摘されております。野菜などの栽培をするようになったのもこの頃だと思われます。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を視察するために駕籠を止めさせました。このとき、堤の名を行幸堤とすることが許され、記念碑を建てるために金100円が下賜されました。

この頃、権現堂堤周辺は見渡す限り平野で堤上からは、西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に「幸手町誌」を刊行した後上辰雄氏は、権現堂堤の風光として次のように記しています。

「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

このように、権現堂堤は遠い昔より、人々の憩いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、その都度修復を行い権現堂堤と共に人々は暮らしてきたのです。

※「母娘の巡礼の悲話」

権現堂堤の中央には、「順礼の碑」や「供養塔」が建っています。

享和2年(1802年)、長雨が続き堤が切れ、幾度修理しても大雨が降りだすと一夜のうちに切れてしまうというありさまでした。

ある時、堤奉行の指図で村人達は必死の改修工事をしていましたが、大被害と続く工事の疲れに、口をきく元気さえも失っていました。その時、夕霞のかかってきた堤の上に母娘の順礼が通りかかったのです。

母順礼が堤の切れ口をのぞきこんで、「こうたびたび切れるのは、竜神のたたりかもしれない。人身御供(ひとみごくう)を立てなければなるまい。」と言いました。そこで、堤奉行は「誰が人身御供に立つものはいないか。」と人々を見渡しましたが、誰も顔を見合わせるだけで、進んで私がなるとういう者はありません。すると重苦しい空気を破り誰ともなく「教えたやつを立てろ。」という声があがりました。母順礼はこの声を聞くと、「私が人柱になろう。」と念仏を唱えて渦巻く泥水の中に身をおどらせたのです。これを見た娘順礼もあっというまにその後を追いました。

すると不思議にもそこから水がひいて、難工事もみごとに完成することが出来たといいます。

この順礼母娘を供養するため昭和11年に石碑が建てられ、この碑には明治時代の日本画家結城素明(ゆうきそめい)による母娘順礼像が刻まれています。

※昭和58年3月24日市指定史跡となっています。

(この項、「」HPより)

・・・

           この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

「権現堂川」として表記。左の通りが「陸羽街道(日光街道)」。権現堂川に沿って北上し、栗橋で利根川を渡る。

                     2010年代のようす。

権現堂堤は「中川」沿いのところ。現在の権現堂川(現在の中川の一部)は北の利根川、東の江戸川で仕切られている。

                     1880年代のようす。

大きく南にカーブする流れが「権現堂川」。途中から南下する流れが江戸川。中川は、まだない。

この付近は、明治になっても、利根川・江戸川・権現堂川が複雑に絡み合って、水害、その対処など、長年の治水の取り組みは辛酸をなめるような状況だった。そして、現在に至っている。

説明板の向こう、高台にあるのが、「巡礼の碑」。

さて、今回の歩き。

南栗橋駅から東に向かい、「行幸湖」へ。途中、「旧日光街道」を横切ります。

        湖沿いに桜並木が続きます。

モニュメント・噴水。

中川との水門から。

中川。

             「権現堂堤」は中川沿いにあります。

「外野橋」を渡って目的地に。

「権現堂桜堤」解説板。

ガクアジサイ。

          

様々な色と種類。

アジサイの保存会テントの中に、「火の鳥」など。アジサイの即売会が開催中。けっこう買う人もいます。係の方が育て方など懇切に教えてくれます。

          

駐車場もいっぱい。

さて、中川を下流に向かって歩き始めます。遠くに雨に煙る筑波山が。

               対岸は、茨城県五霞町。

中川の土手は工事中で、通行止め。到着地点まで川沿いをほとんど歩けず、雨の中、大きな公園や工業団地の脇をひたすら歩きました。

到着直前にやっと土手の上へ。

右「中川」左「権現堂川」。

「中川」は、権現堂川の右岸堤防を人工的に開削して南側へ流すようにしたもの。

権現堂橋のすぐ上流側に権現堂堰(跡)があります。

激しい流れ。権現堂橋。

「宇和田公園」(一部は、かつての権現堂川の右岸にあたる)の先、「ひばりヶ丘工業団地入口」バス停で、「東武動物公園駅」行きのバスに乗車します。「朝日バス」は「日光東往還」歩きで利用しましたが、今回も。

雨が降ったり、止んだり、時折強い雨脚のときも。約10㎞。

        「中川」。下流を望む。

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京成線「青砥駅」~JR武蔵野線「吉川駅」。その5。共和橋。海から24.0㎞。八条橋。新中川水道橋。武蔵野線・吉川駅。(「中川」を遡る。第2回目。)

2022-06-07 20:32:21 | 中川を遡る

疾走するボート。

           対岸は、「中川やし おフラワー パーク」、「中川やしお水辺の楽校」。

人工のワンドも。

その隣は、「フラワーパーク・マリーナ」。

     

すぐ「共和橋」が。

                首都高6号線と県道が併走する橋。

橋の下から上流を望む。

「(海から)24.0㎞」という立て札。

振り返る。共和橋。

八潮排水機場。        

猛スピードで旋回するボート。

東京ガス管橋。

「潮郷橋」。

             「東京外環道」と「国道298号線」が通過する橋。

※橋の名は「八潮市」と「三郷市」結ぶところから。

橋の下から下流を望む。

樋門。水鳥の姿(↓)。

「八条橋」。

対岸は、八潮市。

           

橋の名前の由来は、かつてここに八条の渡しがあったことから。八条は八潮市の前身の八条村からである。1961年(昭和36年)架設の現行の橋は、橋長は139.3メートル、総幅員は6.6メートル、有効幅員6メートルの8径間の鋼鈑桁橋の永久橋である。歩道は下流側のみに設置されている。交通量がかなり多く、老朽化が進んだため、拡幅し架け替える計画がある。

八条の渡し

橋が開通する以前は「八条の渡し」と呼ばれる、埼玉郡八条村と葛飾郡上彦名村を結び、川幅六十間(約108.6メートル)を渡る渡船三艘を有する官設の渡船(官渡)であった]。渡船はいつから開設されていたか定かではないが、足利持氏1419年応永26年)の御教書に河関について記されていたことからその頃までには存在したとされる。なお、応永年間当時は利根川の本流であった。 渡船賃(通行料)は5文で、1日の通行量は多い日で約2000人であった

            この付近の今昔。

                                                                   

1880年代のようす。渡し場がある。               2010年代のようす。ほぼ同じ位置に橋。

「吉川市」に入ります。

この先は工事中のため、立入禁止。土手下の道路に下ります。

     

                     

「なまずの里、吉川市」。

ずいぶん前、この付近で(店名を忘れましたが)、なまずを食べたことがありました。天ぷら風にしたものでした。淡泊な味でしたが、ヒゲが妙に気になりました。やはりうなぎがよろしいようで。

赤く塗られた橋は、「新中川水道橋」。自転車や人が通れます。

                けっこう川からの高さがあります。

下流を望む。

上流を望む。

                  上流には「JR武蔵野線」の鉄橋。

         遙か遠くに「スカイツリー」(↓)。

ようやくJR武蔵野線「吉川駅」に着きました。今回は、ここまで。

     

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京成線「青砥駅」~JR武蔵野線「吉川駅」。その4。コクボマリーナ。新中川橋。つくばエクスプレス。三郷放水路。(「中川」を遡る。第2回目。)

2022-06-05 20:19:20 | 中川を遡る

右手にマリーナが見えてきます。「コクボマリーナ」。

           

コクボマリーナは、中川沿いにある陸置きのマリーナ。個人でも団体でも利用でき、会員同士でのイベントなども開催している、アットホームで気軽な雰囲気が特長。広く取られたボートヤードは、遠隔操作カメラによる24時間管理体制を敷いており、防犯対策がしっかり取られている。東京湾へのクルージングポイントとして知られ、マリーナからは荒川や江戸川のいずれかを選んで東京湾へ向かう。(「」HPより)

この地域は、かつては右岸側が大きく西に広がって、ヨシが茂る水辺になっていました。

現在の流れに改修した際に、陸地として造成されました。

1880年代のようす。

 右岸が大きくカーブしている。川の名も「古利根川」となっている。

2010年代のようす。道路はかつての土手。

この先に「修徳高校 八潮修徳球場」。

ユニークな趣の「鳥内排水機場水門」。

八潮市のマンホール。

            魚をくわえているシラサギ(※市の鳥はハクセキレイ)のデザイン。

河川敷の農地。

「新中川橋」。

橋のたもとで小休止。

周辺の道路地図。

対岸は、三郷市戸ヶ崎付近。

         遠くに見えるのは、外環道

「新中川橋」を渡って、八潮市から左岸・三郷市に移ります。

        

          

対岸の「マリーナJOY」。

廃船が山積みされているような印象。昨年11月に、ここで廃材が燃える火災が発生しました。

土手には花々が。土手歩きらしくなります。

つくばエクスプレスの鉄橋。

                 ちょうど通過中。けっこう早いスピード。

「八潮駅」方向。

遠くに東京スカイツリー(↓)。

             地図上の方向と眺める方向が一致して一安心。

三郷放水路。
 
埼玉県三郷市中川から江戸川を結ぶ国土交通省管理の放水路。全長約1.5km。三郷市を東西に横断する形で整備されている。

中川・綾瀬川流域は特に低層のため、水はけが悪く、水が溜まりやすい地形である上、都市化の進展により大雨が降ると度々洪水になり、流域住民を悩ませていた。また中川下流部は、工場生活排水により、水質汚濁が深刻化していた。こうした状況を改善すべく、本放水路が1973年昭和48年)に建設された。(「Wikipedia」より)

中川口。

             四阿でゆっくり休憩。

つくばエクスプレス。

               

三郷市のマンホール。

                   三郷市の市の花「サツキ」が描かれている。

来た道を振り返る。

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