栃本までは約20分の登り道。振り返り望む。
帰路は、昔からの街道で、旧国道140号線の道を。
古風で落ち着いた風情の家並みが続く。
みごとな松が門前に。
山間の傾斜地に家々と耕地。
埼玉と山梨を結ぶ国道140号は「彩甲斐街道」と呼ばれています。古くは「秩父往還」という武州と甲州・信州を結ぶ街道でした。
当地の往来を監視する目的で戦国時代に武田信玄によって設けられたのが栃本の関所です(国指定史跡)。警固を厳重にするため、少し下った麻生(あそう)に加番所も設けられました。栃本から右へ折れると白泰(はくたい)山を越えて信州へ、左へ行くと雁坂峠を越えて甲州に至ります。
栃本は、白泰山から東に延びる尾根の上の地すべりによってできたなだらかな地形に形成された集落です。尾根の北側の中津川の谷には秩父帯と四万十帯の境界があります。秩父帯の険しい地形に比べ、やや穏やかな地形の四万十帯の地域を古い街道は通過しています。(「ジオパーク秩父」より)
「日本の道百選 秩父往還道」。
右手に荒川沿いの山々。
国指定史跡「栃本関跡」碑。
解説板。
江戸幕府は、関東への「入り鉄砲」と関東からの「出女」を取り締まるため主要な街道に関所を設けた。
栃本関は、中山道と甲州街道の間道である秩父往還の通行人を取り調べるため設けられたもので、その位置は信州路と甲州路の分岐点になっている。
そのはじまりは、戦国時代、甲斐の武田氏が秩父に進出したとき関所を置いて山中氏を任じたと伝えられるが、徳川氏の関東入国以後は、天領となり、関東郡代伊奈忠次が慶長19年(1614)大村氏を藩士に任じたという。以後、大村氏は幕末まで藩士の職を代々つとめた。
しかし、藩士1名のみでは警備が手薄であったため、寛永20年(1643)秩父側の旧大滝村麻生と甲州側の三富村川浦とに加番所を付設して警固を厳重にした。したがってその後、み
関所の役宅は、文政元年(1818)と文政6年(1823)の二度にわたって焼失し、現在の主屋は幕末に建てられたもので、その後2階を建て増しするなど改造されたが、玄関や上段の間及び外部の木柵などには、関所のおもかげをよく留めている。
そこからの山並み。
これから先、下り道となって秩父湖へ戻ります。
途中、廃校になった「上中尾小学校」が。木造校舎。
校舎は昭和7年(1932年)に竣工。
校庭の片隅に記念碑が二つありましたが、立入禁止のため、確認できませんでした。
この校舎は、山中節治さん(1895~1952)の設計。大正・昭和初期に函館をはじめ国内で活躍した建築家で、兄の関根要太郎さんとともにモダン建築家として活躍した方。そのため、この校舎は解体されず残されているようです。
(「今昔マップ」より)
○が小学校。古くからあったことが分かります。
小さな集落が今も。急峻な山裾に開かれ、斜面に家々が点在している。
さらに下ると、「麻生加番所」跡。
寛永20年(1643)、幕府の役人が当村巡見の際、栃本関の警備の手薄なのを見て、麻生に加番所を設置するよう指令があり、設置されたものである。施設は名主宅を役所とし、別に間口3.6m(2間)、奥行2.7m(1.5間)の番人詰所があった。
この番所の建設補修費すべて古大滝村によりまかなわれた。番屋は現存せず、現在の家は安政4年(1857)11月焼失のため新築されたものであり、今も同家を「番所」と呼んでいる。千島家は鉢形北条の奉行、千島下総の末裔といわれている。
こうして、再び「秩父湖」に戻ってきました。
「秩父湖」バス停。
待てども待てどもバスが来ません。30分以上待って、やっと。ところが、満員。やっとのことで乗り込み、そのまま超密集の中で、「西武秩父」駅へ。
池袋まで「S-TRAIN」に乗りました。「元町・中華街」行き特急。