(14:07)「国道6号線」をひたすら歩きます。疲れたのと昼飯も満足に食べなかったので、国道沿いのラーメン店に入ります。そこでけっこう長居をしてしまい、気がついたら3時前。再び歩き出しますが、次の「稲吉宿」までは思ったよりも長い道のり(約30分)。
「陶陶酒」の幟がある、その先を左に折れていきます(15:23)。
「旧水戸街道 稲吉宿入口」。

国道から左に折れる手前に「一里塚」があったそうですが、見逃しました。緩やかな上り坂を進むと、「稲吉宿」。
喧噪の国道を離れて静かな道を進みます。早くも冬至直前の陽は西に傾き始めてきます。


「刀工 渡辺家」。 宿場らしい面影を残す集落。
「稲吉宿」は万治年間(1658年~1661年)に設置されたといいます。本陣・脇本陣・問屋が各1軒。安政年間(1854年~1860年)の旅籠数は17軒だったそうです。本陣(現 坂本家住宅)と旅籠皆川屋(現 木村家住宅)の建物が現存しています。
(15:31)右手にあるのが、本陣・坂本家。門も玄関も堂々とした造り。

稲吉宿本陣
本陣は、大名や幕府の公用人が休泊に用いたところで、水戸街道で残っているのは、取手、中貫、稲吉だけである。
本陣の屋敷は、一般の屋敷より一段高く、建物は本陣つくりと称して門、玄関、上段の間を設けてあり、玄関屋根の上部には、領主本堂氏の定紋「笹りんどう」がつけられている。ちなみに当時、向側には脇本陣があった。
かすみがうら市教育委員会
稲吉宿本陣の隣に木村家住宅(旅籠皆川屋)があります。


木村家住宅(旅籠皆川屋)
・・・旅籠「皆川屋」は江戸時代末期の建築で、桁行八間二階の総瓦葺という堂々たる構えをみせている。広い土間と板縁、上がりはなの階段、勝手、出格子、腰高障子、仕切り戸などが旅籠らしい。
二階に上がると、客室の壁には墨痕も鮮やかに、遊びすぎて支払いに窮した思案の落書や愛しい女達の名前が記してあるのも面白い。旅籠「皆川屋」は水戸街道に残る唯一の旅籠である。
茨城県指定文化財 かすみがうら市教育委員会
立派な門構えのおうちがいくつも。

(15:36)宿の外れに「稲吉宿」の案内板。
江戸時代の稲吉宿
《稲吉宿》
稲吉宿のある水戸街道は、五街道以外に整備された街道の一つで、千住から水戸までを結んでいました。
稲吉宿には、大名や旗本が宿泊する本陣や脇本陣、それに一般の人々が宿泊する旅籠がありました。また、荷物を次の宿駅に送る問屋場もあり、江戸時代後期には17軒の旅籠も造られて、大変なにぎわいを見せていました。
《助郷》
参勤交代により、大名や旗本が江戸と国元を行き来すると、大勢の人々が宿駅を利用することになり、通常の人馬では足りなくなりました。そこで、近隣の村々に割り当てたのが助郷です。稲吉宿では、上志筑村、中志筑村、下志筑村、上土田村、下土田村、野寺村、高倉村、雪入村の8ヵ村に割り当てられました。農民の負担が大きく、一揆の原因となりました。
《水戸街道の宿駅》
千住―新宿―松戸―小金―我孫子―取手―藤代―若柴―牛久―荒川沖―中村―土浦―中貫―稲吉―府中―竹原―片倉―小幡―長岡―水戸
右には当時の宿場の配置図と屋号などが絵解きされています。
宿を抜けると、その先「国道6号線」に合流するまで、千代田町「上土田」「下土田」地区をひたすら歩きます。時折、農作業を終えて家路に向かうトラクターとすれ違うだけ。

この付近には、果樹園が多いようです。
来た道を振り返って望む。
一気に陽が落ちてきました。寒さも感じる夕暮れ。
(16:15)ようやく「国道6号線」と合流します。

西の空はあかね色。
国道の前方にインターが見えてきました。そこには歩道がなさそうだと判断して、国道の右側を歩きます。国道に沿う右下の道が旧街道のような気もしましたが。
インターをくぐった国道の反対側(左側)に小高い塚が見えます。それが「千代田一里塚」です。向こう側に渡れるような雰囲気はありませんので、遠くからパチリ(16:27)。

その先「新治小学校」交差点を左に入っていきます。
携帯では写真も撮れず、再び国道に合流し、「恋瀬橋」を渡り、左に折れて、府中宿(石岡市)に入ります。都会と違って街灯も沿道の明かりもポツンポツンとしかありません。足元不如意の中、ひたすら「石岡」駅まで向かいました。
(16:59)もうとっぷりと日が暮れました。遠くに筑波山のシルエット。
(17:17)次回に「府中宿」は見学することにして、せめてかつての染物屋さん「丁字屋」の屋号だけは、と。

やっと商店街らしい明かりの中を石岡駅に到着。けっこう思ったより時間がかかりました。道に迷った所もあったりして、約4万歩、24㎞でした(17:29)。
「陶陶酒」の幟がある、その先を左に折れていきます(15:23)。

「旧水戸街道 稲吉宿入口」。


国道から左に折れる手前に「一里塚」があったそうですが、見逃しました。緩やかな上り坂を進むと、「稲吉宿」。
喧噪の国道を離れて静かな道を進みます。早くも冬至直前の陽は西に傾き始めてきます。



「刀工 渡辺家」。 宿場らしい面影を残す集落。
「稲吉宿」は万治年間(1658年~1661年)に設置されたといいます。本陣・脇本陣・問屋が各1軒。安政年間(1854年~1860年)の旅籠数は17軒だったそうです。本陣(現 坂本家住宅)と旅籠皆川屋(現 木村家住宅)の建物が現存しています。
(15:31)右手にあるのが、本陣・坂本家。門も玄関も堂々とした造り。


稲吉宿本陣
本陣は、大名や幕府の公用人が休泊に用いたところで、水戸街道で残っているのは、取手、中貫、稲吉だけである。
本陣の屋敷は、一般の屋敷より一段高く、建物は本陣つくりと称して門、玄関、上段の間を設けてあり、玄関屋根の上部には、領主本堂氏の定紋「笹りんどう」がつけられている。ちなみに当時、向側には脇本陣があった。
かすみがうら市教育委員会
稲吉宿本陣の隣に木村家住宅(旅籠皆川屋)があります。



木村家住宅(旅籠皆川屋)
・・・旅籠「皆川屋」は江戸時代末期の建築で、桁行八間二階の総瓦葺という堂々たる構えをみせている。広い土間と板縁、上がりはなの階段、勝手、出格子、腰高障子、仕切り戸などが旅籠らしい。
二階に上がると、客室の壁には墨痕も鮮やかに、遊びすぎて支払いに窮した思案の落書や愛しい女達の名前が記してあるのも面白い。旅籠「皆川屋」は水戸街道に残る唯一の旅籠である。
茨城県指定文化財 かすみがうら市教育委員会
立派な門構えのおうちがいくつも。


(15:36)宿の外れに「稲吉宿」の案内板。

江戸時代の稲吉宿
《稲吉宿》
稲吉宿のある水戸街道は、五街道以外に整備された街道の一つで、千住から水戸までを結んでいました。
稲吉宿には、大名や旗本が宿泊する本陣や脇本陣、それに一般の人々が宿泊する旅籠がありました。また、荷物を次の宿駅に送る問屋場もあり、江戸時代後期には17軒の旅籠も造られて、大変なにぎわいを見せていました。
《助郷》
参勤交代により、大名や旗本が江戸と国元を行き来すると、大勢の人々が宿駅を利用することになり、通常の人馬では足りなくなりました。そこで、近隣の村々に割り当てたのが助郷です。稲吉宿では、上志筑村、中志筑村、下志筑村、上土田村、下土田村、野寺村、高倉村、雪入村の8ヵ村に割り当てられました。農民の負担が大きく、一揆の原因となりました。
《水戸街道の宿駅》
千住―新宿―松戸―小金―我孫子―取手―藤代―若柴―牛久―荒川沖―中村―土浦―中貫―稲吉―府中―竹原―片倉―小幡―長岡―水戸
右には当時の宿場の配置図と屋号などが絵解きされています。
宿を抜けると、その先「国道6号線」に合流するまで、千代田町「上土田」「下土田」地区をひたすら歩きます。時折、農作業を終えて家路に向かうトラクターとすれ違うだけ。


この付近には、果樹園が多いようです。


一気に陽が落ちてきました。寒さも感じる夕暮れ。

(16:15)ようやく「国道6号線」と合流します。


西の空はあかね色。

国道の前方にインターが見えてきました。そこには歩道がなさそうだと判断して、国道の右側を歩きます。国道に沿う右下の道が旧街道のような気もしましたが。
インターをくぐった国道の反対側(左側)に小高い塚が見えます。それが「千代田一里塚」です。向こう側に渡れるような雰囲気はありませんので、遠くからパチリ(16:27)。


その先「新治小学校」交差点を左に入っていきます。

携帯では写真も撮れず、再び国道に合流し、「恋瀬橋」を渡り、左に折れて、府中宿(石岡市)に入ります。都会と違って街灯も沿道の明かりもポツンポツンとしかありません。足元不如意の中、ひたすら「石岡」駅まで向かいました。
(16:59)もうとっぷりと日が暮れました。遠くに筑波山のシルエット。

(17:17)次回に「府中宿」は見学することにして、せめてかつての染物屋さん「丁字屋」の屋号だけは、と。

やっと商店街らしい明かりの中を石岡駅に到着。けっこう思ったより時間がかかりました。道に迷った所もあったりして、約4万歩、24㎞でした(17:29)。

