おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

暑くなってきて。相変わらず敏捷なアンズ。活発だが、大きな図体を持て余し気味なソウタ。・・・。久々の投稿です。(DAYS with CATS)

2023-05-13 20:48:45 | わがやの猫たち

ドスンと乗っかってくる5.3㎏。ウっとなってしまう。

何か文句ある? 

こちらは3㎏。静かに。 

                 でも、すばしっこいので、なかなか被写体にはなりません。

アンズは、「だるまさんがころんだ」が好きなようです。遠くで隠れていると、近づいてくる、振り向くとピッタと止まる。何回か繰り返しながら近づいてくる、というわけ。

※その瞬間と雰囲気が面白いのですが、タイミング良い写真を撮れないのが残念! ソウタは、

孫とはそれぞれ寛ぐ。

暑くなってくると、涼しいところを求めて窓際に。

ところが、・・・

高く狭いところで身をよじりながら体勢を変える。

                 

ここで寝たいが、・・・

               下半身が落ちてしまい、

カーテンのむこうは、と。

 

○にしっぽが。頭隠すも、しっぽ隠せず。

          やはり落ち着かないや。

何だ、あのヒモは?

    かじってひっぱって、・・・。

 

今度はドアの隙間が気になって。

       飽きて、上のようすをうかがう。

「ご飯だよ」という掛け声を期待しているか?

そして、お気に入りのところへ。

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その7。ブラシの木。海から7K・6K。六郷橋・左内橋。京成、東武、西武、小田急、東急、京王、そして京急。(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-11 21:00:16 | 都県境を探ってみる

正面に川崎駅付近の高層ビル。

「多摩リバー50㌔(実際は、53㌔)残り4.5㎞た」。

            対岸には、「ラジオ日本」の電波塔。

    「海から7.8K」。

運動広場。ランナーが練習中。

四阿で小休止。 

                         隣に植わっている木が気になる。

「ブラシの木」。

マキバブラシノキ(カリステモン)属は、オーストラリア全域からニューカレドニアに30種が分布する低木から高木の常緑性花木です。ブラシノキの最大の特徴は花の姿で、ビンを洗うためのブラシそっくりの姿です。そこで英語ではボトルブラッシュと呼ばれます。庭木のほか切り花や枝ものとしても生産されています。日本で流通しているマキバブラシノキ(カリステモン)属には、ブラシノキの和名をもつスペキオスス(Callistemon speciosus)、ハナマキの和名でキンポウジュの別名をもつキトリヌス(C. citrinus)、シロバナブラシノキの和名のサリグヌス(C. salignus)、シダレハナマキの和名のウィミナリス(C. viminalis)があります。そのほか、ハナマキにはいくつかの園芸品種が流通しています。

(「みんなの趣味の園芸」HPより)

家の近所のお宅にもあります。見事!

鮮やかな真っ赤。満開です。

・・・

さて、

「海から7K」。

道路上に大書。「7.0→」。「利根川」では、よく見かけましたが、「多摩川」左岸では、初めて。

東海道線と京急線が並行。

「海から6K」。

    ゴルフ練習場の向こうに、都県境になる「六郷橋」。

右が東海道線。左が京急線。

橋のたもとにある「旧六郷橋」。

以前、来たときの記事を再掲。・・・

六郷橋脇(大田区側)の宮本台緑地にある1925年の橋門と親柱。
親柱。
橋門の柱の意匠。大正期のモダニズムがうかがわれる。
橋脇の手すり。
橋門上部。アーチが見事。
公園から多摩川方向を望む。
説明板。

ここには、「左内橋」(木造)の写真と1925年架橋の橋の写真がある。

※「左内橋」とは?

左内橋
 1874年(明治7年)1月に鈴木左内が私費で六郷の渡しに橋を架けた。この橋は左内橋と呼ばれ、長さ60間(109m)、幅3間(5.5m)の木橋で、通行料を徴収した。それまで度々架けられていた橋と同様に、この橋も1878年(明治11年)9月に発生した多摩川の洪水で流されてしまう。ただ、左内橋は写真と浮世絵にかつての六郷の記憶として残されている。

(この項、「niftyホームページサービス」より)

 1984年12月、架け替えのための解体・撤去作業中に橋桁が落下し、死傷者18名を出す事故となった。橋門の柱にはこのときの事故で亡くなった5人の氏名と、作家の森村桂による鎮魂の詩が刻まれたプレートが取り付けられている。

雄々しい五人の男たちへ
 星がひときわ美しくまたたいた翌朝、
 橋造りに命をかけた男たちが、
 星の国へいってしまいました。
 どうか、天国で、
 こんどは、虹の橋を造る仕事をして下さい。  森 村 桂

金子義男 菊池幸雄 小俣方一男 鈴木司郎 三宅郁夫 (1984・12・14)

・・・

「六郷土手駅」前の通り。

20年くらい昔、この近くに知人が住んでいたので、何度か下車した駅。当時とあまり変わらない印象。

京急線「六郷土手駅」。

次回は、いよいよ河口まで。

振り返って、ここまで利用してきた私鉄は、京成、東武、西武、小田急、東急、京王、そして京急

東京近郊の私鉄を北東から北西へ、そして南西から南東へ、順繰りに利用してきた感じ。

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その6。矢口橋。矢口の渡し跡。多摩川大橋・国道1号線(第2京浜)。電波塔。(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-10 20:56:51 | 都県境を探ってみる

散策路の案内図。川べりにあります。

         朽ちたような標柱。草むらにポツンと。

「矢口橋」。

          「矢口ポンプ所排水樋管」。

       

「多摩川大橋」が下流に。

橋のたもとの川べりに、

「矢口の渡し跡」解説板。

新田義興(1331~1358)が、 矢口の渡しで討死したといわれるころの渡し場は、現在の新田神社付近であったと思われ、当時の多摩川は 今より東へ大きく湾曲していたと考えられる。
 江戸時代に、 平賀源内により浄瑠璃「神霊矢口渡」が作られ、 歌舞伎でも上演されるようになると、この渡しは有名になった。
 渡し場は、流路の変遷と共にその位置をいくたびか変え, この付近になったのは江戸中期からであると考えられる。
 多摩川に数ケ所あった渡しのうち、ここは区内最後の渡船場として、多摩川大橋が完成する昭和24年(1949)まで利用された。

対岸を望む。

橋の中ほどに「神奈川県 川崎市」の標識が。

※「多摩川大橋」は、「国道1号線(第2京浜)」。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

流路が大きく湾曲しているところも。渡し場があります。(「矢口の渡し」)

                     2010年代のようす。↑が矢口ポンプ所樋管橋。

すぐ下流に並行する橋。

    東京電力とNTTが占有する専用橋3連のブルーのアーチ橋は、けっこうインパクトあり。

          

川べりの道を歩きます。

振り返る。

下流を望む。

            

対岸を望む。

                川崎市幸区「川崎競馬場練習馬場」付近?

左手に見えるのは、「アール・エフ・ラジオ日本・川崎幸(かわさきさいわい)放送局」の電波塔のようです。

写真を拡大して見ると、様々な形状の電波塔が立っています。

遠くに川崎市駅付近の高層ビル。

京急線「六郷土手駅」まで、あと少し。

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その5。ハマダイコンが咲き乱れる土手。海から12K。高規格堤防区間。ガス橋。キヤノン。(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-09 20:39:08 | 都県境を探ってみる

ゴルフ練習場。

「たまリバー 残り9.8K」。

ハマダイコンが咲き乱れる土手。

 

ハマダイコン(浜大根)は日本全国の海や川沿いの砂地に自生する多年草。野菜の大根と同じアブラナ科の植物ですが、ハマダイコン(浜大根)の根は細くて野菜のダイコンとは全く異なります。ハマダイコン(浜大根)は食用や漢方に用いられます。

花色は薄紫色から白色で、大根の花に似ています。花径は2㎝ほどです。草丈は30~70 cmくらいで、群生して咲きます。咲く前の花芽はお浸しに、葉は塩漬けや炒め物に使えるそうです。ハマダイコン(浜大根)の根は細くて繊維質が多く、野菜の大根のように美味しいものではありませんが、おろすと大根おろしよりさらに辛い大根おろしになると言われています。

ぷっくりしたエンドウ豆のような実(種)ができています。

     「海から12K」。

※これは「荒川」歩きで見かけた「ハナダイコン(花大根)」。

中国原産の帰化植物。日本へは江戸時代の1835年頃に鑑賞用として渡来したものが、戦後になって野生化し、全国に広がった。欧米では最も伝統のある園芸植物とされている。別名を「大紫羅欄花(オオアラセイトウ)」「紫花菜(むらさきはなな)」「諸葛菜(しょかっさい)」「だいこんの花」とも呼ばれる。特に中国ではこの植物を食用として栽培しており、三国志の諸葛孔明が戦闘の先々でこの種子を蒔き、食料となるよう栽培したことから「諸葛菜」と名付けられた。

               

・・・

「たまリバー50キロ 残り9.0㎞」。

左手に大きなマンション。

古い石柱(「11.4K」)。保育園児がお散歩中。

振り返る。

対岸の武蔵小杉のタワーマンション群が次第に遠くに。

左に、桜並木の道が。奥は、「キヤノン本社」棟。

振り返る。桜の時期はさぞかし。

「高規格堤防区間」解説板。

荒川や隅田川の一部にある「スーパー堤防」と同様でしょうか?

「たまリバー50キロ」案内板。

ガス橋。

多摩川に架かる「ガス橋」は、1929年(昭和4年)、東京ガスの神奈川の工場から東京へガスを送るために、東京都大田区・神奈川県川崎市の間で架設されました。
 
当初はエネルギーの供給という機能のみの「ガス導管専用橋」として計画されていたものの、両岸の地域住民により一般の人も渡れるようにしたいと要望があがり、点検用の仮橋を人が往来できるよう1メートルの幅を持たせる計画に変更し、1931年(昭和6年)9月に瓦斯人道橋となりました。
 
昭和はじめの大田区下丸子付近には、白洋舎、日本精工、三菱精機などの工場ができ、川崎に住む工場で働く人々にとっては、それまで多摩川を渡るには下流の六郷橋か上流の丸子橋の他は船で渡るしかなく、「ガス橋」は大変便利な橋として重宝されました。
 
一方、もともと人が渡ることを想定して計画されたものではなかったため、最低限の幅しか設けていなかったにも関わらず自転車で渡る人やリヤカーを引いて渡る人などもおり、たびたび争いが起こっては近くの店の店主が仲裁に入ることもあったそうです。「けんか橋」の別名もありました。
 
1950年代になると多摩川をはさんで大工場が続いて建設され、ますます増大してきた交通需要にこたえるため、車の通行が可能な新たな「ガス橋」に架け替えることが計画されました。・・・1960年(昭和35年)6月に完工しました。

「ガス橋」は幅12メートル、橋長388メートルの大きな橋に生まれ変わり、今でも神奈川と東京都を結ぶ重要な交通路として活躍しています。
橋の下部にはガス管が通されており、東京ガスのパイプラインの動脈となっています。

建設当時の写真。

(この項、「東京ガス」HPより)

        

この当時の工場も一部を残して移転し、跡地は、大きなマンションになっています。

                 

                     

             2010年代のようす。ガス橋付近。右手に「キヤノン」本社。

対岸。

多摩川清掃工場。

              

振り返る。右に多摩川清掃工場。

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その4。東京都水道局調布取水所。東急多摩川駅・多摩川園。丸子橋。東海道新幹線・横須賀線。(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-08 18:33:02 | 都県境を探ってみる

森が多摩川に迫ってきます。

       釣り人。 

上流を望む。

東急線の橋梁。

手前には、

東京都水道局調布取水所」。

調布取水堰は、多摩川から取水した原水を調布浄水場および玉川浄水場に送る施設で、大田区田園調布に玉川水道株式会社によって昭和11年(1936)に完成した。

取水堰。 

東急線。左に「多摩川駅」。

多摩川園(たまがわえん)は、東京都大田区田園調布にかつて存在した遊園地である。現在の東急電鉄多摩川駅の駅前に正面入口があり、面積は約5ヘクタールであった。

1925年大正14年)12月23日に「温泉遊園地 多摩川園」としてオープン。同年には丸子多摩川花火大会も開始されている。園内には、飛行塔、お化け屋敷、メリーゴーランドの遊戯施設があり、菊人形展でも多くの客で賑わった。また多摩川駅の反対側の台地にも、付属施設として展望塔や「松の茶屋」が設けられた。入場者数の減少等により、1979年昭和54年)6月3日に閉園。・・・

1964年(昭和39年)の東京オリンピックの年には、年間入場者数約100万人を記録した。そのころには観覧車、丘陵地に登るリフトと滑り台(大山滑り)、野球用軟球を玉に使ったバズーカ砲、ウヰスキーの樽を模した車体のジェットコースターなどの遊戯施設があった。南東側には大きな池がありボートも漕げたが、後に駐車場にするため埋め立てられた。また大規模な室内催事場「読売館」も設置され、夏季の納涼スリラーショー(お化け屋敷)、秋季の菊人形展が人気を集めていた。

しかし1968年(昭和43年)には道路交通への影響を理由に、京浜地域の大イベントであった丸子多摩川花火大会が中止され、観光地としての多摩川園周辺には痛手となる。1970年代には、遊園地に面する集合住宅の増加による近隣紛争や景観の悪化、世相の変化によるレジャーの多様化などから入場者も減少に転じ、周辺道路の渋滞に対する苦情もあって、1979年(昭和54年)6月3日に閉園した。

(この項、「Wikipedia」より)

対岸を望む。右に「新丸子駅」。

対岸のタワーマンション群。

取水堰を望む。

丸子橋。

丸子橋は、丸子の渡しがあった場所からおよそ200メートル上流に中原街道の新橋として1934年(昭和9年)に完成した。完成当時は片側一車線道路の橋で、その後、老朽化と交通量増大に対応するため、東京都と川崎市が共同で架け替え事業に着手し、2000年平成12年)5月に片側2車線の新しい橋への架け替えが完成した。これが現在の丸子橋である。

2002年(平成14年)に丸子橋北詰付近にアザラシのタマちゃんが出現し、マスコミで取り上げられ、見物客も訪れ賑わった。

様々なテレビドラマ等のロケ地としてよく使用される。また、丸子の渡しに通じていた中原街道旧道の坂道部分は桜坂と名付けられ、歌謡曲にも取り上げられて桜の名所となっている。

2013年(平成25年)4月29日未明、ウクレレ漫談家の牧伸二がこの橋の付近で投身自殺を図り死亡した。

丸子の渡し

古代から多摩川のこの地に丸子の渡しと呼ばれる渡し舟が存在した。府中市史によると承和2年(835年)には既に運航されていたとの記述がある。東京方面への唯一の交通機関だったが、悪天候の日には運航中止となるため、1884年(明治17年)から橋の建設のための運動が行われた

その後、架橋により丸子の渡しは1934年(昭和9年)12月に廃止された。2006年に地域住民により「丸子の渡し復活協議会」が結成され、2014年から年に一度「丸子の渡し」を再現するイベントが開催されている

(この項、「Wikipdia」より)

             

  

この先、下流に東海道新幹線と横須賀線の橋脚が見えてきます。

 

       

品川に向かう新幹線。 

新幹線橋脚。 

         「JR東海 立入禁止 新横浜保線所」。

右が新幹線、左が横須賀線。 

先に進みます。  

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その3。満開のツツジ。「等々力」。多摩川緑地広場。世田谷区から大田区に。多摩川台公園(大田区田園調布)。(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-07 20:35:24 | 都県境を探ってみる

沿道に満開のツツジ。        

               

     「等々力排水樋管」。

「等々力」という地名は、対岸の川崎市にもあります。

当地は、もともと多摩川の流れが南に屈曲していたところに張り出した、荏原郡等々力村に属する半島状の土地であったが、洪水や多摩川の付け替えが行われた結果、対岸の飛び地となった。宝暦12年(1762年)の小杉村絵図にも、現在の川崎側の等々力の南側を、多摩川の本流から分流して蛇行した流路が「古川」として描かれている

江戸時代には旧河道の土地をめぐり等々力村と小杉村で争いとなり、宮内村が立ちあって境界が定められ、幕府側でのその裁決の文書には大岡越前守の名も残っている

明治末期に、多摩川に沿って府県境が引き直され、当地は神奈川県橘樹郡中原村へと編入された

・・・江戸時代に「等々力」の字が当てられた

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。○が飛び地だったところ。

余談ですが、「田園調布駅」を中心に同心円状に住宅地が広がり、都内有数の高級住宅地となっています。

田園調布は、1918年大正7年)に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた「理想的な住宅地『田園都市』の開発」を目的とする田園都市株式会社により主に開発され、1923年(大正12年)8月から分譲開始した地域である。田園都市株式会社は東急電鉄東急不動産の始祖にあたる会社である。(「Wikipedia」より)

川崎市側は「等々力陸上競技場」等、大きな運動広場になっています。川崎市中原区等々力。

                      1880年代のようす。かなり蛇行する流路。

 

大きな広場が続きます。

多摩川緑地広場。

         遠くに武蔵小杉のタワーマンション群。

東京都市大学グラウンド。

     テニスコート。

         

この先で、世田谷区から大田区に入ります。

けっこう長く「世田谷区」区域を歩きました。

振り返る。

上沼部排水樋管。

河口まで大田区になります。

                   

東急線、丸子橋が遠くに。

               

左手に森が迫って来ます。

               「多摩川台公園(大田区田園調布)」。

                 亀甲山古墳、宝莱山古墳や多摩川台古墳群があるようです。

案内図。

「田園調布4丁目」信号。

上流を望む。

             

下流を望む。対岸に釣り人の姿。

岸辺で釣り人が。

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その2。孤独なライオン。等々力大橋。玉川排水樋管。等々力渓谷。(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-06 20:43:12 | 都県境を探ってみる

「孤独なライオン」。     

どういうわけで、一頭だけ?

この疑問を追求したブログ「デイリーポータルZ」には、その疑問が解決されていく記事が掲載されています。

それによると、

40年近く前、ライオンの近くには

・パンダの遊具があった

・「前後に揺れる遊具」や砂場もあった

・ライオンは台風のたびに埋まる

当時の写真などを発見、ついに、区役所による周囲の発掘作業に立ち会うことになります。そこでの発見は?

事の次第・興味深い話は、下記の記事をご覧下さい。(写真・図を借用しました。)

多摩川に埋まる遊具「孤独なライオン」の発掘調査に立ち会った【完結編】 :: デイリーポータルZ (dailyportalz.jp)

2010年代のようす。

1970年代のようす。ライオンなど遊具があった?

上記のような経緯があり、ライオンだけ撤去されずに残されて、今に至るわけです。

河川敷の野原にポツンと置かれたライオン。が、存在感は抜群!

草が刈られた広場。

この先、大きなクレーン車が何台も見えます。

          

                  「等々力大橋」(仮称)下部工事のようです。

       

目黒通りが川崎へ「等々力大橋」巨大橋脚が出現中 「橋空白地帯」多摩川に念願の架橋

東京都世田谷区に、多摩川を渡る新たな橋梁「等々力大橋(仮称)」の建設が進んでいます。完成は2025年度の予定です。

この橋が架かるのは、有料道路・第三京浜の約1km東側。目黒通りの延長線となる形です。一般道路としては、二子橋と丸子橋のちょうど中間部分です。両者は5kmも離れているため、ボトルネックとなって慢性的な渋滞ポイントとなっていますが、混雑分散に期待がかかります。

目黒通りが川崎市内に入ったあとは、西下橋交差点から都市計画道路「宮内新横浜線」に接続。そこから子母口まで4車線道路が開通済みです。

名前のとおり最終的には新横浜駅へ直結する計画で、全通すれば都心~新横浜が4車線道路で直結されることとなります。・・・

さて多摩川の現場では、川崎側の橋台と橋脚が2022年夏に完成。東京側の橋脚も、約半分ほどの高さまでコンクリートが打ちあがっています。このあと河道内にもう1本橋脚を立てて、橋桁部分の工事へ移行します。橋の長さは約390m、鋼製の箱桁を主塔からケーブルで支える形式です。 ・・・

(この項、「」HPより)

「玉川排水樋管」。

    

ここから少し上流(谷沢川)に向かったところに都区部では唯一の自然渓谷とされる「等々力渓谷」があります。何年か前に、出かけたことがあります。

等々力渓谷

大量の湧水が台地を浸食してできた渓谷である。渓谷の谷底は等々力駅付近から下流の脇を遊歩道が整備されている。10mほどの急峻な両崖には武蔵野の雑木林が残り、陰鬱として夏でも冷涼である。また、南側は戦国時代深沢から移ってきたとされる満願寺境内に隣接し、その別院の等々力不動尊は関東三十六不動尊霊場の一つとして、湧水が流れ落ちる不動の滝に打たれる修行者が時折見られ、冬季を除いて茶屋も建ち、都内でも有数の自然豊かな憩いの場となっている。

(「Wikipedia」より)

そのときの記事を再掲。

見上げると、けっこうな高さ。
                   

左岸には遊歩道。
                      
木洩れ陽の中。せせらぎの音と小鳥の声。

「ゴルフ橋」方向を振り返る。

多摩川方向を望む。

・・・

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その1。二子玉川園。玉川西陸閘。岸辺の散策路。二子玉川公園。第3京浜。下野毛排水樋管(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-04 20:48:11 | 都県境を探ってみる

4月28日(金)快晴。多くの乗降客でにぎわう駅の改札口から、多摩川土手に向かいます。

駅コンコースのようす。 

東急田園都市線・大井町線「二子玉川」駅。かつての駅名は、「二子玉川園」。
 駅名は、駅の東側にあった「二子玉川園」という遊園施設に由来しています。戦前の1922(大正11)年に「玉川第二遊園地」や「玉川プール」などが開設され、行楽地として賑わいました。

※「二子」という地名そのものは神奈川県川崎市高津区にある地名。多摩川をはさんであった左岸が東京都世田谷区瀬田に編入された。東京側は「玉川」。

 太平洋戦争中はパラシュート練習場として、海軍空挺部隊や陸軍挺進連隊の訓練設備として使用されました。戦後、玉川第二遊園地は、「二子玉川園」となり、フライングコースター等の施設や映画館なども設けられ、行楽地として栄えました。
 しかし行楽施設の充実や変化という時代の流れにはついていけず、1985(昭和60)年に閉鎖されました。その跡地にスポーツ施設や「ナムコ・ワンダーエッグ」、「いぬたま・ねこたま」などのテーマパークが建設されましたが、それも廃園。

今や高層ビルが建ち並ぶ、一大商業地域・住居地域になっています。

        「二子玉川駅」。ホームの一部は多摩川に。

多摩川の旧土手。

「玉川西陸閘」。

                   レンガ造りが印象的。結構な高さと幅。

江戸時代、二子(多摩川の右岸・神奈川県側)は、矢倉沢往還(大山街道・現在の246号「厚木街道」)の渡船場でした。「矢倉沢往還」は、神奈川県南足柄市の矢倉沢方面から物資を運ぶための道でしたが、丹沢の大山信仰の登山口でもあったため「大山道」とも呼ばれました。
 江戸時代、博打と商売にご利益があるとされた「大山詣り」は大流行し、二子宿には、旅籠をはじめ多くの商家が軒を揃え、大いに賑わいました。また、江戸幕府への献上用としても好まれた鮎漁も盛んに行われ(鵜飼い)ていたといいます。
 明治40(1907)年になると、渋谷から対岸(東京都側)まで玉川電気鉄道が延び、多摩川をはさんだ二子の渡し周辺は、再び行楽地として注目を集めます。近郊の人々が多摩川を訪れ、旅館に泊まって田園風景や多摩川の風情を眺めたり、屋形船で鵜飼いを楽しみながら川魚を賞味して余暇を過ごしました。旅館が建ち並び、鮎漁・鮎料理、鮎寿司を看板にしている店々が軒をつらねた様子が記録に残されています。
 行楽地として賑わう反面、下流部に位置し、東京と神奈川両府県にまたがるため断続的な堤防しかないこの辺りは、古くから水害に苦しめられていました。
大正3(1914)年8月9月、多摩川を襲った2度の大洪水が発端となって起きたのを契機に、国の直轄による「多摩川改修工事」が行われる事になりました。大正7(1918)年から竣工され、昭和8(1933)年度に完了した工事の対象区間は、河口から二子の渡しの少し上流までの約22kmです。
 現在残る世田谷区玉川1丁目から上野毛2丁目付近の堤防もこの時築かれますが、川辺に建ち並ぶ料亭などから「眺めが悪くなる」として合意が得られず、堤防と川の間に料亭や田畑を残す形に計画を変更しました。
 しかし、川辺の料亭や渡しへむかう人馬が、この堤防を越えていくのは大変です。そこで堤防の一部を削って通路をつくり、水位が上昇した時は手動で締め切って、水が流れ出るのを防ぐ仕組みの「陸閘(りっこう)」を設置したのです。一面から見れば、堤防内の人も住居も見捨てるということに? ま、その前に避難命令が出るでしょうが。考えてみれば、治水に対する生活の知恵 ともでもいうようなもの。
 近辺の宅地開発に、交通網の発達と関東大震災後の影響が拍車をかけ、都心から多摩川沿いの住宅地へと移り住む人々は急激に増え、世田ヶ谷の人口も、大正9年から昭和35年の間に16倍以上にもふくれあがります。昭和初期の航空写真には、料亭と田畑だけだった堤防と川の間にも家々が密集し、まちが形成されている様子が写っているようです。
 (以上、「京浜河川事務所」の資料を参照しました。)

南東に延びています。

かつてこの上を歩いたことがあります。土手。遠くに桜並木が見えます。

現在の堤防に上がります。土手の松がすくっと高く。

駅のホームを振り返る。

河口に向けて出発。

                対岸遠くは、武蔵小杉付近の高層マンション群。

河川敷を歩きます。

                

直線に伸びる道。

松並木。

岸辺の散策路。

左手に緑豊かな大きな公園。

                         「二子玉川公園」。

多摩川を見下ろす。

平成25年4月14日(日曜日)にオープンし、多くの皆さまにご利用いただいている二子玉川公園。

二子玉川駅より徒歩9分と、国分寺崖線のみどりと多摩川の水辺に囲まれた場所に位置している自然豊かな公園です。世田谷区立の公園として初の本格的な日本庭園があり、その一部には登録有形文化財に登録された「旧清水家住宅書院」を復元しています。

区民の皆さまと共に植樹した約1,400本の苗木が生長する「世田谷いのちの森」や子どもたちがボール遊びを楽しめる「子ども広場」、幼児が遊べる「遊具の遊び場」などがあり、親子連れで楽しめる公園です。

日当たりもよく、眺望広場からは丹沢の山々や富士山を望むこともできます。

(この項、「」HPより)

公園内のようす。

               かつての「二子玉川園」の跡地か?

「第3京浜」。

東京都世田谷区の玉川ICを起点とし、川崎市高津区の京浜川崎IC、横浜市港北区の都築IC、横浜市都筑区の港北ICを経て横浜市保土ヶ谷区の保土ヶ谷ICまでを結んでいる全長16.4km。

         

多摩川の流れ。

 

                 「下野毛排水樋管」。

この先の河川敷にあるものは?

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向島百花園。4月29日。すっかり初夏の。ばしょう(芭蕉)。しゃくやく(芍薬)。むさしのきすげ。たにうつぎ。ひつじぐさ。ゆきもちそう。・・・

2023-05-03 20:42:02 | 向島百花園

久々の「向島百花園」。

                       緑もめっきり濃くなって、初夏の雰囲気。

        

ばしょう(芭蕉)。

               なにわいばら。

孟宗竹。筍もあっという間に生長しています。

 

しゃくやく(芍薬)。

             

むさしのきすげ。

たにうつぎ。 

ひめうつぎ。                

たむけやま。

梅もしっかりと実をつけています。

こうとうじ(紅冬至)。

しろかが(白加賀)。

               

ぼだいじゅ(菩提樹)。

四阿から。

つがいのカルガモ。そのうち、ひな鳥が泳ぎ回る? 

あやめ。

ひし。

         ひつじぐさ。

ゆきもちそう。

しらいとそう。 

      ちょうじそう。

一瞬、夏空が広がる。

次回来るときには、もっと夏らしくなっていることでしょう。

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その8。東京都水道局砧下浄水所。陸閘(りっこう)。 野川。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-05-02 20:45:53 | 都県境を探ってみる

上流を望む。

二子玉川駅に近づいてきます。

東京都水道局砧下浄水所。

上流にあった同じような取水塔があります。

広場やグランドが河川敷に広がります。

 

この先、土手の道に「自転車通行できません」との表示。それを無視し、走る自転車が戻ってきます、

「陸閘」。

陸閘(りっこう)は、多摩川の水害から暮らしを守る目的で大正時代に作られた堤防の一部を削り、堤防内外への通路としたものです。

この通路は、増水などにより川の水位が上昇した際に、手動で門扉のように締め切り、水が堤防の外(多摩川河川敷外)へ流れ出るのを防ぐ仕組みとなっていました。陸閘は玉川1丁目に2か所あり、それぞれ「西陸閘」「東陸閘」と呼ばれ現存しています。レンガ造りの壁が印象的です。

・・・

さて、こうして古くから地域の人々の生活に寄り添ってきた堤防と陸閘ですが、現在でもその機能を担っています。毎年、出水期前の5月に閉鎖訓練を行い、閉鎖に必要な材料等が損傷・腐食していないかを点検すると同時に、設置から撤去までの作業と時間の確認が行われています。

 この訓練は世田谷区の職員が作業し、実施について国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所へ報告されます。訓練を担当する世田谷区玉川土木管理事務所の高橋厚信所長は、「台風などによる増水で、浸水の危険がある場合に速やかに閉鎖し地域を災害から守るための訓練です」と話します。

 2019年の10月に発生した台風19号が飛来した際には、西陸閘を閉鎖しましたが、街に古くから住む方々は「訓練ではなく、水害防止のため実際に閉まるのは初めて見た」と話していました。

(この項、「」HPより)

この記事では、具体的な作業のようすが写真入りで紹介されています。

※もう2ヶ所、二子玉川駅の先にあります。

河川敷に広がるグランド、広場。

左から「野川」が合流してきます。

上流方向。

かつての野川は、小金橋(調布市と狛江市の市境、調布市立調和小学校の南東)あたりから野川緑地公園に近い流路で現在の狛江市中心部を流れ、そのまま南流し岩戸川(現在の岩戸川緑地公園)及び町田川に接続し、宇奈根付近で多摩川に注いでいた。

1597年慶長2年)から15年かけて六郷用水(次大夫堀)が開削された。これに伴い世田谷通りの新一の橋付近で六郷領用水と合流し流れを東に変え、世田谷通りと滝下橋緑道を流れ入間川と合流するようになった。次太夫堀公園を流れた後用水から分流し現在の野川下流に近い流路を通っていた。

1967年昭和42年)になって六郷用水も川の流路を失わない範囲で大部分が埋められ(一部が野川緑地公園と滝下橋緑道に整備)、野川の流路を東に寄らせる改修が行われた。野川は狛江市街に入らずに調布市と狛江市の市境付近に新たに開削された[6]。それより下流の野川も入間川との合流点を作り、さらに少し下流のきたみふれあい広場(小田急電鉄喜多見車両基地)付近では旧入間川より数百メートルほど東に野川が開削され(西側の従前の入間川は埋められた。狛江ハイタウン前からきたみふれあい広場までは道路及び遊歩道になっている)、さらに下流でも次大夫堀開削以前の入間川に近い流路がとられた。また、この開削した川も全区間野川と称した。

都内にしては湧水による水量豊富な河川であったが、戦後から高度経済成長期を経て1980年代前半までは、周辺地域の宅地化が進行し、下水道も未整備であったため生活雑排水が垂れ流されるようになる。流水の大半がそれらからなり、水底はヘドロで覆い尽くされ悪臭を放つドブ川となってしまうが、平成に入り周辺地域の下水道整備がようやく完了し、清流への回復が徐々に進み始めた。これにより各種類や水生昆虫、かわせみ、カメなどの生息、回帰も確認されるようになった。

しかし、皮肉なことに汚水の減少にともなって水量そのものも減少してしまい、冬季にはしばしば川の水が枯れるようになった。また、水量減少は流路に湿原的な環境を所々作り出し、アシの繁茂が新たな生物相を生じさせてもいる。・・・

※かつて「野川」を歩いたことがあります。・・・

「都立野川公園」。雨に煙る風景。

・・・

多摩川方向。

             

今回は、ここまで。「二子玉川駅」に向かいます。

東急「二子玉川駅」。

以前訪れたこともありますが、相変わらず、駅周辺は、にぎやかな街並み。人もたくさん出入りしています。

※今日は、「八十八夜」。立春から数えて八十八日目の夜。 八十八を組み合わせると『米』という字になり、昔から農業に従事する人々にとって重要な日とされてきた。霜の降りる時期も終わりを迎える目安とされている。

♪夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘じゃないか
 茜襷(あかねだすき)に菅(すげ)の笠・・・

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その7。狛江水辺の楽校。東京都水道局砧浄水場。警視庁白バイ訓練所。宇奈根の渡し。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-05-01 20:55:51 | 都県境を探ってみる

先に進みます。

自動車教習所。

             ここも水害の被害を受けたところなのでしょうか?

「狛江水辺の楽校」。

        

狛江水辺の楽校は、わき水や小川、池、雑木林、オギ原、化石島など多摩川らしい自然と景観を残す私たち市民の共有財産といえる貴重な水辺の空間です。
 多摩川流域でもこれほど恵まれた自然環境を保持しているところは数多くありません。私たちは、こうした環境を大切にして次代の子どもたちに引き継ぎたいと考え、この水辺の価値を考え、この水辺の価値を共有する市民や団体、そして狛江市との協働で運営協議会を設け、環境保全の管理・運用に当たっています。

(この項、「狛江水辺の楽校」HPより)

※都内でほぼ確実に化石が見つかる場所のようです。

「東京都水道局砧浄水場」。

世田谷区喜多見。 

                   取水塔。

「警視庁白バイ訓練所」。

「東名高速道路」橋脚が見えてきます。

          「警視庁交通安全教育センター」。

「武蔵野の路 二子・是政コース」案内図。

「藤棚」のある四阿で小休止。

「海から20K」。

        

                    対岸は、川崎市高津区宇奈根。

リコー 総合グラウンド。

駒沢大学玉川キャンパス。

左手に二子玉川駅付近の高層ビルが見えてきます。

「宇奈根の渡し」解説板。

多摩川は古くから洪水により流路が変わる暴れ川であり、流れの大きな変化によって村が分断されることもあった。

ここ宇奈根地区もかつて多摩川により分断された地区で両岸にその地名(世田谷区宇奈根と川崎市高津区宇奈根)が残っている。そのため、宇奈根地区では対岸の農地の耕作のための作業渡しや両村を結ぶ交通として宇奈根の渡しが運行していた。本来の渡し跡は、現在地より約500m上流であったと言われている。なお、昭和25年(1950)に渡しは廃止された。

この記念碑は、喜多見児童館の子ども達がかつての宇奈根の渡しを復活させ対岸の子ども達と交流しようと夢をふくらませ、地域の方々と作製し名付けた「夢叶丸」(ゆめまる)に乗り、世田谷区と川崎市高津区の宇奈根の子ども達の交流が実現したことを記念し、現在の宇奈根1丁目1番地に夢プロジェクトメンバー25人の手作りで建立したものである。

      対岸。

 「宇奈根の渡し」は1950(昭和25)年に廃船となったと言われる多摩川の交通手段。行楽・商業の船着き場として栄えた「二子の渡し」に比べ、農作業など住民生活の足として利用されていたことから残された資料も少なかった。喜多見児童館が2014年に「世田谷区子ども夢プロジェクト」の担当館として調査した結果、さまざまなことがわかり、当時同プロジェクトに参加していた25人の子どもたちの発案で実際に手作りの渡し舟「夢叶丸(ゆめまる)」を制作し、同年9月23日に64年ぶりの渡しを復活させた。

(この項、「」HPより)

※コロナ禍で3年中止されていた「宇奈根の渡し」が昨年から復活したようです。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。船着き場がある。

                     2010年代のようす。今も、「宇奈根」が両岸に。

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