おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

上六公園。東郷元帥記念公園。九段小学校。(震災復興52小公園。その34。)

2014-01-28 21:25:56 | 震災復興小公園
 続いて、「靖国通り」を西に、市ヶ谷方向へ。「東郷公園前」交差点を左折、細い路を行くと、「東郷公園」に。
「三番町」の来歴を記した説明板。
 
 江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
 江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。また、御厩谷坂の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端近くの警備を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
 寛政5年(1793)、塙保己一が、この地に幕府の許可を得て和学講談所を開きました。保己一はわが国の古文献を集めた『群書類従』という書物の編纂で知られる学者です。幕末の兵学者村田蔵六(のちの大村益次郎)もこの地に蘭学の鳩居堂を開きました。さらに明治10年(1877)には、漢学者三島中洲が二松学舎(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
明治になると、かつて武家屋敷であったところは、伯爵・子爵などの華族や政府役人の邸宅地となりました。
 日露戦争の折、日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎も、明治14年(1881)から昭和9年(1934)までの53年間を過ごしています。邸宅跡は彼の事跡を記念して東郷元帥記念公園になり、四番町)との境の坂は「東郷坂」と命名されています。
 また、『濹東綺譚』で有名な永井荷風や、『武蔵野』の国木田独歩などの文学者も三番町の住人でした。与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹も一時この地に住み、雑誌『明星』を創刊しました。
錚々たる人物の顔ぶれがそろう三番町です。国政の中心に近く、落ち着いた町並みを残したこの地だったからこそ、彼らに愛されたのでしょう。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が「上六公園」、「九段小学校」付近。「上六」という名称は、「上六番町」にあったから。公園内に「三番町」の由来碑があるが、この頃の「三番町」は少し上方に位置していた。

⑦上六公園、東郷公園、九段小学校。

 公園内は高低差があり、昭和4年に低い部分が上六公園(※震災復興52小公園の一つ)として開園し、その後昭和13年に公園に隣接していた東郷平八郎連合艦隊司令長官(日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った)の私邸が東郷元帥記念会から寄付を受け、高い部分を公園として開園しました。
 園内には東郷邸にあったライオン像や力石が残され、子どもたちのための遊具も設置されています。
HPより。)

中央に見えるのが、ライオンの石像。
力石。(「佃島」などにあったのと同じようなかたちをしている!)
 説明板によると、「57貫目」(213.75㎏)との銘文があるが、実際に計量したところ、146.4㎏(約39貫目)だったとのこと。

「東郷元帥記念公園」由来碑。

 当公園は、当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年7月最下段の部分が開園された。
 当初、東郷平八郎元帥邸が隣接しており、同元帥没後、東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され、昭和13年11月東郷元帥記念公園として開園した

遊具施設、健康施設があって、大人も子どもも楽しめそう。
左手が「九段小学校」。震災復興校舎で、現役の校舎。さくらの花が一輪、二輪とほころび始めていた。
「上六公園」を下に望む。けっこう高低差があり、子ども達が駆け上がったり下ったりして活発に遊んでいた。
古い樹木も多い。
学校帰りの小学生。学校と公園とが一体化している(当初の目的に適っている)。南側からの公園風景。奥の東郷元帥記念公園との高低差がはっきり分かる。

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西小川(西神田)公園。旧西神田小学校(現「西神田コスモス」)。(震災復興52小公園。その33。)

2014-01-27 19:23:13 | 震災復興小公園

⑥西神田公園。旧西神田小学校(廃校)。

 「靖国通り」と「白山通り」との交差点「神保町」からしばらく北西の方角に歩いたところ。「西神田公園」は、震災復興52小公園としては、名称は、「西小川公園」。小学校名も「西小川小学校」。

広場中心の公園。南側に遊戯設備あり。大幅に改装され、復興公園の面影はなさそう。
煉瓦造りの門。改装前からあったものか?

 西神田小学校は1993(平成5)年統廃合の計画で廃校となり、その跡地は、「西神田保育園」や住宅などが入った高層ビルの「西神田コスモス館」となった。


西神田保育園のご紹介

 地下鉄神保町駅からも、JR水道橋駅からも徒歩で5分~10分ほどの距離にあり「本と学生の町」として知られている地域にあります。
昭和47年に開園され平成11年に今の場所に移転して来た新しい施設です。
コスモス館として児童家庭支援センターや、集会室、住宅と併設され、その1階と2階部分が保育園です。園舎は曲線を多く取り入れ、明るく広々とした環境です・・・
(「西神田保育園」HPより)

通りを挟んで。右が「西神田コスモス館(かつての「西神田小学校」)。左が公園。タクシーがけっこう停まっていた。

西神田小学校・幼稚園記念碑。

 西神田小学校は、明治36年(1903)地元住民の絶大なる協力のもと東京市西小川尋常小学校として、この地に設立された。翌明治37年(1904)、修業年数2年の高等科が併置され西小川尋常高等小学校と改称した。明治39年(1906)には尋常夜学校が併設された。昭和18年(1943)まで続けられ、修了生は1459名を数えた。昭和2年(1927)西神田尋常小学校と変更、さらの昭和16年(1941)西神田国民学校、昭和22年(1947)千代田区立西神田小学校と校名変更を重ねた。また、昭和21年には西神田幼稚園が併設された。特に、統計教育、放送教育、社会科教育においては全国・全都の学校の指導的役割を果たした。
 開校以来児童数は増加を続け、関東大震災直前の大正11年(1922)には1437名を数えたが、以後徐々に減少し続け再びこの人数を回復することはなかった。
 平成4年(1992)創立90周年を迎えたが、千代田区公共施設適正配置構想のもと、翌平成5年(1993)3月西神田小学校・西神田幼稚園の長い歴史に幕を下ろし、同平成5年(1993)4月、西神田区立お茶の水小学校として再出発をした。
 明治、大正、昭和、平成と4代にわたる激動の時代を生き抜き、10896名に及ぶ児童、2470名に及ぶ園児の健全な育成に携わるとともに、地域発展のため常に精神的な拠り所として、その役割を果たしてきた西神田小学校・同幼稚園の栄光を、永久に記念するためにこの碑を建立するものである。

ベンチ。かつて小学校で使用していた?
記念樹の説明板。
創立80周年記念の「オオシマザクラ」。
「西神田コスモス館」。
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錦華公園。旧錦華小学校(現お茶の水小学校)。(震災復興52小公園。その32。)

2014-01-26 23:18:02 | 震災復興小公園

⑤錦華公園。旧錦華小学校(現お茶の水小学校)

 なお、「神奈川大学 関東大震災・復興データベースによる開園当時の平面図」で当時のようす(小学校校舎と公園との位置関係など)が分かる。 
 
 ここは、「山の上ホテル」、明大の西側(裏手)に位置している。表通り(明大通り)からは緩やかな上り坂。「山の上ホテル」を回り込んで、少し下ると公園。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が錦華小学校があるあたり。「小松宮邸」とその南側はは現在の明大の敷地。邸の一部が現在の「山の上ホテル」。崖伝いになっていることがよく分かる。

公園北側の入口。「錦華坂」。元は、武家屋敷の一角。
このあたりは、門柱など開園当時のままの雰囲気。
石組みなども昔のままか?
 学生の頃、ここの公園で開かれていた古書市(古本まつり)に何度か来たことがあった。それ以来久々に。待てよ、40年以上も昔の話なので、勘違いかも?
昨年のようす。
HPより)

公園に隣接されている「お茶の水幼稚園」園舎(もともとは、公園だったところ)。公園との一体感があり、迎えの母親が公園内で待機していた。

公園の西側から東を望む。左奥が「山の上ホテル」。
北側の通りから公園を見下ろす。
公園北側の通り。奥に見える店舗が、関ヶ原の戦い前に創業した、という酒屋・豊島屋「豊島屋」。

《錦華小》
明治6年 開校。第四中学区二番小学校(後、久松学校と称す)。
1926(昭和元)年 関東大震災のため焼失した校舎が、鉄筋コンクリート三階建て校舎として完成。
1973(昭和48)年 鉄筋五階建ての新校舎完成。
1993(平成 5)年 千代田区の統廃合計画により120年の歴史に幕。
 以後、近隣の小川小学校、西神田小学校と統合し、お茶の水小学校となる。校舎は、旧錦華小学校の場所に存続。「錦華」の名は、隣地の錦華公園、その脇の錦華坂、錦華通りにその名を残している。
 開校記念式典には、昭和天皇や現在の天皇も皇太子のときに夫妻で列席しているほどの「名門」小。
背景は、震災復興校舎。
(以上、HPを参照。写真も。)

校名が変わり、「お茶の水小学校」へ。
校舎南・校庭側から望む。遠くの高層ビルは、明大校舎。
敷地沿いに古木が保存されている。
「吾輩は猫である 名前はまだ無い  明治11年 夏目漱石 錦華に学ぶ」
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淡路公園。旧淡路小学校(現「WATERRAS/ワテラス」)。(「震災復興52小公園」。その31。)

2014-01-25 20:13:55 | 震災復興小公園
 今回は、JR「お茶の水」から「市ヶ谷」まで。淡路公園。錦華公園。西神田公園。上六公園。

④淡路公園。淡路小学校(廃校)

 この辺りの変貌も著しく、久々に来てびっくり。古い校舎の小学校もなくなり、静かな緑の公園もまるで面影なし。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右端に「小川女子小学校」とある(旧淡路小学校沿革史の赤字部分参照)。なお、地図の中央は、現在のニコライ堂付近。


上とほぼ同じ場所の1970年代のようす(「同」より)。右の赤い↓が「淡路公園」「淡路小学校」。中央の↓がニコライ堂。

《旧淡路小学校 沿革》
 明治 8(1875).11. 4  神田小川町1番地に開校、当時小川小学校と称す
 明治 11(1878). 2.26  小川女子小学校と改称
 (錦華小学校と男女児入れ替え本校は女児のみ収容)

 明治 11.10. 1  神田淡路町2丁目(旧校地)に移転
 明治 32. 5. 9  東京市淡路女子尋常高等小学校と改称
 明治 41. 4. 1  東京市淡路女子尋常小学校と改称
 (高等科児童全員神田高等小学校へ移籍)
 明治 44. 3.23  新校舎落成(木造3階建)
 明治 44(1911). 4. 1  東京市淡路尋常小学校と改称(男女共学化)
 大正 12. 9. 1  関東大震災により校舎全焼
 昭和 2. 3.22  新校舎落成
(「昌平小」HPより)

 ※「震災復興校舎」としては、その後、1993(平成5)年、統廃合で廃校になるまで現役の校舎。 
 その跡地には、再開発プロジェクト「WATERRAS/ワテラス」が2013年4月に開業。
超高層ビルに大変化。
説明板。「淡路小学校」が平成5年、117年の歴史を閉じたことなどが記されている。
赤い印が淡路公園。
淡路小の校歌。モニュメントとして保存されている。

 公園には、かつての「園公路淡市京東」と記された銘板と建設年月が記された記念碑があるなど、千代田区内のこれまで訪れたところよりも歴史を継承するためのモニュメントが置かれている、ような気がした。

かつてあった「開成学園発祥の地」の碑もそのまま(むしろ目立つ位置に)置かれている。(西日暮里への校舎移転は関東大震災により校舎が壊滅したため。)
北側に同じ頃完成したテナントビル「お茶の水ソラシティ」。

 公園も一体としての再開発の対象でした。
開放的な芝生の広場に。
農産物の即売会が開かれていてそこそこの賑わい。「ワテラス」から下に公園を望む。

 もともと段差がある公園なので、それを生かしたつくり。しかし、こんもりした雰囲気がない。帰宅後、かつての公園のようすが、

公園探訪:公園の良さをじっくり観察「park.tokyo1970.com/data/149.html」)‎様のblog

に掲載されていましたのでお借りします。






この表示はモニュメントの一部として残っています。

 今となっては実に貴重な写真になりました。
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神田児童公園。千代田小学校。(震災復興52小公園。その30。)

2014-01-23 22:05:20 | 震災復興小公園
 続いては、JR神田駅の西。休日のため、サラリーマンの姿もなく閑散とした通りを抜けたところにある。
「神田青果市場発祥の地」碑。

 このあたり一帯は江戸・明治・大正時代を通して巨大な青果市場がありました。はじめは青物市が江戸中に分散していたのが、明暦の大火(1657)以降徐々にここに集まってきたといわれています。
 徳川幕府の御用市場として 駒込, 千住と並び 江戸三大市場の随一だったといわれています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から他市場で見られない優秀な青物が荷揚げされ、約1万5千坪(約4万9500㎡)におよぶ広大な青物市場で商われていました。
 当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。現在の市場のイメージと異なり、当時は市場の中に町があったのです。周辺の表通りには野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、威勢のいい商いが行われていました。青果市場の別名である「やっちゃ場」はそんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉だといわれています。
 大正12年(1923)月関東大震災にあって 市場は全滅しましたが、 直ちに復興し 東洋一の大市場とうたわれました。その後、 昭和3年(1928)には秋葉原西北に、平成2年(1990)には大田区へと移転しました。
(以上、「千代田区観光協会」HPより)

この付近にも、ビルの間に昔ながらの家屋が残っている。


③神田公園。旧神田小学校(現千代田小学校)
名称は「神田児童公園」に。他の震災復興公園でも改修工事をした後は「○○児童公園」と名付けるケースが多くみられる。
 ここの公園も校舎も大幅に改修、新築。震災復興公園・小学校という面影はなくなった。また、学校とも通りを挟んでいるため、関連性がなさそう。
公園の西北側から。
せせらぎ。この時期止めている公園が多いのに、ここは流れている。
一番古めかしいコンクリート製の揚水設備?

学校側の通りから。
平日はサラリーマン達の憩いのスペースに。
千代田小学校。立派な建物。千代田区立はどこも豪華。
時計塔がシンボル。中央区内の震災復興校舎は新築してもかつての建物の特色を生かす工夫があるが、千代田区にはそういうことは感じられない。

「祝開校開園20周年」。

・区立神竜小学校(1966年神田小へ統合)
・区立神田小学校(1993年千桜小と統合し千代田区立千代田小学校へ)
・区立千桜小学校(1993年神田小と統合し千代田小へ)

平成 5 4 学校設置条例の改正に伴い、千代田区立千桜小学校と千代田区立神田小学校、千代田区立永田町小学校(一部)が合併し、千代田区立千代田小学校となる。
平成 7 12 旧神田小跡に新校舎着工。
平成10 2 旧校舎とのお別れ
     3 新校舎の落成を祝う会。
     4 新校舎出発の会を開催。校舎移転・・・(「千代宇田小」HPより)

屋上が校庭。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸に「神田小学校」とある。現在のJR線路は地図上で右端から少し斜めに敷かれている。 

 千代田区立の小中学校も統廃合が多く行われています。地域の児童数の減少などからある意味仕方がないことです(かつては他区、時には都外からの越境入学児童・生徒で成り立っていた学校も多くあった)。が、統廃合の際の校舎の豪華な新築はさすがお金持ちの区ですが、校名の決定で、旧来の地域名、創立時のいわれなどを勘案せず、統合する学校間の妥協的なネーミングが気になります。

 そういう意味で、この「千代田小」というネーミングは、もう少し南にかつてあった「千代田町」からとったのでしょうが、位置的にも歴史的にもおかしい感じがします。
 もちろん、このことは千代田区に限ったことではなく、中央区(合同のため、二つあわせてやたら長い名前になったり)や北区(とってつけたような校名になったり)などでも目にします。
 もともとあった場所故の校名が、他へ移ってもそのままの学校などは、都立高校にあります(江戸川区や墨田区に移っても「紅葉川」、「日本橋」、・・・)ので、とやかく言う筋合いのものでもないですが・・・。

 各校の沿革史も統合後のものが掲載されるケースが多くあって、かつての学校の歴史、校舎、伝統などを調べようにも限界があるのが残念です(特に、震災復興校舎当時の写真が各校のHPには掲載されていない)。
 また、歴史をつなぐモニュメントがないのも気になりました(探し方が悪いのかもしれませんが)。中央区はその継承・記念をしっかり行っているようでした(同窓会・卒業生などによって)。

 児童数は、千代田小243名(1~4年1学級、5,6年2学級)、昌平小253名(3年のみ1学級、残りの学年は2学級)とどちらもけっして大きくはない。豪華な校舎・設備。宝の持ち腐れにならぬよう、祈ります。
 それとも、現在、幼稚園(保育園)を併設する(している)だけでなく、後には「老人ホーム」併設・転用を想定している? (神奈川県の公立高校は、そういう将来展望で建てたところもあるそうです)あるいは、地域センター的なものにも活用する計画?
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芳林公園。旧芳林小(現昌平小学校)。萬世橋。(震災復興52小公園。その29。)

2014-01-22 19:23:35 | 震災復興小公園

 賑やかな秋葉原・中央通りを右折したところにある公園。
久々の秋葉原。これが噂の「AKB48劇場」。待てよ、劇場は、ここだけなのかな? 
 へんてこな(お世辞にもかわいいとは言えそうもない)コスチュームを着たオンナの子が黄色い声を上げてあちこちでビラ配り。これが噂の・・・。

 そんな雑踏の混雑がちょっと途切れたところにありました。
学校脇に設置されてある「金澤町」の表示。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。この当時、学校はここにはなく、もう少し南の旅篭町にあった、ようだ。

②芳林公園。昌平小。

 ここも大幅改修。「震災復興52小公園」の一つとして開園した当時の面影はない。
立派な門柱。
その脇にあった「滝沢馬琴住居跡」説明板。

《「芳林公園」の由来》
 旧芳林小学校(現「昌平小学校」)に隣接することから芳林公園と命名。

昌平小学校と一体的な利用施設になっている(「震災復興公園」の本来の目的を生かしたものか)。公園入口に備えつけた水まき用のホースにも「昌平小」とあった。
歩道橋で学校と結ばれている。
公園の奥に遊具施設がある。
公園から昌平小校舎を望む。
オフィスビルのような趣。

《芳林小学校》
安政4(1857). 1.18  有馬藩出身で清水家侍臣・金子政成が神田牛込袋町代地(現在の外神田1-18付近)に家塾を開き、加賀藩主前田斎泰が芳林堂と命名、芳林小の前身となる
明治 6. 2.  第5大区第4小区内幼童学所と改称、東京府下私立小学校のさきがけとなる
明治 7. 2.  第1大学区第5中学区第7番小学に編入、3月旧名を冠し芳林小学校と改称
明治 10(1878). 6.  火災により旅籠町2丁目8番地(現在の外神田1-8付近)に移転
明治 19.12.  私立芳林尋常高等小学校と改称
明治 26.12.  東京市神田区代用尋常小学校となる
明治 42.12.22  木造2階建新校舎竣工(現在地)
明治 43(1910). 2.25  隣接の練成小学校から一部児童を収容(学区域整理)し、東京市芳林尋常小学校として開校式挙行
明治 45. 5.31  東京市外神田図書館を校舎内に開設
大正 12(1923). 9. 1  関東大震災により校舎の大半焼失
大正 15. 2.  新校舎建設のため練成尋常小学校地(五軒町17番地)に移転

昭和 3(1928). 4.25  新校舎落成(現在地)

昭和 5(1930). 4. 1 校歌制定、芳林公園開設
昭和 6(1931). 9. 1  東京市芳林幼稚園開設
・・・
(「昌平小」HPより)

 実に古い歴史を持った学校です。震災復興校舎は、昭和3年完成。その当時の雰囲気はまったくなく、近代的な建物に大変化。
併設されている幼稚園の園庭。

 また秋葉原駅の雑踏に戻って神田駅方向へ。その前にちょっと寄り道。


1880年代のようす(「同」より)。現在のJR秋葉原駅付近。広大な敷地が「鎮火社(のち、秋葉神社)」。「昌平橋」の上流には、旧(元)「萬世橋」(地図上では見えない)。現在の「萬世橋」は、当時の「昌平橋」にあたる位置。


ほぼ同じ場所の1970年代のようす(「同」より)。左端が「萬世橋」。

 本来なら、「秋葉神社」から、「あきばはら」という読みのはずだが、どうして「あきはばら」と読む(発音する)ようになったのか、いろんな説があるようです。
 興味深いのは、駅をつくったとき、「あきばはら」と読めなかった駅員が「あきはばら」と誤って読んだから、とか。・・・。今は、「あきば」という言い方で定着したようなので、元に戻ってよかった!よかった!

万世橋。
親柱。
万世橋から秋葉原駅方向を望む。

《万世橋》
 「万世橋」の歴史は、1676年(延宝4年)に架けられた筋違橋(すじかいばし)に遡る。当橋は、徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の昌平橋と万世橋との中間にあった。すぐ南に筋違見附があり、橋はその見附の付属物であった。
 1872年(明治5年)に筋違見附が取り壊され、翌1873年(明治6年)にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成し、当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。眼鏡橋とも呼ばれた。
 上流の昌平橋が1873年(明治6年)に洪水に流され、1896年(明治29年)に復旧される迄は、現在の万世橋の位置に仮木橋が架けられ、それが昌平橋と呼ばれた。
 1903年(明治36年)、一時昌平橋と呼ばれた仮木橋の場所(現在の位置)に新万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は、1906年(明治39年)に撤去された。新万世橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災、のちに修復された。
 大震災後の帝都復興事業に指定され、東京地下鉄道の渡河工事に伴う水路変更の必要もあって、1930年(昭和5年)に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成の現在のアーチ橋に架け替えられた。
(以上、「Wikipedia」参照)

説明板。この橋も、関東大震災復興事業に関わりがあった。
完成当時の写真。
神田川。左は、もとの万世橋駅。
煉瓦造り。
「交通博物館」があったところ。
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練成公園。アーツ千代田3331。五軒町。(震災復興52小公園シリーズ。その28。)

2014-01-21 21:49:15 | 震災復興小公園
 今回から、千代田区編。地下鉄銀座線・末広町からJR神田まで。
 ただし、千代田区は、都会も都会、日本の政財界の中心地。したがって、その変貌も激しく、「上六小学校(現九段小学校)」(現在、改修計画が検討されている、らしい)以外は震災復興校舎も現存しないようです。はたして「震災復興公園」はどうか?

①練成公園。練成小→練成中→アーツ千代田3331。
公園。ぽつんと古木(昔のまま、それとも?)。しだれ桜?が一本。あとは西端に花壇。そして、立派なトイレ。


公園側が出入口というのは、かつてのコンセプトのまま。

公園から「アーツ千代田3331」の建物を望む。
公園の方は、取り立てて特徴はなさそう。

「練成中学校」と校章の残った正門。

 これだけが震災復興公園の証。
「昭和6年1月1日開園」。新しく設置したもののようだ。

 そして、「五軒町」という表示。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 3331 Arts Chiyodaは旧練成中学校を利用して誕生したアートセンターです。地下1階、地上3階の館内には、アートギャラリー、オフィス、カフェなどが入居し、展覧会だけでなくワークショップや講演会といった文化的活動の拠点として利用されています。また、誰でも無料で利用できるフリースペースも充実しており、お昼時には近隣にお勤めの方々やベビーカーを押すお母さんたちで賑わい、夕方には宿題をする子供たちの姿も見られます。
 アートに興味を持つ人のみならず、誰でも気軽に利用できるのが3331 Arts Chiyodaの特徴。第一線で活躍するアーティストやクリエイターから、地域の子どもたちまでが集い、日常的に創造力を育む文化的活動に触れることができます。東京だけでなく、日本各地や東アジアをはじめとする「新しいアートの拠点」を目指す一方、区民の方々をはじめ人々の憩いの場でもあるのです。
 当施設は千代田区文化芸術プランの重点プロジェクトとして始まりました。
プロジェクトの経緯については、こちらからご覧ください。
当施設はその経緯をふまえ、運営団体が民営による運営を行っています。

※「3331」の由来
 「江戸一本締め」をご存知ですか?江戸一本締めは、おめでたい席で感謝の意を表す風習として、古く江戸時代から受け継がれてきた手締めの文化です。かけ声の「イヨーオ」は、「祝う・祝おう」が語源といわれ、さらに「シャン・シャン・シャン」と三回打つことが三回で合わせて九(苦)となり、最後に「シャン」と一回打つことで苦を払い、「九」に一画加えて「丸」になるとされています。「3331」のマークは、そのリズムを数字で表したもの、ロゴマークもよく見ると、そのリズムを数字で表したもの、ロゴマークもよく見てみると。「三・三・三・一」の文字からできていることに気づきましたか?


 (以上、「千代田3331」HPより)

 センスがあるんだかないんだか、ちょっと疑問の命名、と思う。また、隣接していた「震災復興公園」当時の考え方をもっと生かすべきではなかったか、と。
 ただ、学生を含めて人の出入りも多く、活発な活動を行っているようすが知れ、公園も周囲の雑踏の中での貴重なアプローチ・憩いの場としてはコンパクトによくまとまってはいる。
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佃島の渡し。月島の渡し。・・・(震災復興52小公園。番外編。その12。)

2014-01-14 23:26:51 | 震災復興小公園
 江戸時代を通じて佃島は船でしか渡れなかった。「佃の渡し」の歴史は古く、江戸時代初期から。本格的な定期的な渡船となったのは明治9年。船松町(現・湊町)との間、手漕ぎの有料船で、乗り賃五厘だった。
 大正15年になって東京市に移管、昭和2年から無賃になり、同39年の佃大橋の開通まで続いた。隅田川では一番最後まで残った「渡し船」で、両岸の渡船場近くに同じ形をした「佃島渡船」の石碑が建っている。

佃島渡船場の碑(佃島側)

 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲である。徳川初代将軍家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住まわせたところという。この島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通ったのが佃の渡しである。
 明治9年7月には、渡し銭1人5厘の掲示札の下付を願い出している。大正15年東京市の運営に移り、昭和2年3月無賃の曳船渡船となった。この石碑は、この時に建てられたものである。昭和30年7月に1日日70往復となったが、昭和39年8月佃大橋の完成によって廃止された。
 渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文化財に登録されている。
 平成12年3月 中央区教育委員会

「公園」の一角にある、劇作家・北条秀司の句碑。「雪降れば 佃は古き 江戸の島」
渡船場から東を望む。奥に見える「佃小橋」までが旧佃島。

佃大橋から隅田川上流を望む。中央が「中央大橋」。その奥に見えるのが「スカイツリー」。右手が佃島の超高層マンション群。
佃島方向を望む。

佃大橋西詰め(湊側)にある「佃島渡船」の石碑。
「説明板」。

 中央区民文化財 
 佃島渡船場跡
 所在地 中央区湊3-18/佃1-11-4

 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。徳川初代将軍家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の舩松町(佃大橋西詰付近)との間に正保2年(1645)に通ったのが佃の渡しです。
 明治9年(1876)には、渡し銭1人5厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正15年(1926)東京市の運営に移り、翌昭和2年(1927)3月に無賃の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。
 昭和30年(1955)7月には1日70往復にもなりましたが、同39年8月の佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。
 渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文化財に登録されています。
 平成12年3月 中央区教育委員会

 こちらはもう少し下流にあった「月島の渡し」。月島と築地を結んでいた。
「わたし児童公園」。この公園の一角に「月島の渡し跡」の碑がある。


月島の渡し跡
      所在地 中央区月島三丁目二四 わたし公園
 「月島の渡し」は、月島一号地の埋立が完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現、築地7丁目)から月島(現、月島3丁目)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船をはじめたことにはじまるといいます(『月島発展史』)。明治34年(1901)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が市営化を決め、翌35年、汽船曳船二隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。月島は東京の臨海工業地帯として発展し、明治44年には、乗客の増加に対応するために徹夜渡船が開始されました。
 その後、昭和15年(1940)には勝鬨橋が架橋され、渡船の利用者は減少の一途をたどり、月島の渡しは廃止されることとなりました。
 平成13年3月 中央区教育委員会

※築地側の碑(明石地区を訪ねたときに撮った写真)。


月島の渡し跡
       所在地 中央区築地七丁目18番
               明石町14番 地域
 「月島の渡し」は、月島一号地の埋立が完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島3丁目24番)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります。明治34年(1901)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め、翌35年に汽船曳舟二隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。明治44年には、臨海工業地帯へとして発展した月島への乗客増加に対応するため、徹夜渡船も開始されました。
 月島の渡しの渡船場は、当初、明石橋橋詰の南飯田町にありましたが、東京市に移管されて運営が開始される明治35年以降は、明石町(現在の明石町14番)に渡船場を移設し、大いに利用されてきました。
 昭和15年(1940)に勝鬨橋が架橋されたことにより、渡船の運航に終止符が打たれましたが、明治から昭和にいたるまで住民や工場へ通う人々の重要な交通機関として活躍しました。
 月島の渡しは、月島工業地帯の発展、ひいては日本の近代化に寄与した渡船として語り継がれています。
 平成20年3月 中央区教育委員会
当時の写真(昭和12年)。

公園にある案内板。赤い線が当時の「月島の渡し」。
対岸(築地側)を望む。
上流方向。

《石川島、佃島、月島の変遷》(以下、「今昔マップ」による)
①一本も橋がなく、「佃島の渡し」、「月島の渡し」、「勝鬨の渡し」の時代。石川島、新旧佃島、月島と記されている。
②「佃大橋」、「勝鬨橋」(勝鬨橋:昭和15年、佃大橋:昭和39年)。石川島が佃島と一緒になって、佃島と月島の二つ。
③石川島播磨重工業などが移転し、更地になって再開発を待つ。そして、今や大川端リーシティ21などの超高層マンション群へ。

 こうして「勝鬨橋」、「佃大橋」、「中央大橋」と隅田川の両岸を行ったり来たり、月島を北に行ったり南に行ったり(待てよ、南端には行かなかった!)西に東に行ったり(待てよ、東端には行かなかった!)来たりと、と歩き回った「月島」「佃島」でした。とうてい一日仕事ではできるはずもなく、実は何日も分けての探索でした。
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佃公園。さし石。もんじゃ。佃煮。・・・(震災復興52小公園。番外編。その11。)

2014-01-13 22:36:43 | 震災復興小公園
 佃島(石川島)の西側地域。
住吉小橋から東を望む。右手が旧佃島。左手が石川島。中央奥が新佃島。
堀割を囲むように広がる「佃公園」。
隅田川との水門を望む。水門手前に架かる橋が「住吉小橋」。
お神楽を奏する舞台を模したような四阿。
漁船が停泊している。中央奥が住吉神社。
佃小橋。欄干が朱塗りなのは住吉神社との関連。
中央奥は超高層マンション群。
《佃川支川(佃堀)》
佃川は佃と月島の間を流れていた川。佃大橋が完成すると埋め立てられたが、その北側にあって、旧佃島を囲むように流れていた運河は、現在もL字型の堀割として残っている。
 隅田川への入口には氏神として知られる住吉神社の名に因んだ住吉水門が建てられ、また住吉小橋、佃小橋が架けられている。
 佃小橋のたもとは、住吉神社の3年に一度の例祭時に建てられる大幟の竿や台座となる抱木(だき)と呼ばれる巨大な木材を埋設する場所となっている。
立て札。
 この木材は3年に1度の例祭毎に、現在の佃1丁目(旧佃島)の男子のみで構成される佃住吉講の人々によって、掘り起こされる、とか。
中央、佃島渡船場を望む。この一角が旧佃島。
「さし石」の一つ。運河沿いの小さな鳥居の脇に3個。長径50cm前後の楕円形の石で、どれにも「さし石」の刻銘がある。
 佃島では漁業に従事する若い衆などが、力競べとして石を持ち上げることが盛んに行われた。石の1つに「佃大市」「佃辰」「佃清」「吉松」など佃ゆかりの力持ちの名も刻まれ、力競べの習慣を今日に伝えている。一般的には、「力石」と名付けられている。無銘なものがほとんどの中で、ここは珍しい。

 ※ 同じような石が「足立区郷土博物館」で展示されている。
「力石」。無銘の石。左奥にいくつも置かれている。

 (以下、「wikipedia」による)
 力石(ちからいし)は、力試しに用いられる大きな石。江戸時代から明治時代まで力石を用いた力試しが盛んに行われた。伝説的な人物が投げたと言い伝えられる力石も各地にある。
 力石の存在が確証されるのは、16世紀に作られた「上杉本洛中洛外図屏風」で、弁慶石の銘を持つ力石が描かれている。また、1603年の日葡辞書に力石の項があり、「力試しをする石」とされている。江戸時代の連歌に「文治二年の力石もつ」という句があり、おそらく文治二年(1186年)の銘か言い伝えがある力石があったのであろう。現存する力石に刻まれた年としては、寛永9年(1632年)が知られているかぎりもっとも古い。
 江戸時代から明治時代にかけては力石を用いた力試しが日本全国の村や町でごく普通に行われていた。個人が体を鍛えるために行ったり、集団で互いの力を競いあったりした。神社の祭りで出し物の一つとして力試しがなされることもあった。
 20世紀後半に力試しの習俗は廃れ、かつてあった力石のほとんどは行方不明になった。一部では住民が喪失を惜しんで力石を神社に奉納、境内に安置した。また後には自治体の民俗文化資料館に置かれたり、看板を立てて所在と由来を示したりして残された。21世紀初めまでに高島愼助が調査して報告した数は約14000、市町村が有形文化財とした力石は約350個、無形文化財に指定された力持ち(力試し)は1ある。また、18の力持ちの大会が神社の祭りや非宗教的大会として開催されている。
 石の形は表面が滑らかな楕円形が多い。滑らかな石は持ち上げにくいが、体に傷をつけずにすむ。ほとんどの力石は60キログラムより重い。米俵より軽くてはわざわざ石を用意する意味がないという事であるらしい。上限は様々で、中には300キロに達するものもある。あまりに重い石は一人で持ち上げることは不可能だが、それはそれで別の挑戦方法がある。
 人々は、山や川原で手ごろな大きさの石を見つけて村に持ち帰り、力石とした。重さが異なる石を複数用意することが多かった。置き場所は神社や寺社、空き地、道端、民家の庭など様々であったが、若者が集まるのに都合が良い場所であった。
 石に文字を刻むことも盛んに行われた。力石という普通名詞としての名のほか、石に与えられた固有名を刻んだものがある。また、持ち上げた人の名と年月日を記念に刻んだものもある。しかし大半は無銘で、慣習と記憶が薄れるとただの大きな石と区別がつかなくなる。
 力石を持ち上げることを、力持ち、力試し、石抱え、担ぎ上げ、盤持ち(ばんもち)などという。典型的には石を抱えて持ち上げる。持ち上げ方は、胸まで、肩まで、頭上まで、体に付けずに、など様々である。また持ち上げてから担いで歩いたり、体の周りを回したりすることもある。石に縄をかけて持ちやすくしたり、非常に重いものでは石が地面を離れればよしとしたり、倒れている石を引き起こせば良いとするなど、石の重さと個人の体力に応じて様々な条件と目標があった。
 力試しに挑戦するのは、村の若い男であった。娯楽が少なく力仕事が多い時代には、力持ちは若者のスポーツの一種であった。通過儀礼的に、力石を持ち上げられると一人前とみなされた村もある。しかし過去に一、二の人しか持ち上げられなかったという石もあり、力試しの位置づけもまた多様である。
 伝説上の人物が持ち上げたり放り投げたりしたと伝えられる力石が、やはり全国各地にある。たいていは一人では持ち上げられそうにない巨石である。

佃公園の南側。隅田川からの入り江(運河)は、ここまで。
奥に見えるのが「佃小橋」。

「佃島漁業協同組合」と記された漁船。

 超高層マンション群と漁村の雰囲気を残す一角と。味わい深い街並みです。

    
                     西仲商店街。平日はさすがに人出も少ない。

日曜の午後は人出も多く、賑わいを見せている。

1番街~4番街まである。
長い直線の道路両側にお店が並んでいる。商店街だけで約40軒、路地も含めると70軒以上のもんじゃ屋があるらしい。

 ただし、歴史のある店は数店であり、他の店は昭和50年代後半の「もんじゃブーム」で他の商店からもんじゃ屋にくら替えしたケースが多いらしい。もんじゃ焼きの店でも、お好み焼きも供するのが一般的である。
 月島最古の店は、昭和25年創業の「近どう本店」とか。
もんじゃ。
 「もんじゃ(焼き)」は、お好み焼きの原型となった料理。小麦粉を溶かす水の量が多く、またソースなどの調味料を一緒に混ぜ込んでしまうのが特徴。鉄板にコテ(ハガシ)で押さえつけて焼きながら食べるので、鉄板に接する表面部分はパリッとし、押さえつけが足りない部分はトロッとしている。それぞれの好みが出る。
 もんじゃ屋さんは、東京では下町地区に多く、隅田川以東の墨田区・江東区・台東区・荒川区など。

こちらは、佃煮の老舗が並ぶ。旧佃島の一角。佃大橋の東のたもと。


《佃煮の由来》

 江戸時代、徳川家康は名主・森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせた(東京都中央区佃島)。佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まったとされる。
 なお、以上の説に対しては異説もある。
・1858年(安政5年)に青柳才助が創始したとする説。
・1862年(文久2年)に鮒屋佐吉が創始したとする説。
・日本橋の伊勢屋太兵衛が創始したとする説。
・大阪・住吉明神を江戸・佃島に住吉神社として分霊したが、その祭礼では雑魚を煮詰めたものを供えていた(醬油煮説と塩煮説がある)。このことから、住吉神社に雑魚を煮詰めたものを「佃煮」として供えたことに由来するという説。

 1877年(明治10年)の西南戦争の時には、政府軍から軍用食として多量の佃煮製造が命じられた。1894年(明治27年)の日清戦争でも、多量の佃煮製造が命じられ、多量生産が行われるようになった。戦後、帰宅した兵士は戦場で食べた江戸前佃煮になじんでおり、これは一般家庭の副食となり日常食となっていった。
 現代では、佃煮の素材や味付けの種類が増えると共に、包装の工夫により販売や保存が楽になったことから、消費は益々ふえていった。
 今では全国各地に佃煮の産地がある。小豆島は、醤油の産地でもあり佃煮が多く作られている。特に昆布の佃煮が全国一となるなど佃煮産業が盛んである。広島市でも佃煮製造が行われており、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の日露戦争で広島が陸軍の橋頭堡となった事から軍需に支えられていたという背景があり、1898年(明治31年)に楠原政之助が広島市中区にて漬物佃煮の缶詰を製造し販売された[9][10]。焼津市は鰹の佃煮生産高が高く、地域によっては特徴のある製品が製造販売されている。
 本来の江戸前佃煮とは、常温で夏でもおにぎりや弁当に入れても傷まない辛口のものが安心で重宝された。現在も3軒だが、職人の技により手造りの旧来の味付けの佃煮も受け継がれている。
 丸久    1丁目2番 03-3531-4823
 天安本店  1丁目3番 03-3531-3457
 佃源田中屋 1丁目3番 03-3531-2649

(以上、「Wikipedia」参照)

去年の暮れ、佃島に住んでいる方から、地元のお店の佃煮セットをたまたま頂いたので。小瓶に分けておき、けっこう食べてしまいました。昆布、小女子、おかか、アミなど。甘辛くておいしい。

《佃の由来》
 佃島は元は江戸湊の沖の寄州に過ぎなかった。寄州とは川口付近にできる堆積地。本能寺の変のとき摂津国西成郡田蓑村の見一孫右衛門が、同国神崎川の急な出水で渡るに難渋している徳川家康の一行を助けたことで信任を得て、森の姓と佃の村名を賜った。
 のち家康が江戸に領地を与えられると、そのことが縁で江戸の漁業資源開発を懇請される。そこで孫右衛門は幾度か江戸に参府し家康から江戸湊内の漁業権を完全保障されたので漁師33人を引き連れて江戸に下り、安藤対馬守重信の敷地内(小網町)に仮寓しながら小網(百間張り出しの地引網)漁で漁業を始めるとともに、正保元年(1644)までに当時は「向島」と呼んでいた沖の寄州を填埋して陸地を造成し家宅を建て、故郷田蓑村に頂戴した佃を冠して「佃島」と命名した。
 因みに佃は「田を作る、また作った田圃」のこと。孫右衛門はそこまで見届けると弟の忠兵衛を名主として島に住まわせ、自らは本国摂津に帰り年々出府して目を届かせた。忠兵衛は六代までは佃姓を名乗ったが七代からは森姓に戻し幸右衛門を代々名乗りとした。
 佃島は俗に〝漁師町〟と呼ばれ、白魚献上の御用を承りつつ魚河岸を差配した。毎年11月から翌年3月まで佃沖で篝火(かがりび)を焚いて行う白魚漁は錦絵にも描かれた江戸風物詩の一つだった。
 
(以上、「東京の地名の由来 東京23区辞典」参照)
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石川嶋造船所。中央大橋。佃島灯台。・・・(震災復興52小公園。番外編。その10。)

2014-01-12 20:24:10 | 震災復興小公園
 石川島公園を隅田川分流・派川(本流は勝鬨橋から浜離宮方向、隅田川本流の河口はそちらに設定されているようで、竹芝桟橋辺り。)に沿って北西へそして島の突端(大川端?)をぐるりと回る。
江東区豊洲方向を望む。
対岸は「水上バス」の江東区越中島船着き場。
「日本初の民営洋式造船所 発祥の地」の碑。

《碑文》

日本初の民営洋式造船所 発祥の地
 米国ペリー艦隊が来航した1853年(嘉永6年) 幕府の命を受けた水戸藩がこの地に石川島造船所を創設した。同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ、日本人によって設計、 建造された最初の蒸気軍艦「千代田形」など数多の艦船を次々と建造、造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。
 明治維新後の1876年(明治9年) 平野 富二によりわが国初の民営洋式造船所として再スタートし、その後1889年(明治22年)には渋沢 栄一などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社東京石川島造船所の社名の下、 明治から大正・昭和にかけて、多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。この地での造船事業は1939年(昭和14年)造船部門の東京深川区豊洲への移設によって幕を閉じた。
 その後、石川島重工業株式会社、石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で、当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが、1979年(昭和54年)の工場大移転により、その長い歴史を終えた。

<写真> 初の蒸気軍艦「千代田形」


 126年という長い歴史の幕を閉じた後、跡地は 三井不動産・日本住宅公団に売却され、「大川端リバーシティー」として超高層マンション群として生まれ変わった。


隅田川・永代橋。
中央大橋。
竣工 1993年(平成5年)8月26日(「レインボーブリッジ」と同じ日)。
 隅田川とフランスのセーヌ川とは1989年(平成元年)に友好河川を提携していて、中央大橋を架橋する際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼。主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されている。また上流側の中央橋脚部には当時のパリ市長であったジャック・シラクから東京都に友好の印として贈られた彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像が鎮座する。彫像は川側を向いており、橋をくぐる水上バスからの方が見やすい。なお、このお礼にパリ市に「屋形船」を寄贈している。
彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像。
 彫像は川側を向いており、橋をくぐる水上バスからしか正面が見えません。
永代橋と遠くにスカイツリー。
銘板。
左・月島、右・築地方向を望む。
隅田川とセーヌ川との友好河川を記念しての植樹。

案内板。上の矢印が「人足寄場」跡。下の矢印が「南高橋」。「隅田川」に架かる左の橋が「中央大橋」、下流の橋が、「佃大橋。」
歌川広重「富士三十六景・東都佃沖」のレリーフ。
「東京詳細繪図・佃島燈明臺下汐干」のレリーフ。
 すっかりぼやけてはっきりしないので、原画を。
「佃島灯台」の下で潮干狩りに興ずる姿を描く。富士に筑波、房総半島まで望める風光明媚な土地として紹介されている。
 http://www.ur-net.go.jp/kachidoki/index.htmlより。)

赤い○のところが「佃島灯台」。

往時を偲んで作られた「灯台」。下が「公衆トイレ」というのが粋なのか、無粋なのか評価が分かれるところ。昔と同じ、小高い丘の上に同じような形。。
対岸を望む。
裏手の奥は、超高層マンション群。
石垣つくり。
「住吉小橋」から灯台を望む。坂を少し上ったところにある。
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相生橋。中の島公園。・・・(震災復興52小公園。番外編。その9。)

2014-01-11 23:03:52 | 震災復興小公園
 駆け足でさらっと。月島駅から相生橋、中の島公園(江東区内)、石川島公園、佃公園、もんじゃ、佃煮、佃島渡船、そして佃大橋を渡って湊へ・・・。今回はその1。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 「旧佃島」「新佃島(の一部)」「石川島」のみ。下方の「月島」は土地の形をなしていなかった。「石川島」には、「石川嶋造船所」(1853《嘉永6》年創設。 「石川島播磨重工業」の前身)。島の中央部分には、「石川嶋監獄署」(江戸時代後期の、犯罪者の更生を主な目的とした収容施設「人足寄場」がその前身)。赤い線の部分が現在残っている入江・堀割(「佃公園」の一部をなす)。


ほぼ同じ場所の1980年代の頃のようす(「同」より)。石川島播磨重工業が中央に(船舶製造部門の工場は豊洲へ移転している)。

相生橋。江東区越中島と中央区佃島(月島)を結ぶ。

 石川島・佃島の南側に位置する月島は、1892年(明治25年)ころから隅田川の浚渫によって築造され、次第に工業地区として発展しました。しかし、行き来は、西側の築地方面からの橋がなく、佃島の渡し、月島の渡し、勝鬨の渡しのみでした。
 そこで、北東に位置する深川側と結ぶことに。川の中にあった中之島を挟んで、「相生大橋」、「相生小橋」が1903年(明治36)年に完成。
1909(明治42)年ころのようす(「今昔マップ」より)。
 1923年(大正12)年には橋幅を広げ、月島まで市電が開通することとなりました。
 しかし、まもなく、関東大震災によって焼失してしまい、1926年(大正15)年、震災復興事業の最初の橋として再び架橋されました。
1939(昭和14)年ころのようす(「同」より)。赤い線が市電(後の都電)。

 1980年(昭和55年)には、小橋下が埋め立てられて、中之島が地続きとなり、さらに交通量の増大に伴って、1998年(平成10年)に現在の橋に架け替えられました。
橋のたもとにある解説プレート。

江東区「中の島公園」。これまでのいきさつが記されている。
感潮池の説明板。潮の満ち干によって水位が上がるようすが実感できる仕組み。
中央奥は、晴海地区。

公園の先端。右に見えるのが相生橋。


石川島公園から南東・豊洲地区を望む。
 現在、ショッピングセンター・アーバンドックららぽーと豊洲(2006年10月5日に開業)として賑わう地域もかつては、旧石川島播磨重工業(現・IHI)東京第一工場があって、盛んに造船で賑わっていた。

1980年代の頃のようす(「同」より)。まさに隔世の感がある。

護岸堤防。

海水館の碑。

海水館の碑

 所在地 中央区佃三一丁目一一番一九号先
 ここは明治二十九年(一八九六)に完成した新佃島埋立地の一部で、房総の山々を望むことのできた閑静な景勝地でした。
 ここに明治末から大正年間にかけて多くの文化人が集った海水館がありました。
 海水館は坪井半蔵(つぼいはんぞう)によって明治三八年に開業した割烹旅館兼下宿で、当時の京橋区新佃東町一丁目二六、二七番に建築されました。
 島崎藤村(しまざきとうそん)は明治四十年から四十一年にかけて海水館に止宿して自伝小説「春」を朝日新聞に連載し、小山内薫(おさない かおる)は明治四十二年から四十四年にかけて止宿して「大川端」を読売新聞に連載しました。
 他にも荒畑寒村(あらはた かんそん)・木下杢太朗(きのしたもくたろう)・佐藤惣之助(さとう そうのすけ)・竹久夢路(たけひさ ゆめじ)・日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ)・三木露風(みき ろふう)・横山健堂(よこやまけんどう)・吉井勇(よしい いさむ)ら多くの作家・芸術家が利用し創作活動を行いました。
 この碑は昭和四十三年(一九六八)、藤村の母校である明治学院大学藤村研究部によって建てられたもので、裏には「春」に執筆由来の記が記されています。

平成二十一年三月 中央区教育委員会

碑の裏面。

児童公園にあったモニュメント。「月島」に因んだ絵柄。
 埋立当時の月島は、富国強兵の国策に沿った重工業地帯とされ、鉄工所が多く造られた。工場、商店が多かった。

 1892年(明治25年)の「東京湾澪浚(みおさらい)計画」に基づき、隅田川、東京湾から浚渫した土砂を利用して埋め立てられ、月島1号地(現在の月島一丁目から月島四丁目まで)として完成した。
 地名の由来は、東京湾内にあった月の岬という月見の名所から名付けられたという。もともとは「築」島から来ていると思うが。

東京湾の最奥部にあたる。右手に「佃島水門」。

未だに残る昔ながらの木造家屋。


通りの沿った棟割長屋風の一角。途中新築の家を挟んで何軒か続いている。
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月島第一公園。月島第一小。(震災復興52小公園。その28。)

2014-01-09 20:30:03 | 震災復興小公園

⑪月島第一公園。月島第一小。
 大江戸線「月島」駅方向に向かって、「清澄通り」を進みます。
は、「(旧)佃島」。は、以前、「月島第1小」のあったところ。は、現在の「月島第1小」。は、「月島第2小」。


1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。が元の位置。が現在の位置。


 「月島川」に架かる「月島橋」の橋のたもとにあった「大震災横死追悼之塔」。関東大震災の際の遭難者を悼む碑。
香華が手向けてあった。
「月島川」中央奥は晴海方面。橋を渡った東側に「月島第一小学校」がある。
月島川。隅田川方向を望む。

《月島第一小》

「清澄通り」に面した正面玄関。もともとあった場所から移動している。
 
《沿革》
 明治39年 開校式挙行。東京市佃島小学校より児童202名を移して学級を編制し、東京市月島尋常小学校と改称。
 大正14年 鉄筋コンクリート3階建改装工事落成式を挙行。以後、この日を以て本校創立記念日とする。
 昭和51年 新校舎落成式を行う。
 平成 8年 校庭に埋設プールを設置する。
 平成18年 開校100周年・開園53周年記念式典を行う。
 平成25年度の在籍数 271名 
(「月島第一小」HPより)

 跡地は、「月島区民センター」「月島図書館」などの施設が入った建物になっている。


右手が公園。
広い公園になっている。この公園は「震災復興52小公園」の一つ。
公園は「区民センター」の裏手にある。
藤棚とテラス。
けっこう広い中央広場。
西側から遊戯施設のあるエリアを望む。中央奥の公衆トイレの建物が煉瓦造りの円筒形でユニーク。
様々な遊具施設。

 月島は新旧混在の街並み。取り残されたような、古い家屋や路地裏が残っています。
「清澄通り」沿いの商店。

蒲鉾など練製品を製造販売する有名な老舗の工場?







 というわけで、月島・佃島界隈を歩いてみましょう。

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月島第二公園。月島第二小。(震災復興52小公園。その27。)

2014-01-08 22:46:50 | 震災復興小公園

⑩月島第二公園。月島第二小。

《月島第2児童公園》

 都営大江戸線「勝どき」駅から「月島」駅周辺、佃大橋。実は、初めて降りました。かつて見聞きしたイメージとは大違い。見上げるような高層ビルとモダンな街並み、路地に入るとまだまだ昔ながらの下町風情。それらがごちゃ混ぜになった印象。行き交う人もたくさん。
定住人口が12万人になった記念植樹と記念碑。

勝どきビュータワー。超高層ビル。
《フロアの構成》

B1階:各種店舗・駐車場
1 - 2階:各種店舗
3階:区立保育園(かちどき西保育園)
4階:児童館(勝どき児童館)
5 - 52階:住宅(権利床:180戸、ゴールドクレスト分譲住宅:328戸、UR賃貸住宅:204戸)

《経過》

2004年4月22日 - 都市計画決定
2008年1月17日 - 建築工事着手
2010年10月27日 - 建築工事完了
2010年11月26日 - 竣工


1980年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 中央が「月島第2小」その下に「月島第2公園」。2004年に決定した都市計画に基づき、公園に隣接した住宅を取り壊し、「晴海通り」と「清澄通り」と交叉する広大な敷地に、超高層ビル「勝どきビュータワー」を建設、地域一体型の公園にして大きく拡張された。都営地下鉄・大江戸線「勝どき」駅と一体となっている。

月島第2児童公園から西を望む。拡張され、広くて明るい公園になっている。親子連れが目立つ。
公園の西側から東を望む。右側が公園。左の建物が「勝どきビュータワー」。

「平和の広場」。 平和モニュメント。『平和を願い核兵器のない世界の実現』をテーマとして、平和モニュメントを設置。各小学校の児童による作品。

「月島第2小」側からの公園。かつての「震災復興公園」としての面影はなく、小学校との一体感もなさそう。
公園の南側。昔ながらの商店がいくつか。

《月島第2小》

人口急増に伴って月島第2小学校も増築工事計画。
大きな校舎。
正面玄関。

明治42年開校で、100年以上の古い歴史を持つ学校。
大正12年関東大震災で校舎が全焼し、昭和2年に「震災復興校舎」が完成。
開校70周年のときの校舎全景(「月島第2小」HPより)。プールや体育館が出来ていますが、普通教室・校舎部分は、「震災復興校舎」のままか? 現校舎は1990(平成2)年に完成した。 
 現在、児童数422名。「城東小」の5倍以上。

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城東小学校。(震災復興52小公園。番外編。その8。)

2014-01-06 22:00:03 | 震災復興小公園
 「中央区立城東小学校」校舎。旧校名「京橋昭和小学校」。この校舎は、復興小学校の一つとして、昭和3(1928)年に建てられ、今も現役の校舎として使われている。
 震災後、1930(昭和5年)度まで7年間のあいだに117の「耐火耐震」コンクリート製校舎が建設された。中央区(旧日本橋区・旧京橋区)には24の「復興小学校」が建設され、この二校とも1929(昭和4)年に完成した。

 1962(昭和37)年4月 日本橋区立日本橋城東小学校(明治8年創立)と京橋区立京橋昭和小学校(昭和3年創立)が統廃合の結果、合併し、旧京橋昭和小学校校舎に「中央区立城東小学校」として新設された。
 旧「日本橋城東小学校」は、東京駅八重洲口の北東、「タカシマヤ」と中央通りを挟んで西側、「丸善」の裏手にあった学校で、跡地は現在、「日本橋プラザビル」となっている。こうして、「城東小」の校舎のみ残った。

1896年ころのようす(「今昔マップ」より)。東京駅がまだない頃(東京駅の開業は、1914《大正3》年12月20日)。皇居(江戸城)の外堀がある。上から「呉服橋」「八重洲橋」「鍛冶橋」。赤丸が「京橋昭和小」の前身の学校で、南槙町にあった。場所は現在地と変わらない。

1975年ころのようす(「同」より)。Aが「日本橋城東小」Bが「京橋昭和小」。青い線が「外堀通り」。

2000年ころのようす(「同」より)。Aが「日本橋プラザ」になっている。Bが「城東小学校」。

 八重洲口駅前の外堀通りの信号を渡り、小道を一本入れば、この小学校がある。うっかりしていると通りすぎてしまいそう。こんなところに小学校が、という印象。
 今でこそ、東京駅に最も近い場所にあって高層ビルに囲まれた小さな存在になってしまった小学校だが、この校舎が竣工した昭和はじめは、東京駅の八重洲口東には幅広い外堀があり、東京駅からはその堀をはさんだ場所にあった。(当時、京橋の繁華街・中心はもっと東側の地域で、小学校は町のはずれの住宅地にあった。)

 他の復興校舎と同様、建物の特徴は、当時のヨーロッパのモダンデザインが多く用いられていること。玄関や門柱のデザインはアールデコ風で、半円形の窓などはドイツ表現派の影響がみられる。
壁面。窓枠が大きい。


正面玄関。両脇の門柱や玄関の庇などに特徴。
裏手の玄関。
門柱。
庇下のデザインに注目。
校章。
半円柱。復興校舎の特徴の一つ。

ビルの谷間にどっしりとした存在感。


学校脇の道路から東京駅八重洲口を望む。
外堀通りからの八重洲口。


1学年1クラス 男女合計80名の小規模校。学習面、生活面。さらに運動会、学芸会でも、学年をこえて全校で協力して作り上げているようす。きめ細かな指導ができそう。都会のど真ん中にある本当に「小」小学校。

(「城東小」HPより)
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「木挽町」。京橋公園。「旧京橋小」。(震災復興52小公園。その26。)

2014-01-05 21:46:01 | 震災復興小公園

⑨京橋公園(京橋小)

 銀座1丁目。首都高・京橋ジャンクションのすぐ南。銀座4丁目の交差点から直線距離にして約600㍍。


1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央に見えるのが「京橋小」と「京橋公園」。学校の西側の広い通りは「昭和通り」。かなりの渋滞。左(西)が銀座方向。


ほぼおなじところの1880年代のようす(「同」より)。上部東側付近、十字に交わる堀割。西は「京橋川」東は「八丁堀(桜川)」北は「楓川)南は「三十間堀」。「三十間堀」の東側地域が旧「木挽町」(現在の東銀座、銀座)。「三十間堀」の直角に折れる辺りが、現在の京橋プラザ(旧京橋小)・京橋公園。右下の堀割は、「築地川」。
 かつて、楓川には「弾正橋」、京橋川には「白魚橋」、三十間堀に「真福寺橋」が架かり、この三橋を「三つ橋」と称し、江戸の名所の一つとなっていたようだ。
「弾正橋公園」にあった標識。「白魚橋駐車場」とある。「白魚橋」は駐車場名として残っている。

「三ツ橋」の図。

「木挽町(現・・・銀座)」の由来碑。
 
 慶長8年(1603)徳川家康が幕府を開き、日比谷入江等を埋め立て造成し城下町を形成した。
 慶長17年三十間堀が開削され、その東側に南北に細長い木挽町が出来た。木挽町の名の起こりは、江戸城改築にあたって木挽(木曳)職人を多く住まわせたためといわれている。木挽町の町名は東銀座、銀座と変わったが、木挽町の歌舞伎座、木挽町の柳生道場と幾多の歴史上の名を残した由緒ある町名であった。
 京橋プラザの建っているこの場所は元京橋小の跡地で三十間堀が屈折して白魚橋で京橋川に注ぐ位置に在り、この新築にあたって、地中より掘り出された護岸の石が植え込みの囲いとして使われている。
 
 おやじ注:「三十間堀」:幅が三十間(約54.5m)あったことからその名が付けられた。

護岸として用いられていた石が植え込みの囲いに再利用。
「木挽町 きやうげんづくし 歌舞伎座」縁あってずいぶん前にもらったTシャツ(たしか裏方さん《舞台部》からだった)。

公園内にある「蜊河岸」碑。

蜊(あさり)河岸
所在地 中央区新富1―1・4地域
現在、ここから日本橋方面にのびている高速道路はかつての楓川で、川はこの先で京橋川と三十間堀に合流していました。そこは、それぞれの川筋に弾正橋・牛の草橋(白魚橋)・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから「三ツ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、その三ツ橋のひとつ、三十間堀に架かる真福寺橋の東岸、築地方面の河岸の呼び名です。江戸時代後期、この蜊河岸には江戸三大道場のひとつ、鏡新明智流の剣客桃井春蔵の「士学館」がありました。嘉永六年(一八五三)発行の平野屋版切絵図には、蜊河岸の築地側南端に、その名を確認することができます。
 平成十二年三月 中央区教育委員会

公園の東側から。

すべり台。復興小公園につきもののコンクリート製の二連式すべり台。2011年8月、老朽化等のために撤去され、モニュメントとして写真とともに掲示されたあります。

 京橋公園は(関東大)震災復興のときに整備された公園であり、コンクリート製すべり台は当時の面影を残すものとして長い間公園利用者の皆様に親しまれてきました。・・・
 平成23年8月 中央区環境土木部水とみどりの課

 1923年(大正12年)9月の関東大震災復興のときに設置された「二連式すべり台」が2011年3月の東日本大震災を機に安全性、老朽化のために撤去されたのも不思議な因縁を感じます。

 震災復興校舎だった「京橋小学校」は、統廃合ですでになく、「京橋プラザ」という大きな複合高層住宅になっています。
公園と接する「京橋プラザ」の建物。
 階数 地上19階
 高さ 73.08m
 竣工 1999年06月(平成11年06月)
 区民住宅の他、ホールもある区民館施設として建設された。

「京橋プラザ」。

超高層の複合ビル。

公園側から。

 一階吹き抜け部分には、旧京橋小にちなんだモニュメントがあります。
半円形の石柱。
旧校舎。
校歌。
沿革史。

説明板。
 
 一、半円形の石柱は、当時の工作室脇の階段の柱です。
 一、記念レリーフの絵は、昭和10年代後半か昭和20年代初期の写真を基に彫刻いたしました。
 一、記念レリーフの木枠は、当時の黒板を使用してあります。
 一、喫茶室の木製の窓は当時のものです。使用し手あるガラスは昭和初期の製品で、大変に貴重なものです。今では  作っていません。よく見ると、ガラスはゆがんで見えると思います。
 一、校歌の文字は第12代校長星野武之先生の書を彫刻いたしました。
 平成11年6月 中央区立京橋小学校同窓会
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