おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その5。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-24 18:54:21 | 甲州街道
 まだしばらくは舗装道路が続きます。 左手に「寶珠寺」。門前に「カゴノキ」の碑があります。どれが「カゴノキ」なのか?


道標。

 (12:06)曲がりくねった車道を進みながら、次第に高度を上げていきます。峠付近はまだしも、これが江戸時代の旧道だとは思えませんが。
   

 まもなく駐車場。そこで、昼食・小休止。しばらく林道を歩き、その先は、本格的な山道になります。
    

(12:27)林道の途中にある水場。

  
           「浅川」の源流付近。石ころだらけの道でけっこう歩きにくい。

(12:49)道がゆるやかになると、「小仏峠」。

狸の置物。標高548㍍。

峠の地蔵、庚申塔など。

案内図。  

来た方向を振り返って望む。 

小仏峠
 武蔵の国と甲斐の国を結ぶ路は、その境界線上の峠を介して幾つかあり、時代によって様々に変化したようです。
北から、雁坂峠、柳沢峠、大菩薩峠、松姫峠、そして笹尾根の幾つかの峠や、相模の国を経て和田峠、そしてこの小仏峠と続き、現在一般道では最も交通量の多い大垂水峠となります。
 標高548メートル。
 北の景信山と南の高尾山からの尾根と鞍部で、戦国時代の武田信玄の家臣、大月岩殿城主、小山田信茂が、武州滝山城を攻めた時に、この山路を越えて廿里の砦を急襲した頃から峠路として利用するようになったようです。
 室町時代末期に、北条氏照の八王子城の前進防衛基地として小仏峠の頂上に砦を設けて富士関役所と称していました。
 その後北条が破れ、関東を秀吉の命により家康が治めるようになって、小仏峠には家康の命で関所が設けられたのです。家康は、広い関東の西の端を治めるのに、当時武田や北条の残党を雇い入れて、屯田兵のように半農の千人同心を組織し、八王子に住まわせた千人同心にこの関所を守らせます。
 その後、関所は、山麓に移されてしまいました。

 小仏峠は、1寸8分の小さな仏像が峠に安置されていたのが峠の命名の由来となっています。

 以前は、この小仏峠にはきのこや山菜、野草の店があり、飲み物が売っていたのだが、残念ながら廃業されてしまったよう。とりあえず、今はベンチやテーブルはあるので休むには便利だ。

 さて、この小仏峠には、明治天皇や太政大臣・三条実美の歌碑が建っている。
これらは、明治13年(1880)に山梨巡行の際に、明治天皇の通行を記念して建てられたものだ。歌碑に刻まれている和歌は、三条実美が、命を受けて高尾山薬王院で詠んだものといわれている。

来てみれば こかひはた織 いとまなし 甲斐のたび路の 野のべやまのべ

こかひはた織とは、蚕飼ひ機織り のことで、当時の多摩や甲州が養蚕や製糸、機織業でにぎわっている様子がわかる。

                                           (以上、HPより)

「明治天皇小佛峠御小休止址及野立所」碑。 

「三条実美歌碑」。

新聞記事と傍らに地蔵。

「甲州道中歴史案内図」。

 (13:02)「高尾山」や「景信山」に向かうハイカーを尻目に、道標・案内板に随って西へ下りて行きます。ほとんど行く人はいません。
    

 下りになって膝に痛みが。道は上りより歩きやすいのですが。かなりのペースダウン。
    

 (13:34)道標が随所に立っているので、安心です。
    
                             ←底沢バス停2.3㎞  小仏峠1.2㎞→

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