(11:19)「立川市」に入ります。真っ直ぐな道がどこまでも。
車の行き来の激しい道路の脇にはこういう雰囲気のある路地が。
ケヤキ(?)の巨木の切り株が門前に。
少し下り坂になっていきます。
郊外の農家の趣。
この先、多摩モノレールの高架線が見えてきます。「五日市」という標示も。
(12:09)「砂川七番」駅でおにぎりを食べながら休憩。
沿道にはケヤキの巨木が目立ちます。「川越街道」でも埼玉に入ってから多く見かけました。武蔵野台地には適した樹木なのかも知れません。ただ、手入れが大変そう。冬場は葉っぱが散るので殺風景な印象。
「長屋門」風のあつらえのおうち。
「昭和記念公園」」からの道路と交差。
右手に大きな広場・グランドが広がります。
ところで、こうして「五日市街道」を歩いていると、「砂川七番」とか「砂川五番」とかという交差点名が出てきます。そのいわれは?
以下、「株式会社 いずみホーム」様のHPより拝借。
立川市はかつての柴崎村と砂川村からなります。柴崎村が立川村に改称されその後立川市となった後、砂川村から改称された砂川町が編入し今に至るわけです。
集落は水のあるところに生まれます。生存にとって欠かせない水の確保は絶対条件だったためでしょう。
立川市に人が住み始めたのは、約1万5千年前と考えられています。また、縄文時代中期(約5千年前)になると、向郷遺跡(錦町・羽衣町)や大和田遺跡(柴崎町)で、大きな集落が営まれるようになりました。錦町、羽衣町そして柴崎町はちょうど立川崖線によって水が湧き出す地域です。水を求めて人が集まり、やがて集落を形成し、やがて村として発展を遂げたのが柴崎村です。
砂川村が形成されたのは江戸幕府が開かれ玉川上水が開削されてからです。玉川上水によってもたらされた水によって新田開発が行われにつれ発展したのです。玉川上水が完成する前にも残堀川によって水はもたらされたようですが、水量も少なく広範囲で耕作が行われたわけではなかったようです。砂川の歴史にとって玉川上水は切っても切れない関係と言えるのです。
砂川の由来
玉川上水開削以前の残堀川は、狭山丘陵の湧き水を水源として南東に流れ、多摩川に注ぐ清流だったそうです。乾期には川底が現れ、雨期には護岸もないので暴れる川でもあったようです。「水量が少なく川底が見える」、あるいは「昔から大雨のたびに氾濫する暴れ川で、洪水のたびに大量の土砂を流域に堆積させて人々を困らせたことから」土地の人々は砂の川と呼び、これが砂川という地名の由来となりました。。
残堀川は蛇が掘る川(蛇堀川)から「残堀川」と呼ばれるようになったようです。現在は瑞穂町にある狭山池を水源として上流ではわずかに水が流れていますが、日照りが続き水源である狭山池の水位が下がると、そのわずかな流れさえも止んでしまいます。現在の残堀川はその名の通り「堀が残る」だけの川となっていて、今も昔も枯れたような川なのですね。ただ面白い事に多摩川に合流する直前、つまり下流では今も清流が流れ、川の宝石と呼ばれるカワセミの姿も見られます。春は桜並木が大変綺麗で、見ごろを迎えるとたくさんの人達が訪れのです。
砂川村の形成と新田開発
砂川村の形成は玉川上水の完成と密接に関わっている事は前述しました。関東ローム層の赤土は乾燥すると砂埃を巻き上げ「赤っ風」と呼ばれました。そんな乾いた大地を玉川上水が潤していったのです。
砂川の開発
砂川の開発は狭山丘陵の麓「岸村」(現在の武蔵村山市)に住む「村野三右衛門」が幕府に願い出、許可されたところから始まります。これは慶長8(1603)年徳川家康が徳川家康が駿河から江戸へ入府し江戸幕府を開いてからわずか6年後の事で、しばらくの間は開発は進まなかったようです。
・・・
砂川分水と砂川新田
新田開発が本格化したのは玉川上水の完成に伴い明暦3(1657)年、「砂川分水(後に幾つかの分水を繋げて砂川用水となる)」を引き込むことが許可されたためです。砂川分水は取水口のある天王橋から五日市街道に沿って開通されました。残堀川の旧水路が五日市街道と交差する付近(三、四番)の小集落に過ぎなかった砂川新田は、砂川用水の開通により現在のように五日市街道に沿って計画的に耕地が開発出来るようになったのです。その後発展を続けた「砂川新田」はその名称をを変え「砂川村」になりました。砂川新田を支えた砂川分水はその後他の分水と統合され現在は砂川用水としてその姿を残します。当初天王橋にあった取水口も移動し、昭島市の松中橋北側に柴崎分水の取水口と並んで設置されています。
砂川村
天王橋から五日市街道に沿って引かれた一里ほどの砂川分水、そしてその分水と共に形成された砂川村はその取水口である天王橋から北東方向に伸びる細長い村でした。砂川村は年貢徴収の単位として西から順に「一番」「二番」「三番」という風に番号がふられました。当初は全部で一番組~八番組までの集落があり、一番から四番までが上郷、五番から八番までを下郷と呼び、その郷には「小名主」が置かれて「名主」の名代としたそうです。各組には組頭が置かれました。その後さらに東へと開墾が進めらますが、砂川新田が砂川村となった事から、その東を新たに「砂川新田」、さらに東を「砂川前新田」と呼びました。それらが後に「九番」「十番」となりました。こうした呼び名は今も残り、バス停や駅名などでも確認できます。多摩モノレール「砂川七番駅」がわかりやすいですね。私が子供のころは自治会主催の運動会などで「四番組」とか「五番組」などが対抗戦形式で競いあったのを覚えています。
五日市街道沿いの短冊形敷地
旧砂川村は五日市街道から短冊のように縦長の敷地を持つ家が立ち並んでいます。街道沿いに屋敷林に囲われた屋敷部分(母屋・土蔵・物置など)があり、その奥に農地と雑木林が広がっています。外見上の特徴は立派なけやきの木が凛として立っていることです。夏の日差しを避け、冬の北風を防ぐためにケヤキやカシなどが植えられたのです。
昔ながらの古い造りの家はかなり減ってしまいましたが、佇まいは今も残ります。農家の同級生の家に遊びに行くと、玄関に辿り着くまでのアプローチがとにかく長い。もちろん遊びに行く約束をしているのですから、臆面なく入っていいものですが、どうも気おくれして苦手でしたね。こうした五日市街道沿いのお家は、すなわち地主さんでもあるわけですから、長じて商売用のチラシをポスティングしようにも、門塀にポストがないと、さすがに面識のないお家だと敷地内に入り込んで玄関ポストに入れるのははばかられます。
砂川町は立川市に編入
玉川用水と共に発展を遂げた砂川村はその後殿ヶ谷新田・宮沢新田・中里新田・芋窪新田・八軒新田・榎戸弁天新田を組み入れます。そして明治22(1889)年町村制施行により神奈川県北多摩郡砂川村となり、明治26年(1893)年には北多摩郡が南多摩郡、西多摩郡とともに東京府へ編入され、昭和29年(1954)年町制施行し砂川町となったのです。この時立川村はすでに立川市となっており、昭和38(1963)年立川市に編入されました。
砂川闘争について
大正11年(1922)に開設された立川飛行場は、戦後、立川陸軍航空工廠と一つになりアメリカ軍の立川基地となりました。その立川基地の拡張を公表した事から起こった住民運動が砂川闘争です。1955(昭和30)年から1960(昭和35)年にかけて住民だけでなく砂川町議会も巻き込んだ基地拡張反対運動が続いたのです。そうした中起きた砂川事件と言う言葉は私の子供のころも耳にしました。どんなものであったのかは当時知りませんでしたが、野球少年であった筆者が普段練習していた小さな球場のあたりで起こったのだと上級生が話していたのを覚えています。
結局立川基地の拡張は中止され、昭和52年(1977年)立川基地はアメリカ軍から日本へと返還されました。立川基地の跡地は現在昭和記念公園が整備され、地方裁判所などの行政機関が集まるエリアとなりました。また周辺エリアの開発も進み、IKEAやららぽーとなどの商業施設も作られています。
ちなみに、中央線から立川飛行場に引かれていた鉄道の跡地は「栄緑地」「西町緑地」「北緑地」として市民の憩いの場となっております。
長々と引用させてもらいました。
ここに出てくる「砂川事件(すながわじけん)」とは、
在日米軍立川飛行場の拡張を巡る闘争(砂川闘争)における一連の訴訟である。特に、1957年(昭和32年)7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数メートル立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(現在の地位協定の前身)違反で起訴された事件を指す。
当時の住民や一般人の間では主に「砂川紛争」と呼ばれている。全学連も参加し、その後の安保闘争、全共闘運動のさきがけとなった学生運動の原点となった事件である。(この項、「Wikipedia」参照)
そして、その時の確定した判決内容は
1 憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない。
2 条約について裁判所が違憲審査権を行使する場合は、一見極めて明白に違憲無効であると認められないか否かに限って審査すべきである。
3 アメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。
この判決(特に1項、3項)を都合よく解釈して(うまく利用して)、「安保法制」の際、日本国の「集団的自衛権」の根拠としたわけです。
以下くどいようですが「」HPより)
砂川の今昔
1880年代のようす。街道の北側に沿って水路(砂川上水)がある。家並みが街道沿いに。
2010年代のようす。右上が「多摩モノレール砂川七番」駅。左下が「昭和記念公園」(立川基地跡の一部)
車の行き来の激しい道路の脇にはこういう雰囲気のある路地が。
ケヤキ(?)の巨木の切り株が門前に。
少し下り坂になっていきます。
郊外の農家の趣。
この先、多摩モノレールの高架線が見えてきます。「五日市」という標示も。
(12:09)「砂川七番」駅でおにぎりを食べながら休憩。
沿道にはケヤキの巨木が目立ちます。「川越街道」でも埼玉に入ってから多く見かけました。武蔵野台地には適した樹木なのかも知れません。ただ、手入れが大変そう。冬場は葉っぱが散るので殺風景な印象。
「長屋門」風のあつらえのおうち。
「昭和記念公園」」からの道路と交差。
右手に大きな広場・グランドが広がります。
ところで、こうして「五日市街道」を歩いていると、「砂川七番」とか「砂川五番」とかという交差点名が出てきます。そのいわれは?
以下、「株式会社 いずみホーム」様のHPより拝借。
立川市はかつての柴崎村と砂川村からなります。柴崎村が立川村に改称されその後立川市となった後、砂川村から改称された砂川町が編入し今に至るわけです。
集落は水のあるところに生まれます。生存にとって欠かせない水の確保は絶対条件だったためでしょう。
立川市に人が住み始めたのは、約1万5千年前と考えられています。また、縄文時代中期(約5千年前)になると、向郷遺跡(錦町・羽衣町)や大和田遺跡(柴崎町)で、大きな集落が営まれるようになりました。錦町、羽衣町そして柴崎町はちょうど立川崖線によって水が湧き出す地域です。水を求めて人が集まり、やがて集落を形成し、やがて村として発展を遂げたのが柴崎村です。
砂川村が形成されたのは江戸幕府が開かれ玉川上水が開削されてからです。玉川上水によってもたらされた水によって新田開発が行われにつれ発展したのです。玉川上水が完成する前にも残堀川によって水はもたらされたようですが、水量も少なく広範囲で耕作が行われたわけではなかったようです。砂川の歴史にとって玉川上水は切っても切れない関係と言えるのです。
砂川の由来
玉川上水開削以前の残堀川は、狭山丘陵の湧き水を水源として南東に流れ、多摩川に注ぐ清流だったそうです。乾期には川底が現れ、雨期には護岸もないので暴れる川でもあったようです。「水量が少なく川底が見える」、あるいは「昔から大雨のたびに氾濫する暴れ川で、洪水のたびに大量の土砂を流域に堆積させて人々を困らせたことから」土地の人々は砂の川と呼び、これが砂川という地名の由来となりました。。
残堀川は蛇が掘る川(蛇堀川)から「残堀川」と呼ばれるようになったようです。現在は瑞穂町にある狭山池を水源として上流ではわずかに水が流れていますが、日照りが続き水源である狭山池の水位が下がると、そのわずかな流れさえも止んでしまいます。現在の残堀川はその名の通り「堀が残る」だけの川となっていて、今も昔も枯れたような川なのですね。ただ面白い事に多摩川に合流する直前、つまり下流では今も清流が流れ、川の宝石と呼ばれるカワセミの姿も見られます。春は桜並木が大変綺麗で、見ごろを迎えるとたくさんの人達が訪れのです。
砂川村の形成と新田開発
砂川村の形成は玉川上水の完成と密接に関わっている事は前述しました。関東ローム層の赤土は乾燥すると砂埃を巻き上げ「赤っ風」と呼ばれました。そんな乾いた大地を玉川上水が潤していったのです。
砂川の開発
砂川の開発は狭山丘陵の麓「岸村」(現在の武蔵村山市)に住む「村野三右衛門」が幕府に願い出、許可されたところから始まります。これは慶長8(1603)年徳川家康が徳川家康が駿河から江戸へ入府し江戸幕府を開いてからわずか6年後の事で、しばらくの間は開発は進まなかったようです。
・・・
砂川分水と砂川新田
新田開発が本格化したのは玉川上水の完成に伴い明暦3(1657)年、「砂川分水(後に幾つかの分水を繋げて砂川用水となる)」を引き込むことが許可されたためです。砂川分水は取水口のある天王橋から五日市街道に沿って開通されました。残堀川の旧水路が五日市街道と交差する付近(三、四番)の小集落に過ぎなかった砂川新田は、砂川用水の開通により現在のように五日市街道に沿って計画的に耕地が開発出来るようになったのです。その後発展を続けた「砂川新田」はその名称をを変え「砂川村」になりました。砂川新田を支えた砂川分水はその後他の分水と統合され現在は砂川用水としてその姿を残します。当初天王橋にあった取水口も移動し、昭島市の松中橋北側に柴崎分水の取水口と並んで設置されています。
砂川村
天王橋から五日市街道に沿って引かれた一里ほどの砂川分水、そしてその分水と共に形成された砂川村はその取水口である天王橋から北東方向に伸びる細長い村でした。砂川村は年貢徴収の単位として西から順に「一番」「二番」「三番」という風に番号がふられました。当初は全部で一番組~八番組までの集落があり、一番から四番までが上郷、五番から八番までを下郷と呼び、その郷には「小名主」が置かれて「名主」の名代としたそうです。各組には組頭が置かれました。その後さらに東へと開墾が進めらますが、砂川新田が砂川村となった事から、その東を新たに「砂川新田」、さらに東を「砂川前新田」と呼びました。それらが後に「九番」「十番」となりました。こうした呼び名は今も残り、バス停や駅名などでも確認できます。多摩モノレール「砂川七番駅」がわかりやすいですね。私が子供のころは自治会主催の運動会などで「四番組」とか「五番組」などが対抗戦形式で競いあったのを覚えています。
五日市街道沿いの短冊形敷地
旧砂川村は五日市街道から短冊のように縦長の敷地を持つ家が立ち並んでいます。街道沿いに屋敷林に囲われた屋敷部分(母屋・土蔵・物置など)があり、その奥に農地と雑木林が広がっています。外見上の特徴は立派なけやきの木が凛として立っていることです。夏の日差しを避け、冬の北風を防ぐためにケヤキやカシなどが植えられたのです。
昔ながらの古い造りの家はかなり減ってしまいましたが、佇まいは今も残ります。農家の同級生の家に遊びに行くと、玄関に辿り着くまでのアプローチがとにかく長い。もちろん遊びに行く約束をしているのですから、臆面なく入っていいものですが、どうも気おくれして苦手でしたね。こうした五日市街道沿いのお家は、すなわち地主さんでもあるわけですから、長じて商売用のチラシをポスティングしようにも、門塀にポストがないと、さすがに面識のないお家だと敷地内に入り込んで玄関ポストに入れるのははばかられます。
砂川町は立川市に編入
玉川用水と共に発展を遂げた砂川村はその後殿ヶ谷新田・宮沢新田・中里新田・芋窪新田・八軒新田・榎戸弁天新田を組み入れます。そして明治22(1889)年町村制施行により神奈川県北多摩郡砂川村となり、明治26年(1893)年には北多摩郡が南多摩郡、西多摩郡とともに東京府へ編入され、昭和29年(1954)年町制施行し砂川町となったのです。この時立川村はすでに立川市となっており、昭和38(1963)年立川市に編入されました。
砂川闘争について
大正11年(1922)に開設された立川飛行場は、戦後、立川陸軍航空工廠と一つになりアメリカ軍の立川基地となりました。その立川基地の拡張を公表した事から起こった住民運動が砂川闘争です。1955(昭和30)年から1960(昭和35)年にかけて住民だけでなく砂川町議会も巻き込んだ基地拡張反対運動が続いたのです。そうした中起きた砂川事件と言う言葉は私の子供のころも耳にしました。どんなものであったのかは当時知りませんでしたが、野球少年であった筆者が普段練習していた小さな球場のあたりで起こったのだと上級生が話していたのを覚えています。
結局立川基地の拡張は中止され、昭和52年(1977年)立川基地はアメリカ軍から日本へと返還されました。立川基地の跡地は現在昭和記念公園が整備され、地方裁判所などの行政機関が集まるエリアとなりました。また周辺エリアの開発も進み、IKEAやららぽーとなどの商業施設も作られています。
ちなみに、中央線から立川飛行場に引かれていた鉄道の跡地は「栄緑地」「西町緑地」「北緑地」として市民の憩いの場となっております。
長々と引用させてもらいました。
ここに出てくる「砂川事件(すながわじけん)」とは、
在日米軍立川飛行場の拡張を巡る闘争(砂川闘争)における一連の訴訟である。特に、1957年(昭和32年)7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数メートル立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(現在の地位協定の前身)違反で起訴された事件を指す。
当時の住民や一般人の間では主に「砂川紛争」と呼ばれている。全学連も参加し、その後の安保闘争、全共闘運動のさきがけとなった学生運動の原点となった事件である。(この項、「Wikipedia」参照)
そして、その時の確定した判決内容は
1 憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない。
2 条約について裁判所が違憲審査権を行使する場合は、一見極めて明白に違憲無効であると認められないか否かに限って審査すべきである。
3 アメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。
この判決(特に1項、3項)を都合よく解釈して(うまく利用して)、「安保法制」の際、日本国の「集団的自衛権」の根拠としたわけです。
以下くどいようですが「」HPより)
砂川の今昔
1880年代のようす。街道の北側に沿って水路(砂川上水)がある。家並みが街道沿いに。
2010年代のようす。右上が「多摩モノレール砂川七番」駅。左下が「昭和記念公園」(立川基地跡の一部)