おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

最近の銭湯事情。小冊子『1010』より。

2023-07-13 20:18:38 | 葛飾銭湯

『1010』。

久々に近所の銭湯に。

小冊子が置いてありました。その記事を(勝手に)紹介します。

       「湯上がりドリンク、最高の一杯を探せ!」

フレッシュジュース、深海ゼリー、クリームソーダなどローカルドリンクが登場しているようです。

牛乳、スポーツドリンク、缶ビールなどの定番から、クラフトビールの飲み比べセットなど、お風呂屋さんで、さまざまなビールが流行っているようです。

             

「江戸で最初に銭湯を作った人物とは?」

江戸最初の銭湯の記録が文書で残されています。天正19(1591)年、銭瓶橋のほとりに伊勢与市がせんとう風呂を建てたことが三浦浄心の『慶長見聞集』に記されています。「・・・風呂銭は永楽一銭なり。皆、めづらしき物かなと入り給ひぬ。・・・」

江戸最初の銭湯は伊勢式の蒸し風呂だった可能性が高いと思われます。・・・慶長見聞集が書かれた慶長19年(1614)頃には「町ごとに風呂あり」というほどに急激に銭湯が増えました。

※「一銭」。まさに「銭湯」だったわけです。

※いまだに「銭湯」というのも面白いですね。「(公共)浴場」とは言いません。

学校でも「下足箱」を「下駄箱」というようですが。

        「土用、丑の日は『ももの薬湯』へ」。

土用丑の日(7月30日)に「ももの薬湯」を実施します。「土用丑の日のウナギ」は日本人の生活に浸透していますが、江戸時代から土用丑の日には、無病息災を願って「ももの葉」を浮かべた「丑湯」につかる習慣が広く親しまれていました。「ももの葉」には、肌の炎症を抑える消炎作用や解熱作用、肌をひきしめる収れん作用があるタンニンという成分が含まれており、日焼けやあせも、湿疹などの効果が期待できます。暑い時期に多い肌のトラブル対策に、ぜひ7月30日(日)は銭湯へ足を運び、広い湯船で「ももの葉湯」をお楽しみください。・・・

※左のページにある銭湯川柳も面白い。

・神田川優しい人は待たせない ・女湯へ明日から移る孫娘 ・お揃いのセーター畳む脱衣かご

んなのゆっポくんをさがせ!」

よく連れて行った孫たちも、だんだん銭湯から遠ざかることが増えてきました。

じいさん一人で楽しむ今日この頃です。Tシャツ。

葛飾区内に20軒以上あった銭湯も徐々に減ってきました。区内の銭湯巡りも、あと二箇所回れば完遂です。

附:江戸時代の銭湯

『女湯』 大判錦絵2枚続 鳥居清長画 天明後期 ボストン美術館蔵。

銭湯を詳細に描いた浮世絵としては、最も早い時期の作品。画面右、衣服棚がある畳敷のところが脱衣所。画面中央の板敷の間が洗い場、その間に竹を並べて水はけを良くしている。中央上、下半身のみの女性が見えるところが石榴口で、湯が冷めないよう出入口が低くなっていた。左上の小窓から見える男は三助。(「Wikipedia」より)

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江の島めぐり。その5。釣り人や岩場を散策する人。再び稚児が淵へ。打ち寄せる白波。こうして江の島めぐり終了。

2023-07-12 18:32:23 | 境川

来た道を戻ります。釣り人や岩場を散策する人が。

江の島の浮世絵。切り立った崖。左端に富士山。

        江の島は夕景が素晴らしいらしい。「本日(7月7日)の日没時間、18:50 頃」。

「稚児が淵」の岩場に下りてみます。「岩屋」への回廊を見上げる。

冬の晴れた日の様子の写真を拝借します。

               

岩場に打ち寄せる波。

                              

急な石段を登りきると、さっきまでの霧もすっかり晴れてきました。

江の島を振り返る。

境川の河口。

 

         「藤沢市観光センター」にアニメのポスターが。

当方、この世界にはまったく門外漢なのですが。

劇場アニメ「青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない」

高校二年生の三学期を迎えた梓川咲太。
三年生の先輩であり恋人の桜島麻衣と、峰ヶ原高校で一緒に過ごせる学生生活も残り僅かとなった。
そんななか、長年おうち大好きだった妹の花楓は、誰にも明かしたことのない胸の内を咲太に打ち明ける。
「お兄ちゃんが行ってる高校に行きたい」
それは花楓にとって大きな決意。
極めて難しい選択と知りながらも、咲太は優しく花楓の背中を押すことを決める。
『かえで』から『花楓』へ託された想い。二人で踏み出す未来への物語。

・・・

「青春ブタ野郎」シリーズは累計部数250万部を超える電撃文庫刊行の人気小説を原作として2018年にアニメ化し、2019年に公開された「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」に続き、劇場アニメの2作目が公開となります。小田急沿線の藤沢エリアを中心に物語が展開しており、本企画ではさまざまなシーンで登場する藤沢駅の周辺や市街地、観光スポットの江の島や鎌倉など作品の舞台となった場所を実際に訪れていただくことで劇中の世界の聖地巡礼をお楽しみいただけます。

イベント初日の6月4日(日)には、ヒロイン「桜島麻衣」役の声優・瀬戸麻沙美さんが片瀬江ノ島駅の一日駅長を務め、就任式やホームアナウンスを実施します。    

また期間中、藤沢駅・片瀬江ノ島駅では「桜島麻衣」による劇場アニメ公開記念の特別アナウンスが構内に流れるほか、過去作に登場した「市民図書館」最寄り駅の湘南台駅を加えた3駅でオリジナルうちわを数量限定で配布します。さらに沿線の各駅ではオリジナルコラボポスターを掲出するなど鉄道事業者ならではの企画で作品の公開を盛り上げます。

当社では、さまざまな外部パートナーとの連携を通じ、魅力的なコンテンツと小田急線での移動を組み合わせた「楽しい時間」の提供に取り組んでいます。今後も、連携機会の拡大などにより、多くの方に楽しいお出かけの機会を創出していくとともに、これを通じた地域活性化に寄与してまいります。

オリジナルうちわ(イメージ)オリジナルうちわ(イメージ)

(この項、「小田急電鉄」HPより)

けっこう人気アニメのようです。

小田急江の島線「片瀬江ノ島駅」から帰途につきました。秋空の下で再び訪問しよう!

次はどこを歩くか? この暑さではどこも暑そうですが。

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江の島めぐり。その4。江の島第一・第二岩屋。与謝野晶子。鳴沢氷穴に通じている、とか。龍神、そして七夕飾り。亀石。龍神。

2023-07-11 20:37:54 | 境川

江の島岩屋。 

江の島岩屋は波によって削られて形成された洞窟で、弁財天侵攻及び江島神社発祥の地とされています。弘法大師や日蓮聖人、源頼朝など多くの高僧や武将が岩屋を訪れて、祈願のため、岩屋に籠もったといわれています。・・現在の岩屋は奥行き152mの第一岩屋と56mの第二岩屋に分かれており、第一岩屋は富士山の氷穴につながっていると伝わるなど、数々の伝説が存在する洞窟です。

ロウソクの炎に照らし出された石像や岩壁が神秘の世界に誘ってくれます。

入口でろうそくの火を渡され、片手にろうそくを持って歩いて行きます。ひんやりとしています。途中、頭上が低いところや足もとには水が。

光の加減で、うまく写真を撮ることが出来ませんでした。

与謝野晶子歌碑。

沖つ風 吹けば またたく蝋の灯に 志づく散るなり 江の島の洞

・・・歌集『青海波』(明治45年1月刊行)にあるこの歌は、明治44年7月に詠まれました。それから90年余り、蝋の火は今なお灯され、岩屋を訪れる人の足許を照らしております。

               

この洞窟は、昔から富士山の麓にある鳴沢氷穴に続いているといわれています。

日蓮聖人の寝姿石。

最奥。

左の道を進むと、

海が正面に。

               晴れていれば、遠くに富士山が見える?

7月7日、訪れたときのようす。

七夕飾りに短冊がいっぱい。

いったん外に。第二岩屋に向かいます。

ここから目下の水面を見ると、亀の姿を下石を見ることができます。波に洗われている姿に大きな亀が竜宮城へと帰って行くかのように見えます。この「亀石」は、対岸の片瀬地区にある中村石材の先代、中村亀太郎氏がノミをふるったものであると云われています。

※満潮の時は、水面下に沈んでしまい見えないことがあります。

       

            たしかに海に向かう亀の姿。

第二岩屋。

手元はろうそくで暗いし、足許は濡れているし、奇妙な音がしてくるし、独特の雰囲気。龍神が祀られているようですが。・・・

臆病者の小生。写真も撮らずに退散しました。せめて龍神の写真を拝借。

               (「」より)

こうして第二岩屋を出ます。

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江の島めぐり。その3。稚児ヶ淵。芭蕉句碑。江の島岩屋へ。

2023-07-10 20:45:35 | 境川

目の前が開けてきます。

稚児ヶ淵。

稚児ヶ淵は海水によって削られて比較的平坦になった岩盤が隆起したことによって生まれました。その昔、白菊という名前の稚児がここから身を投げたという話が「稚児ヶ淵」の名前の由来となっています。稚児ヶ淵からは、広がる海と空、富士山の向こうに沈む夕日を一望することができ、その絶景から「かながわの景勝50選」にも選ばれています。また、釣りの名所としても知られており、休日は釣り人でにぎわっています。

残念ながら、海は霞んでいて対岸も見えません。

右手に芭蕉の句碑などいくつか集められています。

           

解説板。

芭蕉の句碑(右から2番目)は、握り飯の半面を押しつぶしたような素朴な碑型の河原石で、「潮墳」の碑と称されて観光客に親しまれています。青緑の色濃い自然石を程よく活用して「疑ふな 潮の花も 浦の春 はせを」と彫りこまれたこの句は二見ヶ丘(三重県)での作ですが、ここの自然環境に溶けあっています。
 佐羽淡齊の詩碑(右から3番目)は野火で碑面が剥落していたものを4代目の子孫が再建したものです。淡齊は上州桐生の人で、大窪詩佛門下の詩人です。全国の名所旧跡を遍歴して百詩碑建立を図り、江の島の碑はその第1号として建てられました。
 服部南郭(右から4番目)の詩碑は、島内では一番古い詩碑で、高さ95cm、幅35cm表に七言詩、背面に文化2年(1805年)これをこれを建立したと識語してあります。南郭は、京都に生まれ、江戸に出て、儒学者荻生徂徠の門に学び、柳沢吉保に仕え、詩文をもって知られた人です。江の島には幾度も来遊し、そのたびごとに、江の島にちなんだ詩をのこしましたが、この詩は南郭の快心の作といわれています。

疑ふ那 潮能花も 浦乃春 はせを

二見浦の夫婦岩を描いた絵の画讃。岩に砕ける潮の花の絵柄はそのまま二見が浦の爛漫の春の景色だということを疑ってはならないというのだが...

※元禄2年(1689)春の作。

※「二見浦の夫婦岩」。(「観光三重」HPより)

下りて来た石段を振り返る。

                  

急な石段を下ります。

              

江の島岩屋に向かいます。「あなたの知らない江の島がここにあります。」

       

左手は切り立った崖。

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江の島めぐり。その2。霞む江の島。べんてん丸は欠航。下道を歩く。江の島市民の家。江の島シーキャンドル。御岩屋道通り。

2023-07-09 19:21:10 | 境川

江ノ島は、霞んでいます。

「べんてん丸」に乗船して、岩屋まで行こうと思いましたが、「本日欠航」。残念!

    バトルボードの練習中。 

岩場の突端に釣り人。 穏やかな海。

神社の下にある「下道」を歩きます。なだらかな上り坂。

※「下道」=朱塗りの大鳥居から右に進む道。

 江の島西側沿いの舗装道路になっていて、地元のバイクなどが路駐してある。

「江の島市民の家」。

        昭和36年(1961)に廃校となった藤沢市立片瀬小学校江ノ島分校の施設を利用。

眼下に海が見えてきます。

                              片瀬漁港。

バトルボードが数隻。

西方向。 

10分ほどで御岩屋道通りへ。 

木喰上人行場窟。

「江の島シーキャンドル」方向。

少し早めの昼食。

「遊覧亭」から。

霞んでいて眺望が開けず。

江の島シーキャンドル。

御岩屋道通り。

頼朝寄進の鳥居。

1182年に源頼朝が奉納したと伝わっています。『吾妻鏡』には、源頼朝が当時奥州一帯で非常に大きな力を持っていた藤原秀衡の追討祈願の為、御窟(今の岩屋洞窟)に弁財天を祀り、鳥居を奉納した事が記されています。後の1189年に源頼朝は奥州に攻め入り、藤原氏を滅ぼしました。現在の鳥居は2004年の台風で破損し、一部心材で補修されたものになります。

力石。

江戸時代に日本一の力持ちと言われた卯之助(岩槻藩)が当神社に奉納したもの。重さ80貫(320㌔)で石には「奉納岩槻卯之助持之八拾貫」と刻まれている。弁財天の祭礼に詣でた人の前で力競技を行った時のものです。

        

            

夏富士や晩籟神を鎮ましむ

※晩籟=夕方の風の音の意味。 

この先、海に向かって急な階段を下っていきます。

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江の島めぐり。その1。湘南モノレール「湘南江の島駅」。江ノ電「江ノ島駅」・小田急「片瀬江ノ島駅」。

2023-07-08 20:59:23 | 境川

7月7日。

今回は、大船駅から「湘南モノレール」で「湘南江の島駅」まで。初めて乗りました。

         懸垂式。

軌道は旧京浜急行自動車専用道路の上空に沿う形で設置されている。この道路は元々大船と江の島海岸を結ぶ普通鉄道線計画が頓挫したために取得済み用地を日本初の自動車専用道路として整備した私道で、モノレール建設当時は京浜急行電鉄によって所有および運営がなされており、軌道敷設にあたってはこの形態が有利に働いたようである。現在では鎌倉市と藤沢市に売却・譲渡され、一般市道に移行している。

この道路には最小曲率半径 25 m、最急勾配 88  という険しい箇所もある。懸垂式モノレールの性能的には、この道路に完全に沿う形での敷設も可能であったが、車両の馬力、平均速度の観点を加味し最急勾配を 74 ‰、最小曲率半径を本線 100 m、駅構内 50 m とした。途中2か所に道路上空を外れてトンネルを設けた箇所も存在する。このような急カーブを駆け抜ける乗り心地や、めまぐるしく変化する車窓の風景が、ジェットコースターにたとえられることもある

建設にあたっては、軌道桁・支柱の製造を三菱重工業横浜造船所(当時)、車両は同三原製作所(同)、変電所三菱電機が担当し、総合監理を三菱地所が行うなど、随所に三菱グループの総合力が活かされている。江の島線の走る鎌倉市の大船から深沢界隈は三菱電機の2事業所を抱える。

(この項、「Wikipedia」より)

路線図。

江の島に向かうには、小田急の「片瀬江ノ島駅」、江ノ電の「江の島駅」、そしてこの路線があります。

前の二つは既にクリアーしました。残りの一つが「湘南モノレール」。

車内のようす。

車窓から。

けっこう曲がりくねり、上ったり下ったりがあり、トンネルも二箇所ほどあったりして、起伏に富んだ路線です。

        

江の島に近づくに連れて、山の方がけっこう霞んでいます。快晴をあてにしてやってきましたが、・・・。はたして?

              

       

終点に。

         湘南モノレール「湘南江の島駅」。

さて、江の島に向かいます。

※「江ノ島」なのか「江の島」なのか。駅名も「江ノ島」と「江の島」が混在。

江ノ電「江ノ島駅」。

藤沢駅に向かう「江ノ電」。

「江の島弁財天道標」。

この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。江の島弁財天道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術を江の島で考案したという杉山検校が寄進したと伝えられ、現在市内外に十数基が確認され、そのうち市内の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。すべて頂部のとがった角柱型で、その多くが正面の弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」左側面に「二世安楽」と彫られています。この文言は江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏極楽への願いが込められています。

この道標は、平成11年(1999)1月、ここより170㍍南の洲鼻(すばな)通りの地下から、道路工事中に発見され、追加の指定を受けたものです。

                湘南すばな通り。

江ノ島には、引き潮の時のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができた(タイダル・アイランド)が、関東大地震で島全体が隆起して以降は、ほぼ地続きである。

弁天橋からの境川。上流。

      橋の向こうには、小田急の「片瀬江ノ島駅」。

3つの路線とも、江ノ島観光だけでなく、地元の生活の密接な足として存在していることに気付かされました。

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7月7日。小暑。鰻・万葉集。七夕。牽牛・織女。ベガ・アルタイル。夏の大三角形。『源氏物語』雨の夜の品定め。

2023-07-07 20:36:41 | 世間世界

今日、7月7日は二十四節気のうち、「小暑」。小暑の頃は、暑さが次第に強まっていく時期にあたります。

この時期は、梅雨の末期で、集中豪雨、最近はゲリラ豪雨と呼ばれる激しい雨が梅雨前線の停滞によって局地的な激しい雨に襲われます。一方で、東京などは晴れ。今年一番の暑さ。ちょっと歩くだけで汗が噴き出るありさま。

七十二侯でいうと、
 
・初侯 7月7日〜7月11日頃

温風至 あつかぜいたる

雲の間から注ぐ陽がだんだんと強くなる頃。 温風とは湿った空気が山を越え、乾いた温かい風となって吹き降ろすフェーン現象のことを表しているとも言われています。

・次侯 7月12日〜7月16日頃

蓮始開 はすはじめてひらく

蓮がゆっくりと蕾をほどき、花を咲かす頃。 水底から茎を伸ばし、水面に葉を浮かべ、綺麗な花を咲かせる蓮ですが、花が開いてから4日目には散ってしまいます。

数年前に「千葉公園」に「大賀ハス」を見に行ったことがあります。千葉市で発見された世界最古の花として、千葉県の天然記念物および、千葉市の市花に制定されています。

 

・末侯 7月17日〜7月22日頃

鷹乃学習 たかすなわちわざをなす

5・6月に孵化した雛が、巣立ちの準備をする頃。 独り立ちができるよう、飛び方を覚え、獲物の捕り方を覚え、「独り」ということを一から学びます。

さすがに都会では鷹を目撃することはありませんが、我が家辺りでも小鳥の鳴き声がしきりに聞こえます。巣立ちする雛もいるのでしょう。近所の工場の屋根にはツバメが巣を作っています。

のものとしては

虫 アゲハチョウ

魚 

野菜 大蒜(にんにく)

行事 祇園祭

(この項、主に「暦生活」HPより)

※「鰻」といえば、今からおよそ1.230年以上昔、『万葉集』にある、大友家持が知人の石麻呂に贈った歌二首が思い浮かびます。

「土用の丑の日(今年は7月20日)に鰻を食べる」という風習。夏場で売れ行きが落ちた鰻屋から相談された蘭学者で発明家の平賀源内が鰻を売るためのキャッチコピーを店先に掲げたところ大繁盛した、ということから始まった、という説が有名ですが、万葉集の時代から鰻は夏場の滋養強壮に最適だったようです。

〈 痩せたる人を嗤咲へる歌二首〉痩せている石麻呂を戯れにからかってみた歌二首

3853: 石麻呂に我れ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻捕り食せ

石麻呂に申し上げよう。夏痩せに良いというものとして鰻があるそうだ。鰻を捕って召し上がれ。

3854: 痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな

いくら痩せすぎているといっても、生きていればこそのはなし。万々が一、鰻を捕ろうとして川に入って流されるなよ。

そして、7月7日は、「七夕」。「五節句」の1つ。 

※五節句は、1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽。

天の川を挟んで向かい合うベガ(織女星)とアルタイル(牽牛星)

(「wikipedia」より)

中国では、7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈った。7月7日に行われた乞巧奠(きこうでん・乞巧とは牽牛・織女の2星に裁縫技芸の上達を祈り、奠とは物を供える祭の意。)と織女・牽牛伝説が関連づけられている。「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」と。

日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた。

(この項、「Wikipedia」参照)

「おり姫星」はこと座の「べガ」のことで、「ひこ星」はわし座の「アルタイル」のこと。

ベガ、アルタイルと、はくちょう座のデネブの三つの一等星を結んだのが「夏の大三角形」。

七夕の晩には、東の空に、明るいベガとアルタイルを見つけることができます。都会では間を流れる天の川を見ることができませんが、ベガとアルタイルはすぐにわかるかな?

夏の大三角形

七夕飾り。

(「向島百花園」にて)

暑中見舞い」を出す時期は小暑から立秋の前日まで(「大暑」までという説などもあるようですが)。立秋(今年は8月8日)以降は「残暑見舞い」となります。

さて、五月雨(梅雨)というと、源氏物語「帚木」の巻・「雨の夜の品定め」が思い浮かびます。

五月雨の夜、17歳になった光源氏のもとに、義兄の頭中将(とうのちゅうじょう)が訪ねてきます。さらに左馬頭(さまのかみ)と藤式部丞(とうしきぶのじょう)も交えて、4人で女性談義をすることになる。この場面は慣例的に『雨夜の品定め』(あまよのしなさだめ)と呼ばれます。この中で、「七夕」にかこつけた話題が出てきます。

「・・・はかなきあだ事をもまことの大事をも、 言ひあはせたるにかひなからず、龍田姫と言はむにもつきなからず、 織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし」
とて、(左馬頭は)いとあはれと思ひ出でたり。(頭)中将、
「その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし。げに、その龍田姫の錦には、またしくものあらじ。はかなき花紅葉といふも、をりふしの色あひつきなく、はかばかしからぬは、露のはえなく消えぬるわざなり。さあるにより、難き世とは定めかねたるぞや」
と、言ひはやしたまふ。

「・・・風流なことでも実生活のことでも、話し合うかいがあり、龍田姫といってもいいほど染色の技能もあり、織姫にも劣らないほど、裁縫の腕も兼ね備え、たいした女であった」と言って、左馬頭は(あっという間に亡くなった)その女をしみじみと思い出している。頭中将は、「その織女のような裁縫の腕はさし置いても、(せめて七夕の)長い契りにあやかりたいものだ。本当に、その龍田姫の錦(染め)以上のものはいないでしょう。それほどでもない花紅葉にしても、折々の季節の色合いとが悪く、はかばかしくないのは、まったく露のごとくあっという間に消えるようなつまらないものだ。そう思うと、良き妻を選ぶのは難しく、決めかねるものだね」と言いはやす。

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歌舞伎鑑賞教室。その7。弁天娘女男白浪/稲瀬川勢揃いの場。歌舞伎名台詞。お嬢吉三(三人吉三廓初買、大川端の場)。与三郎(与話情浮名横櫛、源氏店の場)。・・・

2023-07-06 20:24:21 | お芝居

<稲瀬川勢揃いの場の口上>

舞伎座「團菊祭五月大歌舞伎」第三部。

『弁天娘女男白浪』特別ポスター。(2022・5)。

尾上右近の弁天小僧菊之助、坂東巳之助の南郷力丸、中村隼人の忠信利平、中村米吉の赤星十三郎、そして坂東彦三郎の日本駄右衛門。

                   

日本 駄右衛門

問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情を掛川から金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に廻る配附の盥越し、危ねえその身の境界も最早四十に、人間の定めはわずか五十年、六十余州に隠れのねえ賊徒の首領日本駄右衛門。

弁天小僧菊之助

 さてその次は江の島の岩本院の児あがり、ふだん着慣れし振袖から髷も島田に由井ヶ浜、打ち込む浪にしっぽりと女に化けた美人局、油断のならぬ小娘も小袋坂に身の破れ、悪い浮名も竜の口土の牢へも二度三度、だんだん越える鳥居数、八幡様の氏子にて鎌倉無宿と肩書も、島に育ってその名さえ、弁天小僧菊之助。

忠 信 利 平

 続いて次に控えしは月の武蔵の江戸そだち、幼児の折から手癖が悪く、抜参りからぐれ出して、旅をかせぎに西国を廻って首尾も吉野山、まぶな仕事も大峰に足をとめたる奈良の京、碁打と言って寺々や豪家へ入り込み、盗んだる金が御嶽の罪科は、蹴抜の塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなし、後を隠せし判官の御名前騙りの忠信利平。

赤 星 十三郎

 またその次に列なるは、以前は武家の中小姓、故主のために切り取りも、鈍き刃の腰越や砥上ヶ原に身の錆を磨ぎなおしても抜き兼ねる、盗み心の深翠り、柳の都谷七郷、花水橋の切取りから、今牛若と名も高く、忍ぶ姿も人の目に月影ヶ谷神輿ヶ嶽、今日ぞ命の明け方に消ゆる間近き星月夜、その名も赤星十三郎。

南 郷 力 丸

 どんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯馴の松の曲りなり、人となったる浜そだち、仁義の道も白川の夜船へ乗り込む船盗人、波にきらめく稲妻の白刃に脅す人殺し、背負って立たれぬ罪科は、その身に重き虎ヶ石、悪事千里というからはどうで終いは木の空と覚悟は予て鴫立沢、しかし哀れは身に知らぬ念仏嫌えな南郷力丸。

歌舞伎名台詞をいくつか。

お嬢吉三三人吉三廓初買、大川端の場)

月も朧に白魚の 篝も霞む春の空
つめてぇ風もほろ酔いに 心持ちよくうかうかと
浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で
棹の雫か濡れ手で粟 思いがけなく手に入る百両
ほんに今夜は節分か
西の海より川のなか 落ちた夜鷹は厄落とし
豆沢山で一文の 銭と違って金包み
こいつぁ春から縁起がいいわぇ

与三郎(与話情浮名横櫛、源氏店の場)

与三郎:え、御新造さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、
    いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。
お 富:そういうお前は。
与三郎:与三郎だ。
お 富:えぇっ。
与三郎:おぬしぁ、おれを見忘れたか。
お 富:えええ。
与三郎:しがねぇ恋の情けが仇 命の綱の切れたのを
    どう取り留めてか 木更津から めぐる月日も三年越し
    江戸の親にやぁ勘当うけ よんどころなく鎌倉の 谷七郷は喰い詰めても
    面に受けたる看板の 疵がもっけの幸いに 切られ与三と異名をとり
    押借り強請やぁ習おうより 慣れた時代の源氏店
    そのしらばけか黒塀の 格子造りの囲いもの
    死んだと思ったお富たぁ お釈迦さまでも気がつくめぇ
    よくまぁ おぬしぁ 達者でいたなぁ
    安やい これじゃぁ一分じゃぁ 帰られめぇじゃねぇか

※「安」=蝙蝠安。

清心(花街模様薊色縫、百本杭川下の場)

しかし、待てよ。今日十六夜が身を投げたのも、
またこの若衆の金を取り殺したことを知ったのは、
お月さまとおればかり。
人間わずか五十年、首尾よくいって十年か二十年がせきの山。
つづれをまとう身の上でも金さえあればできる楽しみ、
同じことならあのように騒いで暮らすが人の徳。
ひとり殺すも千人殺すも、取られる首はたったひとつ。
とても悪事をし出したからは、これからは夜盗家尻切り、
人の物はわが物と栄耀栄華をするのが徳。
こいつぁめったに死なれぬわぇ。

揚巻(助六由縁江戸桜)

こりゃ意休さんでもない、くどいこと言わんす。
お前の目を忍んでな、助六さんに逢うからは、
客さん方のまんなかで、悪態口はまだなこと、
叩かりょうが踏まりょうが、手にかけて殺さりょうが、
それが怖うて間夫狂いがなるものかいなぁ。
慮外ながら揚巻でござんす。
男を立てる助六が深間、鬼の女房にゃ鬼神がなると、
今からがこの揚巻が悪態の初音。
意休さんと助六さんをこう並べて見た所が、
こちらは立派な男ぶり、こちらは意地の悪そうな顔つき。
例えて言おうなら雪と墨。
硯の海も鳴戸の海も、海という字にふたつはなけれど、
深いと浅いは間夫と客。間夫がなければ女郎は闇。
暗がりで見ても助六さんと意休さんを取り違えてよいものかいなぁ。
たとえ茶屋舟宿の異見でも、親方さんの詫び言でも、
小刀針でもやめぬ揚巻が間夫狂い。
さぁ、切らしゃんせ。
たとえ殺されても、助六さんのことは思い切れぬ。

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歌舞伎鑑賞教室。その6。歌舞伎十八番のうち『暫』。つらね・見栄を切る・六方を踏む。・・・。観客を飽きさせないお芝居。

2023-07-05 20:54:00 | お芝居

舞台は鶴岡八幡宮、清原武衡が関白の宣下を受け、天下を手中に収めたかのように思い上がった様子。鯰坊主の震斉、女鯰の照葉、成田五郎ら臣下たちが居並ぶ。

                           

そこへ加茂次郎義綱が許婚の桂の前たちを連れ立って登場する。朝廷の繁栄を祈願するため大福帳(商家で使われる帳簿)を掛額に収めて奉納にきた。

加茂家をかねてからこころよく思っていない武衡は義綱に難くせをつける。「商人が使う卑しきものを奉納するとは神社を冒涜するのか」と掛額を引きおろし、はては「桂の前を差し出して家臣になれ」などと無理難題を浴びせる。
うんと言わぬ「義綱」に腹を立て「ならぬなら首をはねてしまうぞ」と腹出したちに命じて義綱ら一同を斬り殺そうとする。

まさに絶体絶命の瞬間、花道の登場口、揚幕(あげまく)の向こうから「しばらく!」と大きな声。ムカデのようなカツラ(車鬢(くるまびん))、真紅の筋隅(すじくま)、柿色の凧のようなものがついた巨大な衣装をまとい、2mを超える大太刀を差した恐ろしげな大男が登場する。

「成田屋」の屋号。

               

驚く敵方が名前を尋ねると、男は花道の七三(しちさん)まで来て立ち止まり「鎌倉権五郎景政」と名乗る。

思わぬ邪魔者で苦々しい武衡は「追い払え」と命令する。家来たち(鯰坊主・腹出し・成田五郎など)が代わる代わる、おどしたりなだめたり、力づくでかかったりするが、男はびくともせず、ずんずん舞台中央まで進む。

           

そして鎌倉権五郎は武衡が奉納した宝剣はニセモノで朝廷を呪う仕掛けがしてあるとか、加茂家が探している「探題の印」を盗んだのは武衡の者だ、今すぐ返せと武衡の悪事を暴き立てて詰め寄る。

すると急に、女鯰の照葉が寝返る。

実は女鯰は始めからスパイ。いつの間にか「探題の印」を奪い、宝剣もホンモノを見つけ出していた。女鯰は印と宝剣を鎌倉権五郎に渡す。家宝が手元に戻り、御家は安泰と喜ぶ加茂家一同。

    

            

最後の悪あがきで討ちかかってくる敵方を、鎌倉権五郎は大太刀を一振りなで斬りにして、

             

                    

「弱虫めら」と捨てぜりふを残して、意気揚々と花道を引き上げて行く。

           

 「暫」はストーリー(筋書き)は単純だが、歌舞伎的に演出された様式とその迫力を楽しむ演目。

主人公・鎌倉権五郎が登場するとき、「しーばーらーくー!」という大音声が聞こえてくると、敵方はみな何事かと慌てふためきます。

登場した権五郎は、なかなか本舞台に上がってこないで、花道の上で威勢のいい「つらね」と呼ばれる長セリフを披露します。そして敵方の鯰坊主の要求に対して、「いーやーだー!」とまるで子供のような無邪気さで答えます。

敵方が「あーりゃ、こーりゃ」という、化粧声と呼ばれる荒事特有の掛け声をかけて、なぜかヒーローの登場を盛り上げるのも面白い趣向となっており、最後は敵を倒した権五郎の「よーわーむーしーめーらー!」という爽快な捨て台詞が舞台に響きわたり、「ヤットコトッチャ、ウントコナァ」という掛け声と共に花道を引き上げていく。

衣装の豪快さ

主人公の鎌倉権五郎の巨大な衣装の総重量は、なんと60キロ!とにかく動くのも大変そうな重装備ですが、上から順に説明していきます。

  1. 呪力を宿した力の象徴でもある白い「力紙ちからがみ
  2. 前髪は少年である印。本来は中心から分かれているが、「わけ櫛」で分け目にしている
  3. 車海老をイメージした「五本車鬢ごほんくるまびん」という髪型
  4. 隈取は荒事の典型的な最も力強い「筋隈すじぐま
  5. 結び目の先端や輪っかを上にピンと跳ね上げた「はねだすき
  6. 袖は成田屋の家紋の三升の紋を染め抜いた「大紋
  7. 7尺(2メートル)はあろうかという黒塗りの「大太刀
  8. 高さ30センチもある「継ぎ足

江戸歌舞伎の1年間の興行の始まりは11月の「顔見世(かおみせ)」だった。役者たちが舞台で一堂に会し、一座の新しい顔ぶれを観客に披露する年中行事で、「顔見世」では悪人に殺されそうになる善人を、「しばらく」の声とともに正義の味方が登場し、窮地を救う場面が組み込まれる習わしがあった。明治に入り、この場面を独立させて1幕ものとなったものが「暫」。

            


 つらね

主に荒事の主役が花道で長々と述べるせりふのことをいい、歌舞伎独特の闊達な雄弁術。歌舞伎十八番『暫』の鎌倉権五郎がもっとも代表的なところです。

江戸の芝居では毎年11月の顔見世狂言として必ず『暫』が上演され、その際のつらねは必ずその役者が書くというのが決まりでしたが、実はそれも名目上で実際は座付の作者が書いていたようです。

冒頭には「東夷南蛮北狄西戎(とういなんばんほくてきせいじゅう)、天地乾坤四夷八荒(てんちけんこんしいばっこう)の隅々まで、鳴り響いたる歌舞伎の華」といった少々難解な美文が並びますが、言葉の流れと勢いで観客を魅了します。

みえを切る

見得とは、演目の見せ場で役者がポーズを決めて静止し、首を回したり目玉を中央に寄せたりする動作全体を指す。これは、役者自身やその場面を客に印象付ける効果、舞台全体を美しく演出する効果がある。

六方を踏む

手足の動きを誇張して、歩いたり走ったりする様子を象徴的に表現した演出です。おもに「荒事(あらごと)」の役が「花道(はなみち)」を引込む時に演じられ、力強さと荒々しさを観客に強く印象付けます。

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歌舞伎鑑賞教室。その5。歌舞伎18番のうち『外郎売(ういろううり)』。2019年歌舞伎座7月公演。市川海老蔵、勸玄親子の競演。ういろう。

2023-07-04 20:30:15 | お芝居

歌舞伎十八番とは、歌舞伎界の宗家とも呼ばれる市川團十郎家のお家芸として制定された、以下に示す歌舞伎の18演目のことです。

  1. 勧進帳(かんじんちょう)
  2. 助六(すけろく)
  3. 暫(しばらく)
  4. 矢の根(やのね)
  5. 毛抜(けぬき)
  6. 鳴神(なるかみ)
  7. 不動(ふどう)
  8. 外郎売(ういろううり)
  9. 押戻(おしもどし)
  10. 景清(かげきよ)
  11. 解脱(げだつ)
  12. 不破(ふわ)
  13. 象引(ぞうひき)
  14. 七つ面(ななつめん)
  15. 関羽(かんう)
  16. 嫐(うわなり)
  17. 蛇柳(じゃやなぎ)
  18. 鎌髭(かまひげ)

歌舞伎十八番は、7代目市川團十郎【いちかわだんじゅうろう】によって1832年(天保【てんぽう】3年)に定められました。初代から4代目までの團十郎が、初めて演じてしかも得意にしていた18の作品を集めたものです。
 その内容は、一番新しい作品でも当時から50年も前に上演されたものでした。そのため、先祖の團十郎が得意にしていたことはわかっていても、作品の中味がはっきりしないものも多く含まれています。例えば、『関羽【かんう】』や『蛇柳【じゃやなぎ】』などです。これらの作品は、後に復活されていきます。
 代々の團十郎は荒事を最も得意としたため、歌舞伎十八番の役はほとんどが荒事です。

歌舞伎十八番が制定されたのは江戸時代の天保3年(1832年)の3月に、七代目市川團十郎によって「歌舞妓狂言組十八番かぶききょうげんぐみじゅうはちばん」(伎ではなく妓)が発表されたことが起源となっています。

当時から江戸歌舞伎を代表する家系であった市川團十郎家ですが、七代目團十郎はさらに権威を高めたいと考えました。

そこで息子に八代目市川團十郎を襲名させるのに合わせて、市川家が代々得意としてきた17の演目に七代目自らが始めた「勧進帳」を加えた18演目を「歌舞妓狂言組十八番」という名称を付けて世間に公表したのです。

これは市川團十郎家が代々演じてきた荒事の「家の芸」というものを改めて世間に認識させ、はっきりとわかる形で代々受け継がせていきたいという狙いもありました。そしてその狙いは功を奏し、今では「歌舞伎十八番」という名称で市川團十郎家のお家芸として広く知られるようになりました。

得意なことを「十八番(おはこ)」というのは歌舞伎十八番から?

市川團十郎家にとってなくてはならないお家芸として制定されたのが歌舞伎十八番です。

この18演目は箱に納めて封印され、安易に披露するものではないとされたので、そこから「おはこ」と呼ばれるようになり、後に得意なことを「十八番(おはこ)」と表現するのはこれが起源だという説がありますが、これは間違いです。

この件について演劇評論家の赤坂治績氏は以下のように指摘します。

「おはこ」という読み方は歌舞伎十八番が制定された天保3年(1832年)以前から使われていた。・・・(中略)・・・台本を木の箱に入れて取っていたという説も無意味である。江戸時代は3年に一度くらい大火があった、・・・(中略)・・・火事になれば箱も台本も燃えてしまう。

「おはこ」とは本来は美術品などの鑑定書を、その箱の蓋に貼って本物だと証明していた「箱書付」が略されたものであり、「正しいと認定された」という意味で使われていました。

歌舞伎十八番の人気が高まるにつれて、段々と「十八番」を「おはこ」と呼ぶようになり、意味も「得意芸」というふうに変わっていったのではないでしょうか。

(この項、「」HPより)

その一つ、外郎売(ういろううり)

外郎売は、実は曽我の五郎時致です。
 大磯の廓で酒宴を張る工藤祐経のもとに、小田原名物の外郎売に身をやつした五郎がやってきます。兄、十郎祐成と共に父の敵である祐経を討とうとつけ狙っていたのです。
 素性を隠して外郎の商いを始めた五郎は、隙をついて祐経を討とうとするものの止められてしまいますが、祐経は曽我兄弟の親を思う気持ちに心打たれ、後日改めて勝負することを約束するのでした。

第一節

拙者親方せっしゃおやかたと申すは、お立会たちあいうちに、御存ごぞんじのお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方にじゅうりかみがた相州小田原一色町そうしゅうおだわらいっしきまちをお過ぎなされて、青物町あおものちょうを登りへおいでなさるれば、欄干橋虎屋藤衛門らんかんばしとらやとうえもん只今ただいま剃髪致ていはついたして、円斉えんさいと名のりまする。

元朝がんちょうより、大晦日おおつごもりまで、お手に入れまする此の薬は、昔ちんの国の唐人とうじん外郎ういろうという人、わがちょうへ来たり、みかど参内さんだいの折りから、この薬を深くめ置き、もちゆる時は一粒いちりゅうずつ、かんむりのすき間より取り出だす。

よってその名を帝より、透頂香とうちんこうたまわる。即文字すなわちもんじには「いただき、く、におい」と書いて「透頂香とうちんこう」と申す。

只今はこの薬、ことほか世上せじょうひろまり、方々ほうぼう偽看板にせかんばんだし、イヤ、小田原おだわらの、灰俵はいだわらの、さんだわらの、炭俵すみだわらのと、いろいろに申せども、平仮名ひらがなをもって「ういろう」と記せしは、親方円斉おやかたえんさいばかり。

もしやお立会いのうち熱海あたみ塔の沢とうのさわへ、湯治とうじにお出なさるるか、または伊勢御参宮いせごさんぐうの折からは、必ず門違かどちがいいなされまするな。

のぼりならば右のかた、おくだりなれば左側、八方はっぽう八つ棟やつむねおもて三つ棟みつむね玉堂造ぎょくどうづくり。

破風はふには菊にきりとう御紋ごもん御赦免ごしゃめんあって、系図けいず正しき薬でござる。

第二節

イヤ最前さいぜんより家名かめい自慢じまんばかり申しても、ご存知ぞんじない方には、正身しょうしん胡椒こしょう丸呑まるのみ、白河夜船しらかわよふね、さらば一粒食いちりゅうたべかけてその気味合きみあいをお目にかけましょう。

先ずこの薬をかように一粒舌いちりゅうしたの上にのせまして、腹内ふくないおさめまするとイヤどうも言えぬは、しんはいかんがすこやかになりて薫風候くんぷうのどより来たり、口中微涼こうちゅうびりょうしょうずるがごとし。

魚鳥ぎょちょうきのこ麺類めんるいの食い合わせ、その外、万病速効まんびょうそっこうある事神ことかみごとし。

さて、この薬、第一の奇妙きみょうには、舌のまわることが、銭独楽ぜにごまがはだしで逃げる。ひょっと舌がまわり出すと、矢もたてもたまらぬじゃ。

第三節

そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわってきたわ、まわってくるわ。

アワヤのど、サタラナぜつに、カ歯音しおん、ハマの二つはくちびる軽重けいちょう開合かいごうさわやかに、あかさたなはまやらわ、おこそとのほもよろお。

一つへぎへぎに へぎほし はじかみ、盆豆ぼんまめ 盆米ぼんごめ ぼんごぼう、摘蓼つみたで 摘豆つみまめ 摘山椒つみさんしょう書写山しょしゃざん社僧正しゃそうじょう粉米こごめ生噛なまがみみ 粉米こごめ生噛なまがみみ こん粉米こごめ小生噛こなまがみ、繻子しゅす緋繻子ひじゅす繻子しゅす繻珍しゅっちん、親も嘉兵衛かへい 子も嘉兵衛かへい、親かへい子かへい 子かへい親かへい、古栗ふるぐりの木の古切口ふるきりぐち雨合羽あまがっぱ番合羽ばんがっぱか、貴様の脚絆きゃはん皮脚絆かわぎゃはん、我等が脚絆きゃはん皮脚絆かわぎゃはん、しっ皮袴かわばかまのしっぽころびを、三針みはりはりながにちょとうて、ぬうてちょとぶんだせ、河原撫子かわらなでしこ 野石竹のせきちく、のら如来にょらい のら如来にょらい のら如来にょらいのら如来にょらい

一寸先いっすんさきのお小仏こぼとけに おけつまずきゃるな、細溝ほそみぞにどじょにょろり。

京の生鱈なまだら 奈良生学鰹ならなままながつお、 ちょと四五貫目しごかんめ、お茶立ちゃたちょ 茶立ちゃたちょ ちゃっとちょ茶立ちゃたちょ、青竹茶筅あおたけちゃせんでおちゃちゃっとちゃ。

第四節

来るは来るは何が来る、高野こうやの山の おこけら小僧こぞう狸百匹たぬきひゃっぴき 箸百膳はしひゃくぜん 天目百杯てんもくひゃっぱい 棒八百本ぼうはっぴゃっぽん

武具ぶぐ馬具ばぐ・ぶぐ・ばぐ・ぶぐばぐ、合わせて武具ぶぐ馬具ばぐぶぐばぐ、きくくり・きく・くり・三菊栗みきくくり、合わせてきくくり六菊栗むきくくりむぎ・ごみ・むぎ・ごみ・むぎごみ、合わせてむぎ・ごみ・むぎごみ。

あの長押なげし長薙刀ながなぎなたは、長薙刀ながなぎなたぞ。

向こうの胡麻ごまがらは 胡麻ごまがらか、真胡麻まごまがらか、あれこそほんとの真胡麻殻まごまがら

がらぴいがらぴい風車かざぐるま、おきゃがれこぼし おきゃがれ小法師こぼうし、ゆんべもこぼして 又こぼした。

たあぷぽぽ、たあぷぽぽ、ちりから、ちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一干いっひだこ、落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食わぬ物は、五徳鉄灸ごとくてっきゅう かな熊童子ぐまどうじに、石熊いしぐま 石持いしもち 虎熊とらぐま とらきす、中にも東寺とうじ羅生門らしょうもんには、茨木童子いばらきどうじがうで栗五合くりごんごうつかんでおしゃる。

頼光らいこう膝元去ひざもとさらず。

第五節

ふな金柑きんかん椎茸しいたけ、さだめて後段ごだんな、そば切り、そうめん、うどんか、愚鈍ぐどん小新発知こしんぼち小棚こだなの、小下こしたの、小桶こおけに、こ味噌みそが、こるぞ、小杓子こじゃくし、こって、こすくって、こよこせ、おっと合点がってんだ、心得こころえたんぼの川崎かわさき神奈川かながわ程ガ谷ほどがや戸塚とつかは、走って行けば、やいとをりむく、三里さんりばかりか、藤沢ふじさわ平塚ひらつか大礒おおいそがしや、小磯こいその宿を七ツ起ななつおきして、早天早々相州小田原そうてんそうそうそうしゅうおだわらとうちんこう、かくれござらぬ貴賎群衆きせんぐんじゅの、花のお江戸の花ういろう、あれあの花を見てお心を、おやわらぎやという。

産子うぶこう子に玉子まで、外郎ういろう御評判ごひょうばん、ご存知ないとは申されまいまいつぶり。

角出つのだせ、棒出ぼうだせ、ぼうぼうまゆに、うすきね・すりばち、 ばちばちくわばらくわばらと、羽目はめはずして今日こんにちでの何れも様いずれもさまに、上げねばならぬ売らねばならぬと、息勢引いきせいひっぱり、東方世界とうほうせかいくすり元締もとじめめ、薬師如来やくしにょらい上覧しょうらんあれと、ホホうやまって、ういろうは、いらっしゃりませぬか。

※高校演劇などでも、滑舌の練習としても重用されています。

※2019年・歌舞伎座「七月大歌舞伎」、昼の部の『外郎売』の特別ポスター。市川海老蔵(現:団十郎、勸玄(現:新之助)親子の競演。当時、大きな話題となりました。

  

                                  (「」HPより)

※外郎とは元来、小田原の外郎家が製造・販売する薬を指し和菓子のういろうはその口直しのために出されたと伝えられる。

以下、旧東海道歩きのとき、「小田原宿」の記事を再掲。

「小田原宿」。右手に大きな「お城」が。これが有名な「ういろう(外郎)本舗」。売られているのは漢方薬「ういろう」と、同名の和菓子「ういろう」。漢方薬は直径2ミリほどの銀色の粒。一方の和菓子は米粉から作ったようかんのような蒸し菓子だ。




ういろう(外郎)は、神奈川県小田原市の外郎家で作られている大衆薬の一種。仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。
 14世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。陳宗敬は明王朝を建国する朱元璋に敗れた陳友諒の一族とも言われ、日本の博多に亡命し日明貿易に携わり、輸入した薬に彼の名が定着したとされる。
 室町時代には宗敬の子・宗奇が室町幕府の庇護において京都に居住し、外郎家(京都外郎家)が代々ういろうの製造販売を行うようになった。戦国時代の1504年(永正元年)には、本家4代目の祖田の子とされる宇野定治(定春)を家祖として外郎家の分家(小田原外郎家)が成立し、北条早雲の招きで小田原でも、ういろうの製造販売業を営むようになった。小田原外郎家の当主は代々、宇野藤右衛門を名乗った。後北条家滅亡後は、豊臣家、江戸幕府においても保護がなされ、苗字帯刀が許された。なお、京都外郎家は現在は断絶している。
 江戸時代には去痰をはじめとして万能薬として知られ、東海道・小田原宿名物として様々な書物やメディアに登場した。『東海道中膝栗毛』では主人公の喜多八が菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを食べてしまうシーンがある。
 歌舞伎十八番の一つで、早口言葉にもなっている「外郎売」は、曾我五郎時致がういろう売りに身をやつして薬の効能を言い立てるものである。これは二代目市川團十郎が薬の世話になったお礼として創作したもので、外郎家が薬の行商をしたことは一度もない[3]。
 ういろうを売る店舗は城郭風の唐破風造りの建物で、一種の広告塔になったが、関東大震災の際に倒壊し、再建されている。
現在も外郎家が経営する薬局で市販されているが、購入には専門の薬剤師との相談が必要である。

東海道中膝栗毛』(主人公は「弥次さん」「喜多さん」)。

 喜多「おやここのうちは、屋根にだいぶ凸凹があるうちだ」

 弥次「これが名物のういろうだ」
 
 喜多「ひとつ買ってみよう。うまいかな」
 
 弥次「うまいだろうよ。あごがおちるくらいだ」
 
 喜多「おや、餅かと思ったら、薬だ」

 弥次「はははは、こういうこともあろうか。
    ういろうを餅かとうまくだまされてこは薬じゃと苦いかほ(顔)する」
     
 小田原外郎家では「お菓子のういろう」と呼ばれ、ういろう(外郎)薬と区別されている。「白・茶・小豆・黒」と「栗ういろう」がある。
 小田原外郎家は元々薬屋であったため、ういろうに付いてくる説明書きには、胃腸の弱かったり病後の人間や成長期の子供、産婦なども安心して食べられる「栄養菓子」と記載されている。なお小田原城近くの本舗(本店)は、和菓子店や薬局として営業しているほか、1885年(明治18年)の蔵を利用した小規模の博物館を併設している。

 名古屋のういろうの老舗 青柳総本家 1879年(明治12年創業)が製造販売する「青柳ういろう」は、日本一の販売量を誇る。
 砂糖(しろ)・黒砂糖(くろ)・抹茶・小豆(上がり)・さくらのほか、さまざまな種類が楽しめる。「青柳」の屋号は徳川慶勝から贈られた。1931年(昭和6年)に名古屋駅の構内とプラットホームでういろうの立ち売りを始めた。
 1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開通した後は、青柳ういろうだけが全列車内での車内販売を許されたことから、名古屋ういろうが全国的に知られるようになった。
 昭和43年に業界に先駆けてういろうのフィルム充填製法を開発。ういろうの包装技術を進化させることで、出来たての風味を閉じ込めういろうの日持ちを伸ばすことに成功し、ういろうの土産需要に貢献した。昭和56年には業界初のひとくちサイズのういろうを発売。 青柳ういろうの有名なローカルCMソングは多くの人に親しまれている。

(以上、「Wikipedia」参照)

「ういろう」(餅菓子)は、名古屋の「青柳総本家」が製造販売する「青柳ういろう」だとばかり思っていた小生。初めて知りました。実はそれほどうまいものという印象はないが。

近所のスーパーで売っていました。

  ・・・

(「」HPより)

 

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歌舞伎鑑賞教室。その4。舞踊『京鹿子娘道成寺』。西川寛。変幻豊かで、迫力のある踊り。

2023-07-03 21:30:58 | お芝居

歌舞伎には、「道成寺物(どうじょうじもの)」とよばれる作品群があります。これらの作品は、能の『道成寺』から、鐘供養に訪れた女性が舞を披露し、恨みの表情で鐘に飛び込む、という枠組みを取り入れています。「道成寺物」は、元禄年間(1688年~1704年)から上演されるようになりますが、それらの作品を集大成したのが、1753(宝暦3)年に初代中村富十郎(なかむらとみじゅうろう)が初演した『京鹿子娘道成寺』です。

今回は、日本舞踊西川流家元 西川寛による「京鹿子娘道成寺」。

1時間近くを1人の女方が踊りぬく女方舞踊の大曲。

白拍子(しらびょうし=歌舞を生業とする遊女)の花子が道成寺の鐘供養に訪れ、舞を次々に披露するうちに鐘に飛び込み、蛇体となって現れるという設定ですが、内容はいくつかの部分に分けられ、恋にまつわるさまざまな女性の姿を踊り分けることが主眼となっています。

聞いたか坊主

舞台は桜花爛漫の紀州(今の和歌山県)道成寺。所化(しょけ=修行中の僧)たちが「聞いたか聞いたか」「聞いたぞ聞いたぞ」と繰り返して登場。今日は焼け落ちた鐘楼の鐘が再興され、鐘の供養が営まれるのだが、師匠の長い御経を聞くのが憂鬱なので何か気晴らしの打開策を巡らしている。

いざ道成寺へ

道成寺からほど近い小松原。振袖姿の娘・花子が道を急いでいる。ふと袂や裾の乱れた自分の姿に気づいて恥ずかしがり、やがて恋人との逢瀬を回想。朝の別れの時を告げる鐘の音が憎らしいと、鐘への恨みを覗かせ、道成寺へ向かう。

花子の頼み

美しい花子の訪問に所化たちは大騒ぎ。花子は白拍子で、鐘を拝ませて欲しいと頼む。鐘供養は女人禁制だが、所化たちの禅問答のような問いかけに花子が見事に答えたので、所化たちは舞を舞うことを条件に寺の中に入ることを許す。

白拍子の舞

                                           

花子は赤の振袖姿になり、烏帽子をつけ中啓(扇の一種)を手に舞い始める。能の趣を取り入れた厳かな場面。夕暮れに響く鐘の音から、初夜(午後八時)の鐘は諸行無常と響く…など時を告げる鐘の音を世の無常になぞらえた歌詞で舞う。

                  

町娘の踊り

花子は烏帽子を脱ぎ、能仕立の舞から離れて、ぱっと華やいだにぎやかな歌舞伎の踊りになる。恋に乱れる女心とつれない男の心を歌った歌詞を手踊り(小道具を使わない踊り)で軽やかに綴り、「引き抜き」という手法で一瞬にして赤の衣裳から水浅葱(薄水色)の衣裳に変わる。ここから、つぎつぎと衣裳も小道具も歌も趣向を変えながら、さまざまな恋の踊りが続いていく。

一旦引っ込み、上半身だけ鴇色(ときいろ=薄いピンク)の衣裳になる。赤の笠をかぶった愛らしい娘の姿で、「振り出し笠」(一つの笠を降り出すと三つの笠が連なる仕掛けの笠)を使い可憐に踊る。「梅と桜はどちらが兄か弟かわからない」というかつての流行歌「わきて節」がのどかな趣。

所化も浮かれて

所化たちも肌脱ぎをし花傘を持って踊り出す。

赤の襦袢に卵色の股引を見せた坊主たちの楽しい群舞で、「菖蒲と杜若はどっちが姉か妹かわからない」という歌詞で踊る。

花子は藤色の衣裳で、手拭いを使いしとやかに踊る。

花子は藤色の衣裳で、手拭いを使いしとやかに踊る。恋する思いをかき口説く「クドキ」と呼ばれる眼目の場面。「貴方のために綺麗にお化粧したのに…」とじれたり、ちょっとした言葉に喜んだり、「一緒になろうと約束したのは嘘なのだろうか」と悩み、嫉妬して泣いたり…と恋する娘に共通する思い、女心の切なさが情緒たっぷりに描かれる。

羯鼓を打つ娘

上半身を卵色の衣裳に替え、富士山に吉野山、嵐山、中山、石山、…と、山の名前が読み込まれた「山尽くし」で展開。「末の松山いつか大江山」「恋路に通う浅間山」と恋歌の趣ある詞章で、羯鼓(かっこ=腰に付けて撥で打つ鼓)を打ちながら軽快に踊る。羯鼓を打つ音と足拍子のリズムが耳にも楽しい。

歩きながらスーッと「引抜き」白の衣裳になり、鈴太鼓(振り鼓ともいう)を使って踊る。二つの鈴太鼓を打ち付ける音、中の鈴のジャラジャラした音、足拍子などの音の複合が楽しい場面。田植え歌で、夢中になって鈴太鼓を床にうちつけてドコドコ音をさせるうちに、いつしか花子の顔色が変わり…。

鐘入

                           

鐘をきっと見上げる花子。制する所化たちを振り払い、鐘に上る。上に被せた赤の衣裳を取り去り蛇体の本性を表す「鱗模様」の衣裳になり、鐘の上から所化たちをキッと見下ろして幕となる。かつて恋する男を隠した憎い鐘に、再び巻き付いて執念をあらわにするのだ。

西川寛

日本舞踊5大流派の1つ「西川流」宗家直門師範 扇若会会主

1982年横浜市生まれ 幼少時より父、西川扇三郎 祖母、西川扇豊より指導をうけ、18歳の時西川流の名取を戴く。以降人間国宝である西川扇藏師に指導をうけ、本格的に日本舞踊家の道に進む。 歌舞伎座 国立劇場等多数の舞台に出演する一方、芸者衆をはじめとする弟子の育成に力を入れている。 テレビ等での所作指導も担当。現在、新宿(東京)柏(千葉)守谷(茨城)会津若松(福島)にて指導中。

(「西川寛オフィシャルサイトより)

※5大流派=花柳、若柳、西川、坂東、藤間流

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歌舞伎鑑賞教室。その3。『高尾懺悔』。坂東玉三郎。引退宣言。猿之助。

2023-07-02 20:34:11 | お芝居

鉦鼓の音も澄みわたり 名もなつかしき宮戸川 都鳥も声添へて 
南無阿弥陀仏みだ仏 浅茅が原のさうさうと 風冷やかに身にぞしむ 
不思議や紅葉の影添ひて 塚のうしろにすごすごと 高尾が姿あらはれて 

もみぢ葉の 青葉に茂る夏木立 春は昔になりけらし 
世渡る中の品々に 我は親同胞の為に沈みし恋の淵 浮びもやらぬ流れのうき身 
憂いぞつらいぞ勤めの習ひ 煙草呑んでも煙管より 咽喉が通らぬ薄煙 
泣いて明かさぬ夜半とてもなし 人の眺めとなる身はほんに 
辛苦万苦の苦の世界 四季の紋日は小車や 

先づ春は花のもと 手折りし枝を楽しみて 何処に眺むる春の風 
そよりそよりと花吹き散らす ちらりちらりと桜の薫り 野山を写す廓景色 
夏のあけぼの有明の つれなく見えし別れ鳥 ほぞんかけたと囀るは 
死出の田長や冥途の鳥と 鳴き明かす 籠の鳥かや怨めしや 
秋の夜長に牡丹花の 灯籠踊の一節に 
残る暑さを凌がんと 大門口の黄昏や いざ鈴虫を思ひ出す 
つらい勤めのその中に 可愛男を待ち兼ねて 暮松虫を思ひ出す 
虫の声々かはゆらし 我れが住家は草葉にすだく 
露を枕に触らば落ちよ 泣いて夜毎の妻ほしさうに 殿子恋しき機織虫よ 
露を枕に触らば落ちよ 泣いて夜毎の妻ほしさうに 殿子恋しき機織虫よ 
昼は物憂き草の蔭 

早時来ぬと云ふ声も 震ひわななき身に沁みわたり どろどろどろ 仇と怨と情の思ひ 
追ひめぐり 追ひめぐり 震動稲妻凄まじく 
無残や高尾は世の人の 思ひをかけし涙の雨 
はんらはんら はらはら はらはら 降りかかれば 身に沁みたへて 木蔭に寄れば 
刃の責に煩悩の 犬も集まり 牙を鳴らして飛びかかる 
こは情なや牛王の烏 嘴を鳴らして羽をたたき 眼を抜かんと舞ひ下る 実に恐ろしき物語

        

              

             

坂東玉三郎、突然の引退表明の背景に猿之助騒動? 「元弟子からセクハラ問題で訴えられた過去が」

デイリー新潮6/25(日)10:57

坂東玉三郎、突然の引退表明の背景に猿之助騒動? 「元弟子からセクハラ問題で訴えられた過去が」

23年目のヤブヘビ

“猿之助ショック”を引きずる歌舞伎界で、大物役者の発言が波紋を広げている。

「主は坂東玉三郎(73)。自身のプロデュース公演『坂東玉三郎 PRESENTS PREMIUM SHOW』に関する、今月5日の記者発表での発言でした」

 とは歌舞伎担当記者。

「公演は9月。会場は東京・南青山のBAROOMで、バーも併設されている100席ほどの小規模なミュージックホールです。玉三郎は“体力的に歌舞伎座など大劇場で公演を行うのが難しくなった。今後はこのように、お客様と近い空間で芸術を届ける活動を軸にしていければ”と、本興行から距離を置く意向を明らかにしたのです」

 言うまでもなく、玉三郎は斯界を代表する大名跡。

「玉三郎は片岡仁左衛門(79)と並ぶ、歌舞伎界きっての観客動員力を持っている。彼らに続く存在が市川團十郎(45)と市川猿之助(47)の二人でしたが、心中騒動で猿之助の復帰が絶望的ないま、玉三郎が実質的に大劇場からの引退を示唆した。松竹には過去に例のない衝撃が走りました」

 松竹関係者が振り返る。

「会見では“大きな役で大劇場の公演を1カ月間、背負うことは体力的に難しい”とも。自他ともに認める完璧主義者の玉三郎は、10年ほど前から体力的な衰えを自覚していました。以来、長時間にわたって踊る『鷺娘(さぎむすめ)』や『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』といった大曲を避けていましたし、地方における短期公演も3年前からやめていました」

猿之助騒動の影響

 都内の料亭に生まれた玉三郎は1歳半の時に小児まひを患いながら、努力と持ち前の美貌で人気を博した。

「歌舞伎入りはリハビリ目的で始めた日本舞踊がきっかけで、デビュー当時は足に後遺症が出ていたそうです。それでも“玉さまブーム”を呼んだ当代一の女形に登り詰め、平成24年には人間国宝に認定されました」

 不意に飛び出したスーパースターの弱気発言。松竹幹部は、いまもくすぶる猿之助の騒動の影響を指摘する。

「猿之助の件は彼のセクハラやパワハラがきっかけとされていますが、実は玉三郎にも平成13年に似たようなセクハラ問題が持ち上がっていたんです」

過去のスネの傷

 訴えたのは19歳の元弟子と彼の母親。この男性は13歳で玉三郎に弟子入りしたが、直後から「添い寝の強要や、下半身を触られるなど精神的な苦痛を強いられた」として1200万円の損害賠償を求めていた。

「歌舞伎界ではつとに知られた話ですからね。玉三郎は過去のスネの傷への飛び火を恐れて、記者の取材を避けやすい大劇場からの引退を決意した可能性もある」

 どういうことか――。

「大勢の記者から猿之助に関するコメントを求められれば、過去の汚点が蒸し返されかねない。その点、いまのところ本人への直撃取材はないとか。翌6日付のスポーツ紙は“玉三郎が大劇場から引退”と大きく報じただけでしたね」

 尾上菊五郎(80)と松本白鸚(80)という大看板は体調不良で休演中。猿之助に加えて、玉三郎の“退場”は、歌舞伎界に急速な世代交代を迫っているかのようだ。

「週刊新潮」2023年6月22日号 掲載を引用。

まだ歌舞伎界にデビューして間もないころ、「高校生のための歌舞伎教室」があったときに出演していました。もう50年以上の昔の話です。

そのとき、「全部、男が演じているのは分かったが、たった一人女優が入っていましたよね。」との声。

その女優が玉三郎でした。

                                     

 

まだまだ大活躍して欲しい方です。    

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向島百花園。カルガモの親子。半夏生(ハンゲショウ)。おいらんそう。のうぜんかずら。とけいそう。・・・七夕飾り。

2023-07-01 18:52:40 | 向島百花園

6月30日(金)昼過ぎ。雨の合間をぬって、向島百花園に。カルガモの親子はどうしているか?

池の中央で元気で泳いでいます。親子4羽。以前来たときは、雛がもっといましたが、・・・。

元気に泳ぎ回る小ガモ。

小ガモは橋の下をくぐり、親は橋の上へ。

池の中を行ったり来たり、

     これほど身近に見られるのも、ここならでは。

          雨が降り始めた池。

            

園内を回って戻ってみると、小ガモの姿は見えず、親が池の中で毛繕い。

          

いつここから移動するのか、それとも定住するのか?

・・・

水辺の半夏生が満開。

全身真っ赤なとんぼが。

            普段見かけるアキアカネとは違うような。

道端には、蝶の姿も。

おいらんそう(花魁草)。

              鮮やかな朱色。

ノウゼンカズラ。

             

オレンジ色のビタミンカラーで、南国ムードあふれるノウゼンカズラ。

ノウゼンカズラは、「植えてはいけない」と言われることがあります。

なぜノウゼンカズラは縁起が悪いと言われるようになったかというと…

  • 家の外壁を痛める
  • 絡みついたノウセンカズラの影響で日が当たらなくなって近くの樹木が枯れてしまう
  • 毒がある
  • 花やつぼみがボトっと落ちてしまう

(この項、「」HPより)

とけいそう。

7月7日は「小暑・七夕」。

         

いよいよ本格的な夏。

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