今回から都県境を南に転じて、神奈川県相模原市と東京都町田市との境界、「境川」を歩くことにします。
2月4日(土)。快晴。
京王相模原線の終点「橋本駅」。どうせなら、都営新宿線の始発駅「本八幡」から橋本行きに乗っていこうか、と。
「本八幡」を8:00に出て、「橋本」に着いたのは、9:37。途中、「新宿」まで各駅停車、「調布」から先も各駅に停車。けっこう乗りでがありました。乗客も入れ替わり立ち替わり。
やっと駅に降り立ち、しばらく待って、神中バス(「神奈川中央バス」)に乗り、「大地沢青少年センター入口」バス停まで。着いたのが10:30頃。
今回。橋本駅からバスに乗り、着いた場所から歩いて戻る、という計画。橋本駅まで戻るのもしょぼいので、より境川沿い歩きに近い「多摩境駅」(「橋本」の一つ手前の駅)までにします。
この「多摩境駅」は、「八王子絹の道」歩きで、利用したことがあります。
「大地沢青少年センター入口」バス停。
少し上流まで歩き、都県境になっている「境川」を確認し、スタートです。ここから「多摩川河口」までの道のりということに。何日かかることやら。
右手に「蕎麦処 川崎」。
このお店は町田市相原町。目の前に流れる「境川」が都県境。
境川。小さな流れですが。
都県境は上流に向かう。
左手、上流に「大地沢青少年センター」があり、その手前が都県境に。
※「大地沢青少年センター」は、町田市。
シラサギ(ダイサギ)が悠々と。
振り返ると「青少年センター」の看板。
左手に行くと、雨降(あめふらし)の集落を越えて、「城山湖」方面に。
「雨降」(あめふらし)。
緑区広田から西の方角の山を望むと、二つの小高い山が見えます。左側が雌龍籠山(めたつごやま)、右側が雄龍籠山(おたつごやま)と呼ばれています。
「むかしむかし、龍の夫婦が仲良く暮らしていました。そこに信濃のオスの龍がやってきてオス同士のけんかが始まりました。龍たちが争うとたちまち雲が沸き立ち、風が吹き付け稲妻とともに大雨を降らせました」。緑区川尻地域に残る伝説にはこう伝えられています。
緑区川尻には、龍の争いがあったことを物語る地名があります。龍が住んでいた穴があった川の周辺を「穴川(あながわ)」地区、大風が吹き抜けた場所を「風間(かざま)」地区、大雨が降った場所を「雨降(あめふらし)」地区、滝のように水が流れた場所を「滝尻(たきじり)」地区、というそうです。
雄龍籠山にある金比羅宮の境内にはその昔、雨乞いの神事をしていたという池があります。この辺りに境川、穴川、小松川の源流があり、緑区町屋で合流、境川として流れていきます。龍籠の龍は龍神(水の神)のこと、境川を龍の姿に見立て、龍が籠もっている山ともいわれています。
龍籠山は小松橋交差点の少し先にある「龍籠金刀比羅宮参道口」をスタートとするハイキングコースも整備されています。都心からも近く、休日には、大勢のハイカーでにぎわいます。
(平成25年11月 25年度市民カメラマン 小池 久男さん)
(この項、「相模原市市民カメラマン」HPより)
さて東に向かって出発です。振り返る。
ところで、
境川とは?
東京都および神奈川県を流れ相模湾に注ぐ河川。二級水系の本流である。川の名称はかつて武蔵国と相模国の国境とされたことに由来し、現在でも上流部(町田市最南部まで)は概ね東京都と神奈川県の都県境となっている。なお、かつては相模国高座郡に由来する高座川(たかくらがわ)とも呼ばれていた。また、最下流部から河口にかけては片瀬川(かたせがわ)とも呼ばれる。
東京都町田市相原町大戸の同市最高峰・草戸山(365 m)北東面(町田市大地沢青少年センター付近)に源を発し、東京都と神奈川県の境界に沿って南東に流れる。神奈川県大和市付近から南へ流れを変え、藤沢市の江の島付近で相模湾に注ぐ。 上流部は、現在の河川規模に比較して大きな河谷を形成しているが、これはかつての相模川の流路の痕跡であると考えられている。
・・・
かつては激しく蛇行しており、たびたび洪水を引き起こしたために河川改修が行われ、神奈川県相模原市緑区橋本付近よりも下流では拡幅とともに流路の直線化が行われた。ところが、左岸の東京都町田市と右岸の相模原市の間では旧流路に合わせて設定された市境(都県境)の調整作業が殆ど進まず、互いに「川向こうの飛地」を多く抱えている。2000年代に入ってからこれらの飛地解消のための調整作業が行われているが、管轄自治体の変更は居住者の同意が必要であることから進んでおらず、飛地解消の目処は立っていない。2016年までに6回境界変更が行われている。
(以上、「Wikipedia」参照)
ついでに、
町田市が、本当に神奈川県だった時代...明治に繰り広げられた「多摩領土戦争」とは?
2016年5月 3日 11:00
よくネットで話題になる「町田は神奈川」ネタ。神奈川県に食い込むような形の東京都町田市は、しばしば「領有権ジョーク」の題材になっている。
しかし、かつて実際に町田が神奈川県だったことは、あまり知られていない。それどころか、「住みたい街」常連の吉祥寺でさえ、神奈川だった時期があるという――神奈川と東京の「領土」変遷を追った。
「多摩」ほぼ全域が神奈川県に!
神奈川と東京の領土変遷は、それすなわち多摩の歴史となる。「万葉集」にも詠まれている多麻(多摩)。平安時代から幕末まで、1000年以上にわたって「武蔵国多摩郡」だったが、明治維新にあわせて分割される。
幕末の混乱と廃藩置県にともなって、それまで「多摩郡」とされていた地域は、「韮山県」「品川県」「入間県」などの管轄へ。そして明治5年(1872年)春までに、ほぼ「神奈川県」へ移管される。
移管に先立って、明治4年11月(1871年12月)に神奈川県は、多摩郡が外国人遊歩区域にあたるとし、管轄させるよう求める申立書を出している。遊歩区域とは、外国人が自由に出かけられる場所のことで、港(この場合は横浜)から最大10里(40キロ)の範囲とされていた。
それからしばらく、北多摩郡と南多摩郡、そして西多摩郡の「三多摩」は、神奈川県として扱われることになる。いまの市域で言うと、町田だけでなく、八王子や立川、武蔵野、三鷹など広範囲にわたる。
東京都に戻った理由は...
それから約20年。1892年12月16日に、三多摩を神奈川県から東京府に移管する「法律案」が出された。最大の理由は、山梨県に源流を持つ玉川上水が、「神奈川県」の西多摩郡と北多摩郡を通過して、東京府へと流れていること。1886年にコレラが流行したとき、西多摩郡内で患者の排泄物が投下されたと伝えられ、府は「非常ノ警戒」をしたという。
東京府知事による上申書によると、三多摩と東京府は水道問題以外にも、甲州街道や甲武鉄道(現在の中央線)などで利害が一致しているとも書かれていた。これを受けて、翌年4月1日、3つの郡が東京府へ移り、ほぼ現在の「東京都」と同じ形ができあがる。
・・・
なお、水道に直接関係ない南多摩郡も、このタイミングで東京府へ移った。
福生市郷土資料室が作成した「もっと知りたい 福生の歴史」によると、
「この問題に、自由民権運動の盛んだった多摩地域の勢力を削減するという政治的な問題も絡み、水源に直接関係のない南多摩地域も含めて多摩地域は東京府に移管となりました」とある。
(この項、「Jタウン東京」https://j-town.net/tokyo/column/gotochicolumn/225397.html?p=allHPより)
(HPより)