続いて、「靖国通り」を西に、市ヶ谷方向へ。「東郷公園前」交差点を左折、細い路を行くと、「東郷公園」に。
「三番町」の来歴を記した説明板。
江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。また、御厩谷坂の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端近くの警備を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
寛政5年(1793)、塙保己一が、この地に幕府の許可を得て和学講談所を開きました。保己一はわが国の古文献を集めた『群書類従』という書物の編纂で知られる学者です。幕末の兵学者村田蔵六(のちの大村益次郎)もこの地に蘭学の鳩居堂を開きました。さらに明治10年(1877)には、漢学者三島中洲が二松学舎(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
明治になると、かつて武家屋敷であったところは、伯爵・子爵などの華族や政府役人の邸宅地となりました。
日露戦争の折、日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎も、明治14年(1881)から昭和9年(1934)までの53年間を過ごしています。邸宅跡は彼の事跡を記念して東郷元帥記念公園になり、四番町)との境の坂は「東郷坂」と命名されています。
また、『濹東綺譚』で有名な永井荷風や、『武蔵野』の国木田独歩などの文学者も三番町の住人でした。与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹も一時この地に住み、雑誌『明星』を創刊しました。
錚々たる人物の顔ぶれがそろう三番町です。国政の中心に近く、落ち着いた町並みを残したこの地だったからこそ、彼らに愛されたのでしょう。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が「上六公園」、「九段小学校」付近。「上六」という名称は、「上六番町」にあったから。公園内に「三番町」の由来碑があるが、この頃の「三番町」は少し上方に位置していた。
⑦上六公園、東郷公園、九段小学校。
公園内は高低差があり、昭和4年に低い部分が上六公園(※震災復興52小公園の一つ)として開園し、その後昭和13年に公園に隣接していた東郷平八郎連合艦隊司令長官(日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った)の私邸が東郷元帥記念会から寄付を受け、高い部分を公園として開園しました。
園内には東郷邸にあったライオン像や力石が残され、子どもたちのための遊具も設置されています。
(HPより。)
中央に見えるのが、ライオンの石像。
力石。(「佃島」などにあったのと同じようなかたちをしている!)
説明板によると、「57貫目」(213.75㎏)との銘文があるが、実際に計量したところ、146.4㎏(約39貫目)だったとのこと。
「東郷元帥記念公園」由来碑。
当公園は、当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年7月最下段の部分が開園された。
当初、東郷平八郎元帥邸が隣接しており、同元帥没後、東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され、昭和13年11月東郷元帥記念公園として開園した
遊具施設、健康施設があって、大人も子どもも楽しめそう。
左手が「九段小学校」。震災復興校舎で、現役の校舎。さくらの花が一輪、二輪とほころび始めていた。
「上六公園」を下に望む。けっこう高低差があり、子ども達が駆け上がったり下ったりして活発に遊んでいた。
古い樹木も多い。
学校帰りの小学生。学校と公園とが一体化している(当初の目的に適っている)。南側からの公園風景。奥の東郷元帥記念公園との高低差がはっきり分かる。
「三番町」の来歴を記した説明板。
江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。また、御厩谷坂の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端近くの警備を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
寛政5年(1793)、塙保己一が、この地に幕府の許可を得て和学講談所を開きました。保己一はわが国の古文献を集めた『群書類従』という書物の編纂で知られる学者です。幕末の兵学者村田蔵六(のちの大村益次郎)もこの地に蘭学の鳩居堂を開きました。さらに明治10年(1877)には、漢学者三島中洲が二松学舎(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
明治になると、かつて武家屋敷であったところは、伯爵・子爵などの華族や政府役人の邸宅地となりました。
日露戦争の折、日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎も、明治14年(1881)から昭和9年(1934)までの53年間を過ごしています。邸宅跡は彼の事跡を記念して東郷元帥記念公園になり、四番町)との境の坂は「東郷坂」と命名されています。
また、『濹東綺譚』で有名な永井荷風や、『武蔵野』の国木田独歩などの文学者も三番町の住人でした。与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹も一時この地に住み、雑誌『明星』を創刊しました。
錚々たる人物の顔ぶれがそろう三番町です。国政の中心に近く、落ち着いた町並みを残したこの地だったからこそ、彼らに愛されたのでしょう。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が「上六公園」、「九段小学校」付近。「上六」という名称は、「上六番町」にあったから。公園内に「三番町」の由来碑があるが、この頃の「三番町」は少し上方に位置していた。
⑦上六公園、東郷公園、九段小学校。
公園内は高低差があり、昭和4年に低い部分が上六公園(※震災復興52小公園の一つ)として開園し、その後昭和13年に公園に隣接していた東郷平八郎連合艦隊司令長官(日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った)の私邸が東郷元帥記念会から寄付を受け、高い部分を公園として開園しました。
園内には東郷邸にあったライオン像や力石が残され、子どもたちのための遊具も設置されています。
(HPより。)
中央に見えるのが、ライオンの石像。
力石。(「佃島」などにあったのと同じようなかたちをしている!)
説明板によると、「57貫目」(213.75㎏)との銘文があるが、実際に計量したところ、146.4㎏(約39貫目)だったとのこと。
「東郷元帥記念公園」由来碑。
当公園は、当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年7月最下段の部分が開園された。
当初、東郷平八郎元帥邸が隣接しており、同元帥没後、東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され、昭和13年11月東郷元帥記念公園として開園した
遊具施設、健康施設があって、大人も子どもも楽しめそう。
左手が「九段小学校」。震災復興校舎で、現役の校舎。さくらの花が一輪、二輪とほころび始めていた。
「上六公園」を下に望む。けっこう高低差があり、子ども達が駆け上がったり下ったりして活発に遊んでいた。
古い樹木も多い。
学校帰りの小学生。学校と公園とが一体化している(当初の目的に適っている)。南側からの公園風景。奥の東郷元帥記念公園との高低差がはっきり分かる。