消防署の前の交差点を渡って左に進むと、右側には田園風景が広がります。しばらく行って小さな橋を越えると、右に折れる道が、旧東海道。
「木原松橋」。
蔦谷版東海道五十三次之内 袋井(初代歌川広重)。 来た道を振り返る。
(HPより)
右手に「木原一里塚跡」碑。
その先の左手に復元された「木原一里塚」があります。
木原一里塚
木原一里塚は、江戸から数えて61里目の一里塚です。『東海道宿村大概帳』(逓信総合博物館蔵)には「(袋井)宿より見附迄之間壱里塚壱ヶ所。壱ヶ所、木立松。但、左右之塚共木原村地内」と記され、『東海道分間延絵図』(東京国立博物館蔵)や『東海道分間絵図』(東京国立博物館蔵)などには、塚の上に松や榎が描かれています。本来の一里塚はこの場所から約60m東にありましたが、現存していません。
一里塚とは、一里(約4㎞)ごとに街道両側の土を盛り上げ、目印にした塚のことです。中国で榎と銅表を立てて里数を記した堠槐や奈良時代の国界の標識などが、その起源と考えられます。古くから里程については一里が6町や39町、48町、50町、60町などとさまざまでしたが、『本朝世事談綺』に天正年間(1573~92)織田信長が36町ごとに一里塚を築き、榎をその塚の上に植えたと記しています。信長の跡を継いだ豊臣秀吉も、新たに定めた度量衡制の全国的普及をも意図して、三六町を一里として、5間四方の一里塚を築造しています。それを受け継ぎ主要な街道すべてに一里塚を整備したのは徳川家康です。
慶長9年(1604)家康は秀忠に命じ、江戸日本橋を起点として東海道、中山道に榎を植えた一里塚を築かせ、全国に普及しました。榎を一里塚に採用したのは、榎の根が深く広がって塚を固め、塚を崩れにくくするためでしたが、この採用にあたっても家康伝説が伝わっています。また、榎の代わりに松などを植えていた地方もみられます。
東海道の一里塚の築造に際しては、大久保長安を総督として永井白元と本多光重が奉行となり、江戸町年寄の樽屋藤左衛門や奈良屋市右衛門らが請け負いました。
一里塚は街道の両側に二つの塚が対として、松並木の背後や街道からはやや離れた場所に築造され、旅人や駕籠、馬の乗り賃の支払いの目安となりました。5間(約9m)四方の基壇の上に丸い塚をのせ、榎などが植えられました。街道から塚までは小道がのび、日差しの強い日には木蔭を提供する休憩所ともなりました。しかし、18世紀後半ごろから一里塚は荒廃してしまい、幕府も積極的な整備対策は講じませんでした。明治時代以後は鉄道の発達などにともなって一里塚の必要性もしだいに失われてしまい、街道の拡幅整備などにともなってその姿を消していきました。
平成11年3月13日 袋井市教育委員会
ということは、最初に見かけた緑色の「一里塚跡」碑が、もともとの「一里塚」のあったところなのでしょう。
しばらく行くと「木原権現社(式内許禰神社)」のところには、「古戦場 木原畷(なわて)」。
説明板。
古戦場 木原畷
元亀3(1573)年、兵三万五千を率いて甲府を出発した武田信玄は犬居城飯田城を落して久野城へ向かった。しかし久野宗能の激しい抵抗にあったため東海道を西に向い、ここ木原・西島に陣をはった。これを知った徳川家康の兵とこの付近でこぜり合いをくり返した信玄はやがて二俣城を攻略し、東三河へ向うべく三方ヶ原を通過しようとした。これに対して家康は兵一万で迎え撃ったが信玄の大軍の前に一蹴され浜松城に逃げ帰った。
これが世にいう三方ヶ原の合戦で、木原での戦いはこの前哨戦ともいうべきものであった。
1985年5月 袋井市教育委員会
「徳川家康公腰掛石」。
関ヶ原の戦の勝利祈願のため当社を訪れた折、腰かけた石と言われています。
「木原代念仏」。
市指定無形文化財 木原大念仏
1578(天正6)年の夏、高天神城(大東町)から徳川家康軍のようすを探りにきた武田勝頼の家臣、笹田源吾は、木原村で討ち取られてしまいました。その後。村には疫病がはやり、源吾の霊のたたりではないかといわれるようになりました。村人は、笹田源吾の墓をたて、その前で行った供養祭が木原大念仏の始まりと伝えられています。毎年、8月13・14日の2日間、新盆の家をまわり行われます。
県道と再び合流するところに「木原」地区の説明板が立っています。
木原
木原は元亀3(1572)年に武田信玄が徳川家康を破った三方原の戦いの前哨戦(木原畷の戦い)の地として知られています。
また、武田勝頼軍の斥候笹田源吾に由来する「木原大念仏」(市指定無形民俗文化財)の発祥の地でもあります。
地区内には原寸大に復元された木原一里塚をはじめ木原権現社(式内許禰神社)長命寺笹田源吾の墓や供養塔徳川家康の腰掛石など多くの歴史的遺産が残っています。
この先で合流。次の「磐田市」に進みます。
袋井市と磐田市の市境になっている川。
「磐田市」。この先の交差点を左に渡る。
しばらく進むと「太田川」。右側には「国道一号線・袋井バイパス」。横断歩道を渡り、ガソリンスタンド(廃止)のところを左に折れて正面の狭い道に進みます(左手の小松がめじるし)。
振り返ったところ。
左手には田んぼが広がり、松並木が見えてきます。
旧東海道松並木
東海道は、奈良時代から平城宮と地方を結ぶ交通路として主要な役割を果たしていた。特に鎌倉時代以降になって整備されてきたが、江戸時代に幕府は、江戸を中心とした五街道を制度化し、道中奉行をおき宿駅を設置し、道路の改修・並木の植樹・一里塚の築造などの整備をした。特に、東海道には力を入れた。
東海道は、それぞれの時代によってうつり変っているが、見付宿の東はずれから三ヶ野地区までは、この道路が江戸時代の東海道々筋であった。松並木は、後世補植されて、現在に続いている。
おねがい 交通規則を守って、事故防止にご協力下さい。
磐田市教育委員会文化財課
「三ヶ野」。
「鎌倉時代の古道」。田んぼを回り込むように進む道か?
続いて右手に「大正の道」。
少し上り坂にかかると「明治の道」。
その先を行くと、左手に「江戸の古道」。そこを左に上って行きます。この辺りからは山道にかかります。
坂の上から下を望む。
「歴史がうつる三ヶ野七つ道」。
三ヶ野坂の七つ道 磐田市三ヶ野
南北朝時代に宗良親王がその心境を三ヶ野橋に託して、ここを通ったときの歌が残されているように、この辺りは歴史や地形上からも東西交通の要衝であった。また武田軍の遠州侵攻のときは古戦場となった。旧東海道の松並木・車井戸跡・鎌田薬師道道標・立場茶屋跡等を見て隣接の桶ヶ谷沼・鶴ヶ池を廻る家族向けのハイキングコースとして好評を博している。
東から三ヶ野橋を西進すると、標高38メートルある大日山の急斜面を、這うように江戸期以前の細道が蛇行している。坂上で江戸時代の旧東海道と交差する。そこを200㍍西進して、北向きに明治27年築造のなだらかな坂道を降りる。ここは大正6年築造の道路と交差していて、その横は昭和30年築造の国道一号線となる。交通量の増加で磐田バイパスが計画されて、立体交差の袴道橋が平成2年に完成した。国道の地下道を抜けると、北側は桶ヶ谷沼に続く。ここから見付に抜ける間道は、俗に言う質屋通いの隠れ道であった。時代別に順次作られた七つ道が、1ヶ所にまとまって見られるのは珍しい。
左手に上ると、「古戦場 大日堂」。そこから袋井方向がよく見えます。古戦場らしい位置になっています。
足元には「この蜜柑は徳川家康が駿府にお手植えになった蜜柑の木の子孫です。」
戻って住宅地の中を進みます。住宅地の中の十字路には「車井戸之跡」碑と「従是鎌田山薬師道」の道標。
振り返って望む。
立場跡。
下り坂になってどんどん下って行きます。この辺りは、かつては丘陵だったのでしょう、いつしか宅地造成の波の中で一帯が開発され、唯一、先ほどの山道・森が残されたようです。
途中、車の往来の激しい通りを横切ります。けっこう長い坂道。15分くらい進み、「特別支援学校」を過ぎると、緩やかな上り坂になって、標識が出てきます。
「従是西 見付宿」。
「榜示杭」説明板。
「榜示杭」は、街道に沿った村や宿の境を示す標柱です。
ここは見付宿と岩井大久保・西貝塚大久保との境界でした。
文化3年(1806)に発行された東海道分間延絵図〈大久保〉に【御料榜示杭】の表示があり、その下に境界を示す記号赤丸印があります。
その付近から松並木を振り返る。
この松並木は大正時代のもので、この付近では江戸時代の道は失われてしまったようです。