9月28日(土)晴れ。
「東金御成街道」歩き。
今日で、終着地までの予定。というのも、歩くコースには、路線バスはなく、コミュニティバスがあるのみ。当然、鉄道はなし。「東金」駅まで行かなければ・・・、と。
(9:22)前回の「御成台1丁目」交差点まで戻って、再開。東に向かいます。
いきなり急坂。けっこうなアップダウン。
車道が急に狭くなり、車が坂道をすごい勢いで下り、そして上ってきます。冷や冷やしながらの歩き。
右手は公園、池も見えます。
やっと道幅も広くなって一安心。
と、後ろを振り向くと、「ちょうちん塚」が。
直線の道をつくるために、昼間は白旗、夜は提灯を目印として、小高い場所に掲げたといわれていて、その目印となった場所が、その後、一里塚となったようです。道路の向い側にも同様の塚があったようですが、現在はもう残っていません。
そこから来た道を振り返る。
これから先、道はまっすぐですが、アップダウンが続きます。
(9:33)上り坂の途中で、「金親(かねおや)」という宿場(間の宿)に向かいます。もともとこの道は直線でつながっていました。
車も少なくなってのんびりと。
1880年代のようす。直線になっています。
2010年代のようす。新道ができています。
「手打そば はづき」。
左手に長屋門。
「御成街道」。この付近に「高札場」があったか?
「長屋門」のあるおうちが続きます。
「大宮神社」入口脇に「御成街道」の解説板。
御成街道
・・・家康の命令を受けた利勝は、沿線96か所の名主を召集して村ごとに工事区間を雨時区間を分担させて昼夜兼行で造ったので別名「一夜街道」とか「提灯街道」と呼ばれている。・・・
来た道を振り返る。
(9:51)「金親町」交差点で県道53号に合流し、しばらく進むと、旧道の表示があります。県道は左に曲がりますが、旧道はそのまま直進。
ほんのわずかですが、旧道が残っています。振り返る。
広く、整備された道を東進。
(10:00)左手に御茶屋御殿跡が。
御茶屋御殿跡
徳川家康が東金への鷹狩りのために休憩所として造営したものです。このような御殿は千葉市のほかに御成街道の起点である船橋に「船橋御殿」、お狩場である東金には「東金御殿」が設営されていましたが、寛文年間(1661~72)に取り払われて、その跡地も現在大きく改変されています。この御茶屋御殿もほぼ同じ頃取り払われたものと考えられますが、跡地はよく旧態を止めています。
御殿跡は一辺約110mの方形で、周囲に幅約5mの薬研堀の空堀と高さ約2.5mの土塁をめぐらし、南北2ヶ所の出入口があって、その内側に枡形土塁が構築されていました。内部の遺構については発掘調査により、主殿と思われる基壇部分のほか、長大な掘立柱建物跡群や井戸跡の他、17世紀中葉の陶器などの遺物も発見されています。
まだ台風15号の爪痕が残って歩きにくいので、奥の御殿敷地跡までは行きませんでした。
1880年代のようす。○が御殿跡。土塁が残っています。
2010年代のようす。右の野球場くらいの大きさ。
「東金御成街道」歩き。
今日で、終着地までの予定。というのも、歩くコースには、路線バスはなく、コミュニティバスがあるのみ。当然、鉄道はなし。「東金」駅まで行かなければ・・・、と。
(9:22)前回の「御成台1丁目」交差点まで戻って、再開。東に向かいます。
いきなり急坂。けっこうなアップダウン。
車道が急に狭くなり、車が坂道をすごい勢いで下り、そして上ってきます。冷や冷やしながらの歩き。
右手は公園、池も見えます。
やっと道幅も広くなって一安心。
と、後ろを振り向くと、「ちょうちん塚」が。
直線の道をつくるために、昼間は白旗、夜は提灯を目印として、小高い場所に掲げたといわれていて、その目印となった場所が、その後、一里塚となったようです。道路の向い側にも同様の塚があったようですが、現在はもう残っていません。
そこから来た道を振り返る。
これから先、道はまっすぐですが、アップダウンが続きます。
(9:33)上り坂の途中で、「金親(かねおや)」という宿場(間の宿)に向かいます。もともとこの道は直線でつながっていました。
車も少なくなってのんびりと。
1880年代のようす。直線になっています。
2010年代のようす。新道ができています。
「手打そば はづき」。
左手に長屋門。
「御成街道」。この付近に「高札場」があったか?
「長屋門」のあるおうちが続きます。
「大宮神社」入口脇に「御成街道」の解説板。
御成街道
・・・家康の命令を受けた利勝は、沿線96か所の名主を召集して村ごとに工事区間を雨時区間を分担させて昼夜兼行で造ったので別名「一夜街道」とか「提灯街道」と呼ばれている。・・・
来た道を振り返る。
(9:51)「金親町」交差点で県道53号に合流し、しばらく進むと、旧道の表示があります。県道は左に曲がりますが、旧道はそのまま直進。
ほんのわずかですが、旧道が残っています。振り返る。
広く、整備された道を東進。
(10:00)左手に御茶屋御殿跡が。
御茶屋御殿跡
徳川家康が東金への鷹狩りのために休憩所として造営したものです。このような御殿は千葉市のほかに御成街道の起点である船橋に「船橋御殿」、お狩場である東金には「東金御殿」が設営されていましたが、寛文年間(1661~72)に取り払われて、その跡地も現在大きく改変されています。この御茶屋御殿もほぼ同じ頃取り払われたものと考えられますが、跡地はよく旧態を止めています。
御殿跡は一辺約110mの方形で、周囲に幅約5mの薬研堀の空堀と高さ約2.5mの土塁をめぐらし、南北2ヶ所の出入口があって、その内側に枡形土塁が構築されていました。内部の遺構については発掘調査により、主殿と思われる基壇部分のほか、長大な掘立柱建物跡群や井戸跡の他、17世紀中葉の陶器などの遺物も発見されています。
まだ台風15号の爪痕が残って歩きにくいので、奥の御殿敷地跡までは行きませんでした。
1880年代のようす。○が御殿跡。土塁が残っています。
2010年代のようす。右の野球場くらいの大きさ。