おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その6。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-30 20:04:41 | 日光例幣使街道
                            東武日光線。「新栃木」駅方向を望む。

 「栃木環状線」を突っ切っていきますが、信号が右も左も遠いので、車の途切れるのを待っていると、右手に「吉野家」。「牛丼の吉野家」じゃなくて「おそばの吉野家」。そこで、おそばを食べながら、休憩。
(13:41)通りを渡って先に進みます。

「県道3号線」に合流します。大谷石造りの倉庫。

東武日光線の跨線橋を渡ります。遠くに筑波山がはっきりと。(↓)

反対方向。

(14:01)「合戦場宿」への道。

 初めて見た「馬力神」。
 「馬力神」と刻まれた石塔は、栃木県や宮城県で見られるようです。その大部分は愛馬の供養のために造立されたもの。幕末に出現し、明治時代にもっとも多く造立された、そうです。「馬頭観(世)音」は旧道歩きでは、けっこう見かけます。それと同じ種類です。

りっぱな「大谷石」造りの蔵。  

合戦場宿」に入ります。      
合戦場宿
 戦国時代の大永3年(1523)、宇都宮忠綱と皆川宗成が合戦した川原田合戦に由来する。街道時代は本陣、脇本陣があり、飯盛女もいたことからそれなりに賑わった宿場であったが、宿場時代が終わると他の宿場と同様に静かな町並みに変わってしまいました。

 右手の民家の前に石碑。「小平浪平生誕地碑 日立製作所の創業者小平浪平翁はこの地で明治7年1月15日生まれた。この碑はこれを記念して昭和35年に建立されたものである。」とあります。
 

解説板。
・・・小平浪平は東京帝国大学工学科卒業後、秋田県の小坂鉱山に入社、その後数社を転職して最後の日立鉱山を辞し明治43年(1910)日立製作所を創設した。
 日本の工業技術を世界に高めた日立製作所の社是は「以和為貴」であり、これは日立精神の柱として現在も息づいている。・・・

街並みを振り返る。

(14:20)左に折れると、東武日光線「合戦場」駅。
 上りの電車がもうすぐ来るようですが、帰る時間にはまだ早い、もう少し歩こうと、再び街道に戻り、コンビニのところで休憩し、再開。

 (14:40)本陣などがあったので、何か手がかりはないかと。案内表示もなくどこか分からないままに進みます。


                      

「庚申塔」「大先祖中島霊神」。

 
これは「馬頭観世音」                      通りの向こうにも石塔。けっこう目につきます。

(14:50)「升塚」の案内表示。

 案内板に従って右へ入ると小山があります。ここは「升塚」と呼ばれる戦死者を弔った塚。


解説板。
 今から483年前大永3年(1523)11月3日、皆川城主宗成とその嫡子成勝は川原田を中心に陣を張り宇都宮城主忠綱の軍勢1800余を迎え討った。両軍は譲らず大混戦となり、その雌雄決せず、翌日小山、結城、壬生の援軍を得て、宇都宮勢を敗走させた。この戦いで、皆川勢は宗成以下37人、小山勢13人、壬生勢10人、宇都宮勢は250人の死者を出し、里人はこの戦死者をを一箇所に集め弔ったと伝えられている。・・・

平成18年1月1日作成 都賀町教育委員会

 

 升塚のちょっと先から旧道に入っていくが再び県道に合流。(15:00)合流直前に 「地蔵堂」があります。宿の出入口に赤いお堂がある、というのがこの付近の宿場の特徴のようです。
 

県道に合流すると、田んぼが広がってきます。

所々に古い建物。

実り始めた稲。

(15:15)「家中」に着きます。左手に東武日光線の「家中」駅。もう一駅「東武金崎」まで進むことにします。

     
     
      
1880年代のようす。                    2010年代のようす。下方の一部以外は、県道3号線が例幣使街道にあてはまる。 
コメント
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