おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その3。鈴木貫太郎記念館。利根川土手へ。関宿城博物館。境大橋。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

2022-05-08 18:31:14 | 日光東往還

     昭和20年(1945)終戦時の内閣総理大臣だった「鈴木貫太郎記念館」。当面休館中。        

            「鈴木貫太郎翁終焉之地」碑(吉田茂謹書)。

内閣総理大臣として日本を終戦に導いた鈴木貫太郎翁が、幼少期と最晩年を過ごした地でもある旧千葉県東葛飾郡関宿町に開館した記念館です。

記念館は貫太郎翁の旧宅があった場所の隣にあたり、軍服や日常生活品などの遺品や肖像など500点以上を所蔵するほか、昭和天皇の「御聖断」を仰ぎ、ポツダム宣言の受託を決めた御前会議を描いた油絵「最後の御前会議」(白川一郎画)が展示されています。

また、敷地内には、「永遠の平和を築く」ことを願い、戦後貫太郎翁が好んで書いた「為萬世開太平」と記された白く大きな塔が静かに立っています。(「野田市」HPより)

「博物館入口」信号から左斜めに真っ直ぐ進みます。

正面に利根川の土手。

                       右は「境大橋」への道。

色あせた解説板。                 

日光東往還と利根川の渡し

日光道中(街道)の東側の脇街道の一つとして、水戸街道の向小金(柏市)付近から関宿城の大手門前を通り、城の東側を周回して利根川縁に至り、渡し船にて境河岸に渡り、結城(茨城県)付近を経て、雀宮(栃木県宇都宮市)で日光道中と合流している。関宿付近では藩主にちなみ「久世街道」とも呼ばれていた。この街道を通って日光方面の物資は境河岸に集められ、旅人などは対岸の境と関宿の間を渡し船に乗り往復していた。そのため、江戸時代のこの街道筋は江戸と地方を往来する人々で賑わっていた。

左手遠くに「関宿城博物館」。

土手への道筋に。           

               安全祈願の大きなカエルの石造が二体。

土手に上がってみます。

2月以来の再訪。関宿城が見える。

「関宿城博物館」は、「利根川」歩きの時に立ち寄って見学しました。その時の館内の一部を再掲。

関宿絵図。

4F・天守閣(展望台)からの四方の展望。

利根川の流れ。

        筑波山。

富士山。

      

         利根川に架かる橋は、「圏央道」。その奥に赤城山。

・・・

この博物館はけっこう見ごたえがありました。マイカーでないと来にくいところですが、ぜひ再訪したいものです。

対岸のようす。

                     右の建物は「道の駅さかい」。

下流を望む。

関宿方向。

江戸川方向。

境大橋を渡って対岸の茨城県・境町へ。

                        「海から120.5㎞」。

         

利根川歩きで歩いた土手。

                        下流方向。

併設されている歩道橋を歩きます。

利根川下流方向。

上流方向。

「関宿城博物館」(↓)。

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朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その2。関宿城埋門。関宿台町。関宿関所跡。関宿江戸町。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

2022-05-07 20:11:37 | 日光東往還

                        関宿城埋門(うずめもん)。

解説板。

この埋門は、もとは関宿城三の丸に設置されていたものです。平時は本丸までの通用門として使用されていましたが、簡素な造りのため籠城戦の際には、内側を三分の二の高さまで土で埋めて、敵の侵攻を防ぐという役割を担っていました。

明治維新後、廃城に伴い民間に払い下げられ、現在の場所へ移築されました。門の鬼瓦には江戸時代中期から明治維新まで関宿藩主を務めた久世氏の家紋(久世鷹の羽)があしらわれ、城門であったことを現在に伝えています。                                         

千葉県内において現存する数少ない城の建築物の一棟です。

          の部分に久世家の家紋が。

正面。

奥のおうち。

県道に合流する手前右手に「路分け六地蔵」があり、脇の二十三夜塔が道標になっているようです。

 

解説板。

・・・六地蔵の側に「天保八年九月吉日」(1837年)と年号が刻まれている二十三夜塔があります。側面に「左木間ヶ瀬・右江戸道、ほうしばな」とあります。・・・地域の人たちに長い間愛され続けてきた六地蔵です。そして長い間路分け地蔵として旅人や多くの人たちに役に立ってきました。今でもこの三叉路と路分け地蔵が立つ場所は、当時のままの姿で残っており、またこの付近の道筋も変わっていません。

県道を進んでいくと、右手前方に「利根川」の土手が見えてきます。

「街道ラーメン」。

ここを右折し、旧道へ。

花山橋。

 

           利根川土手下まで田園地帯が広がる。              

旧道らしい雰囲気。

県道に合流。左手に富士浅間神社。

「長命庵」。

          人気店のようです。 

      (「長命庵」HPより) 

関宿台町。

大銀杏。その下に「二十三夜塔」。

道筋には神社・仏閣が建ち並んでいます。

町の花ボタン。町の木イチイ。

関宿台町交差点。

「関宿関所跡」碑を確認するため、左折して江戸川土手方向へ進みます。

「江戸町」バス停。

大きく道がカーブするところに「関宿関所跡」碑。

               

解説板。

関宿関所と棒出し

・関宿関所

幕府は、江戸と地方を往来する船が必ずこの関宿を通ることからここに関所を置き、船の積荷や人改めを厳しく行いました。この関所を通るためには通行手形がないと通ることができませんでした。

関所があった場所は、江戸川流頭部の堤防が突き出した「棒出し」と呼ばれる施設の上に置かれ、関宿藩が関所の管理をしていました。

・棒出し

棒出しの設置時期は、文政5年(1822)、天保期(1830~43)など諸説ありますが、天明3年(1783)の文書に棒出しの記述があるからから天明3年にはすでに設置されていた可能性があります。

棒出しの目的は、利根川・逆川・江戸川への水量調節にありました。

昭和2年(1927)に関宿水閘門が完成すると昭和4年(1929)に撤去されました。

※「関宿水閘門」は、利根川・江戸川歩きの時に確認しました。

江戸川土手。

                     1880年代のようす。両岸の賑わいぶりが知れる。

○が現在の「関所跡」碑付近。右が江戸川、左が権現堂川(二つの川の上流が逆川で、利根川から分岐している)。

                     2010年代のようす。○が「関所跡」碑の付近。 

上の図からも分かるように、河岸にあった江戸町の中心は、江戸川改修で失われてしまっている。また、権現堂川は流路変更によって、利根川・江戸川から切り離されている。                    

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朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その1。法珠花。旧道の復活。松並木。流山街道。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

2022-05-06 21:03:19 | 日光東往還

今回は、野田市関宿から利根川を越えて茨城県境町まで。東武野田線「川間駅」から朝日バスで前回のバス停へ。

「関宿」は「利根川」、「江戸川」歩きで立ち寄ったところです。

「日光東往還」道は、「関宿台町」まで「流山街道」とほぼ重なるように進みます。

前方は「法珠花橋」。

ところで、「法珠花」とは?

江戸時代以来、江戸川では帆掛舟が往来し舟運が発展。部の宿舎が建っている西宝珠花は、荷物の揚げ下ろし・船宿・呉服問屋などで栄えました。江戸から川をのぼってやって来た舟頭たちはここで休憩を取りがてら船の帆を干したのでしょう。

帆を干す場という呼び名がいつしか転訛し、ほうしゅばな、宝珠花という地名になったという説があります。

参考:『宝珠花今昔』庄和高校歴史地理部/『地名を歩く 36』讀賣新聞2007年5月12日(土曜日)朝刊

さて、地名の由来はもう一説あります。
江戸初期に江戸川の開削により形成された下総台地。その北側の台地を宝珠花支台と呼びます。東に江戸川が流れ、(航空部ランウェイのすぐ横ですね)

西には縄文海進期の海成層を主体に海退期の土砂の堆積によって形成された中川低地が広がるこの台地はその地理的特徴が由来し、榜示(ほうじゅ)…地の境界の意 + はな…大地の先端の意 =ほうじゅばな/宝珠花 という地名が付いたという説もあるようです。

(この項、「明治大学体育会航空部」HPより)

※江戸川によって千葉県側、埼玉県側と二分され、東西に法珠花という地名があります。

「法珠花橋」の先で土手を下ります。

     

この付近で、江戸川河川敷で消失していた街道が復活します。

          

左手に江戸川土手。

右は木々に囲まれた家。

けっこう交通量が多い道を進みます。

※この先も「日光東往還」は今でも幹線道路のようです。

朝礼中のお店。

野田市立二川小学校の先から松並木が植えられています。

  ちょっと弱々しい印象。

解説碑。

日光東街道の松並木について

・・・「日光東街道」は日光街道のバイパス的役割を果たしていました。「関宿街道」とか「久世街道」とかいろいろな呼び方をされてきましたが、文化二年(一八〇六)幕府道中奉行が編さんした「五街道其外分間見取延絵図」には「関宿通多功道」と記されており、これが幕府が定めた公式の街道名です。現在ではわずか残っている松の巨木が往時を物語っています。市の重要史跡ともいうべき「関宿通多功道」のいわれも又、松並木の松のように、失われることおそれ松の若木を補植し、改めて市の歴史を深く理解していただくことを願っています。          関宿ライオンズクラブ

ただ、二川小学校の樹木に比べ、車の排気ガスなどで、かなり弱っていつような木も見受けられたのが気になります。なんとか順調に生長してもらいたいものです。

「柏寺」バス停。

東葛飾病院。

カラー版マンホール。

諏訪橋。 

           →関宿城埋門案内。                           

この先は、

①左に進み、関宿城大手門に通じていた道(ただし、途中で江戸川土手で消滅)

②県道をそのまま進み、「工業団地入口」交差点から右折して行く道があります。

②の方を進むことにしました。

           

右折したところに解説板。

旧日光街道東往還関宿多功道

日光街道東往還関宿多功道は、本街道である日光街道の東側を通っている街道です。起点は江戸からで、松戸市・流山市・野田市を過ぎ、関宿を通り、茨城県の境町・結城市を過ぎ都と件の上三川町の多功までの道程です。多功からは雀宮に出て本街道に合流します。この多功道は、江戸からの日光社参参の折や参勤交代などに多くの大名たちが通った道でもあります。関宿多功道の名称は、関宿町に入ってから出るまでの名称で、それぞれの地域では別な名称があります。

※大きく長い赤のが目立ちます。

                   

               この付近の今昔。

                                                                          

1880年代のよう左上に進む細道がお城への道?            2010年代のようす。○が分岐点。旧道は右へ。

この先、右奥に「関宿城埋め門」があります。

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東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その4。喜八堂。新宿(あらじゅく)。いちいのホール。江戸川土手。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

2022-05-04 20:27:28 | 日光東往還

喜八堂。

店先では若い職人さんが一生懸命煎餅を焼いています。いい香りが漂ってきます。

       

昭和2年(1927年)に東京神田創業以来、喜八堂(きはちどう)は、米の選定から生地作り、そして焼き上げと一貫したせんべい専門店です。
生地屋は煎餅の生地までを作り焼屋にそれを卸し、焼屋は生地屋の作った生地を焼き上げます。
喜八堂では全てを、米の選定から焼き上げまで、ひとつひとつの素材を吟味し、ひとつひとつの仕事に責任を持ち、選びぬかれた最高の素材たちを職人が手間ひまかけて仕上げます。
そこには誰のせいにも出来ないという責任と、お客様へ最高の商品をお届けすると言う夢があるからです。

喜八堂は創業以来、殆どの商品に保存料、着色料、添加物、化学調味料を使用しない理由があります。

  • 素材へのこだわり

    素材へのこだわり素材の味、自然の味を大切にします。その為には原材料自体の味がとても大切です。ひとつひとつの素材を吟味します。
  • 製法へのこだわり

    製法へのこだわり天日干しから手焼きなど職人たちが素材の味を引き出すために時間をかけて製法にこだわっております。 (この項、「喜八堂」HPより) 

「日本一せんべい処 喜八堂」は、銀座で創業の後、先々代から東京の向島で開業していたこともある、とか。その後、実家である関宿に店舗を移し、今や、東京駅八重洲口にも店を構え、全国展開しているお煎餅屋さんです。

ここでお汁粉を食べながら休憩。まさに「お休み処」でした。そしてお土産用にささやかですが、二品。

さて、もう少しで、今回の歩きも終了です。

「新宿(あらじゅく)」交差点。

「新宿」は「しんじゅく」と読んだり、「にいじゅく」と読んだり、ここのように「あらじゅく」と読んだりします。

野田市関宿総合公園。

              

「いちいのホール」。

平成15年6月6日、野田市と関宿町は合併し、新しい野田市が発足。
平成16年4月1日、旧関宿町役場庁舎を支所・図書館・コミュニティ会館・関根名人記念館などの入る複合施設「いちいのホール」としてオープンした。

※「いちい」は旧関宿町の木であった「イチイ」に由来。

※「関根名人」=将棋棋士。

千葉県東宝珠花(ひがしほうしゅばな)(現野田市)の生まれ。11歳で11世伊藤宗印名人に入門棋界の不振時代に全国を行脚(あんぎゃ)、修行し、弟子の発掘に尽くした。1905年(明治38)8段、21年(大正10)13世名人となる。35年(昭和10)名人世襲制度を捨て、自ら引退して実力名人制を実施し、現代に続く新聞棋戦を確立した。親分肌で人間味にあふれ、対阪田三吉戦をはじめ棋道行脚に数多くの逸話を残す。後進の育成にも尽力し、門下には土居市太郎金易二郎(こんやすじろう)、花田長太郎木村義雄(よしお)など名棋士を出している。直門に限らず明治・大正生まれの棋士には彼に指導感化された者が多い。関根流の「春風のやうにさらりと指すべし」の名人戦講評、泰然とした正座対局、あふれる人情味は、大名人の風格があった。野田市東宝珠花に将棋の駒をかたどった墓碑がある。

[原田泰夫]『木村義雄他監修『日本将棋大系13』(1980・筑摩書房)』(「コトバンク」より)

後の日本将棋連盟に連なる直弟子としては土居市太郎木村義雄を筆頭に8人を輩出している。また、その直弟子らも数多くのプロ棋士を輩出しており、孫弟子にも名伯楽として知られる高柳敏夫花村元司がいるなど、現代の将棋界において関根門下の系譜が最大の数を誇る。タイトルホルダーも数多く輩出しており、名人経験者だけでも、実力制第一代名人となる木村以降、塚田正夫中原誠加藤一二三羽生善治森内俊之がいる。(「Wikipedia」より)

ようやく県道(流山街道)と旧道(左に入る道)との分岐点に到着。

左手の道を進む。

江戸川土手に向かいます。

かつての日光東往還の道は、沿道の集落ごと「江戸川」の河川敷になってしまっている。

                                                                                                                                                                 

1880年代のようす。渡し場から土手道に。             2010年代のようす。街道は江戸川の河川敷内に。

3月始め以来の江戸川土手。

                   「海から50.25㎞」。

前回の時は菜の花が満開でしたが、今回は・・・。

この先の県道のバス停から朝日バスで川間駅まで戻ります。次回はここまでバスで来ることに。

旧関宿町マンホール。

               旧・関宿町の花「ボタン」(市の木は「イチイ」)をデザインしたもの。

             

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東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その3。中里宿。LIXIL技術研究開発センター。旧道消失。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

2022-05-03 20:54:02 | 日光東往還

               沿道の左右奥には、樹木が茂っています。

       

派手な幟がいくつも。

               「カラオケ もみじ」。けっこうはやっているようで、人の出入りも。

道ばたにフジの花。

直線の道もここまで。「船形」地区。

「川間駅入口」交差点。

この先から「中里宿」が始まっているようです。

中里。

しかし、「中里宿」を示すものが見当たりません。

ふと右にあるお寿司屋さん「柳寿司」の、のれんを見ると、

「中里宿」とありました!

  本陣だったおうち?

立派なおうちが多い。

モッコウバラ。

「関宿」の地名が。

「国道16号線」の高架下を進みます。

「流山街道」が広く整備され、旧道は「LIXIL技術研究開発センター」で遮られてしまうので、その先を左折します。

               

すぐ右折すると突き当たりの雑木林のところで左右に分岐しています。

分岐点の雑木林の中に庚申塔。

               分け入るのが大変で、石塔の正面など詳細は確認できず。

右に行くのが「日光東往還」のようですが、「千葉カントリークラブ 川間コース」で遮られてしまうので、県道に戻ります。

この道が旧道?

県道の手前に麦畑。

「麦秋」まもなく実りの時を迎えています。

県道の向こうに何やら石像が。刀を差した人物らしいですが。

 

県道の両側に森が迫ってきます。   

     

          千葉カントリークラブ 川間コース。

大きな墓地。

          お寺の跡らしい。

「喜八堂 休み茶屋」の看板。そこで休憩しよう。

右手に大きなお屋敷。

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東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その2。野馬土手。真っ直ぐな道。グリコピアCHIBA。流山街道。曽田香料。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

2022-05-02 20:40:48 | 日光東往還

               「野馬土手および樹木・野草保護のため散策路をご利用ください」。

散策路。

野馬土手。

       

解説板。

野田市の北部と南部は、江戸時代の初期に庄内牧(しょうないまき)とよばれる、野馬のほうぼくじょうとなっていました。庄内牧は徳川幕府により設置され、その目的は、幕府御用馬の生産や輸送、農耕用の馬として民間の需要にこたえるものでした。

牧に隣接した村を「野付村」といい、村々の農民には野馬法度という規則が定められ、それには①牧の外に出た馬を安全に保護すること、②年一度の野馬捕りには人足を出すこと③風雨などで壊れた野馬土手を修復するなどの義務がおわされました。しかし、その反面、野馬を民間に払い下げる際に、付近の村びとは有利に入手できたようです。

江戸時代中期になると、庄内牧はその全域が新田開発の対象地となり消滅しました。しかし、現在においても、この付近に残る野馬土手によって当時の面影をしのぶことができます。あるいは、市内の地名にみられる、牧―真木ノ地(清水)、槇の内(尾崎)、込=上野馬込(花井新田)、苅込(野田、船形)なども庄内牧に由来する歴史の産物です。

この土手は、横内・中根・堤根・花井新田へと日光街道に沿ってほぼ真っ直ぐにつながっています。庁舎前では道路の東側に、花井新田付近では西側に見ることができますが、本来は道路の両側にあって、道路の中を往来する野馬が田畑に暴れ込まないようにと、土手と堀を造ったもので、野馬除(のまよけ)土塁と考えられています。

庁舎前の土手を発掘調査した結果、土手の裾から堀の縁までの幅約6メートル50センチ、堀の底から土手の頂上までの高さ約2メートル75センチという規模のものであることが分かりました。また、堀の断面形は漏斗形で、現在の地表面からの堀の深さは約1メートル70センチでした。野田市内に現存するもの保存状態も良好で、比較的長く連続している様子を見ることができます。

※下に絵図が付記されているように、現在、堀の部分は、埋め立てられてしまっているようです。

振り返る。左手が野馬土手。

野田市役所。

市役所から先を進むと、右手に「国道16号線(東京環状道路)」が見えてきます。

この付近は、1970年代にはまだまだ緑が残っていました。

                                     

16号線の向こうは、ゴルフ場。

旧道は左へ曲り、さらに右に曲がります。

目の前には大きな更地。

「16号線」を横断し、「千葉カントリーゴルフ場」脇に進みます。

           

左手は「グリコピアCHIBA」。

千葉県野田市の「グリコピア CHIBA」は、グリコのアイスクリーム製造過程が見学できるミュージアムです。「パピコ」や「セブンティーンアイス」がどうやってつくられて家庭に届くのかを、製造ラインの見学のほか、映像やさまざまな体験により楽しく学べます。

建物の入り口には最高のフォトスポットであるグリコマークの巨大壁画があり、ゴールインポーズをきめて、思い出に残る記念写真が撮影できます。クリーンルームでエアシャワーを全身に浴びたり、巨大冷凍庫に入ってアイスクリームの保管温度を体感したり、子どもも盛り上がる体験が用意されています。

見学後には、うれしい試食タイムがあり、なぜかいつもよりおいしく感じるパピコを食べられます。さらに、有料でアイスクリームづくりができる「グリコキッチン」も実施され、親子で楽しくおいしい手作り体験ができます。大人も子どもも大満足の「グリコピア CHIBA」は、完全予約制なので、まずは予約をどうぞ。(「いこーよ」HPより)

突き当たりを左折します。

             

右手はゴルフ場、

               

左手はグリコ。

ゴルフ場や工場のために左折するのではなさそうです。旧道そのものが屈折していました。

この付近の今昔。

                                                                                                                             

1880年代のようす。現在の道とほぼ同じ。              2010年代のようす。広い道路は、国道16号。

再び国道16号を横断。

県道17号線・流山街道に合流。

           

ここから、またしばらく直線道路が続きます。約2㎞。

                船形まで続く。

振り返る。炎天下だと参りそう。

「檜溜(ひのきだめ)」バス停。

かつての地名や由来を知るために、バスの停留所名がかなり参考になります。これまでも役に立ちました。さて、この地名の由来は?

途中で見かけた看板に、

曽田香料(株) 野田支社。

国内有数の総合香料メーカー 

曽田香料は1915年創業以来、
総合香料メーカーとして香り文化の一翼を担ってまいりました。

私たちは「香料を通じた社会貢献」「企業としての充実と発展」「ステークホルダーへの適正配分による豊かな暮らし」を目指すことを理念とし、一世紀以上にわたって培われてきた伝統と理念を忘れることなく、皆様とともに歩んでいく所存です。

今日まで培ってきた豊富な経験と技術力により、安全で高品質な製品をお届け致します。取り扱い製品は、フレグランス、フレーバー、食品天然色素、天然香料、合成香料、ガス着臭剤の他、合成技術を応用したファインケミカルなど、幅広い分野を担っています。

(「同社」HPより)

歩き疲れてきたので、看板を見ただけで心が癒やされました。

・・・

ところで、松戸方面から続く「流山街道(県道5号線・17号線)」と南柏から始まる「日光東往還」との関係性について。

「Googleマップ」では、「江戸川台駅」付近から関宿台町付近まで(「日光東往還」は、一部、「梅郷駅」から野田市役所先、さらに関宿城に通じる江戸川沿いの道として標示されていますが)ほぼ重複して標示されています。

また、「今昔マップ」によると、すでに明治末・大正期には、現在の「流山街道」が太線で標示され、「旧日光東往還」は破線になっていて、流山から関宿に向かう道としては、使用頻度が低下してしまったようです。

その後、ゴルフ場の開場、工場の設置などで旧道が舗装され拡幅・再整備された、と考えられますが。

赤い線が日光東往還。

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東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その1。野馬込。花井堤根。小金(庄内)牧。中央の杜。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

2022-05-01 20:21:28 | 日光東往還

                 東武野田線「梅郷駅」で下車し、前回の地点まで。

流山街道との分岐点から再開。

東武線の踏切へ。

踏切を渡り、道なりに進む。

この付近までが「山崎宿」だったようです。

1880年代のようす。   2010年代のようす。

宿場の出入り口に当たる屈折があり(→)、現在は踏切部分になっていますが、その様子が確認されます。 

ここから「野田市役所」先まで、直線道路になります。 

                         約3㎞続きます。小金牧(庄内牧)を直線で貫いているようです。

          歌川広重画『富士三十六景 下総小金原』(1858年・安政5年)

野田市まめバス「野馬込(のまごめ)」バス停。

牧に放たれた野馬は8月から9月初旬に捕獲され、優秀な馬は幕府へ送られる。その野馬を捕獲する施設が「野馬込(のまごめ)」である。牧を管理していた役人である牧士(もくし)の指示のもと勢子(せこ)人足に追われた馬は、高い土手を迷路状に築いた「込(こめ)」に追い込まれてそこで捕獲される。油田牧の野馬込は南西側から延びる谷頭に設置され、高さ3mほどの土手が一辺60m~70mの三角形をなし、その内部は3部屋に仕切られている。

野馬の捕獲は年中行事として、大勢の見学者が集まるイベントの一つであったことが、当時の絵図からもわかる。野馬捕獲のクライマックスには老若男女が見学に訪れ、出店が出るほどの盛況ぶりだったようだ。(「千葉県」HPより) 

 

                    周囲は閑静な住宅地。 

バス停「花井堤根」。

※「堤根」という地名は、埼玉県行田市、杉戸町などにもある。これらは荒川や江戸川の土手に関わる地名のようだが、ここは、野馬土手(堤)に関係するようだ。

右手に「もりのゆうえんち」。

     

右手付近から森が多くなってきます。

野馬土手が連なります。

奥に森が広がる。

                                                     2010年代のようす。周囲の市街地化にあって保存されているようす。

   

              奥深い散策路。 

「中央の杜」。

この山林は、市民がみどりと直接親しめる場を提供する目的で野田市総合計画に基づいて保存しております。野田市の原風景を形成する貴重な平地林であり、過去の里山の風景を未来に伝えるために、樹木・野草の育成及び保全を目的として散策路を設置しております。多くの植物が生育するこの山林は市民の大切な財産です。自然の中の樹木や野草を大切に見守ってください。     むやみに山林内に立ち入らないようお願いいたします。

通りの左側は開発が進む。              

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JR「南柏駅」~東武線「梅郷駅」。その4。曲尺手(クランク)。利根運河。東京理科大。山崎宿。常夜灯モニュメント。(「日光東往還」を歩く。第1回目。)

2022-04-30 21:10:20 | 日光東往還

           この先、突き当たりに曲尺手(クランク)が残っています。右・左・右に折れる。

1880年代のようす。 2010年代のようす。

   

解説板。                   成田山道標。

江戸時代、将軍の日光東照宮参拝などに大名たちが使用した日光街道の脇往還。クランク脇の道六神(どうろくしん)には、成田山と刻まれた道標がある。

来た道を振り返る。右折する。

県道に戻り、「運河駅」を右手にして進むと、

利根運河。

         運河上には、鯉のぼりがたくさん泳いでいます。右が利根川側、左が江戸川側。

「利根川」歩き(分岐点)、「江戸川」歩き(合流点)に続いて、3回目になります。

利根運河を渡った先には、「東京理科大理工学部」野田キャンパスが広がります。

右上が理科大の校舎。

東京理科大は葛飾にも大きなキャンパスがあります。

       (「東京理科大」HPより)

もう一駅進むことに。

「ガスト」の先、左手を入った先に「山崎貝塚」跡があります。

野田市山崎交差点。

このあたりが「山崎宿」の入口で、手前のゆるやかなS字カーブは枡形の名残りと言われています。

※「山崎宿」が「日光東往還」の最初の宿場。

     振り返る。緩やかにカーブする坂道。

          右手には、門塀をめぐらせた大きな旧家が。

野田市まめバス・「山崎宿」バス停。

交差点左手に、「日光東往還 山崎宿」と記されている

「常夜灯」のモニュメント。

山崎宿は、日光東往還(水戸街道から分かれて現在の栃木県宇都宮市勧めの宮で日光街道に通じる)の最初の宿場です。野田市内には、山崎宿の他に中里宿、関宿宿がありました。将軍による日光参詣や大名の参勤交代の時に、日光街道は大名・旗本など多数の通行がありました。東往還では、将軍が参詣をする時に警護の諸大名が山崎宿に休憩・宿泊した記録があります。江戸時代には三十数戸の家がありました。特定の本陣(大名や幕府の役人が泊まる宿)がなく、そのつど名主・問屋との協議によって本陣・脇本陣を定めました。明治二十二年(一八九九)四月一日、山崎村・今上村・花井新田・堤根新田が合併し、梅の五弁になぞらえて東葛飾郡梅郷村が誕生しました。山崎宿の絵図(文化三年・一八〇六年)には道路の中央に秋葉夜灯(常夜灯)が記されています。常夜灯は昭和の初期に地元の人々によって復元さ老朽化により南部梅郷公民館に移設・保存するとともに、梅郷駅西口交差点に改めてそのモニュメントを設置し、山崎宿を後世に伝えようとするものです。

左へ行く流山街道と分かれて、右側の旧道へ進みます。

       歩道橋から。右へ進むのが旧道。

来た道を振り返る。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。町場が形成されている。

                     2010年代のようす。旧道は線路方向に進む。

今回は、ここまで。「梅郷駅」に向かいます。

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JR「南柏駅」~東武線「梅郷駅」。その3。ふれあいの森。日光橋。江戸川台駅。慈眼院。(「日光東往還」を歩く。第1回目。)

2022-04-29 19:58:34 | 日光東往還

「西初石ふれあいの森」。

右に「初石駅」。

右手にかなりの豪邸の旧家。

ほぼ直線の道。

        

「常磐自動車道」の上を通過します。

「日光橋公園」。

「日光東往還」を意識したネーミング。ここで小休止。けっこう暑くなってきました。

     

道なりに左折します。

この先で東武野田線の踏切に接近し、線路沿いの住宅地へ。

                                                                                                                       

1880年代のようす。○が左折点。                2010年代のようす。斜めは常磐自動車道。

左図にある上部のクランクは、現状不明。

線路沿いにある遊歩道を次の駅・江戸川台駅に向かって進みます。

住宅裏手の道が旧道?

 

        

                東武野田線(アーバンパークライン)。

江戸川台駅。

江戸川台駅を過ぎて左折し、旧道歩き復活。

 左手から来て、右に折れる。

            

         

「流山の塩せんべい 利根運河」。

「観音山慈眼院発祥の由来」碑。

・・・ 慶長五年九月 関ヶ原の戦いに於て石田治部少輔 三成公の居城佐和山落城に際し 番頭山田上野之助と嫡子隼人との訣別に当り 父上野之助の遺命に起因すること大なり。佐和山落城記に依れば 汝此の世になかりせば誰か 我が菩提を弔ふものなし 我がなき後の一遍の念仏を手向くれるは汝一人なり又 主人 三成落方しれず運のつきたる人なれば 如何なる害のあらんも知れず 見届けくれよ 其の上今最期の人々の仏果菩提を弔ふべし 又 時節もあらばこの恥辱をもそそぐべし とあり。・・・慶長五年九月関ヶ原の戦い 同月十八日午 刻佐和山落城 上野之助は嫡子隼人に自害を思いとどまらせ 佐和山脱出を言明し己は自 刃 父の遺命により隼人は五才の宇吉郎を背負い 美濃国池田郡(岐阜県揖斐郡)の山中 に落ち行き 後 巡礼の姿となり諸国を巡り 慶長十五年関東に下り周易墨占を業とし 宇吉郎に医術を習わせ深井の里(流山市東深井)に住す。慶長十九年 大阪冬一乱となり 隼人は大阪に馳せ参じて木村長門守重成の軍に加わり元和元年五月六日 夏の陣にて 討死。・・・慈眼院建立の年代は未詳なるも 喜庵歿後に創建したることと推察し 得る。・・・山田上野之助の遺言とも言うべき遺命を無言の中 に継承し連綿と続く山田家々主は先祖の菩提を弔うべく 慈眼院を氏寺として維持し 今日に到った。・・・茲に本堂 再建 山門 塀の新築を記念し 慈眼院発祥の縁起を撰書して後世に伝うるものなり。

昭和五十六年七月
          山田家当主 山田要次郎 撰

(「発祥地コレクション」HPより借用しました。※「・・・」は、当方で省略した箇所。)

慈眼院。

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JR「南柏駅」~東武線「梅郷駅」。その2。一里塚。流山おおたかの森駅。オオタカ。旧道復活。(「日光東往還」を歩く。第1回目。)

2022-04-28 20:42:18 | 日光東往還

                     農家の大きな納屋。

先に進みます。

「ローソン」の先の信号を右折します。

「きらら公園」。

「一里塚」の標識が公園の角に。

元々あった場所なのでしょうか? この先々、「一里塚」(跡)に出会うことはありませんでした。

日光東往還(旧日光街道)

「日光東往還」は、江戸時代に五街道のひとつ日光街道(表街道)の脇街道です。

江戸幕府初代将軍徳川家康の命日に日光東照宮で催される大祭に歴代将軍参拝するとき、表街道とともに利用され、地元では古くから「日光街道」とよびならわしています。

公園周辺の曲尺手(クランク)の道(通称・西初石クランク)は、拝礼のために日光へ向かう武士一行が敵に襲撃されるのを恐れ、道中の安全のために設けたともいわれています。

また、街道は幕府直轄の小金牧(土手に囲まれた軍馬育牧場)のひとつ上野牧の中を通っており、牧の出入り口には土手に木戸が作られ通行のたびに開閉していました。

公園周辺にも木戸があったとの伝承があり、曲尺手(クランク)は木戸を通過するために設けられた可能性もあります。

※日光参拝の道中で敵に襲われる、ということは考えられない。木戸口ために設けられたという可能性が大。この先も何ヶ所か当時のクランクが残っている。

この付近のようす。

この先、左折しますが、マンションや道路のために行き止まり。旧道は失われています。

         

「流山おおたかの森駅」前広場に。イベントを行っています。

流山おおたかの森駅

「東武野田線」(愛称:東武アーバンパークライン)と「つくばエクスプレス」が乗り入れ、両路線の乗り換えができる接続駅となっています。周囲は高層マンションやショッピングセンターなどがあり、けっこう賑やかです。

流山の中心地は、「江戸川」沿岸付近から、このへんに移ってきているようです。千葉都民がおおぜい? 住む街。

たくさんの人が集まって、賑わっています。

※駅名の由来 

 駅近傍の「市野谷の森」に絶滅危惧種であるオオタカが生息する森が駅周辺に広がっていることと、市内に緑が多く残されていることから。(「」HPより)

※オオタカ 

鷹類の代表的な種である。古今、タカといえば、オオタカを指すことが多い。(「Wikipedia」より)

      駅西口。

都市軸道路。

        ※この道路が、現在、江戸川で建設中の「三郷流山橋」につながるようです。

「三郷流山橋」は埼玉県道路公社を主体として、千葉県と埼玉県の3者が共同で事業を行っています。

「三郷流山橋有料道路」は、つくばエクスプレス沿線市街地である千葉県流山市と埼玉県三郷市とを結ぶ都市軸道路の一部として整備されています。

三郷流山橋有料料道路を整備することにより、JR新三郷駅周辺からつくばエクスプレス流山おおたかの森駅周辺の市街地間の移動が現在の30分から20分に短縮され、同時に近隣橋梁の渋滞緩和が期待されます。

旧道の復活。

        この先、寄り道。トミーマートの角を折れていきます。

野菜畑。

大きな農家の一画に野菜即売所。けっこうお客さんが寄っています。キャベツ、ネギ・・・。

おばあさんが留守番。キャベツは大きくて思いので諦めて、ささやかですが、菜の花を購入。

庚申塔が3基。

大きな農家。

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JR「南柏駅」~東武線「梅郷駅」。その1。豊四季・開墾の歴史。豊四季駅。(「日光東往還」を歩く。第1回目。)

2022-04-27 20:28:15 | 日光東往還

                 旧日光街道との分岐点。右が「旧日光街道」。左へ行く道が「日光東往還」。

今回から「日光東往還」歩きを。

南柏で「日光街道」と分かれ、雀宮付近で日光街道と合流する道筋。柏、流山、野田、境、古河、結城などを通過します。

第2回目に歩いた、野田市役所前にある解説板より。ずいぶん薄汚れた案内板ですが。

         

日光東往還

この通りは江戸時代に日光東往還と呼ばれた。「東」と付けたのは千住から栗橋に延びる正式の日光街道の東側を通る脇道という意味によるものだろうが、正式には関多孔多功道、別名関宿道、久世街道、結城街道などともお言言われた。

水戸街道の向小金新田を起点に、山崎から関宿を通り利根川を渡って境から結城を経て雀宮で正式の日光街道と合流する。その道のりは17里14町(約70㎞)、宿場は10ヶ所設けられ、市内には山崎と中里に宿場が置かれた。

将軍がこの街道を通って日光東照宮に参詣したという記録は残っていないが、その準備のために表街道を避けた諸大名などが通過した。

※距離については70㎞、79㎞、82㎞などという説がある。

※宿場は山崎、中里、関宿、境、谷貝、仁連、諸川、武井、結城、多功の10ヶ所設けられた。

              

「日光」と名が付く街道はいくつかあります。

①日本橋から幸手を経由し、宇都宮で「奥州街道」と分かれる「日光街道」=本街道。

将軍の社参のために使われ、本郷で「中山道」と分かれ幸手で本道と合流する「日光御成道」。

③京の勅使が使用した「中山道」の「倉賀野宿」から分かれ、「下今市」で本道と合流する「日光例幣使街道」。

④本街道の「小山(おやま)」から分かれ、「楡木宿」の手前で「日光例幣使街道」と合流する「壬生(みぶ)街道」。

⑤八王子千人同心が日光東照宮火番勤務のために往来した街道で、 八王子市の千人町から「佐野(天明宿)」で「例幣使街道」と合流する「日光千人同心街道」。

があります。

すでに上記の街道は歩きました。それぞれ趣を異にしていて有意義でした。

残る一つがこの「日光東往還」。

沿道の市街化が進み、旧街道や宿場らしい雰囲気があまり残っていないようですが。

また、鉄道との接続が十分でなく、バスで行き来するので、距離以上に時間がかかりそうです。

※東武野田線「川間駅」までは、東武線を利用できます。

第1回目 JR「南柏駅」から東武野田線「梅郷駅」までの歩き。

第2回目 東武線「梅郷駅」から関宿・宝珠花橋まで歩き、帰りは、そこから朝日バスで東武線「川間駅」まで。

第3回目 「川間駅」からバスで宝珠花橋。そこから歩きはじめ、利根川を渡って茨城県・境町へ。帰りは、「境車庫」からバスで東武線「東武動物公園駅」まで。

第4回目以降も電車とバスを乗り継いでの歩きになりそうです。

その第1回目の報告です。

旧日光街道から分かれ、JR線の跨線橋を越えて、進みます。

 

国道4号線に「旧日光街道入口」という信号機が。

              

ひたすら道なりに進む。

                  豊四季へ。

住宅地として開発が進み、街道らしい雰囲気はありません。

     振り返る。

かつての農家風のおうちも。

「日光街道」と「日光東往還」との追分付近の今昔。 

1880年代のようす。斜め左の道が日光東往還。
        


2010年代のようす。跨線橋の広い道に。

《付》小金牧 ~開墾と野付村の生活~
 水戸街道を松戸・小金宿を過ぎて北に向かうと、土手に囲まれた木戸に突き当たります。茶店があり、木戸番に頼んでその木戸をくぐると、小金原・上野牧に入ります。旅人を誘う松並木が植えられ、野馬たちには炎天を遮る日陰を提供してくれていました。「下陰をさがして呼ぶや親の馬」と一茶が詠んだのもこの辺りでしょうか。この原は小一時間で柏の木戸(現在の旧水戸街道千葉銀の辺り)を出て再び街道に出ます。水戸街道を旅する誰もが通過する小金原の道でした。

鹿狩絵図(大久保忠寛家蔵)

 小金が原は40里野とも呼ばれ、佐倉牧と共に下総台地中央を南北に連なる牧の総称です。高田台牧(十余二)、上野牧(豊四季)、中野牧(初富・五香・六実)、下野牧(二和・三咲)、印西牧(十余一)の五牧があり、約2千頭弱の野生馬が育まれていました。江戸の中期までは野生の鹿も多く、ごくまれにはオオカミも生息していたという記録もあります。200年前には、この北総の原にオオカミがいたことを想像してみて下さい。他にもイノシシやウサギや、狸や狐などが駆け回る自然があったのです。
 牧と周辺の集落は、野馬土手(野馬堀)と谷津で緩やかに仕切られ、水田の用水と野馬の飲み水は共用していました。この様な広大な原野が広がっていたのは、海抜20メートルほどの痩せた赤土の北総台地上でした。水が乏しく風の早い原地で(風早という地名も残っている)、森林にもならない不毛の荒れ地が多かったようです。幕府や御三家の鷹場が設定されたためか、江戸からわずか30キロ圏とは思えない程、自然に囲まれていたのです。現在の人口急増の旧東葛飾郡の市街地への変貌は、明治維新に始まる小金原開墾以後の事です。

(以上、HPより)

ところが、その開墾は並大抵のものではありませんでした。

「豊四季開拓百年記念碑」。

明治維新の社会変革は、武士と此れに関連する各方面の失業者を族生、兵乱と凶作等に拍車をかけられ、社会不安は限りなく拡大していった。明地維新政府が第一に考慮しなければならぬ問題は、民生の安定であった。

政府は失業救済、貧民対策として「不毛地開墾等の業を以て広く窮民に生産を与え候より他無之、先近国より手始めとして下総国小金佐倉等の原野開墾」を採りあげ、小金佐倉牧を廃止し、東京窮民を救い遊休労働力の生産労働カヘの転換と、耕地拡張生産増加を求め、明治二年民部省に開墾局を設け、三井八郎右衛門等三十六名に基本金二十万円を貸出し、両牧の開墾会社を設立させた。政府は一万戸の入植を計画し各藩に、募集を依頼し、六千四百六十一人を、二年十月より三年八月の間に逐次入植させた。

入植者即ち力民以下は掘立長屋で飯米一人一日雑穀四合五勺を給され、その他入費一切は計上され、ニヶ年にして一人四十二両の負債が生じた。会社の管理督励苛酷言語に絶し労働過重心身供に疲弊困憊し脱落逃亡が続出した。勤勉実直な者のみが茨の道を切り拓いていった。

此れ等の人々の血と汗で一歩ずつ開拓が進み、二年十月最初の着手初富から順次に二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、ハ街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三の村名が立てられた。この時豊四季は地積六百十八町歩、東京窮民八十戸百六十三人、野付き村移民及ひ通い作人百二十二戸四百三十七人、総て此れ六百人であった。

我が先人、未来をかけて村名とした豊四季其れは真に美しい平和と幸福を謳っているが、しかし簡単に地上の楽園は到来しなかった。筑波颪颯颯たる曠野に痩躯を曝し、草蒸す叢林に吾か非力に自ら鞭打ち、伸び行く郷土の将来子孫の行く末をかけて、四季豊かに稔れと念じつつ一鍬一鍬と開拓の努力は連綿百年の星霜を経て現代の一繁栄を招来した。

滋に百一年の第一歩を踏み出すに当たり、静かに先人の労苦を偲びその教訓を学び、今日への感謝と供に展開する明日への資とする。尚に此の碑を建て、以て永く先人の志を伝える。

 昭和四十八年四月吉日       山野辺南薫 撰並書

※碑文を抜粋して掲載しました。

開墾の苦難は、まさにこの碑の如くであったようです。

そして、先人の苦難の歴史の上に今日の豊四季があるとし、この碑を残していることはすばらしいことです。

交通量は多い。

      緑豊かな住宅街。

整地された畑地が広がる。

        

正面が、東武野田線・豊四季駅。

春爛漫のお花屋さん。

ここは、露地栽培。

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。「日光東往還」はどの道か?

                     1880年代のようす。斜めの道が「日光東往還」。

現在はたくさんの道がありますが、明治初期は畑や雑木林の中の一本道だったのですね。

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